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アクアビット航海記 vol.38〜航海記 その23


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/22にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回から、家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。作:長井、監修:妻でお送りします。

高額な地代以外にも問題が


家をどうするのか。それが私と妻に突き付けられた現実でした。
その現実は、他人に肩代わりしてもらうものでもなければ、晴れ間を待ってしのぐものでもありません。それなのに、私も妻も何をどう進めればよいのかわかっていませんでした。

前回の連載でこのように書きました。「家を処分した大きな理由は、四年後に地代が支払えなくなるため」と。ところが、私たちが家を処分した理由は地代だけではありませんでした。
地代さえ支払っていれば、家に住み続けられるかもしれない。そんな甘い期待を打ち砕くには、私たち夫婦に突き付けられた現実はあまりにも苦しかった

前回の連載で、私たちが住んでいた家の問題点を列挙しました。しかし、その中で書かなかったことはまだあります。
一つは、わが家に対する風当たりの強さです。
わが家の敷地が市の都市計画で拡張される道路予定地に含まれていたことは書きました。その道路の沿道には拡張予定であることを示すための柵がずらりと並んでいました。そしてその柵は、わが家の庭の手前で止まっていました。
つまり、何も知らない人が見ると、まるでわが家が道路拡張を邪魔する元凶に見えるのです。そのためわが家は、世間からの風当たりに耐えねばなりませんでした。庭に嫌がらせのゴミを放り込まれ、罵声を浴びることさえありました。

もう一つは、平成七年に妻の祖父母が亡くなった後、妻の母が診療室部分を改築しようとしたことです。
診療室を一新するにあたり、妻の母は業者に依頼して既存の診療室の内装をいったん取り払ってもらっていました。ところが、妻の母は内装を取り払ってもらった時点で病に倒れ、そのまま亡くなってしまいました。そのため、診療室は見るも無残な状態で遺されたのです。打ちっぱなしのコンクリート、地がむき出しになった床。ほこりっぽい室内には、歯科器具が乱雑に置かれ、数台の歯科ユニットが無言でたたずんでいました。私が初めてこの家の中に入った時、かつて米田歯科として栄えていた診療室はただの廃虚になっていました。
本来ならば、妻の母がこの部屋を一新し、診療室として新たな命を与えるはずだったのです。ところが、妻の母が平成九年に亡くなったことで、この場所がかつての栄華を取り戻す可能性は断たれました。よどんでほこりが積もったこの場所は、かつての栄華を知らない私にとって死んだも同然でした。
二度と生き返ることのない部屋。その部屋を生き返らせることができるのは、かつての生き生きとした姿を知っている妻や妻の父でした。が、妻の父が徒歩数分の場所で歯科診療室を開き、そこで妻と妻の父が診療を行っている以上、死んだ診療室を新たに生まれ変わらせる理由はありません。

地代を払う、払わないを議論する以前に、この家はすでに息の根を止められていたのです。
そして、たとえ地代を払い続けたとしても、家が拡張予定の道路の一部である事実は動きません。

対応案を基に弁護士の先生に相談


その現実が変わらない以上、私と妻はそれを踏まえた対応を考えなければなりませんでした。
この時、私と妻が取りうる選択肢は何だったのでしょう。今の私の立場から挙げてみました。

1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。

私がまずやろうとしたこと。それは、弁護士の先生に相談することでした。
妻と一緒に麹町に行き、弁護士の先生に相談しました。その先生を紹介してくださったのが誰だったのか、どういうつてだったのか、今となっては先生のお名前も含めて全く覚えていません。ですが、家を処分して十年ほど経過した後、私が常駐した現場のすぐ近くの景色と、このとき先生の事務所の光景がフラッシュバックしたことは覚えています。
その時に相談したのは、今の地主との借地権契約は法的に有効なのか、そして有効だとすればこの借地権契約を元にどう話を進ればよいか、だったと思います。
ところが、先生に相談したところで、私と妻の目論見通りに行くはずはありません。
借地権契約は毎年の支払い実績がある以上は有効。そして借地権契約の原本がなく、現状の契約に至ったいきさつが分からない。そうである以上、弁護士としても再交渉の手がかりをつかむのは難しいという回答でした。

この先生さんにお会いしたのは、結婚して一、二年目の頃だったように思います。
私たち夫婦はこの後も数年にわたり、多くの士業の方にお会いしました。ところが、その皆さんの見解は一様に同じでした。

私も妻も、それまでの人生で士業の方とのご縁はなく過ごしてきました。そのため、私も妻も士業の先生とどう付き合えばよいかについての知識がありません。どの弁護士に相談すればよいのかも分からない。上に挙げた七つの案が正しいのかも分からない。そもそも、上に挙げた七つの案を相談する先として弁護士がふさわしいのかすらも分かりません。まさに五里霧中。

“起業”した今はこう言えます。やるべき作業、向かうべきゴールが見えている作業はまだ楽だと。
何を行えばよいか、どこに進めばよいかが分からない仕事ほど苦しいものはないと。

対応案のどれもが暗雲含み


ここで上に挙げた七つの案について、今の私からツッコミを入れてみましょう。
1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
↑ありえない。と、切り捨てたいところです。が、私と結婚した時点で妻と妻の父はずるずるとなし崩しで地代を払っていました。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
↑結婚当初の思惑どおり夫婦で働けていたらあるいは可能だったかもしれない案。でも妻が子育てに入ってしまい、当時の私にはそれだけの実力がありませんでした。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
↑契約の根拠が見当たらず、それでいて支払い実績がある以上、難しいという弁護士の先生の見解からもムリ目な案です。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
↑180坪の土地代を支払うだけの資金がない以上、当時は机上の空論でした。ですが本来は一番理想の案でしょう。なお、今の私の目標は、この案を実現させることにあります。この土地を買い戻せるだけの資力を得ること
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
↑一番堅実に見えますが、その分、難儀な案です。こちらに一切の思惑を読ませまいとする地主と私の間には、毎回の交渉の度に無言の火花が散っていました。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
↑表面だけをいえば、最終的にこの案に落ち着きました。ですが、当時はこの案が一番難儀に思えました。この案で落とし込むのは難しいだろうというのが、当時の私の肚づもりだったように記憶しています。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。
↑この案は魅力的でした。実際、私たち夫婦には第三者の心当たりがありました。ところが、この案はこの後の連載で書きますが、頓挫しました。

ここ数回の連載で書いた通り、私と妻の結婚生活には最初からさまざまなトラブルがついて回りました。
妻が子を産めないかもと告げられ、妊娠してからも強盗に襲われて切迫流産の危機に見舞われました。妻は大学病院を静養のため休み、私は正社員に登用されました。そして、長女が生まれてからは子育てに忙しい日々が始まりました。
結局、娘が生まれてから二年ほどは、家の現状を把握することで精一杯でした。
私は毎年末に地主のところに訪れて、地代を手渡し、領収書を受け取り、雑談に過ごしていました。決して内心の苦境を表さず、ポーカーフェースを保ちながら。

ところが、私もただ無策で過ごしていたのではありません。
この頃から次の一手を探り始めます。この時、うちら夫婦を助けてくれたお二人の方がいます。
次回の連載でご紹介したいと思います。ゆるく永くお願いします。


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22


天上の青 下


上巻を通して宇野富士男の性格は充分すぎるほど読者に披露された。一見すると穏やかそうに見えて話も達者。だが、一度、自分に都合の悪いことが起こると気の短さが爆発し、見境のない行動に走る。そういう性格の持ち主は、権威にも激しい敵意を示す傾向にあると思う。

富士男の悪い面は、偶然の出会いで車に乗せた少年に対して顕著に現れる。11歳のひどく大人びた、生意気な口調で話す少年。気圧された富士男は不機嫌が募ってゆく。少年は父が検事であることを誇示し、悪いヤツは罰せられるべきだと持論を振るう。少年との会話は富士男の衝動に火をつける。そして、「僕を殺したりすると、国家的損失だよ」の言葉に富士男の理性は吹き飛ぶ。自分よりもかなり年下の少年との会話にむきになり、自制のできない富士男の幼さが出てしまう瞬間だ。少年の死と家への帰りに引き起こした交通事故が富士男の命取りとなる。

逮捕と勾留。富士男を取り調べるのは、財部警部補と檜垣巡査部長のコンビだ。取調室で取り調べと韜晦のせめぎ合いが始まる。富士男がのらりくらりと尋問をかわしても警察の組織力が次々と矛盾を暴いてゆく。富士男視点で尋問は進むので、いわゆる犯人からの視点で物語が進む倒叙型のミステリーとでもいおうか。読者は富士男がいかにして尋問を切り抜けるのか、または、彼の狡知を警察がいかに破ってゆくかに興味を惹かれるはずだ。会話の巧みさを自負していた富士男をあざ笑うかのように、証拠が次々と富士男を打ちのめしにかかる。富士男と警察の駆け引きがとてもスリリングでリアルだ。私は著者の作品をあまり読んでいないが、推理小説作家としては認知されていないように思う。だが、取り調べのシーンは間違いなくミステリを読んでいるようだった。著者の作家としての筆力を見せられたように思う。

でも、いくら著者が達者に尋問経過を書き込もうと、本書は事件の意外な真相を描くのではなく、罪と罰、そして救いを描く小説だ。そのため、土壇場で予期せぬ事実が判明することはないし、富士男の替わりに真犯人が現れることもなく、まだ見ぬ共犯者が現れることもない。著者は富士男の罪の意外な事実を暴くよりも、波多雪子の無垢な視点で富士男の罪を考えさせる。それによって読者は波多雪子に興味の視点を注ぐのだ。波多雪子の心がどのように揺れ動き、富士男の罪とどう折り合いをつけてゆくのか。

波多雪子は獄中の富士男に向って手紙を書く。手紙の中で波多雪子が書いた一文にこのようなくだりがある。「お互いに小細工はよしましょう。生きることは小細工では追いつかない、骨太なシナリオを持っているように私は思うのです」。さらに、富士男がレイプした女性の家族がたまたま波多雪子の知り合いだったことから、一つの家族が富士男の行いによって崩壊しつつあることを非難し突き放す。一方で、富士男がたまたま車に乗せ、殺さずに会話を交わして送り出した女性は富士男との会話によって自殺を思いとどまる。その女性も波多雪子の知り合いだった。波多雪子は、富士男が一人の少年や家族を壊しただけでなく、一人の女性を救ったことも思い返す。波多雪子は、投函せずに手元に置いておくつもりだった手紙にお礼と続きを加え、手伝えることがあれば手伝うと申し出る。

取調室で自分だけが被害者だと世をひがんで見せる富士男。そんな富士男に、檜垣巡査部長が自分は捨て子だと明かし、富士男の甘ったれた根性にぐさりと切り込む。檜垣巡査部長は、取り調べに当たった刑事の中でも富士男の心情を見抜き、富士男の心を融かす波長をもつ人物だ。ちょうど大久保清にとっての落合刑事のように。そんな檜垣巡査部長は、富士男の人物を理解するための糸口を求めて波多雪子のもとを訪ねる。そこで波多雪子が語る「どなたにせよ、この世で私のことを思い出して訪ねて来てくださる方がいらっしゃるなんて、私、光栄だと思っていますから」という言葉は檜垣巡査部長を圧倒する。檜垣巡査部長は、この言葉だけで富士男と波多雪子の関係にただれた部分がなかったことを確信させたことだろう。そして檜垣巡査部長は、富士男が弁護士を紹介してくれるよう頼んでいることを波多雪子に伝える。富士男は、義兄の三郎がよこした国選弁護士の話を蹴ったのだ。波多雪子の紹介してくれた弁護士なら、という富士男。それを聞いた波多雪子は、自分こそが富士男にとって唯一残された蜘蛛の糸であることを自覚する。蜘蛛の糸とは、仏が地獄に垂らした一本の糸をさしているのだろう。罪人たちが我先にと糸にとりついたために、切れてしまった仏教説話は有名だ。波多雪子は富士男のこころを罪からすくい上げられるのだろうか。

知り合いに弁護士のいない波多雪子は、偶然、風見渚という弁護士と知り合う。宇野富士男の弁護を引き受けられないか、とおずおずと切り出す波多雪子に、風見渚はこう答える。「私、結婚するとき、主人に言われたんです。弁護士をやるなら、一生、道楽でやれ、って。最低食うだけは僕が引き受けてやる。だからお金になるかならないか、ということじゃなくて、この事件の弁護に自分が関わることが、自分にも相手にも意味がある、と思うものだけやれ、って言われたんです」。宇野富士男から波多雪子、そして風見渚へと弁護の糸は流れるようにつながってゆく。ここまでの流れに著者のご都合主義は感じられない。

今となってはもはや、宇野富士夫と大久保清の事件を比べることに意味は薄れつつある。なぜなら、波多雪子の視点が中心となった本書は、大久保清をモデルとしただけの小説ではなくなってきているから。それでもあえて私は大久保清の事件をベースに本書を読んでみたいと思う。私は大久保清の弁護人に選任された方の名前を知らない。その方が弁護人としての本書の風見渚のように高邁な哲学を持っていたのかも知らない。もし、大久保清に波多雪子や風見渚のような精神的な支柱があれば、さぞ心強かっただろうと思う。

波多雪子から宇野富士男にあてた手紙には、風見渚に弁護を頼んだことと、「人間は自分のことを人に語らせてはいけません。それは、第一自分に対して失礼です。」というくだりがある。大久保清は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」と題された手記を発表している。大久保清はそういう形で世間に対して自分を語ろうとした。この書を発行したのはアナーキストの肩書を持つ大島英三郎氏となっている。大島氏がどういう経歴の方かは知らないが、波多雪子が宇野富士男と書簡を交わしたように、大久保清も大島英三郎氏と書簡を交わしたのだろう。本書では以降、宇野富士男の心のうちが書簡の形で表現される。

宇野富士男が、現場検証で連れていかれた海を見て、感慨にふけるシーンがある。少し長いが引用してみる。
「富士男は静かに海の香りを鼻の穴に通した。そして眼をつぶった。その頬は微笑していた。その瞬間、彼は自分がどこに、どんな人生を背負って生きているかを忘れることができた。富士男は自分が小さな気泡になって海へ溶け込む実感を味わった。それは自分が無限に小さくなり、何者かに抱かれる感覚であった。小さくなると、自分の中に内包されていた悪も小さくなるのか。そうは行かない、と人々は言うであろう。しかし偉大になることに血道を上げる奴もいるとすれば、自分が小さくなることに安らぎを見出す人間もいる。それは、常に大きなものになろうと背伸びし、大きなものがいいものだと信じ、大きなものにしか存在の価値はないと思い込んできた常識に対する不遜な反抗の開館であった。」
「富士男は一瞬海に向かって頭を垂れた。富士男は海を見ることはこれが最後だろう、と予感した。だから富士男は海に訣別の挨拶を送り、もう一度しみじみとその無垢な喜びの色を見つめたのだった。」
このシーンは、多分、大久保清が生前出版した「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」を意識しているのだろう。私はその手記は読んだことがない。だが、この手記には詩も載っており、その中で大久保清はこのようなことを書いている。
「父母よ!私の骨と灰は
 あなたがたにお願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっとナホトカの港までゆくでしょう」

私はここにきて、著者が本書の舞台を三浦半島にした理由をおぼろげながら理解した。天上の青はアサガオの花弁の青。そして湘南の海の青、空の青。そして、自らの罪を清める清浄さの象徴としての青。罪は川となって流れ、海へと至る。そこに人の貴賤はない。人の裁きではなく、自然の、神の摂理によって罪は海へと流れゆく。その海の色はどこまでも青い。

富士男への書簡で、波多雪子はクリスチャンとしてキリスト教の話題を持ち出しては、富士男の心を少しでも改悛に導こうとする。だが、富士男は神だけは受け入れられないと拒絶する。波多雪子はそんな富士男のかたくなさに、少しも逆らわず、諭すように言葉をつむいでゆく。もともと自然の摂理に従い、自分に大いなる意志や役割を求めない姿勢で生きている波多雪子。人間の社会では全ては法廷という人による裁きの場で決着がつけられる。だが、波多雪子にとってはそうではない。キリスト教の教えでは、道徳については「裁くなかれ」と神がおっしゃったので人が人を裁くべきではないという。

そんな富士男に極刑の判決が下る。それにたいし、富士男は短く、
「たった一言、答えを聞かせてほしい。
 愛していてくれるなら、控訴はしない」
と。

波多雪子はそれに対し、
「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました。
 この一言を書くのに、この二日を、苦しみ抜きました」
と返す。

波多雪子はこの一言が宇野富士男の刑を確定させ、死に追いやったと深く思い悩む。富士男は欲望の赴くままに残虐に人を殺したが、自分もまた、同じ殺人の罪を犯したのではないか、と。

しかし、著者はそれとは逆のことを言いたかったのではないか。愛するという言葉は、富士男に控訴という自我を捨てさせた。富士男はとうとう改悛の情を示さなかったかもしれないが、彼は法廷で自らの自白をひるがえさず罪を認めた。それは罪を自覚したからの態度ではなかったか。そして、波多雪子からの愛しました、との言葉を受けて控訴せず罪に服した。これは一つの罪を悔いた態度とみてよいのではないか。著者は暗にこう問うているのではないか。波多雪子の愛は、ついに一人の殺人犯に自らの犯した罪を心の底から自覚させたと。

大久保清がここまでの境地に至ったのか、それは知らない。だが宇野富士夫は、波多雪子によって一つの境地に至ったのだと思う。シリアルキラーだったかもしれないが、一人の罪人として死ぬことができたに違いない。

‘2016/08/17-2016/08/19