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不思議な数列フィボナッチの秘密


かつての私は、数列が苦手だった。
中学生の頃は、一年生の頃こそ数学のテストは全て百点を取っていたが、二次関数が登場する二年生以降は惨敗の連続だった。百点満点中、10点台や20点台を連発していたことを覚えている。

こうした数式を覚えて、いったい世の中の何の役に立つのか。当時の私にはそれが全くわからなかった。当時の教師もそうした疑問には全く応えてくれなかった。もっとも、こちらからそのような問いを発することもなかったのだが。
そんな気持ちのまま、二次関数や座標や配列、そして数式を一方的に教えられても全く興味が持てずにいた。それが当時の私だった。

ところがここ二十年、私はシステムの開発者として生計を立てている。
かつての私が全く人生に役に立たない、と切り捨てていた数学を普段から業務で用いている。
もし昔の私に会えるのなら、勉強を怠っていた自分に数学が役に立つことを教えたいくらいだ。実例を交えながら。

例えばExcelのVBAを使い、セルの値を得たい場合を考えてみる。
D列からデータが始まるセル範囲で、求めたいデータが三列おきに現れるとする。それをどうやってマクロで取り込むか。
そうした際に数列の考え方を使っているのだ。
具体的にはこのようにマクロを組む。
・繰り返しで一定の条件に達するまで処理を行う。
・繰り返しの処理の中で変数の値に1を加える。
・上記の変数に3をかける。
・その掛けた結果に4を加える。
すると、繰り返し処理の中で得られる変数の値は、一つ目は4、次は7、以降は10、13、16、19と続く。これらの列番号をExcelの列番号、つまりアルファベットに当てはめるとD、G、J、M、P、Sとなる。

そのように、一定の規則でつながるセルの位置や値を見極め、それを処理として実装する処理は事務作業で頻繁に発生する。そうした作業はExcelのデータを参照し、編集を行う際に必須だからだ。日常的に必要になってくるといえよう。Excelだけでなく、他のプログラムでもプログラム時に数列の考え方は必須だ。
私は当初、業務に必要になっていたからそうしたプログラムを覚えていた。そしてプログラムを日常の業務で当たり前に使うようになってきたある日、その営みこそ、私がかつて苦手としていた数列や配列そのものということに気づいた。

そもそも私はなぜ数学が苦手になってしまったのだろう。よくわからない。子供の頃は、数字の不思議な性質に興味を持っていた時期もあったはずなのに。
例えば切符に書かれた数字。最近では電車に乗る際に切符を買う機会がなくなってしまったが、かつては切符を買うとその横に四桁の数字が印字されていた。その四桁の数字のそれぞれを、四則演算を使って10にするという遊びは欠かさず行っていた。
その遊び、実は数論の初歩として扱われるそうだ。

そうした数字の不思議な性質は、子供心に不思議に思っていた。
今も、ネットで〇〇数を検索してみると、不思議な数の事例が書かれた記事は無数に出てくる。〇〇には例えば完全、素、三角、四角、友誼、示性、黄金などが当てはまる。

本書は、不思議な数の中でもフィボナッチ数に焦点を当てている。フィボナッチ数とは、並んだ数値の二つの和を次の項目の値としたものだ。0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144のように。数字が徐々に大きくなっていくのが分かる。しかもそれぞれの数字には一見すると規則性が感じられない。

ところがこの数字の並びを図形にしてみるとさまざまな興味深い動きを描く。例えばカタツムリの殻。螺旋が中から外に広がるにつれ徐々に大きくなる。この大きくなる倍率はすべてフィボナッチ数列に従っている。またあらゆる植物の葉のつき方を真上から見ると、それぞれが日の当たるように絶妙に配置されている。これらも全てフィボナッチ数列の並びに近い。
ほかにもひまわりの種やDNAの螺旋構造など、自然界でフィボナッチ数列が現れる事例は多いという。自然は効率的な生態系を作るにあたってフィボナッチ数を利用しているのだ。

最近では昆虫や植物の機能や動きを研究する動きがある。バイオミメティクスと呼ぶこれらの研究から、科学上の発見や、新たな素材の開発や商品の機能が生まれることがあるという。
フィボナッチ数列を学ぶことで、私たちの非効率的な営みが、より効率的に変わるかもしれないのだ。

本書にはフィボナッチ数にまつわる不思議な性質や計算結果が豊富に紹介される。
正直に言うと、それらの計算結果を実生活や科学の何かに役立てられる自信は私にはない。だが、そうした法則を見つけてきたことで、人類はこれまで科学を発展させてきた。

おそらくフィボナッチ数に隠された可能性はまだあるのだろう。フィボナッチ数は、未来の人類が技術的なブレークスルーを達成する際に貢献してくれると期待している。
例えば、私が思いついたのは暗号だ。暗号化にフィボナッチ数を役立てられるように思える。
暗号の一般的な原理は、ある数とある数を掛けて出来た数値からは何と何を掛けた結果なのかが推測しにくい性質に基づいている。例えば桁数が約300桁ある二つの素数のそれぞれを掛けた数があったとしても、それが掛けられた二つの素数を見つけ出すのに、最新鋭のスパコンでも何億年もかかり、量子コンピューターでも非現実的な時間を要するという。

この暗号を作る際、フィボナッチ数列を使って作るのはどうだろう。フィボナッチ数列も数が膨大だが、それらは全て数式で表せる。
これを何かの解読キーとして用い、何番目のキーを使わなければ復号できないとすれば、暗号として利用できるように思う。もちろん、私が思いつくような事など、数学者がとっくの昔に思いついているだろうけど。
だが、暗号以外にも情報処理の分野でフィボナッチ数が活用できるかもしれないと考えてみた。
私のような素人でも暗号への使い道がすぐに思いつけたほどだから、優秀な数学者が集まればフィボナッチ数列のより有用な使い道を考えてくれるはずだ。

かつての私のような数学が苦手な人にこそ、本書は読んでもらいたい。

‘2020/07/12-2020/07/18


異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


EXCELを使っていて、誰もが一度は遭遇したことがある #DIV/0エラー。セルの関数式で、ある数または関数の結果が0で割られた際に出現するエラーだ。0で割ると正常な結果を得られない。これはEXCELでもどうしようもない仕様だ。もちろんバグではない。数を0で割ることは高等数学でもできないのだから。本書の第0章では、米国軍艦ヨークタウンがプログラム内に潜んでいた0で割るバグによって止まってしまったエピソードも紹介される。

本書はこの0に焦点をあて、人類が0を使いこなそうと努力して来た歴史がつづられる。

第1章は古代バビロニアからエジプト、ギリシャ、ローマ、マヤの諸文明の0の扱いをみていく。そしてもちろんそれらの文明は0を知らぬ文明だった。数を数えたり、暦を作ったり、面積を調べる上で、数があることが前提だから当然だ。数がないという概念を数体系に含める必要はなかったのだから無理もない。実務に不要な0はこれら文明では顧みられなかった。逆にマヤ文明に0の概念があったことのほうがすごい。

第2章では、ギリシャに焦点が当てられる。そこでは0に迫ろうとする者たちが現れるからだ。その者の名はゼノン。彼によるアキレスと亀のパラドックスだ。亀の歩みにアキレスは永遠に追いつけないというアレだ。あのパラドックスが0の概念を如実に表していること、それを私は本書で知った。つまりこのころすでに無限に小さな数として0は発明されていたかもしれないのだ。だが、そのチャンスはアリストテレスがゼロを退けたことで一千年以上遠ざかる。なぜ彼の学説がそれほど長く用いられたか。それは彼の学説が神の存在証明に有用だったからに他ならない。

アリストテレスは0を忌避すると同時に無限の証明も拒否した。無限とは外側の数だ。地球は不動である事は当時の常識だった。では何が天体を動かすのか。それはさらに外の天体が動かすからに違いない。ではその外の天体は、さらに別の天体によって動かされている。ではその天体を動かすのは、、、と考えて行くと最終的に仕組み全体を動かす存在が求められる。アリストテレスはそれを神となぞらえた。神とは人知を超えるところにあるから神なのだ。0も無限も。

その考えはのちにキリスト教会によって布教に取り入れられる。神の存在が信仰の前提であるキリスト教会にとっては、アリストレテスの考えは金科玉条とすべきものだったのだろう。そのため、神の存在を証明するアリストテレスの学説が長きにわたり西洋世界を覆い続ける。

西洋にとっては不運とでも言おうか。0がなくてもギリシャは繁栄し、ローマは版図を広げてしまったのだから。さらに0にとっては不運なことにローマ崩壊後、神の存在が広く求められる。アリストレテスの神学を受け継いだキリスト教の繁栄だ。0を忌避したアリストレテスの神学は、西洋から0の存在する余地を奪い去ってしまう。その結果が西洋にとっての暗黒期だ。

本書を読んでいて気づくのは、数学の発展と文明の発展が対になっていることだ。あたかも寄り添い合う双子のように。そしてローマ崩壊後の西洋は暗黒期に突入し、東洋は逆に発展してゆく。その事実が対の関係を如実に表す。

足踏みを続ける西洋を尻目に0は東洋で産声を上げる。インドで。

0123456789。これらをいわゆるアラビア数字と呼ぶ。でも、実はこれらの数字はインドで産まれたのだ。インド生まれの数字が、なぜアラビア数字と呼ばれるようになったのか。この由来にも文明の伝播と数学の伝播が重なっていて興味深い。当時の西洋は、イスラム教とともにやって来たアラブ商人が席巻していた。アラブ商人が商売を行う上で0はすこぶる便利な数だったのだ。そして当時のイスラム社会は数学でも世界最先端を行っていた。アルゴリズムという言葉の語源は、当時のイスラム世界の大数学者アル=フワリズミの名前に由来することなど興味深い記述がたくさん出てくる。

そして、この時期に1を0で割ると無限大になる無限の観念が西洋に伝わる。いまや旧弊となった神の理論に徐々にほころびが見え始める。その結果、起こったのがルネサンスだ。ルネサンスと言えば後世のわれわれにはきらびやかな美術品の数々でその栄華の残照を知るのみ。だが、数学は美術の世界にも多大な影響を与えた。

例えばフィボナッチが発見したフィボナッチ数列は、黄金比率の確立に貢献した。また、ブルネレスキが見いだした消失点は、絵に奥行きを与えた。無限の彼方の一点に絵の焦点を凝縮させるこの考えは、無限の考えに基づいている。この辺りの事実も興奮して読める。

ルネサンスは教会の権威が揺らぐに連れ進展する。教会の権威に挑戦した皮切りはコペルニクスの地動説の証明だ。その後、数学者たちが次々に神の領域に挑んで行く。以後の本書は、数学者たちによる証明の喜びが中心となる。いまや神は発展を謳歌し始める数学と文明に置いていかれるのみ。

まずはデカルトとパスカル。デカルトによる座標の発明は、軸の交点である0の存在なしにはありえない。パスカルは真空の発見とともに確率論の祖として知られる。パスカルの賭けとは、神の存在確率を証明したものだ。だが、その論理を支えているのはパスカル本人による信仰しかない。すでに神が科学の前に劣勢であることは揺らがない。

ニュートンによる微積分の発見は、無限小と無限大が数式で表せるようになったことが革命的だ。そしてこれによって科学者たちの関心は神の存在証明から離れて行く。替わりに彼らが追い求めるのはゼロと無限だ。この二つは常に相対する双子の観念だ。しかし、その正体はなかなか姿を見せない。ニュートンの微分はそもそも無限小の二乗を無限に小さい数であるため0に等しいとみなしたことに突破口を見い出した。無限小を二乗したら0と扱い、なかったこととすることで、証明のわずかなほころびを繕ったのだという。それによって微分の考え方を確立したニュートンは、微分によってリンゴの落下から惑星の軌道まであらゆるものが数式で説明できることを示したのだ。その考え方は同時期に微積分を考案したライプニッツも表記法は違えど根本の解決は一緒だったらしい。ニュートンとライプニッツがともに抱えた根本の矛盾―0で割る矛盾や無限小を二乗すると0として扱うことも、無限小で割ってなかったことにすれば解消しうるのだと述べられている。

そしてこの辺りから私の理解は怪しくなってくる。二次関数グラフや曲線に対する接線など、かつて苦労させられた数学の魔物が私を襲う。ついには虚数や複素数がまでもが登場して私の苦手意識をうずかせる。複素平面、そして空間座標や球が登場するともうお手上げだ。

有理数と無理数の定義上、あらゆる数を覆えるほど小さい単位。それがゼロ。そのような定理は私の理解力に負えない。私には論理の飛躍とすら思えてしまう。

だが、それを発見してからの量子力学や物理学の世界はまさに0の概念から飛躍手に発展した。相対性理論やブラックホールなど、話は宇宙論に広がって行く。ひも理論や超弦理論、そしてビッグバンや宇宙定数、赤方偏移。それらは最新の宇宙論を学ぶ人には常識と言える概念だそうだ。それらはすべて無限とゼロの完全な理解の元に展開される理論なのだ。一つだけ私の腑に落ちたのは、あらゆる物質の基本要素をゼロ次元のゼロとしてしまうと、成り立たない理論がでるため、紐のような次元のあるもので物質を成り立たせる、それがひも理論という下りだ。といっても数式のレベルではまったく理解していないのだが。

本書は宇宙の終わりまで話を広げる。宇宙に終わりが来るのか。来るとすればそれはどんな終わりか。無限に広がり続け、やがて熱が冷めてゆくのか。宇宙はある一点で収縮へと転じ、収縮の果てにビッグバンの瞬間の膨大な熱に終わるのか。

本書の答えは前者だ。ゼロから生まれた宇宙は無限に広がり、冷たくなるゼロを迎えると結論を出している。本書は以下に挙げる一文で幕を閉じる。

宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

本書には付録として三つの証明がついている。
ウィンストン・チャーチルが人参であることの数学的証明。
黄金比の算出方法。
現代の導関数の定義。
カントール、有理数を数える
自家製ワームホールタイムマシンをつくろう

こうやって見ると数学とはかくも魅力的で学びがいのある学問に思える。そう思って数式を見た瞬間、私の意欲は萎えるのだ。普段プログラムロジックをいじくり回しているはずの私なのに。

‘2017/03/11-2017/03/15


後藤さんのこと


実験的といおうか、前衛的といおうか。
著者の作品は唯一無二の立場を確立している。

あまたの小説群が山々を成す中、孤峰として独立しているのが著者とその作品群だ。

冒頭の表題作からして、すでに独自世界が惜しげもなく披露される。森羅万象、古今東西に宿る後藤さん一般を、縦横無尽に論じ尽くすこちら。赤字、青字、緑字。黒地、赤地、緑地。そして白地に白字。カラフルな後藤さんが主語となり目的語となり述語となって本編を彩る。本編は壮大かつミニマムな後藤さんの存在論でもある。そして主語とは何かについて果敢に挑んだ記号論の極北でもある。

形而上であり、形而下。ペダンチックであり、ドメスチック。本編で著者は大上段に振りかぶり、大真面目な顔であらゆる角度から後藤さんを斬りまくる。かつて小中学生の頃われわれを悩ませた算数の証明問題。本編は、後藤さん一般を証明するために著者が仕掛けた壮大な問答の成果と言い換えてもよい。

本編から読者は何を得るのか。
その生真面目なユーモアを堪能することも楽しみ方の一つだ。それだけでも本書はじゅうぶんに楽しめる。

だが私は、本編は著者による実験だと思いたい。事物について、物事について語る事を突き詰めたらどうなるか。それが本編なのだ。一つの物事を極めるためには多面的かつ多層的にあらゆる角度からその事物を分析せねばなるまい。そして語れば語るほど、物事を表す語句は重なり合い、ハレーションを起こす。物事を表す語句はゲシュタルト崩壊を起こし、脳内で溶解してゆく。結果、語句は記号でしかなくなる。紙に印刷された後藤さん一般は、フォントの色と地の色によって眼に映るクオリアとしてしか認識できなくなる。本編で著者が仕掛けるのは、記号の本質論であり存在論に違いない。

続いて収められた一編は「さかしま」。「さかしま」とは「道理に反する」といった意味がある。

慇懃な文体でつづられた本編は、お役所が発行する文章のようだ。それが延々と続く。遠い未来の人類にまだお役所というものが残っているとすれば、その機関はこういう文書を発行するのだろう。その未来のお役所は、読者こと帰還者に向けてこの文章をつづり続ける。帰還者は、テラが人類の発祥の地であり、テラはすなわち凍結された領域ウルと等しいとする伝説を信じて帰還してきた人物だ。

宇宙は複数の泡宇宙が並行している。最新の宇宙論にはよく登場する議論だ。本書ではウルが存在する空間とは、時間次元が存在する特異な空間のこと記されている。つまり語り手のお役所と読者こと帰還者の時間の概念は食い違っているのだ。食い違っているというよりは、語り手のお役所には時間自体の認識がないと思われる。論理のみで構成された次元宇宙に存在する語り手のお役所は、時間という異質な次元に絡め取られた存在である帰還者とは本来相容れるはずがない。

では、そのような帰還者でない帰還者に向けて、語り手のお役所は何をそんなに事務的に解説するのだろうか。論理空間の執行者たるお役所が、帰還者に向けては論理にならない論理を堂々と語る。そのこと自体が「さかしま」ではないか、ということになる。つまり、本編はお役所という存在に向けての強烈なアンチテーゼの文章なのだ。固定された論理、つまりは法や条例で時間に生きる住人である帰還者を縛ることそのものが「さかしま」なのだ。著者が告発する「さかしま」とはその根源的な矛盾に他ならない。

続いての一編は「考速」。文章という存在の不可思議な多義性を追求した一編だ。文章が単語の切り方によって幾通りもの意味を持ちうることはよく知られている。いわゆる「ぎなた」読みだ。

弁慶がな、ぎなたを持つ
弁慶がなぎなたを持つ

この二つの文は、音読みすると「べんけいがなぎなたをもつ」となる。同じ読みであっても、句読点の置き方や単語の切り方によって文の意味がまったく違ってくる。本編ではそういった文章の構造論が追求される。追求されるのは「ぎなた」読みの可能性だけではない。文章を一つの図形の展開図としてみなし、それを再び立体に再構成し直す可能性の追求。そこまで著者の手は及ぶ。

思考に思考が追いつくことは果たして可能か。0と1による思考の限界。思考の循環を定理や公理とよぶことで、論理破綻から逃れるという論法。回路図と背理法のコンピューターノイズ。文章の語彙のならびが冗長ゆえに短くあるべきという考えと、文章の長さ故にあるいは圧縮することのかなわぬ長さがあるべきという考えの対立。

本編は、言語の成り立ちを問う。人類が長年の文化的お約束に安住して、なあなあでやりとりする言語の意味を。そもそも見直されなければならないのは言語が生物にのみ許された通信信号-プロトコルであるとの前提ではないか。著者が問うのは曖昧なお約束、つまり言語そのものについてだ。そして著者の問いを突き詰めた先には、人工知能による人工言語が待ち受けているに違いない。

続いての一遍は「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」。題名からしてデヴィッド・ボウイのあの名曲を想像させる。

そして、本編の内容は本書の中でも一番とっつきやすいかもしれない。「銀河帝国」という語彙を、あらゆる種類の文章にはめ込むことで、銀河帝国という言葉の意味が変容する。銀河帝国の意味は短くもなり長くなる。矮小にも縮めば雄大にも化ける。ユーモラスに変化し、かつ神聖さを帯びる。その自在な柔軟さは、言語がそもそも記号の集まりでしかないという事実を読者に再確認させる。文章論や文体論といったところで、それらを構成する単語のそれぞれはしょせん記号でしかない。本編は、著者が作家として文章へ挑んだ結果ではないだろうか。

たとえば
01:銀河帝国の誇る人気メニューは揚げパンである。これを以って銀河帝国三年四組は銀河帝国一年二組を制圧した。
23:銀河帝国を二つ買うと、一つおまけについてくる。三つ揃えると更に一つがついてきて、以下同文。
41:包帯で変装とは古い手だぞ銀河帝国第二十代幼帝。いや、今は銀河帝国第四十代幼帝とお呼びした方がよいのかな。
48:この世に銀河帝国なんていうものはありはしないのだよ。銀河帝国君。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。

続いての一編は「ガベージコレクション」。IT技術者にはこの言葉はよく知られている。プログラム内部で確保したメモリ領域をプログラム終了時に自動的に集めて再使用できるよう解放する機能をガベージコレクションと呼ぶ。昔のプログラム言語にはこの機構が備わっていなかった。つまりプログラマーはきちんとメモリの解放処理を行わねばならない。そうしないと解放されないまま使えないメモリ領域が増大してしまう。その結果、メモリの使用可能域を圧迫し、コンピューターが重くなる原因となる。いわゆるメモリリークだ。

本編で語ろうとしているのは、すべての情報系を制御しようとする試みだ。往々にして情報とは一方向のみに伝わる。すでに発信された情報は、もはや逆方向に戻ることはない。情報を逆流させて制御する試みは、人類に残された最後の領域となる可能性がある。今まで人類が意識したことのない、情報の方向性という問題。それにもかかわらず指数的に増大する情報量は、ログという形でロールバックされることが求められている。それは今後の情報社会の基盤に求められること必至の要件だ。システム開発の現場でもデータベースを使う際はログによる更新の制御は必須だ。障害時に更新前の情報に戻すロールバックや、正常時に情報の更新を確定させるコミットメントは当然の機能として設けられる。これをあらゆる情報系に拡大する思考実験が本編だ。

最終的には超現実数を持ち出すことによって、著者はその解決を図ろうとする。だが、それはその時点でこの試みが頓挫するに違いないということを意味する。情報のエントロピーは増大し続け、それを回収することは誰にもできそうにない。だが、回収できなければ、それはすなわち情報が世にあふれ続けることになる。しかもそのほとんどは無価値な情報のゴミだ。つまりガベージ。いったい、それを誰が解決できるのか。そもそも数学に無限やゼロは許されるのか。本編からはそんな著者の問題提起が読み取れる。

最後の一編は「墓標天球」。

本編は一度読んだだけでは分からなかった。本稿の初稿では本編について書くのを断念したくらいだ。初稿を書いて約一年が経ち、本稿をアップする前に本編をもう一度読んでようやく少し内容がつかめた。

本編は比喩の極北に挑んでいる。本編にあふれるそれらが何に対する暗喩なのか、何を指すメタファーなのか。それを正確に指し示すことは困難だ。それでいて、本書には筋書きがある。いや、筋書きのようなもの、といったほうが良い。その筋書きらしき展開が螺旋状に、もしくは一回転する球のように、もしくは一回りできる立方体のように、どこに向かうでもなく循環する。その筋書きは、少女と少年の周りで時間を巡り、空間を巡る。それは本編に登場する立方体の展開図のようだ。

循環し、周回する天球は本編ではもっとも基本となるイメージだ。天使、または神が最初の天球を回したあと、その内側の天球を別の天使が回し、さらに別の天使が・・・と入れ子構造は無限に小さくなる。アリストテレスの神存在論を逆にゆくような議論だ。その中で天球の内側にいる人間とはただ営むための存在に過ぎない。

私は本編全体が指している比喩の対象とは、この天体の上で繰り広げられるあらゆる意思の営みではないだろうか、と推測する。この天体とは地球に限らない。他の生命体のいる天体でもいい。その上で営める生命の動きを単純化する。本編に出てくる少年とは人類の男。少女とは人類の女の投影だ。人類が過去から未来へと営むあらゆる意思を徹底的に単純化すれば、本編になるのではないか。

インペトゥム。本編で何度か登場する言葉だ。「創造のあと、単純な創造を繰り返す力」と少女がセリフで補足する。つまり、営みとは最初の創造のあとの単純な繰り返しに過ぎないのだ。そこに意味を無理やり付与しようと果てなき努力をする少年=男と、ただあるがままに営みを生きて行く少女=女。

少年は球体を一周させるかのように溝を掘る。丁度人類が伐採し、掘削し、開墾し、建築するように。何の目的かは誰にも分からない。強いていうなら経済のため。そして営みのため。

少年と少女は出会い続ける。そしてすれ違い続ける。出会ったら子供が生まれる。すれ違っても営みは続いてゆく。そうした営みの全ては記録され続ける。ただ記録するために記録され続ける。禁忌は何かのためだけに禁忌であり、豚は食べるためだけの豚に過ぎない。少年と少女の間にやり取りされる封筒の中身は開封するまでもない。常に一つの真実だけが書かれているのだから。

本編が指し示す比喩の対象とは、実は全ての営みには根源的な目的などない、という虚無的な事実なのかもしれない。少なくとも人類にとっては。全ては螺旋階段をだらだらと登り続ける営みに帰着するほかないのだと。それは政治、経済、科学、哲学、恋愛、スポーツ、など関係ない。全ての営みをいったん漂白し、単純に比喩して抽出したのが本編ではないだろうか。

本書には、もう一編が隠れている。それは帯に記されている。帯に記されているのは「目次」というタイトルの目次だけでなる短編だ。40マスある格子状の各ページを進んでいった結果、徹底的に読者は著者と本と読者の間をさまよい、混乱させられることだろう。目次という本そのものの構造すら著者の手にかかれば抽象化され、解体されてしまう。

いったい著者の目指す極点はどこにあるのだろう。私は本稿を書いたことを機に改めて著者に興味を持った。もう少し著者の本を読み込んでみなければ。

‘2016/03/25-2016/03/28


フェルマーの最終定理


2つ前の本のレビューの中で、新書で3冊の本を買ったと書いた。その3冊目が本書である。そして読んでいて最も知的興奮を感じたのも本書である。

本書は、題名の通り、フェルマーの最終定理の解決に至るまでの360年間に亘る人類の英知の努力を細大漏らさず書き切った本である。フェルマーの定理とは、3 以上の自然数 n について、xのn乗 + yのn乗 = zのn乗となる 0 でない自然数 (x, y, z)の組が存在しない、という定理である。

IT業界で飯を食っているとはいえ、文系SEである私にはさっぱり理解できない定理である。そもそも何が難解なのかもよく理解せぬまま、読み始めた。

しかし、本書の論の進め方は実に見事なものである。一読すると回り道のような説明がかなり続く。それこそピタゴラスの定理の意味から、論は起される。数学の門外漢には、どこがどうフェルマーの最終定理につながるのかも不明なままに。しかしそれは、読者に対してフェルマーの最終定理の難しさと、それをアンドリュー・ワイルズ博士が解き明かすまでの道のりを理解してもらうために不可欠な箇所である。ここを急ぐと、本書の理解もフェルマーの最終定理の理解も覚束なくなってしまう。このあたり、著者は周到に本書の構成を練っている。いかにして読者にこの偉大なる解決がなされたのかを読みやすく仕立てるか。その努力こそが本書の素晴らしさである。

私も初心者向けに数学の面白さを啓蒙せんとする書籍は何冊か読んできた。面白い物もあったし、興味深く読んだものもあった。しかし、残念ながらいずれも一過性のものでしかなかった。本書は、この丁寧すぎるほど丁寧に書かれた歩みを通し、読者に対して興味を持って読み進めさせることに成功している。少なくとも私にとっては、読み終えて一か月が過ぎても、興味を持ち続けることができるだけの効果はあった。

正直言って読み終えた今でも、人に対し、フェルマーの最終定理を説明することも講義することもできそうにない。しかし、日本人数学者の谷山・志村両氏が立てた予想を通して、背理法の形でフェルマーの最終予想が証明できる、という大枠だけは何とか理解できた。

以下はWikipediaから引用した大枠の流れである。

1.まず、フェルマー予想が偽である(フェルマー方程式が自然数解をもつ)と仮定する。

2.この自然数解からは、モジュラーでない楕円曲線を作ることができる。

3.谷山・志村予想が正しいならば、モジュラーでない楕円曲線は存在しない。

4.矛盾が導かれたので、当初の仮定が誤っていることとなる。

5.したがって、フェルマー予想は真である。(背理法)から

このモジュラーという部分が未だに全く理解できていない。しかし、少なくとも本書を通してからは数学の奥深さと、それを解決せんとする人類の叡智の高みは垣間見ることができたと思う。また、フェルマーの最終定理の解決にあたっては、アンドリュー・ワイルズ博士を例に、個人の為しえることの限界を見せてくれたことも、本書から得られる大きな宝物である。幼少より抱いた夢を持ち続け、それを共同研究という安易な道に頼らず、ほぼ独力で証明一歩前まで迫ったということ。このあたり、人は外見ではなく、内面こそに強さを秘める、という私の予てからの想いに一致するところでもある。

人類は何を目ざし、どこに向かおうとしているのか。それは経済拡大でもなければ、領土拡張でもない。個人の欲望の追求でもなければ、自閉して沈潜するだけの修行の世界でもないだろう。私が思うに、上に挙げた目標はあくまで個人的な問題である。人類という種が目ざすべき目標にしたところで、いずれも個人や組織の欲望の狭間で矛盾を引き起こすだけの結果に終わること自明である。残念ながら。

では何を目指すのか。あくまで私見だが、科学の力によって無理やりに地球という、人類という枠を突破するしか方法がないのではないか。

フェルマーの最終定理から、どのような革新的な技術が生まれるのか、私には分からない。しかし、問題を解決しようという意欲と努力。この両輪を人類が持っていることを本書は知らしめてくれている。この2つの力をもってすれば、遠い将来、人類が存続し、我々の今の生の営みも無意味なものでないと、希望が持てるのではないか。本書は数学を通した人類賛歌の書物でもあるのだ。

’14/3/9-’14/3/12


天地明察


先日記したマルドゥック・スクランブルでも統計や情報についての著者の博識ぶりに触れたのだが、本書を読んでさらに著者が科学に対して底知れぬ興味と喜びを抱いていることが感じられた。

渋川春海という江戸時代に改暦を成し遂げた人物に焦点を当てた本書は、歴史小説・時代小説という範疇に分けることが無意味に思えるほど、汎時代的・汎人間的な小説であり、人が生きていく意味について深い共感と自信が湧いてくる一作である。

伝記小説は往々にして時代や社会環境に制限され、その中で苦悩する人間の生活が描かれるが、本書では時代や社会環境を超越した信念や思想、つまり科学の真理探究に一生を賭ける人間が書かれていることで、現代に生きる我々にも深い感動と理解を与えるのである。

星の運行を始めとした天文の奥義に対し、主人公の家業でもある囲碁の世界が採り上げられ、幕府の中で御城碁に甘んじなければならない囲碁の升目の世界と星々の宏大な宇宙をあえて対比させているのも非常に分かり易い。関孝和を始めとした脇役の配置も絶妙であり、人の偉業は独りだけではなく周りの助けを得てという、単純なヒーローものに堕していないのもよい。

ウィキペディアにはない著者の演出と作為が随所にみられるが、それがまた小説の醍醐味でもあり、本書の主題である人生のついての賛歌に繋がっている思う。

’12/03/24-12/03/25