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ふくわらい


『サラバ!』が余りにも面白かったので、著者の本をすぐに借りてきた。サラバ! 上 レビューサラバ! 下 レビュー。本書は『サラバ!』で直木賞を受賞する前に、直木賞候補になった作品だ。

『サラバ!』が私とほぼ同じ世代の大阪を描いていたため、本書も同じようなアプローチを期待した。だが違った。当然だ。そもそも作家であるからには同じテーマで書くわけがないのだ。そのかわり、本書には著者の新たな魅力が詰まっていた。それは赤裸々であり、小説から逃げない姿勢だ。

小説から逃げないとは、どういうことか。つまり、耳当たりのよい小説は書かないということだ。小説の表現から逃げない、と言い換えてもいい。あえて、本書では逃げずにさまざまな問題にぶつかっている。それはたとえば、容姿。たとえば、性に関する放送禁止用語。たとえば障がい者。たとえば人肉食。本書はこの四つのタブーを巧みに取り上げている。

そもそも「ふくわらい」というタイトルが、容姿を対象とした言葉だ。、幼少より異常なまでにふくわらいにはまった主人公は、あるべき位置に顔のパーツがないことに喜びを感じる。そして著名な冒険作家である父とともに世界中を巡り、さまざまな価値観を身につける。父が亡くなった後は、有能な編集者として一癖も二癖もある作家を相手に生計を立てている。鳴木戸定という名前もマルキ・ド・サドから拝借したとの設定だ。マルキ・ド・サドといえば、あらゆるタブーを含めたポルノを描き、晩年は精神病院で生涯を終えたとされる。SMのSの語源だ。サドの名前を体で現すかのように、鳴木戸定は少しずれた感覚の持ち主だ。

ふくわらいに並々ならぬ関心を示した幼少期からして、すでに変わっている。その感性は、父と一緒に世界中を旅行したことによりますます強固になった。現地の風習に従い、亡くなった人の肉を食べたこともある。父を目の前でワニにくわれ、葬儀では父の肉を飲み込んだ経歴も持っている。そんな人生を送ってきた彼女には、あらゆる忖度やタブーに対する観念が抜けている。

だからこそ担当する老作家の懇願により、目の前で一糸もまとわぬ姿になれる。放送禁止用語や尾籠な話を平然と人前でしゃべるエッセイストでありボクサーの守口廃尊の話を全く臆すことなく聞ける。ちなみに放送禁止用語は本書の中では伏字にせず、どうどうと文字にしている。(このブログではその言葉を書いて検索エンジンから葬られるのが嫌なので書かない)。盲目の青年、武智次郎の手助けを行い、彼の度重なる懇願にまけ、処女を捧げる。

本書の最後でも、定は日本のタブーに挑戦する。だが、その結末はここでは書かない。ぜひ読んでほしいと思う。

本書を読むと、私が著者に関心を持つきっかけとなった『サラバ!』とはテイストが全く違うことがわかる。だが、両者に通じるのは、日本社会の閉塞を打ち破るべく、違う価値観を持ち込もうとする意思だ。それがあざといなら逆効果だが、本書にまで吹っ切れると、あざといという批判も無くなることだろう。

日本にはたくさんのタブーがある。もはや身の回りにありふれすぎていて、私たちがタブーと気づかないほどのタブー。そして、そのタブーとは、日本が幕末の開国の後に身につけた西洋の文明に由来するものではない。むしろ、日本が明治以降に学ばなかったその他の文化の視点から眺めた時、日本に残る明確なタブーとして映るのだろう。とくに、著者の目には。

私たちは普段、どれだけ定型的な考えに縛られているのだろう。人間の顔には目が二つ、鼻と口がある。だいたい決まった位置に。男女の性器は口に出してもいけないし、その名を人前でいうのもNGだ。ほとんどの人は目が見えるし、何不自由なく歩いている。親の体を食べるなどもってのほかで、汚らわしい。

だが、目鼻口の位置が違う人だっている。男女は必ず性器を持っている。私たちはそこから生まれたのだから。本来は隠すべきではなく、どうどうと口に出してもいいはず。また、目の見えない人は、実際に生活に困難を抱えながら生きている。地球上には、死んだ親の体を食べることではじめて見送ったことにされる風習を持つ部族がいる。そのどれもが日本人として育った固定観念からは生まれない発想だ。それがつまりタブー。

著者はイランやエジプトでの生活経験もあるようだ。そういう幼少期を過ごした著者には、日本社会を覆うタブーの狭苦しさを余計に感じるのだろう。それを少しでも打ち破ろうとしたのが本書だと思う。本書のような野心に満ちた作品が、純文学を指向して書かれるのなら少しは理解できる。だが、そういうアプローチだと、余計に暑苦しくなってしまっていたはずだ。だが、本書からはそうした息苦しさや気負いは感じられない。なぜなら登場する人物たちが饒舌だからだ。鳴木戸定の発する言葉が簡潔でぶっきらぼうに思えるほど短いのに比べ、彼らはとても多弁だ。そのノリが本書から暗さを一掃していると思う。そして、そのことが、本書のテーマが野心的であるにもかかわらず、芥川賞ではなく直木賞候補になった理由ではないかと思う。

そもそも鳴木戸定の職業を編集者としたこと自体も、なにやら今の文壇を覆う閉塞感へのアンチテーゼではないかと思うのはうがった見方だろうか。本来、編集者とは、作家の想像力を最大限にはばたかせ、世に媚びず、へつらわず、顔色を見ない作品を書かせるべきだ。ところがスポンサーやタブーという言葉に負けると、そういう言葉を排除しにかかる。今のテレビのように。そうしたヤバい言葉を作家に軌道修正させるのも編集者なら、あえてタブーに挑戦させることで新しい文化を創造するのも編集者だと思う。それが今の日本を閉鎖的にしたのだとすれば、著者は鳴木戸定の存在を通して、編集者としての在り方すら問題として問うたのだと思う。

‘2018/09/09-2018/09/09


鉄の骨


一世を風靡した半沢直樹による台詞「倍返しだ!」。文字通り倍返しに比例するように著者の名前は知られるようになった。著者の本が書店で平積みになっている光景は今や珍しいものではない。自他ともに認める流行作家といえよう。とはいえ、私の意見では著者は単なる流行作家ではない。むしろ、経済小説と呼ばれるジャンルを再び活性化させた立役者ではないか。そう思っている。

かつて、城山三郎氏や高杉良氏、清水一行氏による経済小説がよく読まれていた。経済的に上り調子だったころ、つまり高度経済成長期のことだ。それら経済小説には、戦後日本を背負って立つ企業戦士たちが登場する。読者はその熾烈な生き様をなぞるかのように経済小説を読み、自らもまた日本の国運上昇のために貢献せん、と頑張る気を養った。しかし、今はそうではない。かつて吹いていた上昇の風は、今の日本の上空では凝り固まっているように思われる。いわゆる失われた二十年というやつだ。長きに亘った停滞期は、人々の心に自国の未来に対する悲観的な視点を育てた。これからも日本の未来に自信を失う人々は増えていくことだろう。あるものは右傾化することで自国の存在意義を問い、あるものは左傾化して団結を謳う。そんな時代にあって、著者は新たな経済小説の道を切り開こうとする。

著者の凄いところは、経済や資本、組織の冷徹なシステムを描いて、それでいて面白いエンターテイメント性を残しているところである。先に描いた先人たちの経済小説は、経済活動や競争の事実それ自体の面白さをもって小説を成り立たせていたように思う。しかし、これだけ情報や娯楽が溢れる今、経済活動を描いただけでは目の肥えた読者を振り向かせることは難しいのかもしれない。著者はその点、江戸川乱歩賞受賞者として娯楽小説の骨法にも通じている。元銀行員としての知識に加え、娯楽小説の作法を会得したのだから売れないはずがない。

本書は、建設業界を描いている。「鉄の骨」とは建設業界を表すに簡潔で的を射た比喩だといえる。建設業界の中で一人の青年が揉まれ、成長する様が書かれるのが本書だ。

現場で建設に携わる事が何よりも好きな主人公平太。ある日、辞令が出され、本社業務課へ異動となる。そこは別名談合課とも言われる、建設業界の凄まじい価格競争の最前線。公共プロジェクトを入札で落とさねば業績は悪化するため、現場の空気は常に厳しい。

業界では、入札競争が過熱しないよう、業者間で入札の価格や落札者を順番に割り当てる商慣行が横行している。これを談合という。調整者・フィクサーが手配し、族議員が背後で糸を引くそれは、云うまでもなく経済犯罪。露見すれば司法の手で裁かれる。

平太の働く一松組も例外なく談合のシステムに組み込まれている。凄まじい暗闘が繰り広げられる中、一松組は少しでも利益を確保しつつ安価で入札し受注につなげようとする。他方ではフィクサーに対して受注を陳情し、フィクサーは他の工事案件との釣り合いを見て、各業者に受注量を割り振る。きちんと機能した談合では、入札の回数や各回の全ての談合参加業者の入札額まで決められているのだとか。本書にはそういった業界の裏が赤裸々に描かれている。銀行出身者である著者の面目躍如といったところか。

談合の中には、傍観者を決め込み、冷徹にリスクを見極め回避しようとする銀行の存在も垣間見える。そして、談合の正体を暴き、法に従って裁きを下そうとする検察特捜部も暗躍する。

談合につぐ談合で思惑が入り乱れる建設業界とは無縁に、平太の彼女である萌は大学を卒業して銀行に勤めている。建設業界の闇慣習に染まりつつある平太の価値観と、冷徹な銀行論理に馴染みつつある萌の思いはすれ違い始める。悩める萌に行員の園田が接近し、萌の思いを平太から引き離そうとする。園田は一松組の融資担当者であり、仕事柄入手した一松組の将来性の危うさを萌に吹き込み二人の仲を裂こうとする。このように、著者は経済や資本の論理の中に人間の感情の曖昧さを持ち込む。そのさじ加減が実にうまい。

談合という非人間的な戦場にあっても、平太の業務課の仲間も人間味豊かに描き分けられている。先輩。同僚、課長。そして専務。談合と一言で切って捨てることは誰にでもできる。問題はその渦中に巻き込まれた時に、どういった態度を取るか。このことは、現場のリアリティを知る者にしか語れない葛藤である。本書で描かれる登場人物は、端役に至るまで活き活きとしている。平太や業務課先輩の西田。課長の兼松。専務の尾形。フィクサーの三橋やライバル社の長岡。それぞれがそれぞれの役柄に忠実に、著者の作り上げるドラマの配役を演じている。中でも機縁から平太が何度も相対することになるフィクサーの三橋が一際目立つ。三橋が語る台詞の端々からは、談合に関わる人々の宿命や弱さを見ることができる。善悪二元論では語れない、経済活動が内包する宿業を淡々と語る三橋は、本書を理解する上で見逃せない人物である。

著者はおそらくは銀行員時代の人脈から談合の実録を綿密に取材し、本書に活かしたのだろう。おそらくはモデルとなった人物もいるのかもしれない。そう思わせるほど、本書で立ち振る舞う人物達の活き活きした人物描写は本書の魅力だ。談合という経済論理に対する人間臭さこそが本書の肝と言っても良い。経済活動の制約や非人間的な論理の中でなお生きようとする人々の群像劇。本書をそう定義しても的外れではないだろう。

本書の結末は、ここでは明かさない。が、本書を読み終えた時、そこには優れた小説に出会った時に感じるカタルシスがある。一つの達成感といってもよいだろうか。確かに一つの物語の完結を見届けたという感慨。このような読後感を鮮やかに読者の前に提示する著者とは、まだまだこれからも付き合っていきたいと願っている。著者のこれからの著作からは日本の経済小説の未来、ひいては日本の未来すら読めるかもしれないのだから。

‘2015/6/23-2015/6/24