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夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


波形の声


『教場』で文名を高めた著者。

短編のわずかな紙数の中に伏線を張り巡らせ、人の心の機微を描きながら、意外な結末を盛り込む手腕には驚かされた。
本書もまた、それに近い雰囲気を感じる短編集だ。

本書に収められた七つの短編の全てで、著者は人の心の暗い部分の裏を読み、冷静に描く。人の心の暗い部分とは、人の裏をかこう、人よりも優位に立とうとする人のサガだ。
そうした競争心理が寄り集まり、混沌としてしまっているのが今の社会だ。
相手に負けまい、出し抜かれまい。その思いはあちこちで軋轢を生み出す。
そもそも、人は集まればストレスを感じる生き物だ。娯楽や宗教の集まりであれば、ストレスを打ち消すだけの代償があるが、ほとんどの集まりはそうではない。
思いが異なる人々が集まった場合、本能として競争心理が生まれてしまうのかもしれない。

上に挙げた『教場』は、警察学校での閉じられた環境だった。その特殊な環境が物語を面白くしていた。
そして本書だ。本書によって、著者は一般の社会のあらゆる場面でも同じように秀逸な物語が書けることを証明したと思う。

「波形の声」
学校の子供達の関係はまさに悪意の塊。いじめが横行し、弱い子どもには先生の見えない場所でありとあらゆる嫌がらせが襲いかかる。
小学校と『教場』で舞台となった警察学校。ともに同じ「学校」の文字が含まれる。だが、その二つは全く違う。
本編に登場する生徒は、警察官の卵よりも幼い小学生たちだ。そうした小学生たちは無垢であり、高度な悪意は発揮するだけの高度な知能は発展途上だ。だが、教師の意のままにならないことは同じ。子どもたちは自由に振る舞い、大人たちを出し抜こうとする。先生たちは子どもたちを統制するためにあらゆる思惑を働かせる。
そんな中、一つの事件が起こる。先生たちはその問題をどう処理し、先生としての役割をはたすのか。

「宿敵」
高校野球のライバル同士が甲子園出場をかけて争ってから数十年。
今ではすっかり老年になった二人が、近くに住む者同士になる。かつてのライバル関係を引きずってお互いの見栄を張り合う毎日。どちらが先に運転免許証を返上し、どちらが先に車の事故を起こすのか。
家族を巻き込んだ意地の張り合いは、どのような結末にいたるのか。

本編は、ミステリーや謎解きと言うより人が持つ心の弱さを描いている。誰にも共感できるユーモアすら感じられる。
こうした物語が書ける著者の引き出しの多さが感じられる。とても面白い一編だ。

「わけありの街」
都会へ送り出した大切な息子を強盗に殺されてしまった母親。
犯人を探してほしいと何度も警察署に訴えにくるが、警察も持て余すばかり。
子供のことを思うあまり、母親は息子が住んでいた部屋を借りようとする。

一人でビラを撒き、頻繁に警察に相談に行く彼女の努力にもかかわらず、犯人は依然として見つからない。
だが、彼女がある思惑に基づいて行動していたことが、本編の最後になって明かされる。

そういう意外な動機は、盲点となって世の中のあちこちに潜んでいる。それを見つけだし、したたかに利用した彼女への驚きとともに本編は幕を閉じる。
人の心や社会のひだは、私たちの想像以上に複雑で奥が深いことを教えてくれる一編だ。

「暗闇の蚊」
モスキートの音は年齢を経過するごとに聞こえなくなると言う。あえてモスキート音を立てることで、若い人をその場から追い払う手法があるし、実際にそうした対策を打っている繁華街もあるという。
その現象に着目し、それをうまく人々の暮らしの中に悪巧みとして組み込んだのが本編だ。

獣医師の母から折に触れてペットの治療や知識を伝授され、テストされている中学生の息子。
彼が好意を持つ対象が熟女と言うのも気をてらった設定だが、その設定をうまくモスキート音に結びつけたところに本編の面白みがあると思う。

「黒白の暦」
長年の会社でのライバル関係と目されている二人の女性。今やベテランの部長と次長のポジションに就いているが、一人が顧客への対応を間違えてしまう。
会社内の微妙な人間関係の中に起きたささいな出来事が、会社の中のバランスを揺るがす。
だが、そうした中で相手を気遣うちょっとした振る舞いが明らかになり、それと同時に本編の意味合いが一度に変わる。

後味の爽やかな本編もなかなか面白い。

「準備室」
普段から、パワー・ハラスメントにとられかねない言動をまき散らしている県庁職員。
県庁から来たその職員にビクビクしている村役場の職員たち。
その関係性は、大人の中の世界だからこそかろうじて維持される。

だが、職場見学で子どもたちがやってきた時、そのバランスは不安定になる。お互いの体面を悪し様に傷つけずに、どのように大人はバランスを保とうとするのか。
仕事の建前と家庭のはざまに立つ社会人の悲哀。それを感じるのが本編だ。

「ハガニアの霧」
成功した実業家。その息子はニートで閉じこもっている。そんな息子を認めまいと辛辣なことをいう親。
そんなある日、息子が誘拐される。
その身代金として偶然にも見つかった幻の絵。この絵を犯人は誰も取り上げることができないよう、海の底に沈めるように指示する。

果たしてその絵の行方や息子の命はどうなるのか。
本書の中ではもっともミステリーらしい短編が本編だ。

‘2020/08/13-2020/08/13


太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


アンジェラの灰


文書はピューリッツァー賞受賞作だそうだ。
伝記部門で受賞した。

1930年に生まれた著者が68歳の時に発表した自伝だそうだ。
著者は長い間教師を勤めた方で、物語を書くのは初めてだそうだ。だが、教師人生の中で英文の授業を担当してきた。あらゆる国から来た生徒たちに英語を教える手法の一つに、親の伝記を書いてみる指導を行っていたらしい。
その中で著者も、自分自身の自伝を何回も書いていたそうだ。それが本書の底になっているということを解説で知った。

冒頭にこのような一文がある。
「惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりももっと悪い。」(7ページ)

アイルランドと言えば19世紀半ばのジャガイモ飢饉による人口減で知られる。人がたくさん亡くなり、アメリカなど諸外国への移民が大量に発生したためでもある。
本書のマコート一家も一度はニューヨークへ移住する。だが、すぐにアイルランドに戻ってきてしまう。

なぜか。父のマラキが無類の酒飲みだったから。

飲んだくれの父親に振り回される家族の悲劇。昔からのよくある悲劇の一形態だ。本書は父の酒飲みの悪癖が、主人公や主人公の母アンジェラを苦しめる。その悲惨な毎日の中でどのように子供たちはたくましく生き延びようとするのか。

給与を必ず持って帰ると言いながらもらったその場ですぐに飲み代に使ってしまうだらしない父。それでいて、避妊など知らないので次々と母の体内に子供を増やしていく。主人公のフランク、弟のマラキ、双子のマイクルとアルフォンサス。さらにマーガレットと名付けられた妹やオリバー、ユージーンという弟もいたが、三人は幼い頃になくなってしまう。もちろん、劣悪な環境のためだ。

幼い子供たちを育てながら、三人の子供を亡くしながら、頼りにならない夫をあてにせず生き抜こうとする母。

およそ自覚が欠けており、夫として親として頼りがいのない父。でも、子供たちにとっては父は最大の遊び相手。遊んでほしいと父を求める姿がとてもいじらしい。

子供たちも母を助けるために、クリスマスの日に金を稼ぐ。石炭が運搬される道に沿ってこぼれた石炭を拾い集める仕事。真っ黒になってびしょ濡れになって帰ってくる。息子たちが金を稼いできても、父は動かない。たとえお金がなくなっても恵みを受けるような仕事はプライドが許さないからだ。
プライドが高く、それでいて生活力がない。まさに絵に描いたようなダメ親父だ。

本書は、カトリックの文化の中で育つ主人公の物語だ。そのため、カトリックの文化に則った出来事が多く描かれる。例えば初聖体受領、さらに信心会への出席。堅信礼。

ところが、カトリック文化は酒を許容する。まるで人を救ってくれるのは神だけでは足りないとでも言うように。酒も必要だと言うように。
父はそうした背景に甘え、赤ん坊ができても気にせずに酒に溺れて帰ってくる。
主人公が10歳を過ぎる頃にはもう父は、尊敬すべき対象ではなくなっている。

私も酒が好きだ。そのため、本書の描写はとても身につまされた。
アイルランドは、今でもアイルランド・ウイスキーの産地として知られる。もちろんギネス・ビールの産地としても。

酒は百薬の長と言うが、退廃を呼び覚ます悪い水でもある。
酒の悪い側面を本書で見せられると、暗澹とした気分になる。
私は幸いにして酒にそこまで溺れずに済んだ。
本書は、酒文化の悪い面を示すには格好の教材なのかもしれない。

ちょうど本書の描かれている時代は、アメリカの禁酒法の時代だ。なぜ禁酒法が生まれたのかを知るためには、悲惨な目にあうマコート一家の様子を見れば良い。
もちろんその原因の大部分は父の意思の弱さがあるのだろう。だが、そもそも酒があるからいけないのだ、とする考えが禁酒法の根底にはある。

その一方で主人公は徐々に成長する。チフスによる入院も乗り越え、角膜炎による失明の危機を乗り越え。性に対して興味を持ち、徐々に母のために家計を手伝うようになる。

電報配達の仕事を通じ、自分の家以外のさまざまな家庭の内実を知る。そこで童貞を捨て、別の仕事(借金の督促状の執筆)を受ける。主人公にはすでにアメリカに渡る明確な目標があるので、それに向け、何で身を立てていくのかが見えてくる。それは文章を作成する能力だ。

本書は相当に分厚い本だ。だが、読み始めるとあっという間に読み終えてしまう。まさにそれこそが、主人公が培った文章作成能力の結果だろう。

絶望の中でも仕事は与えられるし、そこからチャンスは転がっている。本書は、主人公がアメリカに向かうところで終わる。
19歳の主人公が酒に興味を持つ兆しはない。おそらく父を反面教師としているからだろう。

本書には続編があるらしいが、そうではアメリカで主人公が経験したさまざまな苦難が描かれると言う。また読んでみたいと思う。

‘2020/03/01-2020/03/05


終わりの感覚


正直に言う。本書は、読んだ一年半後、本稿を書こうとしたとき、内容を覚えていなかった。ブッカー賞受賞作なのに。
本稿を書くにあたり、20分ほど再読してみてようやく内容を思い出した。

なぜ思い出せなかったのか。
それにはいろいろな原因が考えられる。
まず本書は、読み終えた後に残る余韻がとてもあいまいだ。
それは、主人公のトニーが突きつけられた問いへの解決が、トニーの中で消化されてしまうためだと思う。トニーはその問いへの答えを示唆され、自ら解決する。その際、トニーが出した答えはじかに書かれず、婉曲に書かれる。
そのため、読後の余韻もあいまいな印象として残ってしまう。

また、本書は提示された謎に伴う伏線が多く張られている。そのため、一つ一つの文章は明晰なのに、その文章が示す対象はどこかあいまいとしている。
この二つの理由が、私の記憶に残らなかった理由ではないかと思う。

人はそれぞれの人生を生きる。生きることはすなわち、その人の歴史を作っていくことに等しい。
その人の歴史とは、教科書に載るような大げさなことではない。
歴史とは、その人が生きた言動の総体であり、その人が人生の中で他の人々や社会に与えた影響の全てでもある。

だが、人の記憶は移ろいやすい。不確かで、あいまいなもの。
長く生きていると幼い頃や若い頃の記憶はぼやけ、薄れて消えてゆく。

つまり、その人の歴史は、本人が持っているはずの記憶とは等しくない。
本人が忘れていることは記憶には残らず、だが、客観的な神の視点からみた本人の歴史としてしっかりと残される。

過ちや、喜び、成し遂げたこと。人が生きることは、さまざまな記録と記憶をあらゆる場所に無意識に刻みつける営みだ。

自分のした全ての行動を覚えていることは不可能。自分の過去の記憶をもとに自らの歴史をつづってみても、たいていはゆがめられた記憶によって誤りが紛れ込む。
自分の自伝ですら、人は正確には書けないものだ。

本書の最初の方で、高校時代の歴史教師との授業でのやりとりが登場する。
「簡単そうな質問から始めてみよう。歴史とは何だろう。ウェブスター君、何か意見は?」
「歴史とは勝者の嘘の塊です」と私は答えた。少し急きすぎた。
「ふむ、そんなことを言うのではないかと恐れていたよ。敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな。シンプソン君は?」
と始まるやりとり(21-22p)がある。
そこで同じく問いに対し、トニーの親友であるフィンことエイドリアンは、以下のように返す。
「フィン君は?」
「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」(22p)

さらに、その流れでフィンことエイドリアンは、同級生が謎の自殺を遂げた理由を教師に問いただす。
そこで教師が返した答えはこうだ。
「だが、当事者の証言が得られる場合でも、歴史家はそれを鵜呑みにはできん。出来事の説明を懐疑的に受け止める。将来への思惑を秘めた証言は、しばしばきわめて疑わしい」(24p)
著者はそのように教師に語らせる。
これらのやりとりから読み取れるのは、歴史や人の記憶の頼りなさについての深い示唆だ。

長く生きれば生きるほど、自分の中の記憶はあいまいとなる。そして歴史としての正確性を損ねていく。

トニーが学生時代に付き合っていた彼女ベロニカは、トニーと別れた後、エイドリアンと付き合い始めた。ベロニカの両親の家にまで行ったにもかかわらず。
そのことによって傷ついたトニー。エイドリアンとベロニカを自らの人生から閉めだす。
その後、エイドリアンが若くして死を選んだ知らせを受け取ったことによって、トニーにとって、エイドリアンとベロニカは若い頃の旧友として記憶されるのみの存在となる。

トニーはその後、平凡な人生を歩む。結婚して娘を設け、そして離婚。
40年ほどたって、トニーのもとにベロニカの母から遺産の譲渡の連絡が届く。そこから本書の内容は急に展開する。
なぜ今になってベロニカの母から遺産が届くのか。その手紙の中では、エイドリアンが死とともに手記を残していたことも書かれていた。

再会したベロニカから、トニーは不可解な態度を取られる。ベロニカが本当に伝えたいこととは何か。
トニーは40年前に何があったのか分からず困惑する。
エイドリアンの残した手記。ベロニカの謎めいた態度。
突きつけられたそれらの謎をトニーが理解するとき、自らの記憶の不確かさと若き日の過ちについて真に理解する。
かつて、高校時代に歴史の教師とやりとりした内容が自分のこととして苦みを伴って思い出される。

本書は、人の記憶の不確かさがテーマだ。長く生きることは、覚えてもいない過ちの種を生きている時間と空間のあちこちに撒き散らすこと。
エイドリアンのように若くして死んでしまえば過ちを犯すことはない。せいぜい、残した文書が関係者によって解釈されるくらいだ。
だが、長く生きている人が自分の全ての言動を覚えていられるものだろうか。

私も今までに多くの過ちを犯してきた。たくさんの後悔もある。私が忘れているだけで、私の言動によって傷つけられた人もいるはずだ。
50歳の声が聞こえてきた今、私の記憶力にも陰りが見え始めている。一年半前に読んだ本書の内容を忘れていたように。

誰もが誠実に、過ちなく生きていたいと思う。だが、過ちも失敗もなく生きていけるほど人の記憶力は優れていない。私も。これまでも、この先も。
過去と現在、未来に至るまで、私とは同じ自我を連続して持ち続けている。それが世の通念だ。だが、本当に私の自我は同じなのだろうか。その前提は、本当に正しいのだろうか。
本稿を書くにあたって改めて読み直したことで、そのような思いにとらわれた。

‘2020/01/01-2020/01/03


対岸


本書は、著者の処女短編集だそうだ。

著者は私が好きな作家の一人だ。簡潔な文体でありながら、奇想天外な作品を紡ぎ出すところなど特に。

本書はまだ著者がデビュー前、アルゼンチンで教員をしていた頃に書かれた作品を主に編まれている。

後年に発表された作品ほどではないが、本書からはすでに著者の才気のきらめきが感じられる。

本書に収められた諸編。その誕生の背景は訳者が解説で詳しく記してくださっている。田舎の閉鎖的で垢抜けない環境に閉口した著者が、懸命に作家を目指して励んだ結果。それらが本書に収められた短編だ。

本書は大きく四部に分かれている。最初の三部は「剽窃と翻訳」「ガブリエル・メドラーノの物語」「天文学序説」と名付けられている。各部はそれぞれ四、五編の短編からなっている。そして最後の一部は「短編小説の諸相」と題した著者の講演録だ。著者は短編小説の名手として世界的な名声を得た。そして短編小説を題材に講演できるまでに大成した。この講演は、晩年の著者がとても肩入れしたキューバにおいてなされたという。

著者の習作時代の作品を並べた後で、最後に著者自身が短編小説を語るのが、本書をこのように編集した意図だと思われる。

まずは前半の三部に収められた各編について寸想を記してみたい。

まず最初の「剽窃と翻訳」から。

「吸血鬼の息子」
吸血鬼伝説に想をとっている本編。一般に吸血鬼が描かれる際は、食欲だけが取り上げられる。つまり血液だ。

だが、美女の生き血を欲する欲とは、美女の体を欲する性欲のメタファーではないか。そこに着目しているのが印象に残る。吸血鬼が永遠に近い命を持つからといって性欲を持たなくてよいとの理はないはず。

吸血鬼の子を身ごもったレディ・ヴァンダから、どのような子どもが生まれるのか。それは読者の興味をつなぎとめるにふさわしい。その後、予想もしない形で吸血鬼の息子は誕生する。その予想外の結末が鮮やかな一編。

「大きくなる手」
本編は、本書に収められた13編の中でもっとも分かりやすいと思う。そして、後年の著者が発表したいくつもの名短編を思わせる秀編だ。主人公プラックが自らの詩をけなしたカリーを殴った後、プラックの手が異常に腫れる。その腫れ具合は車に乗せるにも一苦労するほど。

主人公を襲うその超現実的な描写。それが、著者の後年の名編を思わせる。大きくなりすぎた手を持て余すプラックの狼狽はユーモラスで、読者は主人公に待ち受ける出来事に興味を引かれつつ結末へ誘われて行く。そして著者は最期の一文でさらに本編をひっくり返すのだ。その手腕はお見事だ。

「電話して、デリア」
電話というコミュニケーション媒体がまだ充分に機能していた時期に書かれた一編。本書に収められた短編のほとんどは1930年代に書かれているが、本編は1938年に書かれたと記されている。けんかして出て行った恋人から掛かってきた電話。それは要領を得ない内容だった。だが、彼から電話をかけてきたことに感激したデリアは、彼と懸命に会話する。電話を通じて短い応答の応酬がつながってゆく。

結末で、デリアは思いもよらぬ事実を知ることになる。正直言ってその結末は使い古されている。だが、編末でラジオから流れるアナウンサーの話すCM文句。これが、当時には電話がコミュニケーション手段の最先端であった事実を示唆していて時代を感じさせる。著者が今の時代に生きていて、本書を書き直すとすれば、電話のかわりに何を当てるのだろう。

「レミの深い午睡」
本編はなかなか難解だ。自分があらゆる場所あらゆる時代で死刑執行される夢を普段から見る癖のあるレミ。今日もまたその妄想に囚われたまま、レミは午睡から起きる。そしてモレッラのところに連絡するが、何か様子がおかしい。

モレッラのところにはドーソン中尉がいて、銃声と叫び声が響く。執行人は脈をとって死人の死を確認し、立会人は去って行く。果たしてレミは妄想どおり死刑執行されたのか。それともレミが死刑を執行したのか。主体と客体は混然とし、読者は物語の中に惑わされたまま本編を終えることになる。

「パズル」
これまた難解な一編だ。殺人現場において、見事に殺害をし遂げる人物。そして殺害されたラルフを待ち続けるレベッカと主人公「あなた」の兄妹。彼らを尋問して警察が帰った後、二人の間で何が起こったのか問答が続く。

果たしてラルフはどこで殺されたのか。謎が明かされて行く一瞬ごとの驚きと戸惑い。本書は注意深く読まねば誰が誰を殺したのかわからぬままになってしまう。読者の読解力を鍛えるには好都合の短編だ。

続いて第二部にあたる「ガブリエル・メドラーノの物語 」から。

「夜の帰還」
死後の幽体離脱を文学的に取り扱えば本編のようになるだろうか。死して後、自分の体を上から見下ろす体験の異常さ。それだけでなく、主人公は自分を世話してくれていた老婆が自分の死を目にして動転しないよう、死体に戻って自分の体を動かそうと焦る。主人公の焦りは死という現象の不条理さを表しているようで興味深い。

死を客観的に見るとはこういう経験なのかもしれない。

「魔女」
万能の魔女として生きること。それは人のうらやみやねたみを一身に受けることでもある。また。それは自分の欲望を我慢する必要もなく生きられるだけに不幸なのかもしれない。

本編の結末はありがちな結果だともいえる。だが、単に自分の欲望に忠実に生きること。その生き方の果てにはなにがあるのか、ということを寓話的に描いた一編とも言える。抑制を知って初めて、欲望とは充足される。そんな教訓すら読み取ることは可能だ。

「転居」
本編も著者が後年に発表したような短編の奇想に満ちた雰囲気を味わえる。仕事に没頭するライムンドは、ある日突然家が微妙に変化していることに気づく。家人も同じだし家の間取りにも変わりはない。だが、微妙に細部が違うのだ。その戸惑いは会計事務所につとめ、完結した会計の世界に安住するライムンドの心にねじれを産む。

周囲が違えば、人は自らの心を周辺に合わせて折り合いを付ける。そんな人の適応能力に潜む危うさを描いたのが本編だ。

「遠い鏡」
著者が教員をしていた街での出来事。それがメタフィクションの手法で描かれる。ドアの向こうには入れ子のようにもう一つの自分の世界が広がる。

街から逃げ出したくて逃避の機会を探しているはずが、いつの間にか迷い込むのは内面の入れ子の世界。それは鏡よりもたちがわるい。抜け出そうにも抜け出せない。そんな著者の習作時代の焦りのようなものすら感じられる。

続いて第三部にあたる「天文学序説」から。

「天体間対称」
「星の清掃部隊」
「海洋学短講」
この三編は著者が作家としての突破口をSFの分野に探していた時期に書かれたものだろう。そう言われてみれば、著者の奇想とはSFの分野でこそ生かせそうだ。だが、本書に収められた三編はまだ習作のレベルにとどまっている。おそらく著者の文才とは、現実世界の中に裂け目として生じる異質なものを描くことにあるのてばないか。つまり、世界そのものが虚構であれば、著者の作り出す虚構が埋もれてしまい効果を発揮しなくなってしまう。多分著者がSFの世界に進まなかったのはそのためではないかと思う。

「手の休憩所」
こちらは逆に、著者の奇想がうまく生かされた一編だ。体から離れ、自立して動き回る手。その手と共存する日々。手は細工や手遊びに才能を自在に発揮する。しかし私に訪れた妄想、つまり私の片手と動き回る手が手を取り合って逃げてしまうという妄想。それがこの膠着状況に終止符を打ってしまう。

続いては末尾を飾る「短編小説の諸相」
これは、冒頭に書いたとおり、著者の講演を採録したものだ。ここで著者は短編小説の極意を語る。

長編小説と違い、短編小説には緊張感が求められると著者はいう。じわじわと効果を高めていく長編とは違い、効果的かつ鋭利に読者の心に風穴を開けねばならない。それが短編小説なのだという。テーマそのものではなく、いかにして精神的・形式的に圧力をかけ、作品の圧力で時空間を圧縮するか。著者が強調するのは「暗示力」「凝縮性」「緊張感」の三つだ。

この講演の中では、著者が好む短編が挙げられている。それはとても興味深い。ここに収められた講演の内容は何度も読み返すべきなのだろう。含蓄に溢れている。そして、本講演の内容は、おそらく今まで著者のどの作品集にも収められなかったに違いない。私もいずれ、機会を見て本書は所持したいと思っている。

そして確固とした短編の名作を生み出してみたいと思っている。

‘2017/02/21-2017/02/24


朱夏


著者の作品は何冊か読んでいる。丁寧な描写から紡ぎだされる日本の伝統的な世界。それを女性の視点から描く著者の作品には重厚な読み応えを感じたものだ。

その重厚さがどこから来るのか、本書を読んで少しわかった気がする。

本書は著者の自伝的な作品だ。戦争前に夫と見合い結婚し、満州開拓団に赴任する夫と満州へ。そこで命からがら逃げ帰ってきた経験。本書はその経験をそのままに小説としている。むろん、本書は事実を克明に描いていないはずだ。たとえば、主人公の名前は著者の名前と違って綾子という。だが、たとえ詳細は事実と違っていても、本書の内容はかなりの部分で事実を反映しているに違いない。それは、主人公の実家が高知の遊郭で芸妓の斡旋業を営んでいること。戦争を前にお見合いで結婚し、夫について満州に渡ったこと、などが事実であることから推測できる。さらに推測を重ねてみるに、著者にとってみれば満州での日々よりも日本での暮らしのほうが小説には著しにくいはず。ところが本書では日本の暮らしも事実に即しているように思える。ならば、本書で書かれた満州での日々はより真実を映し出していると思うのだ。

本書で書かれた内容が真実を基にしているのでは、と思う理由。それは、著者の他の作品に感じられる描写の細かさだ。細かな描写を小さく刻んでゆく。その結果、一編の小説に仕立て上げる。本書も同じ。全編に事実が積み上げられる。小説でありながら、小説内の出来事を虚構ではなく事実と思わせる説得力。話をことさらにドラマチックに盛らずとも、事実の積み重ねは本書をとても劇的に仕上げている。

本書で書かれた熾烈な経験の前では、話を脚色する必要すらもない。そこには、劇的な演出を拒むだけの迫力がある。本書で展開されるエピソードの数々は生々しい。生々しいが、わざとらしさはない。その生々しさは、地に足の着いたリアルな描写のたまものだからだ。

たとえば、満州に向かった人々は、後年自らに降りかかる運命を知らないはずだ。希望と不安が半々。主人公の綾子もそう。結婚して不安な日々。嫁ぎ先で自分をどう生きるのか。夫との関係。子供の世話。姑との暮らし。戦局の悪化は高知でも徐々に不安となって人々を包み込む。そんな日々は、自分の生活で精一杯のはず。そこに飛び込んできた満州行きの話。全てのエピソードは波乱万丈ではなく、誰の身にも起きうるものだ。

そんな満州に向かうことになった綾子。彼女は、芸妓の斡旋業を営む家に生まれた。裕福な家に不自由なく育ち、お嬢さんぶりが抜けない。それでいて、乙女の潔癖さゆえに生家の家業が嫌でしょうがない。要との結婚に乗り気だったのも、家業から逃げるためといえるほどに。綾子が嫁いで、まもなく子を授かる。そして、要は満州へといってしまう。残された家で姑のいちと、生まれた美耶との三人の暮らし。嫁と姑が語らうやりとりは、とてものどかだ。戦争末期とは思えない程の。しかし土佐のような、空襲にもあまり遭わない地では、これこそが現実の銃後の生活だったのではないか。日々の生活がそこまで危機感を帯びていなかったからこそ、開拓団は遠い満州へと旅立って行けたのだ。

それは、満州での日々も同じだ。先に満州に向かった一団を追って、綾子と美耶が満州へと旅立ったのは昭和20年も3月の末。高知にも空襲があり、少しずつ戦時中の空気は土佐を覆っていた。つまり戦局の悪化は土佐の人々にも感じられたはず。それでも満州に渡った開拓団の子弟に教育する必要があるとの大義は、人々を満州に赴かせた。綾子の夫、要もその一人。要を追った綾子も開拓団が暮らす飲馬河村へ何日もの旅路をへて到着する。

そこでの暮らしぶりも、少しずつ日本人の暮らしが不穏さをましてゆく様もリアルに描かれる。人々の間に不審さが増し、現地人との関係にも少しずつ変化が生まれてゆく。開拓民を覆う空気が徐々に変化してゆくようすも鮮やかな説得力がある。とにかく本書は描写が細かい。満州人と日本人の風習の違い。体臭や癖の違い。振る舞いや言葉、しきたりの違い。島国の日本とは違う大陸のおおらかさ。そんな満州の日々が事細かく書かれてゆく。

人々がアミーバ赤痢に罹かる。日本と違って万事がのんびりで、子育てもままならぬ環境にいらだつ綾子。お嬢様育ちののどかさが薄れ、徐々に満人の使用人に対する態度がきつくなる。高知の実家の女中がいると聞き、新京へ訪ねた綾子と要は、繁盛している妓楼の主人に教師の職を侮辱される。当時の満州の世相がよくあぶりだされるシーンだ。綾子はそこで血尿を出してしまい、妓楼から診察を受けに行ったことで性病と間違えられる。綾子は満州の地で翻弄されながら、日本に郷愁を感じながら、たくましくなってゆく。

著者の視点は、あくまで開拓民としての視点だ。著者は結果を知りつつ、かれらの当時の日々に視点を置く。だから、リアルなのだ。語りも当時の視点だけを淡々と進めるのでなく、ごくたまに豊かな戦後の暮らしを引き合いに出す。それが当時の暮らしの苛烈さを浮き彫りにする効果を与えているのだ。

今の平和な日本しか知らない私たちには決して分からないこと。それは、開拓団の人々の当事者の視点だ。彼らが現地で当時の時間軸でどう考えて過ごしていたのか。それを追体験することほすでに不可能。

一方で私たちは後年開拓団がどういう運命に見舞われたのかを知っている。彼らを襲った悲劇が何をもたらしたのかを。だからこそ疑問に思ってしまう。なぜ彼らはそんな危険な地にとどまり続けたのか。なぜ満州軍をそれほどまでに信頼しきっていたのか。なぜ、ソ連軍が来るまでに逃げなかったのか。彼らはただひたすら朴訥な開拓民として、日々を耕していただけなのではないのか、などなど。

それらの批判が的を外していることは言うまでもない。日々の生活に追われていれば、戦局の詳細まで分かるはずがないのだ。たとえば、満州軍がどこに部隊を移動させ、ロシア軍はどこまで満州の国境に迫っているのか。それは彼らの生死に関わる問題のはず。だが、開拓民がそれを知ることはない。

人々は突然の敗戦の知らせとソ連軍の侵攻に慌てふためき逃げ惑う。その結果が、中国残留孤児であり、現地に骨を埋める多くの犠牲者だ。なぜそういう事態に陥ったのか。それは誰にも分からない。だが、一ついえるのは、後世の私たちが訳知り顔に彼らの行動を非難できないということだ。非難することは大いなる過ちである。

そんな現状認識だったからこそ、ある日突然に訪れた敗戦の知らせに綾子は絶叫するのだ。十数日前に満員人の使用人から、日本は程なく負けるとの知らせを聞き、われを忘れて神州日本は負けないと啖呵を切ったときのように。要は息せき切って知らせを告げに走り込み、綾子は絶叫する。人々は茫然とし、部屋を歩き回ってぶつぶつと将来を憂う。261Pー263Pで描かれるその場面は本書でも指折りのドラマティックな箇所だ。

続いて彼らは気付く。自分たち開拓民の置かれた状態が一刻の猶予も許さない状態になっていることを。別の集落は暴徒と化した現地の住民達によって全滅させられたとか。そんな風聞が飛び交う。

綾子の集落にも不穏な雰囲気が押し寄せる。使用人の満人はとうの昔に姿を消している。あとは家が暴徒に囲まれれば終わり。そうなれば即自決すると示しあわせ、カミソリの刃を首に当てる綾子。結局、暴徒に襲われることはなく、日本人だけが一カ所に集められる。命は助かったが、敗戦国の民となった彼らの生活はみじめだ。慣れぬ満州の生活に苦しめられ、さらに生存をかけた日々を送ることを強いられる。

綾子はそんな日々をたくましく生き抜く。人々が本性を見せ、弱さにおぼれる中。美耶を育てなければという決意。母は強い。収容所での日々は、綾子からお嬢様の弱さをいや応なしに払拭してゆく。かつては付き合うことさえ親から禁じられていた同郷の貧しかった知り合いに出会い、吹っ切れたようにその知り合いからも施しをうける。プライドを捨てて家族のためにモノを拾ってきては内職する。

その日々は、著者の歩んだ砂をかむような日々と等しいはずだ。冒頭で著者の作風に備わっている重厚さの理由が本書にあると書いた。本書を読むと著者の歩んだ体験の苛烈さが分かる。このような体験をした著者であれば、その後の人生でも踏ん張りが効いたはずだ。

本書は終戦後34年たってから書かれ始めたという。娘さん、本書内で美耶と呼ばれている実の娘さんに向けて書いたそうだ。でも、本書は著者自身のためにもなったはずだ。著者が作家として独り立ちするためのエネルギーの多くは、ここ満州の地で培われたのではないだろうか。 私はそう思う。なぜなら苦難は人を作るから。 私も最近、ブログでかつての自分を振り返っている。苦難は人を作るとしみじみ思うのだ。

‘2017/01/25-2017/02/05


嫌われ松子の一生(上)


本書もレビューを書くのに手間取った一冊だ。

本書では、転落し続ける一女性の一生が容赦なく描かれる。これが自業自得の結果だったり、身から出た錆であればまだいい。そうとばかりは言えないから厄介だ。そして重い。その重さを受け止めかねているうちにレビューを書くまで一年近くかけてしまった。

女性であることは、これほどまでに厳しいのか。女性でいることは、これほどまでに痛々しいのか。女性として生まれた宿命を背負って生きようとする松子の姿。それは男の私にとって安易に触れることを躊躇させた。そして、感想を書くことをためらわせた。

松子の生き方に、人の生きることの尊さとかけがえのなさは感じられる。しかし、それ以上に、生きることが一方通行の綱渡りに近しい行いであり、やり直しのきかない営みであることを痛切に感じた。

本書は松子の死後から幕を開ける。笙は、福岡から出て来た父から松子という伯母の存在を知らされ、30年前に蒸発して行方不明だった松子が殺されたこと、遺品の整理をしてほしいと頼まれる。そのような親族がいたことを知らなかった笙は、ただ面食らうのみ。

本書は一転、昭和45年に場面を移す。 国立大を出て中学校に赴任した川尻松子は、修学旅行の下見に校長と二人、別府へ向かう。旅行会社の手違いで校長と同室で泊まる羽目になった松子は、夜、校長に強引に犯される。いうまでもなく校長と旅行会社社員による卑劣な結託だった。ここでまず、松子の運命に一つ目の傷がつく。

本書はまた現代へと戻る。以後、松子の運命と笙の探索が交互に描かれていく。松子の遺品整理に気乗りしない笙は、初めは片手間に、恋人の明日香と松子が住んでいたアパートに向かい、作業を始める。大家や隣人、訪ねてきた刑事などから松子の人となりを聞いた笙は、松子の生涯にふと興味を抱く。隣人より松子が荒川の土手で人知れず泣いていたことを聞き、荒川へと向かう。そこで見た男の面相は、18年前に松子と同棲していたという 刑事から見せられた写真に写っている男だった。男が殺人犯と勘違いした笙と明日香の二人が、荒川の土手に戻ると、男のいた場所には新約聖書が落ちていた。

昭和46年の春。修学旅行先で事件は起きる。泊まっていた旅館の金庫から金が盗まれたのだ。担任の松子は、生徒を疑ってはいけないと知りながらも、問題児の龍洋一に金の行方を問い質す。そして龍洋一は、尋問に傷つき出て行ってしまう。窮した松子は生徒が盗ったことにして、お金を内々に宿に返せば丸く収まるのではと考える。しかも、自分の手持ちのお金だと足りないので、たまたま目に入った同僚教師の財布の中身も拝借して穏便に済ませようとする。だが、そんな浅知恵がうまくいくはずはない。結果、自宅謹慎の処分が下る。なおも諦められない松子は龍洋一の家を訪れる。そして本当の事を白状するように懇願するぬれぎぬまで着せられ、退職願を出すよう申しつけられる。全てが暗転していく絶望に、学校からも家からも泣き笑いで飛び出す松子。

場面は再び現代へ。男が置いていった新約聖書には府中市にある教会の名前が刷ってあった。そこを訪れた二人は、男が逆に松子を探していたのではないかと思い至る。笙の中で、松子の人生にあらためて興味が沸く。

教師を放り投げてからの松子の人生は、世間体からみれば転落の一言だ。ウェートレス、文学青年のヒモ、妻ある人との不倫。そして風俗嬢へ。風俗嬢でのし上がった松子は金を稼ぎ、同僚やマネジャーと絆を結ぶ。

一方、松子を探し訪ねる 笙の 旅は、荒川にいた男が松子の教え子だったことで次の展開に向かう。男の名は龍洋一。

過去と現在が交互に入れ替わる本書は、一人の女性が人生の荒波に揉まれ、懸命に生き抜こうとする物語だ。いちど世間というレールを外れると、あと頼れるのは己のみ。生きることへの執着としぶとさが本書にはある。

故郷をついに離れた松子の、一生故郷には帰らないとの決意で上巻は終わる。

‘2016/09/06-2016/09/08