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全一冊 小説 立花宗茂


先日に読んだ『立花三将伝』はとても面白かった。本書はそれに続いて読んだ一冊だ。
『立花三将伝』は、立花家の滅びを描いていた。作中の中でも史実でも、立花家は一度終わった。そして、新たな立花家の当主に就いたのが、戸次道雪とその養子である立花宗茂だ。

立花宗茂といえば関ヶ原の戦いで西軍に属し、一度は領地を没収された。その境遇から旧領に復帰した唯一の大名としてよく知られている。
その起伏に満ちた生涯を描いていているのが本書だ。
著者はさまざまな歴史上の人物を取り上げ、それを小説仕立てにする技術に長けている。
立花宗茂の生涯を小説にし、概観するには適任の方だ。

本書は、関ヶ原の敗戦後から始まる。肥後の加藤家の下で食客として過ごす中、京に出て浪人となる道を選ぶ。殿についていきたいと願う多数の家臣から一九名をくじで選び、故郷を出た一行。京では日々の糧を得るため、虚無僧に身をやつしたり、人足に出かけたりする家臣たち。皆、殿のために役に立てることに喜びを感じ、進んで労役に就く。

その時期の立花宗茂を表すとしてよく取り上げられるのが、以下の挿話だ。
家臣が干飯を作ろうと干していた飯を、雨が降り出して台無しになりつつある中、何もしなかった立花宗茂。
小事にこだわらず、大事にまい進する。将たるものはこうでなければ。小事にこだわらない立花宗茂の姿勢を示し、将の心構えを端的に表す挿話としても分かりやすい。

この挿話は浪人時代、十九人の家臣と京にいた時のものだ。何百、何千、何万の家臣を従えているならまだしも、十九人ならば私の手の届く人数だ。
少ない人数であれば、それぞれがそれぞれのことに手一杯。さらに十九人がそれぞれすべての事を差配しなければならない。だが、そのような中にあって、立花宗茂は小事にこだわらない。
将が悠揚とした姿勢を貫く事は容易ではない。ここで卑屈になってはならない。家臣たちの心を案じて同じ視点を持ち、同じように振る舞ったらそれはもう殿ではない。家臣からの信を失ってしまう。
家臣たちもそんな殿だからこそ仕えがいがあると信じてついて行く。

もちろん立花宗茂は暗愚な武将ではない。干飯が十九人の糧であることも何となく察している。その上でその様な些事にあえて手を付けないことも自分の役割だと分かっている。そして彼は自分を「作為的な道化者」として演じる道を選ぶ。

著者は、このときの立花宗茂の心中をこのように書いている。あえて家臣たちが自分に信じてついてきてくれている。そうである以上、家臣が付いて来てもらえるのにふさわしい将たる姿勢を演じよう、と。それが家臣の安心につながるのであれば良いではないか。将とは、人の上に立つものとは、案外そういうものかもしれない。同じ船に乗っていても友達のようになってはダメなのだ。

私も勤め人から独立し、経営者になってきた。そして今は人を雇用するようになった。その中で、人の上に立つ者としてのあり方は何かを考えてきた。細かいことは気にせず、器を大きく保ち続けなければ、と。
だが、実際のところはまだ私がコーディングをすることが多い。商談も私が表に出る事がほとんどだ。そうした時、小事にこだわらねば事態は進まない。
小事にかかずらう度、私は自分の未熟さを痛感する。まだまだだと。もっと大局から見るようにしなければ、と。

本書は、冒頭の挿話を描いた後、立花宗茂の幼少から語り直していく。大友家中の二大大将として知られる高橋紹運と戸次道雪。高橋家に生まれた宗茂は、やがて戸次道雪の娘誾千代と夫婦になり、戸次家の養子になる。この二大将の下、人としての生き方や筋の通し方を学んでいく。島津家の侵攻に抗して豊臣軍について戦う日々。実父は、岩屋城の戦いとして知られる激烈な戦闘の末に命を落とし、いくさ人としての死にざまを人々に刻み付けた。
やがて、時代は豊臣家から徳川の世に移る。そして関ケ原の戦い前夜へ。その時、立花宗茂は、豊臣家の恩顧を忘れぬため、あえて西軍についた。
そこから京、そして江戸での浪人生活を経て、二代将軍秀忠の御相伴衆として呼ばれる。そこで秀忠の信任を得、陸奥棚倉一万石で大名に復帰する。さらに家康が亡くなってしばらくの後、旧領の柳川への復帰を果たす。

立花宗茂は筋を通したことによって道を開いてきた。それに尽きる。
棚倉をかりそめの地とは考えず、徳川家の恩を返すために必死に励んだ。そのため、骨を埋める覚悟を家臣たちや領民に示し、必死になって内政に取り組んだ。
本書にも書かれている通り、棚倉の地形を故郷の立花山城に似ているとして鼓舞するシーンもそう。私も棚倉には訪れたが、三つのこぶの山を探したものだ。

筋を通すことも私の課題だ。私は同じことをすることが嫌いだ。昨日と今日が違わず、同じであると苦痛を感じる。
私が大名であれば、次々と領地を変えてほしいと願うかもしれない。これではいけない。ついてくる人には筋道を示してやらないと。それも太く伸びる一本の筋を。
もちろん、私も弊社の中でも筋を示そうとはしている。クラウドを担いでシステムを提供する業務を社業に据えると。そのクラウドとはkintoneだ。弊社の業務を情報処理とし、それを一本の太い道として伸ばし、その道にはkintoneと書かれている。
だが、私は決してkintoneだけに限ろうとしない。IoTやメタバースにも手を出す。他のPaaS/SaaSにも関わってゆくし、kintone Caféやワーケーションのイベントにも頻繁に参加する。
もし一本の筋だけを進むことが真理なら、さしずめ私は節操がない代表なのだろう。

本書を読み、そうした経営者としての姿勢についてあらためて考えさせられた。
おそらく私の性分は、同じことを繰り返すことを今後とも嫌い続けるだろう。昨日と同じ明日を断じて避ける事だろう。
だが、それにメンバーを振り回さぬよう、自戒しなければ。

本書は将たるものの示すあり方を私に教えてくれた。

2020/10/29-2020/10/30


真田三代 下


下巻では第一次上田合戦から始まる。
上田の城下町の全てを戦場と化し、徳川軍を誘い込んで一網打尽にする。それが昌幸の立てた戦略だ。
それには領民の協力が欠かせない。なぜ領民が表裏比興の者と呼ばれた昌幸の命に諾々と従ったのか。

「昌幸にはひとつの信条があった。
「戦いにおいては詐略を用い、非情の決断もする。だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、情けをかけて味方につけねばならぬ」」(86-87ページ)

周到に準備しておいた昌幸の策が功を奏し、徳川軍を撃退した真田軍。諸国の武将に真田家の武名がとどろく。

だが、昌幸の智謀がすごみを増す一方で、次男の幸村には父とは違う人格が生まれ始めていた。それは義の道。
幸村は、人質として過ごす上杉家の家風である義の心に感化される。
軍神と称えられた先代の不識庵謙信はすでに世にない。だが、主の景勝とその股肱の臣である直江兼続が差配する上杉家は、先代の義に篤い気風を受け継いでいた。
そこで幸村は策に走る父への疑問を抱く。生き残ることを優先すべきなのか、はたまた義を貫くべきか。

「おのれの利を追うことのみに汲々とするのではなく、さらに大局に立ち、おおやけのため、民のため、弱き者のために行動するのが、
「わしの考える義だ」
と、兼続は言った。」(128ページ)

これは私も常々感じている。利を追ってゆくだけでよいのなら、どれだけ楽か。金を稼ぐ苦労はあっても、それだけにまい進すればよいのだから。
従業員の人件費を削り、精一杯働かせる。顧客には高めの金額を提示し、その差額を利潤として懐に貯めこむ。
それができない私だから、飛躍も出来ないでいる。自分に恥じないような経営をしようと思うと、従業員を使い捨てにするマネはできない。見合った金額を支払い、顧客には高い金額を提示できない。これだと飛躍ができない。
私の根本の経営能力に問題があることもそうだが、こうした理念は卓越した努力と才能を伸ばした結果が伴わなければ倒れてしまう。悩んだことも数知れずだ。

ビジネスマンの愛読書は歴史小説だという俗説がある。歴史小説から教訓を読み取り、それをビジネスに生かそうとする人が多いからだろう。
それが本当かどうかはわからない。だが、私にとっては歴史を取り扱った小説から得られる教訓は多い。
本書を読んでいると、未熟な自分の目指すべき道の遠さとやるべきことの多さにめまいがする。

義を貫きたい幸村の志。それに頓着せず、昌幸は上杉家に人質としている幸村に信幸を接触させる。そして信幸を通し、上杉家を出て豊臣家への人質として大坂へ赴くように命ずる。
義のなんたるかを教えてくれた人物を不本意ながら裏切る羽目に陥った幸村の苦悩。

昌幸の視点には、天下の趨勢が豊臣に傾いていることが見えたのだろう。幸村を豊臣家の人質として送り込むこともまた、真田家を生き延びさせるための一手だった。昌幸の読みは当たり、秀吉は着々と天下を統一していく。
その過程に真田の名胡桃城をめぐる攻防があったことは言うまでもない。

ところが豊太閤の天下も秀吉の死によって瓦解を始める。それから関ヶ原の戦いに至るまで、石田三成と徳川家康、さらには上杉や諸武将の思惑が入り乱れる。
真田の場合、兄信幸が徳川四天王の本田忠勝の娘小松姫を娶っていた。幸村は石田三成についた大谷吉継を義父としている。
二人の境遇が真田家を大きく二つに割った犬伏の別れの伏線となる。

「澄んだ秋の夜空に、星が散っている。そのなかで、ひときわあざやかに輝く六つの星のつらなりがあった。
真田家の六連銭の旗の由来ともなった、
━━すばる
である。
「わしは若いころより、つねに心に誓ってきた。あのすばるのごとく、あまたの星のなかでも群れのなかに埋没せぬ、凛然たる光を放つ存在でありたいとな」
星を見つめながら昌幸は言った。
「徳川内府につけば、わしは有象無象の星の群れのひとつに過ぎなくなる。だが、男としてこの世に生を受けた以上、一度は天上のすばるを目指さねばならぬ。いまこそがその時だ」」(344-345ページ)

まさに私もこの志を持って独立した。しびれる場面である。

昌幸は長男の信幸とたもとを分かち、上田城の戦いでは策略を駆使して徳川秀忠の軍を足止めさせる。その結果、関ヶ原の本戦で秀忠軍は遅参した。

だが、西軍は関ヶ原の本戦で敗れた。局所の戦いでは勝ちをおさめたが、昌幸と幸村の二人は高野山へ流罪の身となった。
以来十数年。昌幸はついに九度山で想いを遺しながら亡くなった。そして、徳川家康は、天下取りの最後の仕上げにとりかかる。残すのは豊臣家の滅亡。
豊臣方も対抗するため、大坂に浪人を集める。幸村も大坂からの誘いを受け、最後の死に花を咲かせるために九度山から脱出する。

「「人の世は、思うようにならぬことのほうが多い。まして、わが真田家は周囲を大勢力に囲まれ、つねにその狭間で翻弄されてきた。だが、宿命を嘆き、呪っているだけでは、何も生まれませぬ。苦しい状況のなかから、泥水を嘗めてでもあらんかぎりの知恵を使い、一筋の道を切り拓いてゆく。それがしのなかにも、そうやって生きてきた祖父幸隆や父昌幸と同じ血が流れているのでござろう」」(465-466ページ)

ここからはまさに幸村の一世一代の花道だ。戦国時代、いや、日本史上でも稀に見る華々しい死にざま。真田日本一の兵と徳川方から称賛された戦い。

「叔父上は、数ある信濃の小土豪のなかから、真田家がここまで生き残ってこれたのはなにゆえと思われます。それは、知恵を働かせて巧みに立ちまわったからだけではない。小なりとはいえ、独立した一族の誇りを失わず、ときに身の丈よりはるかに大きな敵にも、背筋を伸ばして堂々と渡り合う気概を持つ。それでこそ、わが一族は、亡き太閤殿下、大御所にも一目置かれる存在になったのではございますまいか」
「目先の餌に釣られ、世の理不尽にものを言う気概を捨て去っては、一族を興した祖父様や、表裏比興と言われながらも、おのが筋をつらぬいた父上に申しわけが立ちませぬ」(497-498ページ)

幸隆から昌幸、そして幸村と、戦国の過酷な現実を生き抜き、しかも自らを貫き通した。さらには、大名家の家名まで後世に伝えることに成功した。
男としてこれ以上の事があろうか。
真田家の三代の生きざまを読んでいると、何やら胸の内にたぎるものが湧いてくる。私もちょうど幸村が討死した年齢に差し掛かった。
あとどれぐらいの花が咲かせられるだろうか。

本書はビジネスマンに限らず、まだまだ枯れるにははやい中年に読んでほしい。

2020/10/2-2020/10/2


真田三代 上


大河ドラマ『真田丸』は私にとってワクワクする作品だった。結局、第十数話目以降は挫折し、最後まで通して見ることができなかった。だが、機会があれば、もう一度見直してみたいと思っている。

真田の物語の何に惹かれるのか。それは小さな勢力が大きな勢力の間で伍して生き抜く姿にある。その必死さは、私自身の境遇に似ている。
大企業に属さず、個人の力でどこまで経営が続けられるのか。それは私が日々実践している経営のスリルでもある。醍醐味とでもいおうか。
どうすれば大企業に呑み込まれず、自分の力で生きていけるのか。私はそのヒントが戦国時代の真田家にあると思っている。戦国時代を駆け抜けるにあたっての真田家の労苦。私はそこに共感している。

武田家や村上家。上杉家と北条家。織田家に徳川家。真田の郷は、そうそうたる戦国の群雄たちがしのぎを削る狭間の地にあった。ささやかな勢力。周りの国々の間で少しでも均衡が崩れれば、即座に自国に影響が生じる。その時、時代に飲み込まれてしまうのか、生き延びられるのか。それは当主の判断にかかっている。生き馬の目を抜くと称された戦国の日々の過酷さは現代とは比べ物にならない。

真田幸隆、昌幸、そして幸村こと信繁。本書はこの真田家の三代を担った男たちの姿を描く。その男たちに共通するのは、大きな組織に属さず、小さくても独立を貫こうとする誇りだ。

「幸隆は生きるためには詐術も使うが、その身のうちには熱い血潮が滔々と流れている。冷徹なようでいながら、どこまでも人間臭く、人間臭いようでいながら、いざとなれば情を切り捨てる冷たさを持っている。その落差の大きい二面性こそが幸隆の魅力であり、最大の武器でもあった。」(121ページ)

急激に力を伸ばしてきた武田晴信は、信濃を手中におさめんとしていた。それに対し、信濃を勢力下に収める村上義清は武田家の侵攻に備える。武田家と村上家の勢力図が刻々と変化する中、真田の郷と一族を守るためにあらん限りの知恵を振り絞る幸隆。真田が後世に伝わったのもこの人物のおかげだろう。
その時々の時流を読みながら、武田家と村上家の間を往復し、勢力図に応じて臣従する相手を変える。だが、心底から服従したわけではない。あくまでも幸隆の行動原理は真田一門のため。そのためなら上辺で協力することも厭わない。冷徹な計算を働かせながら、より大きな勢力に恩を売る。

本書が面白いのは、祢津のノノウの歩き巫女だ。巫女として諸国を巡るノノウは、真田が持つ情報源だ。この時代、各大名は乱破、素破、草の者と呼ばれた忍びの者を活用して情報を収集していた。真田の場合、諸国を行脚して回るノノウを自国に抱えていたことが有利だった。ノノウたちの持ち帰る情報は、忍びから得られる情報とは質が違う。
昔も今も情報を制するものが時代を制する。むしろ、情報伝達の量が貧弱だった戦国期だからこそ、情報の重みが今とは比べ物にならないほど大きかったはずだ。
数年前に友人たちと祢津のノノウの郷を訪れた事がある。ひなびた集落に無縁仏が立ち並び、質素な雰囲気を今に残していた。だが、かつてこの地は情報の集積地だったのだろう。どことなく巨大な渦を残滓を辺りに感じた。

幸隆は、真田家の将来を思い、信綱、昌輝、昌幸を武田家の中枢に送り込む。武田晴信の薫陶を受けさせる事が、真田家のこれからにつながると信じて。
幸隆はさらに昌幸の子どもにも目を配ることを忘れない。

「われらのごとき弱小の一族は、人の欲望のありかを冷静に見定め、それを利用して人を動かし、戦いに勝つしか、生き残る術はない。」(353ページ)
これは幸隆から源三郎と源次郎に伝えた言葉だ。

だが、戦国の世を生き抜くには智謀を尽くすだけではどうにもならない。戦国最強と言われた武田家も、晴信をあらため信玄がいよいよ京に攻め上ろうとする時に信玄の病によって野望がくじかれてしまう。
後を継いだ勝頼は、偉大な父を超えようと焦るあまり、かえって武田家を滅亡へと追いやってしまう。

長篠合戦では三兄弟が事前に得ていた情報によって不利な状況が分かっていながら、面目にこだわって戦いを強行した勝頼。その戦いの中、信綱と昌輝は銃弾に命を散らす。
昌幸は父によって兄二人とは違う役割を与えられていた。それによって反発した昌幸は、腐らずに智謀と知見を磨く。
二人の兄がいなくなったことで真田家を継いだ昌幸は、より一層、冷徹な智謀を突き詰めようとする。父をもしのぐほどに。

だが、昌幸は苦労を重ねただけあり、単なる冷酷な知恵だけの人間ではない。
「たしかに信義の二文字は、上辺だけのきれいごとに過ぎぬ。人は信義ではなく、利欲によって動くというのがこの世の真実だ。しかし、目先の小さな利に踊らされ、右往左往していては、われらは心根の卑しい弱小勢力とあなどられるだけだ。ときに小利を捨て、真田ここにありと気骨をしめさねばならぬときもある」(500ページ)

これは、本能寺の変によって織田信長が死んだ後、上州で戦っていた滝川一益が孤立した際の昌幸の言葉だ。この言葉に沿って正幸は滝川一益を助ける。

単に冷徹なだけでは人は動かない。ここぞと言う時に情を発揮してこそ人は動く。そして世に何がしかの爪痕を残すことができる。

人の心をつかみ、利用するだけでなく後々のために生かす。その抑揚と硬軟を取り混ぜた考えこそ、まさに真田昌幸の真骨頂だ。
表裏比興の者と呼ばれた人物だが、私は、その言葉こそが戦国を必死に生き抜こうとした昌幸への誉め言葉だと思う。やるべきことをやり尽くした昌幸だからこそその称号を得たのだと評価したい。
情に流されない強さと冷静さ。周りの評価に動かされない確とした自ら。どれもあやかりたいものだ。

2020/10/1-2020/10/2


女信長


実は著者の作品を読むのは本書が初めてだ。今までも直木賞作家としての著者の高名は知っていたけれど。
著者の作品は西洋史をベースにした作品が多い印象を持っていて、なんとなく食指が動かなかったのかもしれない。

だが、本書はタイトルが興味深い。手に取ってみたところ、とても面白かった。

織田信長といえば、日本史を彩ったあまたの英雄の中でもだれもが知る人物だ。戦国大名は数多くいる。その中で五人挙げよといわれた際に、織田信長を外す人はあまり多くいないはずだ。
戦国時代を終わらせるのに、織田信長が果たした役割とはそれほど偉大なのである。

以下に織田信長の略歴を私なりにつづってみた。
尾張のおおうつけと呼ばれた若年の頃、傅役である平手正秀の諌死によって行いを改めた挿話。
弟を殺すなどの苦戦を重ね、織田家と尾張を統一したと思ったのもつかの間、今川義元の侵攻が迫る。勢力の差から織田家など鎧袖一触で滅ぼされるはずだった。
ところが桶狭間の戦いで見事に今川義元を討ち取る功を挙げ、さらに美濃を攻め取り、岐阜城に本拠を移す。そこで天下布武を印判に採用し、楽市楽座の策によって岐阜を戦国時代でも屈指の城下町に育てる。
そこから足利義昭を奉じて京に足掛かりを築くと、三好家や松永家を京から駆逐する。さらには姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を敗走させ、基盤を盤石にする。
比叡山を攻めて灰塵と化し、石山本願寺も退去させ、長篠の戦で武田軍を打ち破り、安土城を本拠に成し遂げた織田政権の樹立を目前としたまさにその時、明智光秀の謀反によって業火の中に消えた、とされている。いわゆる本能寺の変だ。

その衣鉢を継いだ羽柴秀吉が天下統一を成し遂げ、さらにその事業は徳川家康によって整備された。江戸幕府による260年の平安な時代は、織田信長の偉業を無視しては語れないだろう。
織田が搗き、羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川
この狂歌は徳川幕府による天下取りが実現した際に作られたという。
当時の人にも徳川政権の実現は、織田信長による貢献が多大だったことを知っていたのだろう。

そうした織田信長の覇業の過程には、独創的な発想や、疑問とされる出来事が多いことも知られている。

独創的な発想として挙げられるのは、たとえば楽市楽座だ。他にも西洋の軍政を取り入れたことや、種子島と呼ばれた鉄砲の大規模な導入もそう。
疑問とされる出来事として挙げられるのは、たとえば正妻である濃姫が急に史実から消え去り、没年すら不明であること。また、本能寺の変によって燃え盛った本能寺の焼け跡から、織田信長らしき死骸が見つからなかったことも挙げられる。
そもそも、なぜ明智光秀が本能寺の織田信長を襲ったのか。その根本的な理由についても諸説が乱立しており、いまだに定説がないままなのだ。

そうした一連の謎をきれいに解釈して見せ、まったく新しい歴史を読者に提示して見せる。それが本書だ。ただ、織田信長が女だったという一点で整合性が取れてしまう。これぞ小説の面白さ。

もちろん、織田信長が女だったことを史実として認めることは難しいだろう。だが、歴史小説とは史実を基にした壮大なロマンだ。著者によってどのような解釈があったっていい。
源義経は衣川から北上し、大陸にわたって成吉思汗にもなりうる。徳川家康は関ケ原で戦死し、それ以後は影武者が務めることもありうる。豊臣秀頼は大坂夏の陣で死なず、ひそかに薩摩で余生を送ったってよい。西郷隆盛は城山で切腹せず、大陸にわたって浪人として活躍するのも面白い。
その中にはひょっとしたら真実では、と思わせる楽しさがある。それこそが歴史のロマンである。小説の創作をそのまま史実として吹聴するのはいかがなものかと思うが、ロマンまでを否定するのは興が覚める。

本書は、織田信長が女性だったという大胆極まりない設定だけで、面白い歴史小説として成り立たせている。
冒頭で、娘を嫁がせた尾張の大うつけを見極めてやろうとした斉藤道三に女であることを見破られる。そして処女を散らされる織田信長こと御長。この冒頭からして既にぶっ飛んでいる。

だが、そこで斉藤道三の心中を丁寧に描写するのがいい。その描かれた心中がとても奮っている。
群雄たちがせいぜい、ただ領地を切り取るだけの割拠の世。これを打破するには、まったく違う発想が必要。そうと見切った織田信秀が、男の発想では生まれない可能性を女である御長に託したこと。その意思を斉藤道三もまた認め、御長には自らが亡きあと美濃を攻め取るよう言い残したこと。
まさにここが本書の最大の肝だと思う。
冒頭で信長の発想が女の思考から湧き出たことを読者に示せれば、あとは歴史の節目節目で信長が成した事績を女の発想として結び付ければよい。

そして、信長について伝えられた史実や伝聞を信長が女性だったと仮定して解釈すると、不思議と納得できてしまうのだ。
たとえば信長の妹のお市の方は戦国一の美女として名高く、兄である信長は美形だったとされている。
また、信長は声がかん高かったという説がある。その勘気に触れると大変であり、部下はつねに戦々恐々としていたという。そして先にも書いたような当時の常識を超えた政策や行いの数々。
それらのどれもが、信長が女という解釈を可能にしている。

本稿ではこれから読まれる方の興を殺がないように、粗筋については書かない。

本書は、信長が女だったらという解釈だけで楽しめる。それはまさに独特であり、説得力もある。本当に織田信長は女性だったのではないか、と思いたくなってしまう。本書はおすすめだ。

‘2020/02/27-2020/02/29


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実


先年の大河ドラマ「真田丸」は高視聴率を維持し、大河ドラマの存在感を見せつけてくれた。大河ドラマが放映される前々年あたりから、私は「真田丸」の主役である真田信繁(幸村)に興味を抱いていた。というのも、わが家は十数年前から何度も山梨を訪れており、甲州の地で武田信玄がどれほど尊崇を受けているかも知っていたからだ。武田二十四将に名を連ねる真田信綱、昌幸兄弟のことや、昌幸が大坂の陣で活躍した真田信繁の父であることも知っていた。

ところが私が真田の里に訪れられる機会はそうそうなかった。本書を読む数カ月前、ようやく砥石城跡に登ることができた。そこから見下ろす真田の里は、戦国の風などまったく感じさせないのどかな山里の姿を私に見せてくれた。だが、私が真田の里を目にしたのはその時だけ。この時は結局、真田の里に足を踏み入れられなかった。また、大学時代には真田山や大阪城にも訪れた。ところが私はまだ、真田丸が築かれていたとされる場所には訪れていない。一方で、私が戦国時代の合戦場でもっともよく訪れたのは関ヶ原だ。ここは三回訪れ、かなりの陣地跡を巡った。だが、周知のとおり、関ヶ原の戦いに信繁は参陣していない。このように、私はなにかと信繁と縁がないまま生きてきた。

なので「真田丸」はきちんと見るつもりだった。ところが、第一次上田合戦あたりまでみたところで断念。その後は見逃してしまった。

本書は私にとって数冊目となる真田信繁関連の書だ。その中で確実な資料を典拠に書かれた学術的な書に絞れば二冊目。まだまだ私が読むべき本は多数あるだろう。だが、本書こそは現時点において真田信繁関連の書として決定版となるに違いない。著者は「真田丸」の時代考証を担当したそうだが、その肩書はダテではない。現時点で発見された古文書を渉猟し、その中で真田信繁に関係のあるものはことごとく網羅していると思われる。古文書を読み解き、その中に書かれた一つ一つの言葉から、信繁にまつわる伝承と事実、幸村として広まった伝承と脚色を慎重に見極め、その生涯から事実を選り分けている。

私はある程度、信繁の事績は知ってはいた。とはいうものの、本書で著者が披露した厳密な考証と知識には到底及ばない。本書は無知なる私に新たな信繁像を授けてくれた。例えば信繁と幸村の使い分け。幸村はもっぱら江戸時代に講談の主人公として世に広まった。では当時信繁が幸村の名を実際に名乗っていたかどうか。この課題を著者は、十数種類の信繁が発給したとされる文書を考証し、幸村の名で発給された事実がなかったことや、そもそも幸村と名乗った事実もないことを立証する。つまり、幸村とは最後まで徳川家を苦しめた信繁を賞賛することを憚った当時の講談師たちによって変えられた名前なのだ。ちょうど、大石内蔵助が忠臣蔵では大星由良之助と名を変えられたように。

あと、犬伏の別れについても著者は私の認識を覆してくれる。犬伏の別れとは、関ヶ原の合戦を前にして、真田信幸と信繁が西軍の石田三成方に、信之が東軍の徳川家康方につき、どちらが負けても真田家を残そうとした密談を指す。私は今まで、真田昌幸の決断は三人で集まったその場で行われたとばかり思っていた。だが、実際にはその数カ月前からその準備をしていた節があることが本書には紹介されている。一族の運命を定めるには、一夜だけでは発想と決断がなされるほど戦国の世は生易しくはない、ということか。私は犬伏の別れの回は「真田丸」では見ていない。その描写には、考証担当の著者の意見が生かされていたのだろうか。気になるところだ。

その直後に行われた第二次上田合戦にも著者の検証はさえ渡る。徳川秀忠が上田城で真田昌幸・信繁親子に足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原の戦場に間に合わなかった。私は今までこの戦いを単純にそうとらえて来た。ところが本書は少し違う解釈をとる。著者によると当初から秀忠軍の目標は上田城と真田信幸・信繁親子にあったという。ところが上方における西軍の攻勢が家康の予想を超えていたため、急ぎ秀忠軍に関ヶ原への参陣を命じた。ところが上田城で足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原間に合わなかった。そういう解釈だ。著者はおびただしい書簡を丹念に調べることにより、これを説得力のある説として読者に提示する。この説も「真田丸」では取り入れられていたのだろうか。気になる。

さて、関ヶ原の結果、父昌幸と九度山に蟄居を余儀なくされた信繁。大坂の陣での活躍を除けば、信繁の生涯に費やすページはなさそうだ。と思うのは間違い。ここまでで本書は140ページ弱を費やしているが、本書はここからそれ以上続く。つまり、九度山での日々と大坂の陣の描写が本書の半分以上を占めているのだ。それは後半生の劇的な活躍がどれだけ真田信繁の名を本邦の歴史に刻んだかの証でもあるし、前半生の信繁の事績が後の世に伝わっていないかを示している。

九度山の日々で気になるのは、信繁がどうやって後年の大坂の陣で活躍したような兵法を身につけたのか、ということだ。”真田日本一の兵”と敵軍から賞賛されたほどの活躍は、戦況の移り変わりが生んだまぐれなのか。いや、そんなはずはない。そもそも真田丸を普請するにあたっては、並ならぬ知識がなくては不可能だ。信繁がそれなりに覚悟と知識をわきまえて大坂に赴いたことは間違いない。では、信繁はどこで兵法を学んだのか。それについては著者もかなり疑問を抱いたようだ。しかし、九度山から信繁が発した書状にはその辺りのことは書かれていない。本書には、蟄居した父から受け継いであろうとの推測のほかは、信繁が地元の寺によく通っていたことが紹介されている。おそらくその寺でも兵法については学んだのだろうか。

あとは、兄信幸改め信之の存在も忘れてはならない。蟄居する父と弟を助けるため、かなりの頻度で援助した記録が残されている。そうした書状が確認できていることからも、信繁と昌幸が九度山で過ごした日々はかなり窮まっていたようだ。その鬱屈があったからこそ、信繁は大坂の陣であれだけの活躍を成し遂げたのだろう。

続いて本書は大坂に入って以降の信繁の行動に移る。まず真田丸。ここで著者が解明した真田丸の実像こそ、今までの先行研究に一石を投じたどころか、今までの先行する研究を総括する画期的な業績と言える。そもそも一般の歴史ファンは真田幸村を祭り上げるあまり、真田丸を全て幸村の独創であるかのように考えてしまう。だが、生前の関白秀吉も大阪城の死角がここにあることを任じていた、という逸話が伝わっている。真田丸は決して信繁の独創ではなく、大坂方は元からこの位置に出城を設ける意向があったという。もちろん、その意向を受けた信繁が細かい整備を加えた事は事実だろう。著者はさまざまの資料を駆使して、真田丸の大きさや形、そして現在のどこに位置するかについて綿密な検証を加えてゆく。三日月状の馬出の形は、父昌幸が学んだ薫陶を受けた武田信玄から伝わる甲州流に影響を受けていることも確実だろうという。

あと、真田日本一の兵と徳川軍の将から絶賛された猛攻が、どのように行われたかについても著者の分析は及んでいる。これについては、大阪に土地勘を持つ私は前々から疑問に思っていた。大坂夏の陣では真田軍は茶臼山に本陣を構え、家康本陣に総攻撃を掛けたという。そこから家康本陣があったとされる平野まではかなりの距離がある。騎馬が駆ければ遠くない距離とはいえ、茶臼山から家康本陣までの間には名だたる大名の軍が控えていたはず。果たして家康の馬印が倒され、家康が何里も逃げ惑ったほどの壊滅的な打撃を真田軍は与えられたのだろうか、と。

著者はここで、幕府方の軍勢に意思の統一が取れていなかったこと、「味方崩れ」という士気の低下による自滅で隊形が崩れたことが多々あったことを示し、一気に徳川本隊まで味方崩れが波及したのではないか、という。

本書は小説ではないので、伝説の類には口を挟まない。なので、徳川家康がここで討ち死にしたという俗説には全く触れていない。ただ、秀頼を守って信繁が薩摩に落ち延びたという伝説については、著者は一行だけ触れている。もちろん俗説として。

伝説は伝説として、真田信繁がここで家康の心胆を寒からしめた事実は著者も裏付けている。本書は豊臣方の動きも詳細に描いている。その中で、再三の信繁から秀頼の出馬要求があったことや、その要求が結局実現できなかったこと。肝心な戦局で大野治房が秀頼を呼び戻そうとして大坂城に戻ったのを退却と勘違いされ、豊臣方の陣が崩れたことなど、豊臣秀頼の動き次第では、戦局が一変した可能性を含ませている。そうした事情なども含めて、著者は大坂夏の陣の実態を古文書から読み解き、かなりの確度で再現している。

本書は真田信繁を取り上げている。だが、それ以上に大坂の陣を詳細に紹介している一冊と言えそうだ。それだけでも本書は読むに値することは間違いない。本書は真田信繁の研究と、大坂の陣を真田信繁の側から分析したことで後の世に残ると確信する。

「真田丸」は歴代の大河ドラマの中では視聴率ランキングの上位には食い込めなかったようだ。だが、一定に評価は得られたのではないだろうか。私も機会があれば見てみたいと思っている。本書という頼りになる援軍を得たことだし。

‘2018/10/05-2018/10/16


華、散りゆけど 真田幸村 連戦記


来年のNHK大河ドラマは、真田幸村公を主人公とした真田丸なのだとか。大河ドラマをほとんど見ず、そもそもテレビをはじめ、マスメディアに触れることが少ない私。それでもやはり、真田日本一の兵が大河ドラマの題材になれば気になる。そんなところに、妻がしなの鉄道の「ろくもん」乗車を申込み、家族四人で贅沢な旅を楽しむ機会を与えられれば猶更である。本書を読んだのはまさにろくもん乗車の直前であり、読後の余韻も新しい間に「ろくもん」に乗車した。そのことで、本書の読後感が一層鮮やかとなった。

外装に真田の赤備えのえんじ色をまとい、真田家の家紋である真田六文銭を随所に配した「ろくもん」の車両は真田の格調を意識させるに充分。「ろくもん」に乗って長野から軽井沢へと遊んだ旅は、否応なしに私を真田家の駆けた戦国時代へと誘い込んだ。

本書の装丁は、えんじ色に六文銭を大きくあしらった「ろくもん」と同じ意匠である。いや、画一的な臙脂色に塗られた車両に比べ、本書の装丁の方が複雑な地模様が描かれている分、趣があると言える。

趣があるのは、装丁だけではない。その中身もまた、重厚で荒々しく、真田日本一の兵と称えられた公の生きざまがよく描かれていたといえよう。

本書は、真田幸村公が父昌幸公と共に蟄居させられていた高野山を出奔してから、大阪夏の陣で自刃するまでに焦点を当てている。本書で書かれているのは、云うならば公の生涯でもっとも輝いていた時期に等しい。内容もさぞや爽快な戦国活劇ものであるかのように思われる。しかしそうとばかりは云えない。無論、本書では真田丸での謀略や敵本陣への突撃をはじめ、血が滾るような痛快な戦闘シーンが豊富に活き活きと描かれている。しかし、陽の当たるシーンのみを描くだけでは、物語に陰影はだせない。それだと単なる戦国アクション巨編と堕してしまい、却って幸村公の魅力もぼやけてしまう。

敵陣深く攻めこみ、あわや徳川三百年の歴史をIFの世界に押し込めかねないところまで追い詰めたその武勇。真田丸を築き、夏の陣で徳川方を大いに撹乱した知略。幸村公がなぜ大阪冬夏の陣で真田日本一の兵(つわもの)と呼ばれたかは、蟄居中に父の昌幸公から学んだ教えを抜きに語れない。何のために兵法を学ぶのか、という虚しさの中、折れそうになる心でひたすら昌幸公から兵法の教えを聴く日々。本書はその辺りの描写をないがしろにせず、むしろじっくりと語る。雌伏の時の描写が深ければ深いほど、大阪方の誘いに迷う幸村公の苦悩に真実味が出る。誘いを受け入れ、あばら家に埋もれ掛けていた己を奮い立たせ、戦国男児の気概を滾らせる場面は、本書のクライマックスとも言える。腐らずに切磋琢磨を怠らぬ者に、天はかならず働き場所を用意する。その様な感動が読者の胸に流れ込む名場面である。

そのような雌伏の時を描くにあたり、真田六連銭(六文銭)の由来や、武田家にあって赤備えを許された真田家の誇りもきっちりと説明される。本書の中では昌幸公から幸村公へ説明する由来は、同時に読者の心にもしっかりと届く仕掛けとなっている。

さて、高野山を出てから大阪入城を果たす一行。幸村公の視点から物語は進むため、他の浪人衆、特に大野治房公の描写に偏りを持たせている。治房公は、本書では大阪にあって優柔不断な将として書かれている。真田丸の築城を願い出る幸村公と、それを拒もうとする治房公の攻防が描かれ、ますます愚将としての治房公が印象付けられていく。一方では後藤基次、毛利勝永、明石全登、木村重成、長宗我部盛親といった武で鳴らした諸侯との心の繋がりも書かれている。

そして冬の陣勃発である。真田丸に陣取って神出鬼没な活躍で徳川方を悩ませる幸村公。父から蟄居中に教わった知略を駆使するシーンは本書でも一番の盛り上がりを見せる。実は、本書においては夏の陣で徳川方に突撃して家康公に肉薄するシーンよりも、真田丸での活躍のシーンのほうが印象に残る。来年の大河ドラマ真田丸ではどのような演出を採るのであろうか。気になるところである。

そして大阪城を攻めあぐねた家康により、大砲で天守を狙うという策が当たり、戦に恐れをなした淀殿の鶴の一声で一時休戦となる。このあたり、幸村公の独白が様々に描かれるが、己の知略を乗り越えて大砲で戦を終わらせた家康公の知略に歯噛みする様子。ここらの悔しがり方が少々淡泊に描かれているのが気になった。真田丸に手ごたえを感じていただけに、逆に幸村公の失望をよく表す演出なのかもしれない。しかも、講和条件として外堀のみの埋め立てのはずが、内堀まで一気に埋め立てられる。この謀略の主は、本多正純公。家康公の懐刀として父に続いて取り立てられたこの男は、本書内では陰険な官僚としての書かれ方をしている。そして交渉の最中に幸村公にこっぴどくやり込められる役割を演じている。実際にそのような史実があったかどうかは分からないが、その書かれ方からして、本書内の一番の悪役は、大野治房公ではなく本多正純公といえよう。しかし正純はそれにめげず、とうとう内堀埋め立てを成し遂げてしまう。これが、大坂方の致命傷となる。続く夏の陣では防戦一方となった大阪方。真田丸も講和で破却された幸村公は、乾坤一擲の策として家康公の陣へと突撃する。真田日本一の兵(つわもの)と後世に語り継がれるこの時の武勇だが、もはや本書前半に描かれた高揚感はどこへやら。滅びゆく者の最期の輝きが絶妙に描写されており、読者には哀しみしか感じさせない。

講和から夏の陣に至るまで、本書の流れは実に速い。それは、前半部の蟄居を描写するにじっくりと語っていたのとは明らかに違う流れである。明らかに戦になってからの本書は、怒涛のように筋書きにそって進み過ぎたきらいがある。せめて冬の陣から夏の陣の間、もう少し知略で活動する幸村公の姿を見たかった。しかし、それも詮方ないのかもしれない。関ヶ原の戦いと同じころ戦われた上田城の戦いでは、父昌幸公の指揮下にあるだけであり、実際の本格的な指揮初陣といえば、大坂冬の陣が初めてだったのだから。

そう読むと、一気に家康の術中に嵌った大阪の冬から夏にかけて、戦術では局所で勝利しても、戦略で負けてしまった幸村公の、十分に活躍できなかった生涯の無念が本書の構成から却ってにじみ出ているようにも思える。しかし、幸村公は夏の陣での突撃によって、真田日本一の兵(つわもの)として武名を永らく残すことができた。まさに「華、散りゆけど」である。

侘び寂びの蟄居から状態から華々しい戦場へ、最後には諦念の域に達する公の後半生を描いた著者の意図がそこにあったとしたら、まさに的を射た内容になっていると思われる。大河ドラマの開始前に一読をお勧めしたい。

2014/11/5-2014/11/7