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民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


百年法 下


上巻では、百年法を成立させる過程で笹原が自死を遂げる。その志を継いだのが内務省で笹原の部下であった遊佐。

遊佐は百年法を国民にあまねく浸透させるためには民主主義では生ぬるいと考える人物だ。権限を持った施政者による強力な指導がこれからの日本共和国には必要との持論を持っている。その持論にのっとり、遊佐は首相の座に就く。そして大統領に野党党首だった牛島を擁立する。大統領といっても、現代フランスやアメリカのような任期制の大統領ではない。内政にも強大な権限を持つ終身大統領だ。遊佐は自らの信ずる政治体制を実現するため、合法的に大統領へ無限の権力を集中させる。上巻は、自らが擁立した牛島大統領により、足を掬われる遊佐の狼狽で幕を閉じる。

下巻では政治と国民の断裂は深刻になる。百年法は施行されたが、その徹底はおざなりになる。百年たったにも関わらず当局に出頭しない者は増加し、彼ら逃亡者は各地でコミュニティを作って自活の道を選ぶ。闇IDカードが横行し、政府が派遣した軍隊が逃亡者コミュニティを掃討することが頻発する。生存権の制限を徹底したい政府と生存本能に忠実な国民の間の争い。それが描かれるのが下巻だ。

下巻では、政府内部の権力闘争も執拗に描かれる。それは牛島大統領と遊佐首相による暗闘だ。著者は本書のサブテーマにマキャベリズムのあり方も取り上げる。為政者とは国民に対してどうあるべきなのか。権力を得る前と得た後で人はどう変わりうるか。人は権力を手にした時、どう振る舞うべきか。そして、権力闘争を勝ち抜くために求められる資質とは何か。

マキャベリズムとは、ルネサンス期の政治思想家マキャベリが唱えた思想のことだ。ウィキペディアの定義を引用すると、どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想だ。だが、マキャベリズムが生まれでたのは、かつてマキャベリが活躍したフィレンツェやその周辺の都市国家が群雄割拠した中世の時代背景があってこそ。いまや覇道が大義として通用した中世ではない。21世紀半ばの情報技術の豊かな日本共和国を舞台として、いかにマキャベリズムを具体化するか。著者の思考実験には、生死という人間にとっての究極の選択が欠かせなかったのだろう。

上巻のレビューで、著者は本書において主張したかったことが多数あるはずと書いた。その一つは家族のあり方だ。不老が実現した社会では、子が親を養う事が不要となる。つまり親子の縁はもはや足枷でしかなくなるということだ。

著者は本書で様々な社会実験を行う。そのうち、私が被験者に置かれたくない実験。それこそが家庭の意味が崩壊した社会に生きることだ。こと家庭に関しては私は保守的な考えを持っている。多分、不老が実現した社会では本書の予言通り家族制度は溶解することだろう。だが、仮にそうだとして、それを今の日々にどう活かすのか。家庭だけでなく、労働のあり方にも相当な変化が起きるはずだ。社会構造が変わることで、子を持つ意味も根底から覆る。本書はそういった思考訓練にも使えるかもしれない。

本書下巻には正体不明の阿那谷童仁というテロリストが暗躍する。政府にたてつく反百年法のシンボル。活動年代の長さは、HAVI処置による長命だけでなく、複数の人間が何代にもわたって阿那谷童仁を襲名しているかのようだ。その存在は、生存権を脅かされた国民による反旗のシンボルのよう。だが、阿那谷童仁の行動からはこれといった信念が感じられない。阿那谷童仁が仮に逃亡者の代弁者であったとして、逃亡者の信念の根底にあるのは国に生殺与奪権を握られていることの反抗だけなのか。それとも逃亡者とはただ本能に正直なだけの人々の集まりなのか。

その判断は読者に委ねられる。家族という価値観が崩れた後、人は何を支えに生きて行くべきなのか。それを問う事は、本書の底流を成す重要なテーマだと思う。国家による生存権の掌握や、その運営にあたる政治家の持つべき矜持も重要だ。だが、人が生きる目的を探る事は、そもそも小説という芸術の根幹にも関わることだ。本書では、種族の繁栄という大義名分が喪われた人が何を目標に生きるのか、との問いがなされる。この問いは表立って出てこないが、本書を読む上で見逃せない。

著者は、最終的には本書の筋を国家としてのあり方につないでゆく。宗教や思想、主義、哲学、生きがい、人生観、価値観。そういった精神的なものは、国民の一人一人に任せておけばよい。と著者はその是非を読者に預ける。上にも書いたような人としての生きがいは本書の重要なテーマではあるが、最終的にはそれは読者それぞれの価値観によるとでもいうかのように。

では、国政を預かる者の責務はなにか。結局は、国民の生活基盤を整える事ではないか。国民がそれぞれの生きがいを全うし、人間らしい生活を営むための基盤。それを整え、提供することが国の責務なのだろう。なぜなら、それができるのは国家だけだからだ。

国と国民とはしょせん同化できるものではない。個人と国の価値観は常に対峙しあい、依存しあい、反発しあう。立場や視点によって国の立場も国民の立場も変わる。そして、国は国民がいなければなりたたない。国は国民の生存権を左右することはできても、それでもなお、一人一人の国民がいなければ、立ちゆかないのが国なのだ。そこを見据え、さらに先の未来を描き、バランスの取れた統治に徹するのが正しいマキャベリズムの姿なのかもしれない。

本書はこのように、様々な角度から社会や国の現状認識を揺さぶる。それだけの力を持った小説だ。ぜひ味わってみて欲しいと思う。

‘2016/6/23-2016/6/25


百年法 上


国家を成り立たせるための最低要件。それは政治学の初歩の問いではないか。この場で私が思いつく限りでも、国民、国境、そして軍隊も含む外交主体などが浮かぶ。最後に挙げた主体とは、国の実態を対外折衝を行える組織に置く考えに基づいている。つまり、対外折衝を国に対して行うからには、その組織を国と見なしても良い、ということだ。

一方、国を考える上で内政とは何を指すのだろうか。国民と統治者の間にサービスを介した関係が存在すること。それは誰にも異論がないはずだ。国民は国からサービスを受けるため税金を払い、国はその見返りにサービスとしての教育や福祉、治安を提供する。これは、政府の大小や主義主張の違おうとも、一般に認められる考えではなかろうか。今、私が考える国の内政機能といえば、せいぜいこのくらいしか思いつかない。

国防の名において、国民を外敵から守るといった秩序維持も国家の機能の一つに挙げてもよさそうだ。それだけにとどまらず、外交も内政も行き着くところは国内の秩序維持に集約される、といった意見にも私は反対しない。

国家が秩序維持を御旗に掲げた場合、個人の権利は縮小される。国民福利の原則を盾に、強制代執行の行使がなされる事案はよく耳にする。国家権力の名の下に、個人の権利は制限される。今さら基地問題や市街地開発を話題に出すまでもなく、お馴染みの話だ。

ただ、権利が制限されると言っても我が国の憲法には、生存権をはじめとする権利が明記されている。それら謳われた権利の保護は、たとえ建前であったとしても尊重されているといってよいだろう。なかでも生存権については、前憲法下で蔑ろにされた反省から現憲法ではかなり気が遣われていると思う。

日本国憲法が施行されて70年がたった今、生存権について国家が制限をかけるという試みはタブーに等しい。本書は、そのタブーにあえて踏み込んだ一冊だ。

そのタブーを描き出すため、著者は近未来SFの手法を採る。それは、パラレルワールドにおける近未来として読者の前に示される。なにせ、本書の舞台は日本共和国なのだから。1945年までは同じだが、第二次世界大戦の戦後処理の過程で共和国形態を採った日本。パラレルワールドの日本には大統領がいる。実務は首相が執る。本書に描かれる日本共和国の政体は、現代フランスの政治体制に近いだろうか。

ふとした偶然で発見されたヒト不老化ウィルス、略してHAVI。このウィルスこそが本書の着想の肝だ。不死を手に入れた人類の壮大な社会実験。そして、死なないということは、際限なく人が増え続けること。つまり、国家による生存権の制限が必須となる。その制限の根拠こそ百年法だ。

本書の扉や表紙折り返しには条文が掲載されている。
【生存制限法】(通称:百年法)
不老化処置を受けた国民は
処置後百年を以て
生存権をはじめとする基本的人権は
これを全て放棄しなければならない

自然死や事故死ならともかく、国家によって強制される死。それはかつての日本にあっては、赤紙に象徴された。なぜ著者は本書のパラレルワールドとわれわれが生きる世界の分岐点を1945年に設定したか。私はその理由は二つあると思う。一つは、日本共和国成立には太平洋戦争の敗北が必要だったこと。もう一つは、百年法施行に踏み切る指導者の背景に太平洋戦争前の死生観をおく必要があったからではないか。

本作中で百年法が最初に議会に提出されるのは西暦2048年。百年法を主導するのは内務省。内務省次官の笹原は、太平洋戦争を闘った軍人あがりの人物。HAVIウィルスに感染、つまり、不老となった。

笹原は、死と生が隣り合わせになっていた時代の空気を知り、国家による生存権の制限を知っている。つまり、国家による生存権の制限に再び踏み切るには適任な人物だ。

笹原自身も、百年法が施行されれば、一年後に生存権が停止されることになる。だが、彼は、自らも自死を前提とした覚悟で国民に決断を突きつける。まさに命がけで政治を行うとはこのことだ。

本書を通して、著者が訴えたいのは死生観の多様性を描くことだけではない。国家による生存権の制限は、著者のテーマの素材を活かす舞台に過ぎないと思う。著者が訴えたいことの一つは、政治家に求められる覚悟だ。

つまり、笹原が選んだような、国の行く末のためには命すら賭す信念。為政者が身にまとうべき矜持ともいえようか。

だが、それは云うは易し、の理想論に過ぎないようにも思う。笹原のような命を賭ける政治家が不在である今の日本。これは、今の日本がまだそこまで追い詰められていない事の証だと思う。まだ、今の日本には余裕があるということでもある。少なくとも本書で日本共和国が陥った状況には、今の日本は至っていないように思う。

つまり、著者が百年法や日本共和国という舞台を創造してまで描きたかったこととは、政治家の本分ではないだろうか。

本書では多様な登場人物が死生観を披露する。百年法の適用対象となっても当局に出頭せず逃亡者となる者。HAVIをそもそも受けず、自然のままの老化を選ぶ者。未練がましく葛藤しながら自らの終末まで生きようとする者。人によって価値観は十人十色だ。そんな多種多様な死生観を持つ人々を率いるには、生半可な信念では務まらない。本書で著者が一番訴えかけたかったのは死生を統べる為政者としての覚悟だろう。

そう考えると、なぜ著者は本書の日本を共和制にしたのか、天皇制を廃したのはなぜか、という疑問にも答えがでる。たとえ象徴とはいえ、国民の死生を左右する国に天皇がある設定。その設定に著者は踏み切れなかったのではないだろうか。

ここから強いて何かを受け止めるとすれば、国と国民の間に死生観が介在すること、だろうか。戦後70年を経た今、為政者ではなく、天皇の名の下に国民に死生を強いたことの影響。その微妙な影響は今なお残り続けている事実を本書からあらためて突きつけられたと思う。死生観の強制があった事実は、今も国と国民の間に抜き難く残っている。そんな感想を抱いた。私自身は、象徴としての天皇の在り方に賛成する立場だ。だが、この先、IT技術の進歩は国と国民の関係に深く関わってゆくことだろう。

本書からは、それらのあり方も含めて考えさせられた。

2016/06/22-2016/06/23