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伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


慈悲の名君 保科正之


上杉鷹山、細井平州、二宮尊徳、徳川光圀。

2016年の私が本を読み、レビューを書いてその事績に触れた人物だ。共通するのは皆、江戸時代に学問や藩経営で名を成した方だ。

だが、彼らよりさらにさかのぼる時代に彼らに劣らぬほどの実績をあげた人物がいる。その人物こそ保科正之だ。だが、保科正之の事績についてはあまり現代に伝わっていない。保科正之とはいったい何を成した人物なのだろうか。それを紹介するのが本書だ。本書によると、保科正之とは徳川幕府の草創期に事実上の副将軍として幕政を切り回した人物だ。そして会津藩の実質の藩祖として腕を振るった人物でもある。今の史家からは江戸初期を代表する名君としての評価が定まっている。

ではなぜ、それほどまでに優れた人物である保科正之の業績があまり知られていないのだろうか。

その原因は戊辰戦争にあると著者は説く。

2013年の大河ドラマ「八重の桜」は幕末の会津藩が舞台となった。幕末の会津藩といえば白虎隊の悲劇がよく知られている。なぜ会津藩はあれほど愚直なまでに幕府に殉じたのか。その疑問を解くには、保科正之が会津藩に遺した遺訓”会津家訓十五箇条”を理解することが欠かせない。”会津家訓十五箇条”の中で、主君に仕えた以上は決して裏切ることなかれという一文がある。その一文が幕末の会津藩の行動を縛ったといえる。以下にその一文を紹介する。
 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

明治新政府からすれば、最後まで抵抗した会津藩の背後に保科正之が遺した”会津家訓十五箇条”の影響を感じたのだろう。つまり、保科正之とは明治新政府にとって封建制の旧弊を象徴する人物なのだ。それは会津藩に煮え湯を飲まされた明治新政府の意向として定着し、新政府の顔色をうかがう御用学者によって業績が無視される原因となった。それが保科正之の業績が今に至るまで過小評価されている理由だと思われる。

2016年、本書を読む三カ月前に私は会津の近く、郡山を二度仕事で訪問した。そこで知ったのは、会津が情報技術で先駆的な研究を行っていることだ。私が知る会津藩とは、時代に逆らい忠義に殉じた藩である。そこには忠君の美学もあるが、時代の風向きを読まぬかたくなさも目につく。だが、情報産業で先端をゆく今の会津からは、むしろ時代に先んずる小気味良さすら感じる。今や会津とかたくなさを結びつける私の認識が古いのだ。

私がなぜ会津について相反するイメージを抱くのか。その理由も本書であきらかだ。会津藩の草創期を作ったのが保科正之。公の業績は、それだけにとどまらない。本書の記載によれば保科正之こそ江戸時代を戦国の武断気風から文治の時代へと導いた名君であることがわかる。つまり、保科正之とは徳川260年の世を大平に導いた人物。そして、時代の風を読むに長けた指導者としてとらえ直すべきなのだ。そんな保科正之が基礎を作った会津だからこそ、進取の風土に富む素地が培われているのだろう。

冒頭に挙げた上杉鷹山のように藩籍返上寸前の藩財政を持ち直させた実績。水戸光圀のように後の世の学問に役立つ書を編纂した業績。保科正之にはそういったわかりやすく人々の記録に刻まれる業績が乏しい。ただでさえ記憶に残りにくい保科正之は、明治政府から軽んじられたことで一層実績が見えにくくなった。そう著者は訴える。

さらに、保科正之は徳川四代将軍の補佐役として23年間江戸城に詰めきりだった。その一方で藩政にも江戸から指示を出しながら携わり続けた。幕政と藩政の両方で徳川幕府の確立に身骨を注いだ生涯。また、保科正之が将軍の補佐にあたった時期は、その前の知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の治世とその後の水戸黄門こと徳川光圀の治世に挟まれている。その間に活躍した保科正之の業績が過小評価されるのも無理もない。

それゆえに著者は保科正之の再評価が必要だと本書で訴える。そして本書で紹介される保科正之の業績を学べば学ぶほど、保科正之とは語り継がれるべき人物であったことが理解できる。冒頭に挙げた人々に負けぬほどに。

保科正之が幕政に携わったのは、島原の乱が終わってからのことだ。秀忠、家光両将軍による諸家への改易の嵐も一段落した頃だ。戦国時代の武断政治の名残を引きずっていた徳川幕府が文治政治へと方針を変える時期。改易が生んだ大量の浪人は、文治に移りゆく世の中で武士階級が不要になった象徴だ。それは武士階級の不満を集め、由井正雪による慶安事件を産み出す原因となった。そんな社会が変動する時代にあって三代家光は世を去る。そして後を継ぐ家綱はまだ十一歳。補佐役が何よりも求められていた時だ。保科正之の政策に誤りがあれば、江戸幕府は転覆の憂き目を見ていたこともありうる。

また、正之の治世下には明暦の大火が江戸を燃やし尽くした。その際にも、保科正之が示した手腕は目覚ましいものがあったようだ。特に、燃え落ちた江戸城天守閣の処遇について正之が果たした役割は大きい。なぜならば正之の意見が通り、天主はとうとう復元されなかったからだ。今も皇居に残る天守台の遺構。それは、武断政治から文治政治への切り替えを主導した正之の政策の象徴ともいえる。また、玉川上水も正之の治世中に完成している。本書を読んで2か月後、私は羽村からの20キロ弱を玉川上水に沿って歩いた。そのことで、私にとって保科正之はより近い人物となった。

では、幕政に比べて藩政はどうだろう。本書で紹介される藩政をみると、23年も江戸に詰めていたにしては善政を敷いた名君といえるのではないだろうか。高齢者への生涯年金にあたる制度など、時代に先んじた視点を備えていたことに驚く。おそらく正之が副将軍ではなく、上杉鷹山のように窮乏藩を預かっていたとしてもそれなりの名を残したに違いない。

結局、保科正之の偉大さとはなんだろうか。確かに若い将軍を助け、徳川幕府を戦国から次の時代につなげたことは評価できる事績だ。だが、それよりも偉大だったのは時代の潮目を見抜く大局的な視点で政治にあたったことではないか。

本書は、保科正之の生い立ちから書き起こすことで、その大局的な視点がいつ養われたのかについても触れている。保科正之は秀忠が大奥の側室に手をつけ産まれた。そのため秀忠の正室である於江与の方をはばかり、私的には認知、公的には非認知、という複雑な幼年期を過ごす。そして於江与の方から隠されるように武田信玄の娘見性院に養育され、一度は甲斐武田家の再興を託される立場となる。その結果、保科正之は武田家の有力家臣だった保科家を継いだ。正之に思慮深さと洞察力を与えたのも、このような複雑で幼い頃の経験があったからだろう。また、武田家が長篠の戦で新戦術である鉄砲に負け没落したこと。それも大局的な目を養うべきとの保科家の教訓として正之にこんこんと説かれたのだと思う。

それゆえに、正之にしてみれば自分の遺した”会津家訓十五箇条”が子孫から大局的な視点を奪ったことは不本意だったと思う。正之が”会津家訓十五箇条”を残した時期は、まだ戦国時代の残り香が世に漂っており、徳川体制を盤石とすることが優先された。そのため、公の残した”会津家訓十五箇条”は200年後の時代にはそぐわないはずだ。だが、それは遺訓の話。保科正之その人は時代の変化に対応できる人物だったのではないか。だから今、会津が情報化の波に乗っていることを泉下で知り、喜んでいることと願いたい。

保科正之の生涯から私たちが学べること。それは大局的な視点を持つことだ。そして彼の残した遺訓からの教訓とは、文章を残すのなら、時代をこえて普遍的な内容であらねばならないことだ。それは、私も肝に銘じなければならない。あまた書き散らす膨大なツイートやブログやウォールの文章。これらを書くにあたり、今の時代を大局的に眺める努力はしているだろうか。また、書き残した内容が先の時代でも通じるか自信を持っているか。それはとても困難なことだ。だが、保科正之の業績が優れていたのに、会津藩が幕末に苦労したこと。その矛盾は、私に努力の必要を思い知らせる。努力せねば。

‘2017/01/15-2017/01/15