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森の宿


著者のエッセイは初めて読む。

著者が海軍出身だったことはよく知られている。それもあって、海軍を題材にした作品が多いのは当然だ。
私も著者の作品は海軍を題材としたものが多いという印象を持っている。
山本五十六、米内光政、井上成美の三人をとり上げた伝記はつとに有名だ。
私はその三冊のそれぞれを複数回は読みなおしている。

そうした読書歴からか、私の持つ著者に対する印象は海軍で鍛え上げられた硬派な作家としての印象があった。
それだけに、ユーモアにあふれた本書の内容には思わず顔がほころんだ。

本書は、タイトルからもうかがえるように旅のエッセイの趣が強い。著者による旅先の珍道中が描かれている。
旅が好きな向きには、特に乗り物が好きな方にとって、本書の内容は興味深いはずだ。実際に旅がしたくなることは間違いない。
旅立ちのきっかけになるかもしれない。本書はその点からもお勧めできる。

もともと、著者は幼少期から乗り物が好きだったそうだ。
本書にも船、飛行機、鉄道、蒸気機関車など多種多様な乗り物が登場する。
蒸気機関車を運転する経験を楽しげに描いているかと思えば、飛行機についての随想も記している。
さらに船旅のゆったりとした時間軸がもたらす効果も。

著者の本来の姿とは、謹厳な作家ではないのかもしれず、むしろ、本書に書かれたような姿こそが著者の本当の姿なのだろう。文士としてのしかめ面ではなく。
今風でいえばオタクとしての気風を持っていたのが著者。それを好奇心の赴くままに楽しみ、文章にきちんと表す。
本書によって私の著者に対する親近感は増した。

本書に書かれたような旅が自在にできるから文士はうらやましい。もちろん、創作の際、産みの苦しみに呻吟することはさしおいても。
旅を中心とした題材。乗り物を愛する思いが文章に収まり切れず、硬質な文体であってもユーモアが感じられるのが本書だ。
その絶妙なバランスがとても面白い。

本書の読みどころは旅人としての視線に限らない。随所に登場する文士としてのすごみにも注目してもらいたいと思う。
例えば斎藤茂吉の短歌をすらすらとそらんずる下り。漢詩を鑑賞し、その中に漂う旅情をすくい上げ、旅人としての共感に言及する下り。

そうした素養はいったいどこで培ったのか。そうした読者の疑問にも著者は本書の中で答えてくれる。
著者が海軍を退役後に志賀直哉に弟子入りしたこと。志賀直哉の最後の門人として活躍したこと。
著者の略歴の中で、いつしか文士としての素養が開花したのだろう。

著者の経験や略歴から立ち昇る文士のすごみのようなもの。
そのすごみは、私のつたない文章では伝わらない。そもそもそういうすごみとはなんだろうか。私が訳知り顔で語ってみたところで怪しいだけだ。
今の世の中で文士のすごみなど語ってみても、本当にあったのだろうかとすら思ってしまう。いわば死語のようなものとして。

今の世の中に作家は多い。が、文士と呼べる方はどれだけいるのだろうか。
もちろん、現代の作家と文士の違いを定義することは困難だ。が、それを承知で無理やり定義してみたらどうなるのだろう。

私はその違いをリアルな実感の有無ではないかと考える。つまりはデジタルを知っているかどうか。

本書にとり上げられる旅は、平成に入ってからのものも多い。インターネットが世に広まった後だ。
本書からは著者がことさらにデジタルを避けていたような印象は受けない。
それにもかかわらず、本書からはデジタルの匂いが感じられない。
とらえどころのないデジタルの怪しさといえばよいか。

それも無理はない。年齢を考えると著者がインターネットに触れることはそれほどなかったはずだから。
ネット時代の到来を知る前に老齢になった。デジタルとは無縁。物の手触りしか知らない。それが本書に文士の香りを漂わせている。
そして、その香りの有無こそが、文士と現代の作家の間にある違いではないだろうか。そう思えてならない。

本書に登場するのは動く機械だ。機械とは目に見え、手で扱える。海軍に属していた著者の経験。乗り物が好きな最後の文士としての無邪気な体験。それらはリアルな機械を相手にしたときに発揮される。
もちろん本書に登場する乗り物とて、デジタルと無縁ではない。
昭和の後半からすでに精巧なCPUを内部に備えていたはずだから。

だが、著者のエッセイからは技術的なエンジニアの香りは漂ってくるものの、デジタルがはらむとらえどころのなさは感じない。デジタルとは、言うなれば仮構の存在だ。
データは現実を動かす。が、データそれ自体は人の五感は及ばぬ場所にある。

著者のエッセイからは、データが世の中を動かす虚しさではなく、実感のあるモノを扱う無垢で幸せな時代の名残が濃厚に感じられる。

デジタルの世界に慣れてしまった現代の作家と、リアルしか知らない作家。それが文士と文士以外を分ける違いではないだろうか。

デジタルに記憶を委ねる人生。デジタルに投影された芸術。そうではなく、五感で受け止められる現実。
それしか知らぬ本書のエッセイが、技術的なことをとり上げながらも、文士のすごみを備えていることが、本書にある種の品格を与えている。

言うまでもなく、デジタルを知っているかどうかで、文士と作家の優劣が決まるわけではない。
そもそも時代の違いを無視して比較すること自体が不公平だ。それを作家と文士の優劣の基準にすることは文士や作家に失礼だ。

私たちにできるのは、時代によって作家の語る断面の違いを味わうこと。その味わいこそが、書そのものの価値を決める。
さしずめ本書から味わえるのはデジタルが世を席巻する最後の証しだろう。

私たちの世の中は、これからも一層デジタルによって変化していくことだろう。
その時、乗り物という題材から、デジタルが世を席巻する最後の時代を切り取った本書の価値は見直されてもよいはずだ。
もっと本書が世の中に知れ渡ってほしいと思う。

2020/11/26-2020/11/27


売文生活


興味を惹かれるタイトルだ。

本書を一言でいえば、著述活動で稼ぐ人々の実態紹介だ。明治以降、文士と呼ばれる業種が登場した。文士という職業は、時代を経るにつれ名を変えた。たとえば作家やエッセイスト、著述業などなど。

彼らが実際のところ、どうやって稼いでいるのか、これを読んでくださっている方は気にならないだろうか。私は気になる。私は勤め人ではないので、月々のサラリーはもらっていない。自分で営業してサービスを提供して生計を立てている。そういった意味では文士とそう変わらないかも。ただ、著述業には印税という誰もが憧れる収入源がある。IT業界でも保守という定期収入はある。だが、保守という名のもと、さまざまな作業が付いて回る。それに比べれば印税は下記の自分の労働対価よりもよりも上回る額を不労所得としてもらえる。私も細々とではあるが、ウェブ媒体で原稿料をいただいている。つまり著述業者でござい、といえる立場なのだ。ただ印税はまだもらったことがない。そうとなれば、著述業の実態を知り、私の身の丈にあった職業かどうか知りたくなるというもの。

といっても本書は、下世話なルポルタージュでもなければ、軽いノリで著述業の生態を暴く類いの本でもない。本書はいたって真面目だ。本書で著者は、著述業の人々が原稿料や印税について書き残した文章を丹念に拾い、文士の生計の立て方が時代に応じてどう移り変わってきたかを検証している。

著述を生業にしている人々は、収入の手段や額の移り変わりについて生々しい文章をたくさん残している。文士という職が世に登場してから、物価と原稿料、物価と印税の関係は切っても切れないらしい。

だが、かの夏目漱石にしても、『我輩は猫である』で名を高めたにも関わらず、専属作家にはなっていない。五高教師から帝大講師の職を得た漱石。のちに講師の立場で受けた教授への誘いと朝日新聞社の専属作家を天秤にかけている。そればかりか、朝日新聞社への入社に当たっては条件面を事細かに接触しているようだ。著者は漱石が朝日新聞社に出した文面を本書で逐一紹介する。そして漱石を日本初のフリーエージェント実施者と持ち上げている。ようするに、漱石ですら、筆一本ではやっていけなかった当時の文士事情が見てとれるのだ。

そんな状況が一変したのは、大正デモクラシーと円本の大ヒットだ。それが文士から作家への転換点となる。「作家」という言葉は、字の通り家を作ると書く。著者は「作家」の言葉が生まれた背景に、文士達が筆一本で家を建てられる身分になった時代の移り変わりを見てとる。

文士、転じて作家たちの急に豊かになった境遇が、はにかみや恥じらいや開き直りの文章の数々となって書かれているのを著者はいたるところから集め、紹介する。

そこには、夏目漱石が文士から文豪へ、日本初のフリーエージェントとして、文士の待遇改善を働きかけた努力の結果だと著者はいう。さらにその背景には漱石が英国留学で学んだ契約社会の実態があったことを喝破する。これはとても重要な指摘だと思う。

続いて著者が取り上げるのは、筒井康隆氏だ。氏は今までに何度も日記調のエッセイを出版している。そのあからさまな生活暴露や、摩擦も辞さない日記スタイルは、私にも大きく影響を与えている。筒井氏は、日記の中で原稿料についても何度も言及している。本書で著者が引用した箇所も私に見覚えがある文章だ。

筒井氏は、長らくベストセラーとは無縁の作家だった。けれども、才能と着想の技術で優れた作品を産み出してきた。筒井氏のブログ「偽文士日録」は私が読んでいる数少ないブログの一つだが、その中でも昨今の出版長期不況で部数が低下していることは何度も登場する。

著者は、フィクション作家として筒井康隆氏を取り上げるが、ノンフィクション作家もまな板にのせる。立花隆氏だ。多くのベストセラーを持つ立花氏だが、経営感覚はお粗末だったらしい。その辺りの事情も著者の遠慮ない筆は暴いていく。立花氏と言えば書斎を丸ごとビルとした通称「猫ビル」が有名だ。私も本書を読むまで知らなかったのだが、あのビルは経営が立ちいかなくなり売却したそうだ。私にとって憧れのビルだったのに。

著者はこの辺りから、現代の原稿料事情をつらつらと述べていく。エピソードが細かく分けられていて、ともすれば著者の論点を見失いそうになる。だが、著者はこういったエピソードの積み重ねから、「文学や文士の変遷そのものではなく、それらを踏まえた「ビジネスモデルとしての売文生活」(229p)」を考察しようとしているのだ。

サラリーマンをやめて、自由な立場から筆で身をたてる。独立した今、私は思う。それはとても厳しい道だと。

著者はいう。「明治から昭和に至るまで、文士が生きてゆくためには、給与生活者を兼ねるのがむしろ主流でした。しかし、家計のやりくりにエネルギーを削がれず、文士が思うまま執筆に専念できるための処方としては、スポンサーを見つけるか、恒常的に印税収入が原稿料を上回るようになるかしかありませんでした。(233p)」。著者の考えはまっとう至極に思える。本書の全体に通じるのは、幻想を振りまくことを自重するトーンだ。「それだけの原稿料を払ってでも載せたい、という原稿を書いていくほかないのではないでしょうか。あるいは、採用される質を前提として量をこなすか、単行本にして印税を上乗せし実質的単価を上昇させてゆく(237p)」。著者の結論はここでもただ努力あるのみ。

本書は作家への道ノウハウ本でもなければ、印税生活マンセー本でもなく、ビジネスモデルとしての売文生活を考える本だ。となれば、著者がそう結論を出すのは当然だと思う。

お金か自由か。本書が前提とする問いかけだ。そして、著者はその前提に立って本音をいう。お金も自由も。両方が欲しいのは全ての人々に共通する本音のはず。無論私にとっても。

だからこそ、努力する他はないのだ。お金も自由も楽して得られはしない。それが本書の結論だ。当たり前のことだ。そしてその実現に当たって著者が余計な煽りも幻想も与えないことに誠実さを感じた。

あと一つ、著者は意識していないと思うが、とてもためになる箇所がある。それは著者が自分がなぜ何十年も著述業を続けられているのか、についてさらっと書いている箇所だ。私はそこから大切な示唆を得た。そこで著者は、自身が初めて原稿料をもらった文章を紹介している。そして、自ら添削し批評を加えている。「今の時点で読み返してみると、紋切り型の筆運びに赤面するほかありません」(14p)と手厳しい。その教訓を自ら実践するかのように、本書の筆致には硬と軟が入り交じっている。その箇所を読んで思った。私も紋切り型の文章になっていないだろうか、と。見直さないと。堅っくるしい言葉ばっか並べとるばかりやあらへん。

私もさらに努力を重ねんとな。そう思った。

‘2016/12/15-2016/12/16