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40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の教訓


本書を読んだのは私が46歳になろうという直前だった。つまり、40も半ばを過ぎた頃だ。

論語の有名な一節に
四十而不惑
とある。

しかし、私の四十代は惑いの中にある。今の情報があふれる時代にあって、惑わずにいることは難しい。

論語のその前の文は
三十而立
だ。

私の場合、三十では立てなかった。いや、立ってはいたものの、足取りが定まらず、よろめいていたというべきか。
たしかに世間的には独り立ちしていたと見られていたかもしれない。だが、今から思えば全て周りの環境に引きずられていただけだ。

私なりに今までの人生を振り返る機会は持ってきたつもりだ。
ブログという形で何度も振りかえってきたし、アクアビット航海記として起業の経緯を連載している。
それら文章では、自分が人生の中で選択してきた決断の数々を記録してきた。

そうした選択のいくつかについては、悔いがある。逆に満足のいく今につながるような、過去の自分を褒めたい決断もある。
悔いについては、思い出す度、汗が噴き出るような恥も含まれている。他にも家族が瓦解しかねない危うい瞬間もあった。仕事を会社にするまでにも綱渡りを何度も超えてきた。

そうした振り返りは何のために行うのか。
それは、過去にとらわれ、現在に踏みとどまるためではない。未来へ、これから自分がどう生きるべきかについて考えるためだ。

そもそも私の場合、まだ何も成し遂げていない。成功にはほど遠く、目指す場所すら定かではないと自覚している。
家庭や経営、私自身についての課題は山積みになったままだ。
そもそも人生が成功に終わったかどうかなど、死ぬまで分からない。死んだらなおさら分からない。
私の場合、勲章を得たわけでもなく、ノーベル賞を得たわけでもない。
ましてや老後、自らの生き方を懐かしく振り返ると年齢にも達していない。
むしろ、今までの生き方を振り返り、これからの半生に活かさねばならない若輩者が私だ。

だから今、本書のような本を読むことも無駄ではない。

序章で著者は「一生の中で40代が重要な理由」を語っている。
その通りだと思う。
私にとっての39歳から40代前半にかけては転機となった出来事が多かった。
2012年の6月に私は39歳になった。その4月から、私にとって最後の奉公となった常駐業務が始まり、同時に自治会の総務部長になった。初めてのkintone案件が運用を開始したのもその頃。妻がココデンタルクリニックを開業したのは6月だ。

私がそれまで営んでいた個人事業を法人として登記したのが42歳の時。
当時、常駐システムエンジニアという自らの仕事のあり方にとても悩んでいた私は、そこから逃れる方法をいろいろ模索していた。
しかし30代の頃にしでかした選択のミスが尾を引いており、私は身動きが出来なかった。
結局、貯金もほぼゼロの状態で法人を設立する暴挙に踏み切り、それが私の道を開いた。
とはいえ、30代については悔いが多い。

著者は、40代に行動を起こさなかったことで、定年退職後に後悔している人が多いと説く。40代の10年をどう過ごすかによって、その後の人生がからりと変わる、とも。

仕事と家庭。そして自分。どれもが人生を全うするために欠かせない要素だ。私もそれはわかっていた。
なので、30代の終わりごろからはじめたSNSを、仕事と家庭、そして自分のバランスを取るために活用してきた。
仕事だけに偏らず、遊びも家族も含めた内容として世に公言することで、自分にそのバランスを意識させるSNS。私にとってうってつけのツールだと思う。

ただし、そうした自分の振る舞いについては、何かの明確なメソッドに基づいた訳ではない。
その時々の私が良かれと思って選択した結果に過ぎない。

本書は、そうしたメソッドを50のリストにして教えてくれる。

本書の工夫は、50のリストの全てをある人物の悔いとして表していることだ。
例えば、
「01 「自分にとって大切なこと」を優先できなかった」
「25 「付き合いのいい人」である必要などなかった」
「50 「もっと「地域社会」と付き合えばよかった」
のような感じだ。
ある人物とは、著者が今までの経験で関わった人物から仮定した、40代を無為無策のままに過ごしてしまった人物だ。
その人物の悔いとして表すことで、より危機感を持ってもらおうとの試みだろう。

誰もが今を生きることで一生懸命になっている。
なかなか将来を見据えた行動などできるものではない。
私もそうだった。
そして今も、これからの自分や世の中がどうなるかなど全く分からない。

私の世代は著者の世代よりもさらに10歳若い。そして第二次ベビーブーム世代だ。
私たちの世代が老境に入った頃、福祉に潤沢な予算が回されるのだろうか。他の世代に比べて人口比が突出している私たちの世代を国や若年層は養ってくれるのだろうか。
そうした将来に目を向けた時、今やっておくべき事の多さにおののく。
今を生きるだけでなく、これから先を見据えた行動が求められる。

四十代になると、人から叱られたり、指摘されることが減ってくる。これから先はさらに減っていくことだろう。
誤った方向に向かってしまった時、自分を正してくれるのは、誰だろう。
親友、妻、子、家族、恋人、親、同僚、上司、部下などが思い浮かぶ。
だが、そうした人々の助言も、最後は自分の次第だ。決断をどう下すかによって、助言は生きもすれば死にもする。
最後は自分なのだ。

本書は折に触れて読み返したいと思う。
将来、四十代の自分を後悔したくないから。
今の私が三十代の頃、決断出来なかった事を後悔しているようには。

‘2019/02/14-2019/02/17


ペテロの葬列


豊田商事。天下一家の会。ともに共通するのは、かつて世間を大いに騒がしたことだ。豊田商事に至っては、マスコミが自宅を囲む中で豊田会長が惨殺される強烈な事件が印象を残している。この二つに通ずるのは、ありもしない物を売りつける仕組みだ。会員は多額の金を騙し取られ、大きな社会問題となった。両方に共通するのは、売るべき財もないのに会員を増やす仕組みだ。

豊田商事の場合、顧客が購入した金の現物を渡さず、豊田商事が発行した価値のない契約証券を渡した。いわゆるペーパー商法だ。豊田商事の場合、そもそも証券自体に何も効力がなく、会員が換金を求めてもうまくごまかす。売るべき品物がないのに、証券は次々と発行する。破綻して当然の仕組みだ。

天下一家の会の仕組みは、会員には上位会員への上納金を求め、上位会員は勧誘した会員に応じた配当をもらえる。いわゆるネズミ講。ネズミ算式に会員ネットワークを増やすことからその名が付いた。だが、実際は下位になればなるほど、勧誘できる人はいなくなる。ちなみに一人の会員がそれぞれ二人の会員を獲得するとした場合、28世代のツリーが出来上がれば日本国民は全てカバーできるという。ネズミ講の場合、上納金によって上位会員の懐が潤う。だから有事が発生した際は、そのネットワークで集めた金を使うことが期待される。だが、実際はそのような使い方はされない。原資がないのに、会員には努力に見合った配当を保証し、言葉巧みに騙した。

ネズミ講については無限連鎖講の防止に関する法律という法的な規制が入った。だが、ネズミ講で確立された組織論はまだ残っている。つまり、ツリー状の組織を構成し、階層に応じた報酬を支払う仕組みだ。いわゆるマルチレベルマーケティング。マルチ商法ともいう。マルチレベルマーケティングがネズミ講と違うのは、売るべき商品をきちんと確保していることだ。つまり詐欺ではない。法的な解釈によっては営業形態によって白黒の判断が分かれるらしいが、きちんと払った額に対してサービスが提供されている限りは問題ないという。階層に応じた報酬体系は、年功序列型の組織では当たり前。配当を販売マージンととらえれば、世間にある代理店制度で普通に運用されている。だから、マルチレベルマーケティングだからといって即アウト、ということにはならないと思う。

では、なぜ世間にマルチレベルマーケティングがここまで浸透しないのか。それは、法的な問題以前に、より根本的な原因があるからだと思う。私が思うマルチレベルマーケティングの難点。それは、消費者側にも売り手側の振る舞いが求められることだ。

もちろん、マルチレベルマーケティングの運営元によって違いはある。マルチレベルマーケティングの運営方針によっては、サービスの購入者は消費者の立場にとどまることが認められている。その場合、サービスの買い手は商品だけ購入し、勧誘は一切しなくてもよい。そのような関わり方が認められているのはネズミ講と違う点だ。ネズミ講は会員である以上、下位会員を勧誘することが前提。なぜなら会員それ自体が商品だから。そこに金以外の目的はない。

ただ、マルチレベルマーケティングの運営元によっては、サービスについてのセールストークとともに、あなたも商品を取り扱ってビジネスをしませんか、という勧誘のおまけがついてくることがある。わが国ではここを嫌がる人が多い。なぜなら、前述の豊田商事や天下一家の会をはじめ、多数のペーパー商法やネズミ講の関係者が多大なる迷惑をかけて来たからだ。もはや日本人の大多数に拒否感が蔓延している。

私が思うに、わが国からマルチレベルマーケティングに対する偏見が消え去るまでには、あと一、二世代ほど待たねばならないと思う。通常の商取引に基づいたビジネスの現場でも同じく。マルチレベルマーケティングの用いるチャネル販売は、ビジネスプロセスの一つにすぎないと思う。それでありながら、上記の理由で一般的にはマルチレベルマーケティングだけが強く忌避されているのが現状だ。

そのため、弊社としてもビジネス上でマルチレベルマーケティングの方法論を採り入れるつもりはない。マルチレベルマーケティングにもそれなりの利点や理論があるのも理解するし、やり方によっては今後の有望さが見込める手法だと思う。だが、そのメリットがあるのは理解しつつ、今はまだデメリットのほうが強いとしかいえない。

拒否感が蔓延している人に対し、無理に強いて勧誘すればどうなるか。おそらくビジネス関係だけでなく、友人、肉親との関係にも悪影響が出る。それも長期にわたって。その影響、つまりネズミ講によって生まれた深い傷が本書のモチーフとなっている。豊田商事や天下一家の会、マルチレベルマーケティングについて長々と前口上を書き連ねたのはこのためだ。

「「悪」は伝染する」。本書の帯に書かれている文句だ。「悪」とは何か。「伝染する」とはどういうことか。人は性悪説と性善説のどちらで捉えればよいのか。本書の時間軸で起きる事件はバスジャックくらいだ。しかも犯人の意図が全く分からないバスジャック。だが、本書が語る事件はバスジャックだけではない。過去に起き、関係した人々に取り返しのつかない傷を与えた事件。それが本書の底を濁流となって流れている。

「悪」は伝染するだけではない。「悪」は伝染させることもできる。本書には他のキーワードも登場する。それはST(Sensitivity training=感受性訓練)という言葉だ。実は私はSTという言葉を本書で知った。だが、自己啓発セミナーや洗脳など、それに近い現場は知っている。私自身、かつてブラック企業にいたことがある。本書に描かれるSTの訓練光景のような心理を圧迫される訓練から苦痛も受けた。だから何となくSTの概念も理解できる。そして、STのトレーナーであれば、人を簡単に操縦できるということも理解できる。「悪」を伝染させることも。

本書を読んだのは、オウム真理教の教祖こと麻原彰晃に死刑が執行されたタイミングだ。もちろんこれは単なる偶然。だが、私の人生を一変させた1995年に社会を騒がせた教祖の死と、本書を読んだタイミングが同じだったということは、私に何らかの暗示を与えてはいないだろうか。

私はそれなりに心理学の本を読んできた。NLPなどの技法も学んだことがある。商談の場では無意識にそうしたテクニックを駆使しているはずだ。だが、私は人をだましたくない。うそもつきたくない。人と同じ通勤の苦痛を味わい、右に倣えの人生を歩みたいとは毛頭も思わないが、人を騙してまで楽な人生を歩もうとも思わない。だが、そうした哲学や倫理を持たない輩はいる。そうした輩どもが、ビジネスの名を騙って人を不幸にしてきた。その端的な例が、豊田商事であり天下一家の会であり、昨今のオレオレ詐欺の跳梁だ。

全ての人類が平等に幸せになる日。それが実現することは当分ないだろう。だが、私はせめて、自分の行いによって人を不幸に陥れることなく、死ぬときは正々堂々と胸を張って死にたい。

ここで本書のタイトルであるペテロの葬列の意味を考えねばなるまい。ペテロとはいかなる人物か。ペテロとはイエス・キリストの最初の弟子とされる人物だ。敬虔な弟子でありながら、キリストがローマ兵によって捕縛される前、キリストのことを知らないと三度否認するであろうと当のキリストから予言された人物。そして、キリストが復活した後は熱心な信者として先頭に立った人物。つまり、一度はキリストを知らないとうそをついたが、そのことを恥じ、改心した人物である。本書が示すペテロとはまさにその生きざまを指している。一度は人々をだまし、人々を誤った道へ導いた人物が、果たして人のために何を成しえるのか。それが本書の大きなテーマとなっている。

本書は人を導き、操る手口が描かれる。本来、そうした技は正しい目的のために使われなければならない。正しい目的を見定めることはできないにしても、人を不幸にしないため使わなければよい、といえようか。その原則は、当然ながらビジネスにも適用される。ビジネスとは何のためにあるのか。それは人を不幸にしないためだ。人をだますことはビジネスではない。私もまた、それを肝に銘じつつ、仕事をこなし、人生を生きていかねばならないと考えている。

‘2018/07/05-2018/07/06


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


ナミヤ雑貨店の奇蹟


帯に「一か八かの大勝負でした」との著者の言葉が記されている。大げさに思うかもしれないが、本書の難易度からすると、決して誇張した言葉ではない。

難易度といっても、内容が読者にとって難しいわけではない。難しいのはむしろ書き方だ。筋を破綻させずに辻褄を合わせ、なおかつ複雑な構成を読者に理解させ、楽しませる。本書で著者が自らに課したハードルは実に高い。特に本書のように時間の流れを自在に扱う小説となると、著者の力量が問われる。

昔からタイムトラベルものは、有名な作品がある。例えば「夏の扉」。例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。例えば「ドラえもん」。本書にはこれら有名な時間旅行ものと違う点がある。それは本書には時間を旅する人物も猫も現れないということだ。替わりに本書の中で旅するのは手紙である。ナミヤ雑貨店という建物のシャッターに取り付けられた郵便受け。これが本書においてはデロリアンの役割を果たし、のび太君の勉強机の引き出しの役割を果たす。

廃屋と化したナミヤ雑貨店の建物。そこに忍び込む三人組から本書は始まる。ひょんなことから忍び込むことになってしまったナミヤ雑貨店で朝を待つことになる三人組。夜中、長らく下りたままのシャッターのポストから郵便物が落ちる音がする。こんな時間に誰が、というところから本書は始まる。ためしにその手紙に返信したところ、差出人の文章から判断すると、どう考えても過去からの返信にしか思えなくなる。

そうして三人組による返信から始まった手紙のやりとりは、本書を通じて色んな人々によって、時空を超えて行われるようになる。

本書は五章からなっている。
第一章 回答は牛乳箱に
第二章 夜更けにハーモニカを
第三章 シビックで朝まで
第四章 黙祷はビートルズで
第五章 空の上から祈りを

これら各章には、三人組以外にも音楽の夢を追い続けるミュージシャン、両親の夜逃げに戸惑う少年、年老いた養親のために経済的な野心を持つ女性などが登場する。彼ら彼女らは等しく人生に迷っている。そしてナミヤ雑貨店の店主が趣味でやっていた悩み相談に救いを求める。ナミヤ雑貨店のポストに悩みを記した手紙を投函すると、店主が独特の感性で返事を認める。その返事が気が利いていると、人々の心のよりどころとなる。そしてそれは店主が世を去り、ナミヤ雑貨店がもはや廃屋と化した現代にまで残り続ける。五章のそれぞれは、いづれもナミヤ百貨店の近隣を舞台としている。だが、それらは全て異なる時代が流れている。ITコミュニケーション全盛の今、インターネット前夜のバブル弾けた頃、高度成長期の昭和。これらの三つの時間軸を、ナミヤ雑貨店の手紙は行き来する。悩み事の告白とそれに対する回答を載せて。そこにはそれぞれの時代の中で人生を悩みつつ生きぬく人々の懸命さが流れている。

冒頭にも書いたように、著者は本書の複雑な時系列を乱さず矛盾も作らず、さらに本書の五章にわたる複雑な筋を破たんさせずに大団円に持って行くことに成功している。それは至難の業といえる。しかし著者はそれに加えて心温まる読後感を本書に添えることに成功している。そのアクロバティックな難度Eの技にはただただ驚き、翻弄されるのが本書の醍醐味だろう。

だが、本書からは別の読み方もできるのではないだろうか。

ナミヤ雑貨店の店主が趣味としていた悩み事の回答は、いつの時代にも需要があるだろう。今のネット界隈にだって、Yahoo知恵袋やOKWAVEなどQAサイトの形で健在だ。時空を超えたコミュニケーションが成り立つのが今のITの世だ。でもそこには人間味が薄味でしか残っていないとも言える。思うに著者は、ネットのコミュニケーションに血を通わせたかったのではないだろうか。そこに血を通わせ、身を入れ、温かみを与えるとどうなるのだろう。そんな試みをしたのが本書ではないかと思う。

ナヤミを相談するには、ミを真ん中に入れるだけで身の有る回答となる。それがナミヤ雑貨店の店主がこの世に残した奇蹟なのだ。

‘2015/5/13-2015/5/14