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母なる海から日本を読み解く


「はじめに」で著者が言っている。本書は極めて内面的な本だと。

実際そのとおりだった。著者の母は沖縄久米島の出身だという。沖縄戦で命からがらの目に遭い、上京して東京出身の方と結婚した。そして生まれたのが著者だ。著者は成長期を通じてさいたま市で育った。沖縄を知らずに。

外交官として長い期間活躍した著者は、北方領土返還交渉の過程で検察に逮捕される。512日にわたった勾留期間。その間の孤独は著者を内側に向かわせた。そして、著者はさまざまな本を取り寄せ、自らを顧みる。そして勉強する。数多く読んだ本の中で、著者は沖縄に伝わる伝承をまとめた『おもろそうし』に揺さぶられる。それは著者が自身のルーツを見つめなおす契機になった。そうして著者は、自らのルーツを探りながら沖縄を考察する。その結果が本書だ。

考察を重ねる中、著者が得た気づき。それは久米島を中心に世界を俯瞰する視点だ。もともと、外交官の職柄として、地球規模で物事を考える習慣は身についていた。その極意とは、地球は球であること。球である以上、本来ならばどこを中心としても地表は見渡せるはず。それは東京でもモスクワでも北方領土でも変わらない。ならば久米島でも同じ。これこそグローバリズム。著者は『おもろそうし』からグローバルな視点を会得する。

自身で分析しているとおり、著者は外交官としての北方領土交渉を通して、自らの内にあるナショナリズムに気づく。自分が日本人という深い自覚。その自覚は獄中生活でより研ぎ澄まされ、『おもろそうし』によって自身のルーツ沖縄への探究心に結びつく。それと著者が会得した久米島を中心とした視点を組み合わせ、の久米島から世界を見るとの着想となったのが本書だ。

本書が描くのは久米島の視点から見た沖縄史だ。ある程度の時間軸に沿いつつ、随所に久米島や琉球の民俗を考察しつつ、本書は進み行く。正直にいうと、沖縄、琉球の文化民俗に興味のない向きには本書はとっつきにくいだろう。なぜなら「はじめに」で著者が言うとおり、本書は著者が己の内面に眠るルーツを探す本だからだ。ルーツ探しとは血脈をたどるだけの話ではない。むしろ、久米島の民俗の歴史を深く掘り下げながら、久米島の視点で文化的なルーツを探る旅だ。そのため、琉球の歴史や文化を知らないと、本書の記述は理解できにくい。私も本書を読み終えるのにかなりの時間をかけてしまった。

ニライカナイやユタ、キジムナーの存在。天命思想による支配者の交代を受け入れる文化。著者によれば琉球をヤマトと分けるのが天命思想の有る無しだという。日本の天皇家は一つの血族でつづいている。断続が疑われた継体天皇への王位継承も、著者は同じ天皇家とみなしている。そしてヤマトは同じ天孫族による皇統が続いて来たとみなしている。

それに比べると、琉球には統一された一族による支配を正当化する考えが薄い。尚氏にしても第一尚氏から第二尚氏の間には断絶がある。第二尚氏の創始者は、尚氏とは全く関係のない離島からやってきて頭角を現した金丸なる人物だという。そればかりか、その王朝交代がさほどの抵抗もなく受け入れられる。天命が第一尚氏から去ったと見るや、人々は素直に支配者を変え、離島からやって来た人物の支配に服する。それが著者の言う天命思想だ。血脈が支配者の条件ではなく、天命こそが支配者の条件。

久米島もそう。久米島は長年、琉球から独立した王国を保っていた。そんな久米島にも本島から按司がやって来て尚氏の支配に組み入れられる。その当時、久米島を統治していたのは「堂のひや」と呼ばれる人物。彼には人望もあったらしい。だが、すんなりと按司に支配権を譲る。だが、また本島から違う按司が攻め立てて来た時、「堂のひや」は、逃げようとする前の按司から託された子をあっさりと殺す。そして攻め立てて来た按司に従う。天命が前の按司から去り、次の按司に移ったと見たからだ。

こういう割り切り方が、ヤマトにはとうとう根付かなかった。琉球は違う。支配者の正当性を割り切って考えられる。第一尚氏から第二尚氏への王朝の交替を受け入れる。さらに、明や清に朝貢しながら薩摩藩にもに朝貢するという、特異な外交関係も許容できる。琉球仕置で明治政府の傘下に組み入れられ、悲惨な沖縄戦の戦場とされ、アメリカ統治の時代を経過し、地域の名前が琉球から沖縄へ変わって行く間に支配者は次々と変わっていった。それらのどれをも、前の支配者の持つ天命が尽き、次の支配者に天命が降ったと受け入れることでやり過ごす。それが天命思想。

本書を読むと、この前に読んだ『本音で語る沖縄史』では取り上げられなかった文化の伝承を知ることができる。また、本書は本島ではなく、久米島からの史観だ。だからより大きな琉球の歴史の流れをとらえられる。「堂のひや」など、久米島についてのエピソードの数々は本島から見た歴史では抜け落ちてしまう。本書は私にとって『本音で語る沖縄史』を補ってくれる本となった。本書と前書の両方に共通していることがある。それは沖縄戦の描写がほとんどないことだ。類似する本が多数発行されており、経験者でもないため語るのを遠慮したということか。

ただし、本書が沖縄戦を描写していないことは、日本軍から米軍に天命が交替した、日本軍から天命が去り、米軍に天命が降ったと誤解してはならない。沖縄の方々にとって沖縄戦の経験を天命思想で片付けられたらたまったものではない。そう消化できるものではないはず。それを諾々と受け入れることもしないだろう。今なお基地が集中することも天命の定めるところと粛々と受け入れてもいないだろう。沖縄の基地の割合は本土に住む私から見てもあまりに不公平だ。厚木横田ライン上に住んでいて、騒音に悩まされる私としては、沖縄の基地問題は、天命思想で片付けて済むものではないと思う。

著者もそうした見方を採っていない。それどころか著者も基地問題については不公平と考えているようだ。外交官として国際政治のバランスを冷徹に見ている著者なら、地政のバランスから沖縄に基地が集中するのは仕方がないとの立場を採ると思い込んでしまう。だが、そうでもないようだ。著者は沖縄独立の可能性も俎上に上げ、冷静に沖縄の独立の可能性を分析する。著者の見立てによれば、国際政治のバランス上、沖縄は中国に接近するほかはない。そして、中国に接近することで、今より過酷な現実に直面するという。だから著者の結論では沖縄は日本に属していた方が現実を乗り切るのに適しているという。そして、基地を沖縄に集中させる事には反対だそうだ。沖縄の米軍基地をグアムや硫黄島、日本本土に移転させる案はどの程度実現性があるのか。本書ではそこまで踏み込んでいないものの、著者の立場は理解した。

久米島を真ん中に置いて地球を見ると、沖縄の地政上の現実がより具体的に迫ってくる。天命思想の下、波乱の数世紀を乗り越えてきた沖縄は、これからもいろいろな出来事に見舞われる事だろう。日本人としてどこまで親身になって考えるか。本書で繰り返し引用される仲村善の説によるなら、琉球民族も元は同じ大和民族に属するという。日本人も当事者として沖縄を考える時期に来ていると思う。

‘2017/06/29-2017/07/14


川の名前


川はいい。

川は上流、中流、下流のそれぞれで違った魅力を持つ。上流の滝の荒々しさは見ていて飽きない。急流から一転、せせらぎの可憐さは手に掬わずにはいられないほどだ。中流に架かる橋を行き交う電車やクルマは生活のたくましさな象徴だ。河川敷を走る人々、遊ぶ子供たちは、川に親しむ人々の姿そのものだ。下流に至った川は一転、広々と開ける。そこでは水はただ滔々と流れるのみ。その静けさは永きにわたる行路を終えたものだけが醸し出せるゆとりを感じさせる。

私が川を好きな理由。それは二十年以上、川のすぐ近くに暮らしていたからに違いない。その川とは武庫川。兵庫の西宮市と尼崎市を分かつ川だ。丹波篠山から多彩な姿を見せながら大阪湾へと流れ込む。

川は人々の暮らしに密着している。川の近くに住む人々は川に名前をつける。そしてその名を呼びならわし、先祖から子孫へと名は伝わってゆく。いつしか、川の名前がしっかり幼い子供の心に刻まれる。私が武庫川を今も好きなように。

「川の名前」という本書のタイトルは、私を引き寄せた。それはあまりにも魅力的に。実は本書をハヤカワ文庫で目にした時、私は著者の名前を知らなかった。だが、タイトルは裏切らない。手に取ることにためらいはなかった。

本書に登場する川とは桜川。少年たちの毎日に寄り添い流れている。少年たちは五年生。五年生といえばそれなりに分別も身につき、地元の川に対する愛着が一番増す時期だ。宿題にも仕事にも追いまくられず、ただ無心になって川で遊べる。部活に没頭しなくてよく、受験も考えなくていい。五年生の夏休みとは、楽し身を楽しさとして味わえる最後の日々かもしれない。その夏休みをどう過ごすか。それによって、その人の一生は決まる。そういっても言い過ぎではない気がする。

主人公菊野脩の父は著名な写真家。海外に長期撮影旅行に出かけるのが常だ。これまで脩の夏休みは、父に連れられ海外で冒険をするのが恒例だった。だが五年生となり、自立の心が芽生えた脩は、地元で友人たちと過ごす夏休みを選ぶ。

少年たちの夏休みは、脩が桜川の自然保護区に指定されている池でペンギンを見つけたことから始まる。池に住み着き野生化したペンギン。ペンギンを見つけたことで脩の夏休みの充実は約束される。動物園で見るそれとは違い、たくましく、そして愛おしい。少年たちに魅力的に映らぬはずはない。脩は仲間である亀丸拓哉、河邑浩童を誘い、夏休みの自由研究の題材をペンギン観察にする。

私も子供の頃、武庫川でやんちゃな遊びをしたものだ。ナマズを捕まえてその場で火を起こして食べたこともある。半分は生だったけれど。捕まえた鯉を家に持ち帰り、親に焼き魚にしてもらったのも懐かしい。土手を走る車にぶつかって二週間ほど入院したのは小1の夏休み。他にも私は武庫川でここでは書けないような経験をしている。ただ、私は武庫川ではペンギンは見たことがない。せいぜい鳩を捕まえて食ってる浮浪者や、泳ぐヌートリアを見た程度だ。それよりも川に現れた珍客と言えば、最近ではタマちゃんの記憶が新しい。タマちゃんとは、多摩川や鶴見川や帷子川を騒がせたあのアザラシだ。私は当時、帷子川の出没地点のすぐ近くで働いていたのでよく覚えている。タマちゃんによって、東京の都市部の川にアザラシが現れることが決して荒唐無稽なファンタジーでないことが明らかにされた。つまり、多摩川の支流、野川のさらに支流と設定される桜川にペンギンが住み着くのも荒唐無稽なファンタジーではないのだ。

そしてタマちゃん騒動でもう一つ思い出すことがある。それはマスコミが大挙し、捕獲して海に返そうという騒動が起きたことだ。連日のテレビ報道も記憶に鮮やかだ。本書も同じだ。本書のテーマの一つは、大人たちの思惑に対する子供たちの戦いだ。身勝手で打算と欲にまみれた大人に、小学校五年生の少年たちがどう対応し、その中でどう成長していくのか。それが本書のテーマであり見せ場だ。おそらく本書が生まれるきっかけはタマちゃん騒動だったのではないか。

本書に登場する人物は個性に溢れている。そして魅力的だ。中でも喇叭爺の存在。彼がひときわ目立つ。最初は奇妙な人物として登場する喇叭爺。人々に眉をひそめられる人物として登場する喇叭爺は、物語が進むにつれ少年たちにとっての老賢者であることが明らかになる。老賢者にとどまらず、本書の中で色とりどりの顔を見せる本書のキーマンでもある。

特に、人はそれぞれが属する川の名前を持っている、という教え。それは喇叭爺から少年たちに伝えられる奥義だ。就職先や出身校、役職といった肩書。それらはおいて後から身につけるものに過ぎない。成長してから身を飾る名札ではなく、人は生まれながらにして持つものがある。それこそが生まれ育った地の川の名前なのだ。人はみな、川を通じて海につながり、世界につながる。人は世界で何に属するのか。それは決して肩書ではない。川に属するのだ。それはとても面白い思想だ。そして川の近くに育った私になじみやすい教えでもある。

川に育ち、川に帰る。それは里帰りする鮭の一生にも似ている。幼き日を川で育まれ、青年期に海へ出る。壮年期までを大海原で過ごし、老境に生まれた川へと帰る。それは単なる土着の思想にとどまらず、惑星の生命のめぐりにもつながる大きさがある。喇叭爺の語る人生観はまさに壮大。まさに老賢者と呼ぶにふさわしい。だからこそ、少年たちは川に沿って流れていくのだ。

本書を読んで気づかされた事は多い。川が私たちの人生に密接につながっていること。さらに、子供を導く大人が必要な事。その二つは本書が伝える大切なメッセージだ。あと、五年生にとっての夏休みがどれだけ大切なのか、という重要性についても。本書のような物語を読むと、五年生の時の自分が夏休みに何をしていたか。さっぱり思い出せないことに気づく。少年の頃の時間は長く、大人になってからの時間は短い。そして、長かったはずの過去ほど、圧縮されて短くなり、これからの人生が長く感じられる。これは生きていくために覚えておかなければならない教訓だ。本書のように含蓄のつまった物語は、子どもにも読ませたいと思える一冊だ。

‘2017/01/20-2017/01/22


日本辺境論


日本を論じるのがもっとも好きな民族は日本人。良く聞くフレーズだ。本書にも似た文が引用されている。

はじめに、で著者は潔く宣言する。本書もまた、巷にあふれる日本論の一つに過ぎないことを。そして、本書の論考の多くは梅棹忠雄氏や養老孟司氏ら先人の成果に負っていることを。著者の姿勢は率直だ。本書を先賢によって書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなもの、とすらいうのだから。(P23)

だからといって、本書を先人たちの成果の絞りかすと軽んじるのは愚かなこと。絞りかすどころか、含蓄に富んでいる。もし本書が絞りかすだとすれば、誰が本書を出版するものか。著者一流の謙遜だと思う。その証拠に著者は先ほどの宣言に続けてこう書いている。本書の「唯一の創見は、それら先人の貴重な知見をアーカイブに保管し、繰り返し言及し、確認するという努力を私たち日本人が集団的に怠ってきているという事実に注目している点です」と(P23)。

著者の謙遜にもかかわらず、本書の内容は新鮮だ。確かに結論こそ先賢の業績に沿ったものかもしれない。しかし、著者が論拠とするエピソードは現代の風俗を含んでいる。つまり本書は、現代の視点で見直した日本論なのだ。もっとも今風とはいえ、著者が本書で展開する論考にはインターネットからの視点が抜けているのは事実だ。しかし、本書での著者の結論から逆をたどれば、ネット社会が盛んな今もなお辺境にある日本という見方もできるのだ。

日本のどこが辺境なのか。「I 日本人は辺境人である」で著者は検証を試みる。日本の辺境性を明らかにするため、著者が取り上げた例は多岐に渡る。余りにも範囲が広すぎるため、ここで一々挙げることすらためらわせるくらいに。ほんの一例を紹介してみる。オバマ大統領の就任演説。太平洋戦争における海軍将校や大臣達の言葉。ヒトラーの戦争観。中華思想と小野妹子の親書。征韓論と日清日露戦争時の日本外交。

そこから導き出す著者の論点を要約すると、日本人のメンタリティは、他国との比較によって築き上げられてきたとの結論に落ち着く。「はじめに」で著者が告白したとおり、他国との比較という先人が出した日本への論考は枚挙に暇がない。丸山眞男、川島武宜、梅棹忠雄といった碩学諸氏。これら諸氏が主張したことは、今まで日本人が世界の主人公として主体的に振る舞ってきたことは一度もないということ。日本が主体となるのではなく、他国との比較において日本の在り方を突き詰めたところに、日本人の心性や文化はあるということ。それは良いことでも悪いことでもない。それが日本なのだ、という現状認識がある。それが著者の出した結論であり、よって立つ視座である。以下に本書の中でそのことが端的に述べられている箇所を抜き出してみる。

私たちの国は理念に基づいて作られたものではない。(P32)

私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語る(P34)。

國體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している(54P)。

特に最後の引用が含まれる52ページから56ページの部分は、太平洋戦争の総括がなぜ今も出来ないか、との問いへの回答になっている。東京裁判において、戦争の共同謀義の罪状にあたる証拠が見つけられず、その罪状で求刑出来なかったことはよく知られている。そこから、昭和初期の日本が國體や戦争の行く末を考えずに戦争に突き進んでいった理由について、本書の論考はヒントになるだろう。

最近はとくに、日本と他国を比べ優劣を語る議論がまた勢力を盛り返している。ネット論壇ではとくに。しかし、そのような比較論は、すでに先人達が散々論じ尽くしている。もはやそれを超える画期的な視点の日本論は出てきそうにない。著者もそれは先刻承知しているのだろう。だからこそ本書は先賢らが提示した論をなぞるだけ、と「はじめに」で述べているのだ。その前提として著者が「I 日本人は辺境人である」で主張するのは、こうなったらとことん「辺境」を極めようではないか、ということである。ここまで「辺境」を保ちつつ国を続かせてきた国は他にない。我が国が普通の国でないのなら、その立場を貫こうではないか、というわけだ。それが本書の、そして著者のスタンスである。

続く「II 辺境人の「学び」は効率がいい」で著者は辺境人として生きる利点を語る。そもそも日本には起源から今にいたる自国の思想の経歴が語れない、という特徴がある。自らの思想の成り立ちが語れないということは、論考に幅や余裕がなくなること。それは、自説について断定的な姿勢をとることであり、譲るゆとりを忘れることでもある。そういった病理を炙り出すため、本書で著者が取り上げたのは国歌国旗にまつわるナショナリズムだ。戦後の日本を縛り付けてきた左右両翼の争い。その論争の行く末は、いまだに見えない。それもここで挙げた論理を当てはめることで理由がつきそうだ。左右の思想ともに自らの思想が経てきた歴史や深みを語れない。それは借り物の思想だから、というのが著者の意見だ。

ここで私が思ったのは、左右の論争に決着がつけられないのは、自らの経緯が語れないということよりも、絶対的な宗教、決定的な思想が日本にないことが理由では、と思った。それは、目新しい考えでもなんでもない。ごく自然に出てきた私の疑問だ。

著者は、左右の思想になぜ論争の終わりが来ないのかについての理由を解き明かしにかかる。それは私の思ったことにも関係する。師弟という関係の本質。日本では芸事を極めることを「道」に例える。武道、茶道、書道など。道とは続くもので、終わりのないものの象徴だ。

著者はここで師弟関係の意味を極言する。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であったとする。でもその人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する(149P)。と。

著者がここで落語のこんにゃく問答を例に出すのは秀逸だと思う。しかし、著者がいうのは曖昧で形のない形而上の対象ではないだろうか。それらについては当てはまるかもしれないが、具体的な対象については「道」や「師弟関係」とは少し違うのではないか。目の前に見える近視眼的な対象に対する日本人の集中力は秀でている。それに異論のある方は少ないはずだ。著者にいわせれば、目の前に見えている対象は、学びの対象になりえないのだろうか。ここが少し疑問として残った。

そういった私の疑問に対し、著者は続く「III 「機」の思想」で”機”の概念を持ち出す。”機”とはなにか。それを説明するために著者は親鸞を担ぎ出す。親鸞もまた、道の終着点を見出すことの無意味さを知り、道という概念とは求め続けることに意味あり、ということを知る人ではなかったか。親鸞の有名な”悪人正機説”。この中には”機”の字が含まれている。

著者は親鸞を辺境固有の仮説を検証しようとした宗教家ととらえているようだ。「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」(166P)、という文にもそれが見られる。

修行の目的地という概念を否定した親鸞。それは、辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない(169P)、と著者は受け取る。

著者はここで”機”を説明するため、柳生宗矩を評するため沢庵和尚が使った「石火之機」という言葉を持ち込む。意思に基づいた動作ではなく、瞬間の動作。主体の意思さえない、本能の動作。反応以前の反応。それが「石火之機」だ。主体なく生きることは、すなわち辺境に生きることに等しい。そう著者は言いたいのだろう。ところがここまで書いておきながら、「悪人正機」の中の”機”について著者は特に触れないのだ。ここまで論を進めたのだから、あとは分かるでしょ?ということなのだろうか。であれば、あとはこちらで結論を導くしかない。それはつまり、存在論的に悪人であらねばならない我々が正しい”機”に導かれるには主体を捨てねばならない。”機”とはそういう”機”ではないか。

左右両翼の論争がなぜいつまでも終わらないのか、との著者の意見を噛み砕いているとここまで来てしまった。ここで改めて著者の言いたいことを私なりに解釈してみたいと思う。

主体がなく反応以前に反応する”機”。それは外来の事物について反応する前に有用性を見極め受け入れることである。日本人が辺境人としてあり続けたのは、”機”に導かれ道をしるため、主体を捨てて無私の境地で無条件に外来からの理論を信じてきたから。無条件に無私の境地の中で、その思想の由来や経緯を意識することなく外来思想を取り入れ続けてきたから。

多分、著者の結論を正しいとすれば、日本で思想の争いに決着を求めるのは無理だ。そして日本の思想に論理的整合性を求めるのは無駄なことだ。そこには私が考えたような絶対的思想の不在だけでない、別の理由がある。だが、それを承知で、著者は辺境人として生きてみようと呼びかけるのだ。その曖昧さをも受け入れた上で。

「IV 辺境人は日本語と共に」で著者は日本語を爼上にあげる。日本語は、表意文字と表音文字が混在しているのが特徴だ。そこには、仮名に対する真名という対比の関係がある。話し言葉を仮の名と呼び、外来の文字を真の名と呼ぶ。この心性がすでに辺境的なのだと著者はいう。外来の言葉を真の名と尊び、土着の言葉を借りの名という。つまり外来を重んじ、土着を軽んじる。この着眼点は凄いと思った。そしてそのことが日本を発展に導き、我々の文化に世界史上でも有数の重みを与えた。我々はそのことを素直に受け入れ、喜んでもいいのではないか。

年明け早々にヒントに富んだ書を読め、満足だ。

‘2015/01/15-2015/01/19


考えるヒント3


時代の転換点。むやみに使う言葉ではない。しかし、今の日本を取り巻く状況をみていると、そのような言葉を使いたくなる気持ちもわかる。中でもよく目にするのが、今の日本と昭和前期の日本を比較する論調である。戦争へと突き進んでいった昭和前期の世相、それが今の世相に似ていると。

もちろん、そういった言説を鵜呑みにする必要はない。今と比べ物にならぬほど言論統制がしかれ、窮屈な時代。情報が溢れる今を生きる我々は、かの時代に対し、そのような印象を持っている。情報量の増大は、政府が情報統制に躍起になったところで止めようがない流れであり、昭和前期の水準に戻ることはありえない。

そのような今の視点から見ると、情報が乏しい時代に活躍した言論人にとっては、受難の年月だっただろうと想像するしかない。破滅へ向かう国を止められなかった言論人による自責や悔恨の言葉が、戦後になって文章として多数発表されている。自分の思想と異なる論を述べざるを得なかった、自分の思いを発表する場がなかった、自分の論を捻じ曲げられた、等々。その想いが余り、反動となって戦前の大日本帝国の事績を全て否定するような論調が産まれた、とも推測できる。

著者はその時代第一級の言論人であり、戦前戦中は雌伏の年月を強いられたと思われる。本書の随所をみても、著者の屈託の想いが見え隠れしている。だが、窮屈な時代に在って、その制約の中で様々な工夫を凝らし、思想の突破点を見出そうと努力したからこそ、著者の思想が戦後に花開いたともいえよう。

本書は随筆集であり、講演録を集めたものである。収録されたのは、昭和15年から昭和49年までに発表された文章。戦時翼賛体制真っただ中に発表されたものから、高度成長期爛熟の平和な日本の下で発表されたものまで、その範囲は幅広い。本書の章題を見ると、○○と○○といったものがやたら目につく。挙げてみると「信ずることと知ること」「生と死」「喋ることと書くこと」「政治と文学」「歴史と文学」「文学と自分」。全12章のうち、半分にこのような章題が付いている。

上に挙げた○○と○○からは、ヘーゲルで知られる弁証法でいう命題と反対命題が連想できる。そして弁証法では、その二つの命題を止揚した統合命題を導くことが主眼である。つまり、統合命題を導くための著者の苦闘の跡が見えるのが本書である。暗い世相と自らの思想を対峙させ、思想を産み出す営み自体も弁証法といえるだろう。本書には人生を賭けた著者の思想の成果が凝縮されている。

本書の題名は考えるヒント3となっている。その前の1と2は比較的分かりやすい主題に沿って論が進められたように記憶している。しかし、本書は一転して難解さを増した内容となっている。統合した思想を産み出そうとする著者の苦闘。これが本書の大部分を占めているからである。著者の苦闘に沿って読み進めるのは、読み手にとってもかなり苦しい体験であった。

本書の中でも「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」は特に難しい。ボルシェビキ出現以前のロシアの状況から論を進め、フルシチョフによるスターリン批判までのロシア史の中で、ドストエフスキイを始めとしたロシアの知識階級の闘争がいかになされたかを概観する内容である。しかし教科書レベルの知識しか持たない私のような者にとり、読み通すのは相当の苦行であった。日本国内では一時期、ロシア社会主義への理解が知識人の間で必須となった感がある。しかし中学の頃、ソ連邦解体をニュースで知った私にとり、ロシア社会主義とはすでに滅び去ったイデオロギーである。左翼系の本も若干読みかじったこともあるが、突っ込んだ理解には到底至れていない。加えてロシア文学は登場人物の名が覚えにくいことは知られている。本講演に登場する人物の名前も初めて聞く名が多く、それに気を取られて講演の概略とそこで著者が訴える主題が理解できたかどうかも覚束ない。

今と比べて情報量が乏しく、自ら求めなくては情報を手に入れられなかったこの頃。知識を深め、それを学ぶ苦しみと喜びは深かったに違いない。翻って、今の情報化社会に生きる私が、その苦しみと喜びの境地に達しえたか、著者の識見、知恵に少しでも及び得たか。答えは問うまでもなく明らかである。努力も覚悟もまだまだ足りない。本書を読み、そんなことを思わされた。

’14/08/16-‘14/08/28