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土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


バベル九朔


著者の作品の魅力とは、異世界をうまく日常に溶け込ませることにある。しかも異世界と現実をつなぐ扉を奇想天外で、かつ映像に映えるような形で設定するのがうまい。

関西の三都、そして奈良や滋賀を舞台とした一連の著者の作品は、どこも私の良く知る場所なだけに著者の発想を面白くとらえられた。

本書はそうした場所の縛りがない。おそらく、関東のどこかと思われる。どこかは分からないが、鉄道の駅のすぐそばに建つ古びた雑居ビルが本書の舞台だ。主人公は親族の残した遺産であるこのビルの管理人をしている。20台半ばでサラリーマンを辞め、作家を志望しつつ、日々小説を書く。時間に自由が利くこの仕事にうまい具合にありつき、日々を満喫している。

5階建ての雑居ビルは、祖父が建てたもの。歴史のあるこのビルの歴代のテナントは野心的なコンセプトの店が多い。なぜかは知らないが、祖父はそういうお店を積極的に入れるようにしていたのだとか。なので店子の入れ替わりが激しい。今の店は以下のテナントで構成されている。
地下一階「SNACK ハンター」
一階「レコ一」
二階「清酒会議」・・双見
三階「ギャラリー蜜」・・蜜村
四階「ホーク・アイ・エージェンシー」・・四条

本書の冒頭にはカラスが登場する。カラスといえば雑居ビルにはふさわしい存在だ。そして、カラスが本書の肝となって物語を動かしてゆく。カラスのような面相の女と、謎の男たちがバベル九朔に侵入し、狼藉を働く。やがて管理人である主人公の周りにも、そしてビルのあちこちにも怪しげなきざしが満ち始める。主人公の管理の範囲をはみ出し、ビルに歪みが生じ始める。そして異世界への扉が開く。

本書が描く異世界は、今までの著者の作品の中でも異質だ。今までの著者の作品は、現実の大阪や京都、奈良や滋賀に異質な世界が密かに浸してゆく構成だった。その時、登場人物たちはあくまでも現実側の人間でありつづけた。しかし本書は違う。本書は主人公が異世界の中に入り込む。だから、本書の現実の舞台は、どこかが曖昧に描かれる。どこかの鉄道駅のそばの雑居ビル、という事しかわからぬバベル九朔。現実の世界はそのビルの中に限定される。関西の特徴的な都市に頼っていた今までの作品とは違う。

現実が曖昧に描かれている分、異世界の描写は非現実的な描写が色濃く描かれている。こちらの現実世界の法則や風景は望めない。どうやって異世界の風景や法則を描き出すか。おそらくは著者にとっても難しい挑戦だったと思う。だが、著者は本書において、現実との差異を見事に描いている。メビウスの輪のように堂々巡りする世界。坂を上った先に坂の下の景色がひらけ、坂を下ると坂の上の景色が見える世界。時間と空間が歪み、堂々巡りする光景。

その異世界は、作家を志望する主人公の妄想と願望を結び付けさらには祖父の残した秘密にも関わってくる。そのあたりの描写がうまいと感じる。なお、本作の奥付けで初めて知ったが、著者は作家としてデビューする前、実際に管理人の仕事をしていたという。どうりで管理人のリアルな業務が描けるわけだ。

上にも書いた通り、本書が特徴的なのは、日常の暮らしと奇想の世界の書き分けだ。現実の世界に住む主人公は、リアルな現実感覚の持ち主として描かれる。作家を志望しているが、実直な管理人。だからこそ、主人公の目から見た異世界は異常に映る。そのギャップがいい。

本書の各章のタイトルは、管理人の定例作業からつけられている。
第一章 水道・電気メーター検針、殺鼠剤配置、明細配付
第二章 給水タンク点検、消防点検、蛍光灯取り替え
第三章 階段掃き掃除、水道メーター再検針
第四章 巡回、屋上点検、巡回
第五章 階段点検
第六章 テナント巡回
第七章 避難器具チェック、店内イベント開催
第八章 大きな揺れや停電等、緊急時における救助方法の確認
第九章 バベル退去にともなう清算、その他雑務
終章  バベル管理人
これだけを読むと、本書は何やらつまらなそうな内容に思えてしまう。だが、逆で面白く仕上がっていることは言うまでもない。

むしろ、ここに挙げた管理人の仕事が、異世界が現実を侵食する様子に一致しており、ここでも現実と異世界の描写がうまく書き分けられている事を感じる。どうやって描いているかは、本書を読んでいただくとして、その一致を楽しむと良いだろう。現実の世界の裏側には、常に幻想の世界が控えている。

今までの関西の諸都市を舞台に小説を発表してきた著者が、本書において新たな道を切り開いたことをうれしく思う。それは読書人の特権である、新たな世界への期待であるからだ。

著者はこれからどういう方向に進んでいくのだろう。幻想作家の道を選ぶのだろうか。それとも伝奇小説の分野に新境地を見いだすのだろうか。私にはわからない。だが、本書は著者にとって新たなきっかけとなるように思える。引き続き、新刊が出たら読みたいと思える作家の一人だ。


夜明け前のセレスティーノ


著者もまた、寺尾氏による『魔術的リアリズム』で取り上げられていた作家だ。私はこの本で著者を初めて知った。寺尾氏はいわゆるラテンアメリカにの文学に花開いた\”魔術的リアリズム\”の全盛期に優れた作品を発表した作家、アレホ・カルペンティエール、ガブリエラ・ガルシア=マルケス、ファン・ルルフォ、ホセ・ドノソについては筆をかなり費やしている。だが、それ以降の作家については総じて辛口の評価を与えている。ところが著者については逆に好意的な評価を与えている。私は『魔術的リアリズム』で著者に興味を持った。

著者は共産主義下のキューバで同性愛者として迫害されながら、その生き方を曲げなかった人物だ。アメリカに亡命し、その地でエイズに罹り、最後は自殺で人生に幕を下ろしたエピソードも壮絶で、著者を伝説の人物にしている。安穏とした暮らしができず、書いて自らを表現することだけが生きる支えとなっていた著者は、作家として生まれ表現するために生きた真の作家だと思う。

本書は著者のデビュー作だ。ところがデビュー作でありながら、本書から受ける印象は底の見えない痛々しさだ。本書の全体を覆う痛々しさは並みのレベルではない。初めから最後まであらゆる希望が塗りつぶされている。私はあまりの痛々しさにヤケドしそうになり、読み終えるまでにかなりの時間を掛けてしまった。

本書は奇抜な表現や記述が目立つ。とくに目立つのが反復記法とでも呼べば良いか、いささか過剰にも思える反復的な記述だ。これが随所に登場する。これらの表記からは、著者が抱えていた闇の深さが感じられる。それと、同時にこう言った冒険的な記述に踏み切った著者の若さと、これを残らず再録し、修正させなかった当時の編集者の勇断にも注目したい。私は本書ほど奇抜で無駄に続く反復表現を読んだことがない。

若く、そして無限に深い闇を抱えた主人公。著者の半身であるかのように、主人公は虐げられている。母に殺され、祖父に殺され、祖母に殺され。主人公は本書において数限りなく死ぬ。主人公だけではない。母も殺され、祖父も殺され、祖母も殺される。殺され続ける祖母からも祖父からも罵詈雑言を投げつけられ、母からも罵倒される主人公。全てにおいて人が人として認められず、何もかもが虚無に漂い、無に吸い込まれるような救いのない日常。

著者のような過酷な人生を送っていると、心は自らを守ろうと防御機構を発動させる。そのあり方は人によってさまざまな形をとる。著者のように自ら世界を創造し、それを文学の表現として昇華できる能力があればまだいい。それができない人は自らの心を分裂させてしまう。例えば統合失調症のように。本書でも著者の母は分裂した存在として描かれる。主人公から見た母は二人いる。優しい母と鬼のごとき母。それが同一人格か別人格なのかは文章からは判然としない。ただ、明らかに同一人物であることは確かだ。同一人物でありながら、主人公の目に映る母は対象がぶれている。分裂して統合に失敗した母として。ここにも著者が抱えていた深刻な状況の一端が垣間見える。

主人公から見えるぶれた母。ぶれているのは母だけではない。世界のあり方や常識さえもぶれているのが本書だ。捉えどころなく不確かな世界。そして不条理に虐待を受けることが当たり前の日々。その虐待すらあまりにも当たり前の出来事として描かれている。そして虐待でありながら、無残さと惨めさが一掃されている。もはや日常に欠かせないイベントであるかのように誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺される。倒錯し、混迷する世界。

過剰な反復表現と合わせて本書に流れているのは本書の非現実性だ。\”魔術的リアリズム\”がいう魔術とは一線を画した世界観。それは全てが非現実。カートゥーンの世界と言ってもよいぐらいの。不死身の主人公。決して死なない登場人物たち。トムとジェリーにおける猫のトムのように、ぺちゃんこになってもガラスのように粉々になっても、腹に穴が開いても死なない登場人物たち。それは\”魔術的リアリズム\”の掲げる現実とはかけ離れている。だからといって本書は子供にも楽しめるスラップスティックでは断じてない。なぜなら本書の根底に流れているのは、世界から距離をおかなければならないほどの絶望だからだ。

むしろ、これほどまでに戯画化され、現実から遊離した世界であれば、なおさら著者にとってのリアルさが増すのではないだろうか。だからこそ、著者にとっては本書の背景となる非現実の世界は現実そのものとして書かれなければならなかったのだと思う。そう思わせてしまうほど本書に書かれた世界感は痛ましい。それが冒頭にも書いた痛々しさの理由でもある。だがその痛々しさはもはや神の域まで達しているように思える。徹底的に痛めつけられ、現実から身を守ろうとした著者は、神の域まで自らを高めることで、現実を戯画化することに成功したのだ。

あとは、著者が持って生まれた同性愛の性向にどう折り合いをつけるかだ。タイトルにもあるセレスティーノ。彼は当初、主人公にとって心を許す友人として登場する。だが、徐々にセレスティーノを見つめる主人公の視点に恋心や性欲が混じりだす。それは社会主義国にあって決して許されない性向だ。その性向が行き場を求めて、セレスティーノとして姿を現している。現実は無慈悲で不条理。その現実を乗り切るための愛や恋すら不自由でままならない。セレスティーノに向ける主人公の思慕は、決して実らない。そしてキューバにあっては決して実ってはならない。だから本書が進むにつれ、セレスティーノはどんどん存在感を希薄にしてゆく。殺し殺される登場人物たちに混じって、幽霊のように消えたり現れたりするセレスティーノ。そこに主人公の、そして著者の絶望を感じる。

繰り返すが、私は本書ほどに痛々しい小説に出会ったことがない。だからこそ本書は読むべきだし、読まれなければならないと感じる。

‘2017/08/18-2017/08/24


1Q84 BOOK 3


BOOK 1とBOOK 2で幻想は現実を蚕食し、過去と現在は和解されつつあった。BOOK 3である本書はそれらはどのように和解され続けるのだろうか。

お互いの存在を意識し、探し合うようになった青豆と天吾。二人がいかにして、どこでいつ出会うか。本書はそのすれ違いが摩擦を生み、それが摩擦熱となって過剰な現実を消し去っていく。

牛河は教団の依頼を受け、教祖暗殺犯である青豆を追う。潜伏する青豆は、性行為のないまま、受胎する。それはちょうど、天吾が父の療養所を訪ねた際、その療養所の看護婦と性行為を行ったタイミングに合致する。現実と幻想が融けあった瞬間である。

探し求める天吾の子であると固く信じ、潜伏先でお腹の子を慈しむ青豆。お互いの結晶であるそれは、いうまでもなく、現実と幻想の融和の象徴であり、その誕生と二人の再会は、物語の大団円を意味する。

BOOK 2でもすでにその饒舌を遺憾なく発揮していた牛河は、雑然とした現実の中でも、特に汚れた部分の体現者である。彼はその優れた実務能力を最大限に活用し、青豆の行動を追い続ける。その様は滑稽であり、戯画的である。現実と幻想の融和がテーマとなる本書の中で、牛河は何を表しているのだろう。それこそが過剰な現実というやつではないだろうか。

BOOK 1 のレビューで「茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作」と書いた。テーマを浮かび上がらせるため、1Q84の3作では現実に敢えて近づいた描写を見せた著者だが、雑多な日常には依然として関心が薄いように見える。著者の理想とする現実。それは幻想と融和しても違和感のない現実であろう。政治やITや喧噪といった現実は眼中にないのであろうし、大した価値も置いていないに違いない。牛河の偏執狂的な監視生活の描写を読むと、今の現代社会の余裕のなさを風刺したようにも読める。結果として牛河は、青豆の依頼を受けたタマルに苦しい死に様を強いられる。その死に様は見にくく、死後も教団によって事務的に死を取り扱われ、初めからいなかったかのように死体のまま台に放置される姿は哀れを誘う。

牛河の転落前の人生のヒトコマとして、中央林間の一戸建ての生活イメージが随所に挟まれる。著者が牛河を通じて提示した汚れた現実という価値観。平凡な人生の象徴である郊外のマイホームが、実は汚れた現実の発信源とでも言いたげな描写である。本書で示される幻想と融和する現実とは対極であり、私を含めたほとんどの読者にとって苦い現実である。著者はそういった汚れた現実を否定し、現実と幻想が融和する際に発する熱で消し去ろうとしている。

青豆と天吾の再会、つまりは現実と幻想の融和は、本書の最初から予測がついた結末であり、読者にとってカタルシスとは遠い結末なのかもしれない。しかし青豆と天吾が互いに描いていた、小学生からの純粋な愛が結ばれる様を読んでいると、現実と幻想の融和も不可能ではない、という気にさせられる。

汚れた現実ではなく、どの現実を幻想と融和させるのか。それこそが本書の一番のテーマであり、著者が現実をあえて書いてまで表したかったことなのかもしれない。

’14/06/04-‘14/06/07


きのうの世界


夜のピクニックの印象が深く、新たに手に取ってみた。

最初のほうの人称が独特で、数々の細かい謎を積み重ねていくところ、だんだんどこに連れて行かれるのかわからない筋道を追っていくことになる。

そもそも何が謎なのかすら、どこに向かっているのかも分からなくなるなど、幻想小説のような感じ。

なかなかに読後感も不思議なものがある。

’11/10/25-’11/10/28