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明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる


情報の溢れかえる現代。現代とは、情報から価値が急速に失われつつある時代でもある。つまり、情報は無料で手に入るが、情報量に反比例して情報自体の相対価値は減り続けているのだ。現代とは、情報に対して取捨選択するためのスキルが必要な時代でもある。

取捨選択するためのスキルとは、審美眼や知識の蓄積である。ある程度の知識を持っていないと、画一化された情報の下で同じような価値観を植え付けられることになる。最近のネットニュースの氾濫はまさにそうだ。油断していると釣り記事に引っかかり、シェアしてしまった後で決まりの悪い思いをすることになる。ここにきて、ネットに溢れる情報の真贋の見極めがいよいよ重要になりつつあるように思える。

それは逆に、情報発信者にとっては自らの発信する情報が人々に行き渡らなくなることを意味する。かつて情報を発信するためにはマスコミというフィルターを通す必要があった。今は情報が溢れかえるあまり、人々は情報を疑いの目で見る。釣り記事に釣られまいと滅多なことでは情報に食いつかなくなっている。

本書はそういった情報の相対価値が落ちた現代にあって、情報が伝達される形態を考察する。いかにして情報は伝わり、情報を発信した人と受け取った人の間に価値観の共有が行われるのか。もはや従来のマスコミュニケーションによる画一化された情報伝達が通用しない今、我々は何を受けとり、何を発信するべきか。本書から得られる示唆は多い。

私自身、二十歳過ぎの頃の自分を振り返ると、流行に乗るまいと抵抗していた気がする。トレンディ・ドラマには背を向け、オリコンでTOP10に入るような音楽からは耳を塞いでいた。替わりに興味を持っていたのは、ラテンアメリカの文学であり、ラテンアメリカの音楽であり、プログレッシブ・ロックの世界だった。すでに70年代に先鋭的な若者にとってさんざん持て囃されたそれらのジャンルを、遅れてきた青年として背伸びし、吸収しようとしていたのが私だった。

しかし本書では、流行に乗るまいと抵抗するまでもなく、そういったメインストリームの価値観が解体しつつあることを指摘する。人々は自分の信ずる価値観に集い、そこで価値観を同じくする仲間と過ごすことが主流となりつつある。インターネットの出現は、そういった行為をより簡単に成しえるようになった。

本書では、そういった情報の集いをビオトープと表現する。ビオトープとは本書に出ている定義によると「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」となる。水槽に海草を生やして魚たちの生態圏を作るようなものだ。つまり本書で著者が言うビオトープとは、情報の海に浮かぶ、価値観の似通った人々によって構成される情報の交換空間とでもいおうか。

ビオトープという情報の集約点が出来るようになったことで、情報発信者はビオトープ目がけて情報を発信するほうが早いことに気付きつつある。その例として、著者は音楽プロモーターの田村直子さんの事例を取り上げる。田村直子さんが発信しようとするのは、ブラジルのエグベルト・ジスモンチの来日公演の告知。ブラジル音楽好きとしては、エグベルト・ジスモンチの名は避けては通れない。私もCDこそ持っていないものの大物として存在は知っている。そして、日本においてはジスモンチの知名度はさほど高くなく、集客に苦労するであろうことも理解している。限られた時間と予算の中、効果的にジスモンチに興味を持ちそうな愛好家たち―ビオトープにどうやって告知を打つのか。そのやり方を、ネット時代の情報発信の手本として著者は紹介する。ジスモンチのビオトープの一つとして、私の好きなマリーザ・モンチのコミュニティも登場している。私にとってなじみのあるブラジリアン・コミュニティの数々が本章には登場し、私にとって親近感のある導入部となった。

第二章は背伸び記号消費の終焉と題されている。従来は大衆向けの一方通行の情報発信が主流だった。情報発信する手段が大衆には与えられていなかったためだ。しかしネットの発展は今や大衆に発信する力を与えている。しかし容易に情報を発信できるということは、すなわち承認欲求の生じる機会を増やすことにもなる。また、情報の流れに参加できないことは、孤立感や焦燥感などを産み出すことにもつながる。本章ではマスコミによる一方通行の情報発信の限界が語られる。そして、それとともに人と人とのつながりや承認欲求の高まりがかつてなく高まっていることが指摘される。ネット時代にあっては、大量消費大量生産大量発信の時代が終わりを告げ、個人の力による情報発信が重く見られつつあることを意味する。

第三章は、視座にチェックインするという新たな行動パターンを解説する。本章ではFourSquareのサービス紹介を中心に話が進められる。実は私は本書を読む前からすでにFourSquareを愛用している。私の場合は他人の視座からその地の風物を楽しむといった活用ではなく、単に私自身のライフログとしての活用なのだが。

FourSquareは、プライバシーの侵害に気を揉むことなく、ネットライフを満喫する手段としてはありだろう。そもそも私自身からしてSNSはそのように使うことが多い。つまり、他の方のアップするイベントの写真と文章からその方の視座から見た人生のヒトコマを楽しむ。私自身がアップするイベントの写真と文章によって、他の方に私の視座を提供する。私が妻と子供とどこに行ってどうしたという体験。この体験に共感し、私という人間の視座を面白がってくれる方には、投稿はよい効果を上げる。それが単なる飯テロやリア充自慢と受け取られてしまったとすれば、それは視座の提供以前の話で、拒絶されてしまっていることを示す。

そもそも、SNSやブログを例に出すまでもない。新聞や雑誌や書籍での文筆家によるエッセイの数々が、すなわち書き手の視座の提供に他ならなかったのではないだろうか。こう考えると、著者の主張する内容も分かる。また、ブログやSNSが流行る意味も理解できる。理解できるばかりか、私自身がSNSで発信を続ける意味についても得心がいった。

第一章で紹介されたビオトープ。私自身の価値観や視座を世の中に提供し、共に人生を豊かにするための場-ビオトープを作る。これこそがSNSやブログの存在意義と云えるのかもしれない。

FourSquareは本書を読んだ時点では、チェックインのみに特化したSwarmというアプリが分離され、しかも本書で紹介されているメイヤーやバッヂの機能が一旦廃止されるなど迷走に入ったかに見えた。現在はそれらの機能は復活したというものの、FourSquareもかつての勢いはないように見える。また、本稿を書いている2016年2月初旬ではSNSの状況も暗い。Google+は完全に頓挫し、Twitterも行く末に迷いが見える。Facebookですら、個人用途とビジネス用途の使い分けを模索しているようだ。SNSの活用方法については、単なる視座の提供や体験だけでは説明がつかない状況にあるといえる。これらの点をどう解釈し、どうプラットホームとして提供できるかが、今後のITを使ったコミュニケーション、つまりICTを語る際には欠かせない視点なのだろう。その答えはまだ出ておらず、SNSの各社ともに模索している状態だ。もちろん、その答えを5年前-2011/2に上梓された本書に求めるのは酷な話だ。

第四章はキュレーションの時代という題名が付されている。本書のタイトルと同じであり、本書の中核を為す思想が詰まっている。プロローグでジョゼフ・ヨアキムという画家のことが紹介される。七十歳になって絵を描き始めるまでのヨアキムの人生は、数奇ではあったが、無名のまま埋もれてもおかしくないものであった。それがたまたま通りに見えるように窓にぶら下げておいた絵が見出され、一躍美術界の寵児となる。つまり、ヨアキムの絵の価値が分かる人間にキュレーションされたわけだ。本章ではヨアキム以外にもキュレーターによって見出された画家が二人登場する。ヘンリー・ダーガーとアロイーズ・コルバス。

彼ら二人の創作活動は、完全に自分のためであった。自分の内なる衝動に導かれ、書かずにはいられなかった絵画。受け狙いや商売気など微塵もなく創られた作品は、キュレーターによって見出されなければ、埋もれたまま廃棄されてしまってもおかしくない。しかしそれを見出し、精神病者や孤独者の視座にチェックインし、その視座のまま世に紹介したのはキュレーターの手柄だ。つまり、いくら優れたコンテンツといえども、キュレーターの存在なしにはコンテンツたりえない。第二章で取り上げた背伸び消費は、キュレーションするまでもなく、対象が個人の嗜好や性格を無視した遍く広い大衆に向けてだった。しかしキュレーション過程を省いたことによって、コンテンツがコンテンツ自身の山に埋もれる結果を招いていた。しかしこれからのコンテンツは背伸び消費の視座ではなく、大衆という括りから外れたアウトサイダーの視座から生まれる。その視座を世に紹介するのがキュレーターの仕事。キュレーターとは創作者の作品に新たな意味を付与し、価値を与えるのが仕事の本質なのだ。

第五章では、それらキュレーターやコンテンツが流通する上で、プラットホームの重要性が改めて説かれる。プラットホームというと画一された価値観のもと、アートすらも一緒くたにして俎上に上げられるという印象が強い。しかし著者は多様性を担保するためには、プラットホームは欠かせないという。ここでいうプラットホームとは画一された価値観のことではなく、コンテンツが流通する上での仕組みとでも言おうか。利便性と交換性に優れたシステム。といえば当然インターネットが連想される。ここで著者がいうプラットホームとは、インターネットを指すと云っても間違いはあるまい。

つまり、コンテンツは、インターネットというプラットホームのもとでキュレーターによって見出され、流通される。流通の中で愛好家によって無数のビオトープが形成される。また、その中には旧い価値観では精神病患者としか見られなかった人々の作品までも含まれる。しかしそういった作品さえもが、精神病者に特有の芸術性を愛好するビオトープというコミュニティでは受け入れられるのだ。

ただでさえ広大な世界でネットを猟渉し、ビオトープを見つけ出す。これは至難の業といってもよい。また、ビオトープがないのなら、自分で作ってしまえという考えもまたありだろう。ただしビオトープを作りだすには、本書に登場したダーガーやコルバスやヨアキムの高みが必要となる。それこそ難易度の極めて高い、アーチストの域だ。

本書の論旨から考えるに、これからの表現者とはコンテンツの創造者とイコールではない気がする。むしろ、コンテンツを探しだし、それを世の中にキュレーションすることが表現者に必須のスキルとなるのではないだろうか。無論、コンテンツを産み出すだけではなく、その価値を自身で世界に広められることに越したことはない。だが、ビオトープを探し出すための嗅覚や、広めるためのプレゼン能力を備えることも、情報の発信者としてこれからの時代に求められる。それが著者の言いたかったことだと思う。

私にそれが出来るか。出来ると思うし、やるしかないだろう。私自身、誇れる部分として、サイボウズ社のクラウドアプリkintoneのβテスト時から将来性を見込んだことがある。これは今に至るまでkintoneエバンジェリストとしての活動の原点だ。また、ブログにアップしているメジャーではない本のレビュー執筆は、このところすっかり私の作業としてお馴染みになっている。私には出来る、と信じて進むのみ。

今後も私自身が情報発信者でありたいとすれば、引き続き努力するだけの話。私が表現者として認知されるかどうかは分からないが、本書で得られたキュレーションという営みから示唆をもらいつつ、文章書きの作業を続けていきたいと思っている。

’15/04/06-15/04/07


空飛ぶ広報室


本書は働く人々を描いた物語だ。

働き方には色んなスタイルがある。独り黙々と仕事をこなすやり方もあれば、侃々諤々議論をしながら進める方法もある。それは、一般企業であれ、個人事業主であれ、自治体であれ変わらない。様々な屈託や挫折を抱えた人々、夢や希望を持った人々が一つ所に集い、同じ目標に向かって任務を遂行する。それは本書の舞台である航空自衛隊航空幕僚監部広報室でも同じだ。

自衛隊という特殊な職場でも、仕事のスタイルは特殊ではない。それは、頭ではわかっているつもりだ。しかし、自衛隊を知らぬ我々部外者は、ともすれば自衛隊員を色眼鏡でみてしまう。陸自、海自、空自のいずれも、ストイックで何者をも寄せ付けないピリピリした隊員揃い。融通が利かず、アイドルにうつつを抜かすなどもっての他。我々はそんなステレオタイプな先入観を自衛隊員に対して抱いていないだろうか。私は薄ぼんやりとだが抱いていた。自衛隊員の知り合いが一人いるにも関わらず。

しかし、本書を読んだ後は、そのような先入観は一掃された。

本書には、空自広報室が舞台だ。そこでは、我々が持っていたステレオタイプな自衛隊員とは程遠い、血の通った人々が活き活きと仕事をしている。

彼らの任務は、日本国民に向けて自衛隊を広報すること。考えてみればおかしな話だ。自分たちが守っている当の国民に対する広報とは一体どういう意味だろう?しかし、自衛隊には現実に広報部署が陸海空それぞれに設けられている。これこそは、自衛隊が置かれた現状に他ならない。自衛隊がどのように国民から見られているか。それを払拭するために自衛隊の広報に従事する方々が何を思い、何を信じて働いているのか。本書は外部から客観的に見るのではなく、内部の視点で自衛隊を描いている。

自衛隊が世間にどう見られているか。そのことを最も感じられる部署こそは広報室だろう。やれ税金泥棒だの、やれ軍国主義復活の象徴だの。自衛隊に対する世間の風当たりは未だに冷たい。

本書の主人公空井二佐が、取材に来た帝国テレビの稲葉リカから投げ掛けられた言葉がそれを象徴している。

「だって戦闘機って人殺しのための機械でしょう?」

花形戦闘機パイロットとしての未来を交通事故で絶たれ、広報室に異動してきたばかりの空井。彼はこの言葉に立場を忘れキレてしまう。

「人を殺したいなんて思ったことありません!」

キレてしまった空井を諭すための鷺坂室長の言葉。その言葉が自衛隊の立場を端的に表している。

「暴論を黙って聞いてちゃいかんよ。」
「主張自体は正しいんだ。」
「その正しい主張をな、怒鳴っちゃ駄目なのよ」
「俺らの信条は専守防衛だからな」
広報室の任務を自覚し、自衛隊の立場を冷静に見据えた言葉だと思う。

本書は決して自衛隊を美化し、礼賛する小説ではない。これは本書全体を通しての一貫したトーンだ。自衛隊は国民の嫌われ者と自嘲するセリフ、またはそれに似た描写は本書のあちこちに散らばっている。今の自衛隊は、まだまだ国民に嫌われている。その現実は逃げない。本書もまた逃げずにその事実を直視している。

本書には戦後のGHQの民主化政策や、教育政策には全く触れない。国際関係や外交や地政学といったややこしい話もほぼ無縁。そもそも矛盾を孕んだまま産まれたのが自衛隊だ。その矛盾に各隊員が折り合いをつけつつ、任務をこなす。本書で活き活きと描かれる仕事風景は、一般企業や自治体でも見られる風景と同じといってもよい。本書が描き出す自衛隊内部からの視点は実に新鮮だ。見慣れた仕事風景のはずなのに新鮮さを感じるのは、どれだけ我々が色眼鏡で自衛隊を見ていたかの裏返しに過ぎない。内側から見ているからこそ、以下の紹介するような自衛隊の各所の特徴をつかみ、かつ自嘲するような四字熟語が作れる。

空自 勇猛果敢・支離滅裂
陸自 用意周到・動脈硬化
海自 伝統墨守・唯我独尊
統幕 高位高官・権限皆無
内局 優柔不断・本末転倒

本書は、無知で偏見のあるテレビディレクターの稲葉リカが取材と称して訪問してくるところから物語が動き始める。彼女へのレクチャー役を空井が担当するという設定が効いている。稲葉リカに自衛隊の基礎知識を説明する空井のセリフを通し、読者もまた、自衛隊の知識を得ることになる。読者は、さらに上に紹介したような空井と稲葉リカの感情のぶつけ合いを通して空井や稲葉リカのキャラも理解し、感情移入することになる。著者の手際は実によい。空井と稲葉リカのやり取りを通じ、読者は空井や稲葉リカの背景も知ることとなる。空井は自分に何の落ち度もない事故でパイロットの夢を絶たれた。稲葉リカはテレビ局で記者から外された鬱屈を抱えている。そして、自衛隊の存在に八つ当たりすることで、国民の自衛隊への態度を代弁した気になっている。本書の大まかな粗筋は、パイロットの夢絶たれた空井の再生であり、稲葉リカの自衛隊への認識改めといえる。そしてその中で微妙に育まれる二人の淡い恋模様である。

二人をめぐる広報室の面々も魅力的だ。いろんな屈託や希望を抱えた個性的な彼ら彼女らは、単なる二人の引き立て役ではない。章ごとに、彼らにスポットを当てた話作りがされている。

まず柚木典子三佐。幕僚長の前でも尻を掻くマイペース美人。残念な美人でありべらんめえ美人。だが、彼女には彼女の屈託があり、初めから残念な美人だったわけではない。その屈託の理由や、彼女がそれを乗り越える過程も本書で描かれている。それもまた、自衛隊が孕む問題の一つなのだろう。

続いて槇博巳三佐。防衛大学から柚木三佐との同期。残念な美人のつっこみ担当であり、柚木三佐からは風紀委員と揶揄されている。柚木三佐が残念な美人になった経緯を知るだけに、柚木三佐を気遣い、突っ込み役を敢えて引き受ける。真面目な四角四面の堅物だけの人物だけではなく、鷺坂室長を慕うなど、人情の機微も弁える人物でもある。

次いで片山和宜一尉。悪く云えば粗暴で雑。よく云えばアグレッシブ。空井をことのほかいじるが、それは広報に対する熱意の裏返しでもある。一般の広告代理店で研修を受けた経験がある。鷺坂室長を慕っているが、それ以上に比嘉一曹にライバル心とその裏返しの尊敬の念を抱いている。

さらには、比嘉哲広一曹。人当たりの良さと人脈の豊かさは長年の広報畑勤務の賜物。自他共に認める能力の持ち主ながら、広報室には経験豊かな下士官が必要との信念で、昇進に全く興味を示さない。わざわざ鷺坂室長が他基地の広報からスカウトして広報室に連れてきただけのことはある。片山一尉とは対照的なキャラクターながら広報室の重鎮という言葉が似合う人物。

最後に鷺坂室長。自衛隊の外からは広報室に詐欺師あり、と一目置かれる人物。アイドルには滅法詳しくミーハー。それでいて、広報業務を大所高所から観ることの出来る視野の持ち主で、正に広報室の要と云える人物。懐と器の広さで広報室をまとめ、駄目なものは駄目と一線を引くだけの見識を持っている。また、商談を仕切らせると海千山千のテレビマンも真っ青になるほどの話術の持ち主。

著者の後書きによると、本書の企画は空自広報室から持ち込まれたらしい。持ち掛けた人物こそ、鷺坂室長のモデルでもある方だとか。本書全体にみなぎる自衛隊への一本筋の通った明快な立場や考え方は、非常に説得力がある。それも室長自らが持ち掛けた企画であれば腑に落ちる。おそらくは著者も空自広報室で念入りにブリーフィングやオリエンテーションを受けたのだろう。他にも比嘉一曹のモデルとなった方など何人かの情報提供者によって本書は出来上がったとあとがきで著者が記している。しかし、そういった方々の助言も頂きながらも、本書をまとめたのは紛れもなく著者である。その筆運びには脱帽するほかはない。

航空自衛隊の鷺坂室長のモデルの方の思惑通り、本書は、自衛隊の最良の広報誌に仕上がっていると思う。まずは、自衛隊にアレルギーを持つ多くの人が本書を読むことを望みたい。自衛隊に勤める人々のことを「特殊な職業だけど特殊な人間ってわけじゃないんだなって」と思ってもらえるように。

国防や平和主義、国際関係やら竹島尖閣諸島北方領土云々。国防上、自衛隊の存在は必要だろう。でもそういったややこしいことを考える前に、まず自衛隊での仕事にもこういった仕事があるんだよ。ということを知っておいても良いと思う。私自身、阪神・淡路大震災の経験から、自衛隊に対する認識を改めた。だが、それでもなお、自分が自衛隊のことを何も知っていなかったこと。本書を読んでそのことを痛感した。

なお、本書の上梓直前に、東日本大震災が発生する。著者はそのため本書の刊行を延期し、松島基地の被害状況とそこでの空井と稲葉リカの再会の場を作る。ここは後から書き足したというだけに、すこし後付けの感は否めない。が、著者が刊行を止めてまで書き足しただけのことはあり、自衛隊を広報する上で打ってつけのエピソードがてんこ盛りだ。地震の日、空自の方々が自分たちのことを差し置いて、被災者の方々に何をしたか。

今、東日本大震災における自衛隊員の写真集が手元にある。そこに移っている姿こそ、被災者の私が阪神・淡路大震災で目撃した自衛隊の姿に他ならない。それまで自衛隊に対して良い感情を持っていなかった私が、自衛隊への認識を一新したのはあの地震での経験による。そのことを思い出させるようなエピソードが本書の最後に付け加えられたことは、懐かしいとともに嬉しかった。

‘2015/03/11-2015/03/12