Articles tagged with: 戯曲

海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


現代短篇の名手たち1 コーパスへの道


映画化された長編で知られる著者だが、短編集である本書でもその才能は光っている。

本書は比較的長めの二幕物の戯曲一編と、短編が六編で成っている。

著者の作風はどちらかというとダーク調の語り口、世界観に基づいている。本書もまた、その作風に通ずるものがある。

巻頭を飾る「犬を撃つ」は、一番印象を受けた一編。アメリカのサウス・カロライナ州のイードンという町が舞台になっている。観光による町の活性化のため、町が徘徊する野良犬の始末をブルーという男に依頼する。ブルーはベトナム帰りの元兵士で、戦場で極限状況の中に居続けていた。

ブルーは居場所を得たかのように、野良犬を撃つ。そして、ブルーの人生の中で無縁だった女との関わりができる。小さなイードンの町で男達と女達がくっついては別れる。ブルーもその中で人並みの恋愛を求めるが、幸福はブルーには訪れることがない。そして犬撃ちという仕事の非倫理性が問題となり、行ブルーから犬撃ちの仕事が取り上げられてしまう。そのとき、ブルーの鬱屈が臨界点を越え、という話。

孤独な上に、さらに戦場で心を痛め付けられた男の内面を、外からの客観視点だけで描いている。状況の変化はブルーの内面にどう影響を与えるのか。無口なブルーのわずかな台詞と状況からブルーの内面を炙り出す様は鮮やか。設定や描写、結末ともにダークな苦味が残る一編だ。

続いて「ICU」。人生に破れ、何かに追われて病院に忍びこんだダニエルの物語。読者には最後まで何にダニエルが追われているのか明かされない。ダニエルを探す男達の存在が伝聞で聞こえてくるだけである。

病院のICUという、医療の真髄の場所でダニエルは一ヶ月を過ごし、追っ手をやり過ごそうとする。しかし、マイケルという名の患者との会話を通し、ダニエルが何から追われているのかがマイケルの言葉を借りて読者に仄めかされる。しかし、そのような分かりやすいスパイ小説的な展開は本編の表の顔でしかない。おそらくは、ダニエルや我々読者は得体のしれないモノ、つまり自分以外の世界に常に追われているのだ、という寓意を読み取った。

三つ目は「コーパスへの道」。本書のタイトルチューンである。

高校生活最後のアメフトでヘマをし、チームを敗北に導いたライル。ライルに仕返しを食らわそうと空き巣に入るチームメイトたちの乱暴狼藉を描いている。若さゆえの無謀さでライルの家のを破壊するも、偶然帰ってきたライルの妹ラーリーンにその場を目撃される。しかしラーリーンはその破壊に手を貸すばかりか、その勢いで別のもっと豪勢な家への空き巣を提案する。果たしてそこに行った破壊者達は・・・というのが筋。若さゆえの破壊衝動と、権威には弱い人の心の裡を上手く描いている。

4編目の「マッシュルーム」も、危うさにあこがれる若者の心と、行き過ぎる危険の手前で恐れをなす揺れ。その様子が短い掌編の行間に描き表されている。銃の威力が、無音で、ひそやかな動きによって表されているのが印象的な一編。

5,6番目に収められた二編は、お互いに関連している。5番目に収められた「グウェンに会うまで」と6番目の「コロナド」。前者は短編で、後者は戯曲。しかし時間の前後関係では逆である、つまり戯曲が短編の前に来る。短編は、ムショから出所した男を迎えにきた父と思しき男。しかし、父と思しき男は、主人公が収監前に起こした事件で得た成果物を狙っている。事件の過程で、その男は主人公の恋人をも死に至らしめる。戯曲は犯罪に手を染める前の主人公と恋人が事件に深入りしていく様を描いている。短編と戯曲の取り合わせは珍しく、興味深く読めた。ちなみに短編の男二人の交わすやりとりはスリリングで、会話の妙に満ちており、著者がその前段階を戯曲化したくなる気持ちもわかる。ただ、戯曲コロナドは、本書でも紙数を占めており、戯曲慣れしていないと少々辛い。私も辛かった。しかし短編との取り合わせはやはり魅力である。

最期をかざるのは「失われしものの名」。正直いってこのダウナーな世界観には今イチはまり込めなかった。妄想癖を持つ男の一瞬を切り取った一篇だが、本書の他の編にない異色の雰囲気をまとっている。

‘2015/1/29-2015/2/3