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原爆 広島を復興させた人びと


広島平和記念資料館を私は今までに三度訪れたことがある。1995年、1997年、2013年。
それぞれの訪問のこともよく覚えている。中でも初めて訪れた時の印象は強烈に刻まれている。
投下から五十年目の前日、8/5の朝を原爆ドームの前にテントを立てて野宿で迎えた私。その後に訪れたのが初訪問だ。
翌朝、8/6の投下時刻には、他の大勢の方々とともに原爆ドームの前でダイ・インに参加したことも懐かしい。

平和記念資料館を訪れると、東西に分かれたそれぞれの棟をつなぐ渡り廊下のガラス窓を通して平和記念公園が一望できる。完全に計算された配置は機能的で洗練されている。
洗練された公園の整備は、このあたりが原爆によって更地にされたからこそ実現した。資料館の中を訪れると、無残で悲惨という言葉しか絞り出せない被曝の資料の数々が私たちの胸を打つ。それらは、一瞬でなぎはらわれた荒野に残された痛ましいモノたちだ。

資料館、広島平和記念公園、平和大通り。この三つを含む地域は、川の対岸の原爆ドームや相生橋、元安橋と合わせて、平和都市広島を象徴している。

被曝で75年は草木も生えぬ、と言われた焼け野原の広島。その都市を復興させ、平和の尊さを世界と未来に伝え続けるシンボルとして整備を行ったのは誰か。膨大な資料館の展示品は、そもそも誰が最初に集めたのか。
本書はそうした巨大な事業に関わった四人の物語だ。

資料館に展示された膨大な展示物の中から、最も印象に残る物は、人によっていろいろだろう。
その中でも、実際に被爆し、亡くなった方が被爆当時に身に付けていた服は、実物そのものであるだけに、来館者の心に強く刻まれるに違いない。
でも考えてみてほしい。その展示物とは、着ていた方の肉親にとっては、亡くなった方の唯一の形見である場合も多いのだ。
遺族にとっては、亡くなった息子や娘を思い出すよすがとなる遺品。そうしたかけがえのない遺品が資料館には陳列されている。この事実に今の私たちはもっと意識を向けるべきだろう。
ただ単に歴史の証として展示されているのではない、ということに。

本書の主役は、膨大な被曝の収集物を集め、初代の平和資料館館長に就任した長岡省吾さん、原爆市長と称された浜井信三市長、広島の平和都市として都市計画を設計し、出身である広島に報いた丹下健三さん、そして自らが被爆者でありながらその被曝の思いを世界に発信し続けた高橋昭博さんの、四人だ。

被爆後のあたり一面の焼け野原に公園を設計し、整備し、シンボルを創り出す。
私のように都市計画を知らない素人には、人も家もないため、かえって楽じゃないかなどと考える。
だが、そうではない。
原爆の惨禍からかろうじて生き延びた人々は家を失っている。生き延びた彼らは、これからも生きるために家を確保しなければならない。ありあわせの材料をかき集め、バラックの家を建てる。
誰もいない荒れ地には、都市計画も道路計画も無意味だ。所有権も借地権も証明する書類は全て灰になり、証明する人もいない。あり合わせの材料で建てられたバラックも、被曝した人々が長らく住み続ける間に居住権が発生し、市当局はますます都市整備がやりにくくなる。

浜井市長が当選し、広島市の復興に向けて立ち上がった当時の昭和22年の広島は、そんな混乱の時期だった。
平和公園などを立案する以前に、現実に市民の最低限の生活をどうするか、という目先の仕事で精いっぱいの時期。
復員などで人が増えるにつれ、無秩序が市を覆い始めていた。そのような都市をどうやって平和都市として蘇らせるのか。それは、市政の先頭に立つ浜井市長の手腕にかかってくる。
浜井市長はもともと東大を出ながら結核で広島に帰郷し、広島市役所に奉職せざるをえなかったという。いわば挫折の経歴を持った方だ。
原爆の投下当時は配給課長として、被爆市民にいかに食料や衣料を提供するかの困難な課題に立ち向かった人物だ。戦後、その功績が認められ助役に、そして市長に推される。
原爆市長として十六年の間、市長を務める中で、粘り強く都市計画をやり遂げた功績は不朽だ。その困難な市政を遂行するにあたり、浜井市長が育んできた経験や人生観が大きく影響したことは間違いないだろう。

そして、丹下健三さん。
世界的な建築家として著名な方である。
広島平和記念資料館が実質的な建築家としてのデビュー作だそうだ。
デビューまでにも、丹下氏は幾度も挫折に遭遇し、それを乗り越えてきた。特に、死を前にした父を見舞おうと広島に向かう途中、尾道まで来たところで原爆が投下されたこと。父はすでに八月二日に亡くなっていたこと。五日から六日にかけての今治空襲で母を亡くしたこと。
原爆投下の前後に起こったこれらの出来事は、丹下さんの一生を通して、原点となり続けたに違いない。
高校時代を過ごした丹下さんの広島への想いが、平和大通りの横軸と、平和祈念資料館、慰霊碑、原爆ドームを通す縦軸への構想を生み出す原動力になったと思うと、平和記念公園を見る目も変わる。

丹下さんは、平和祈念公園を手がける前にも復興計画についてのコンペ募集があり、その時に挫折を経験していた。
さらに平和祈念公園ができた後も、平和のシンボルとなった公園を巡ってはさまざまな人々の思惑や暗躍が入り混じる。

本書を読んだきっかけに丹下さんのことをウィキペディアで調べると、手掛けた代表作のリストに私ですら知っている建物の実に多いことか。入ったことがある施設だけでも二十カ所近い。あらためて丹下氏に興味を持った。

長岡省吾さんの人生も実に陰影が深い。
若い頃に満州で過ごし、そこで現地の陸軍特務機関に入ったことで、一生をその経歴につきまとわれることになる。
鉱物に興味をもち、在野の研究者として活動した後、内地に戻る。在野の研究者として名が通っていたため、広島文理大学の地質学講師に職を得るが、研究者としては経歴が弱かったことが災いして不遇の日々を送る。

被爆後、経歴と興味から被爆遺物の収集を開始した長岡さんは、原爆の研究も開始する。
その努力は、後に初代の資料館館長に推されることで報われる。ところが経歴の不足が足を引っ張り、それ以上の待遇が長岡さんに与えられることはなかった。冷遇され続けた長岡さんは、個人で原爆研究を続けるためにUCAAにも籍を置く。だか、そこでも論文の署名が末尾に置かれるなど、長岡さんの不遇には同情するほかはない。

平和資料館の展示内容が、国や政府の思惑によってで原子力の平和利用の展示が追加されるなど、長岡さんの思いは裏切られ続ける。
長岡さん自身がUCAA活動によって市や資料館との関係が疎遠になったり、出征していた長岡さんの子息が戻ってきて対立したり、と長岡さんと資料館の関係は長年、良好とは言い難かった。
長岡さんの経歴には不明な点が多く、ウィキペディアにも独立の項目はない。
本書で著者が一番苦労した点は、長岡さんの経歴を調べることにあったようだ。長岡さんもまた、戦争に人生を狂わされた一人であることがわかる。

高橋さんは、資料館の展示でも著名な「異形のツメ」の持ち主だ。
投下の瞬間、屋外の作業に従事させられていた大勢の中学生が熱線をモロに浴びた。高橋さんもその一人。
死ぬまでの何十年の間、異形のツメは生え続けた。反核の活動者として、広島市の職員として、後には資料館の館長にもなった高橋さんの記憶に被曝の体験が残っている間。

被爆のケロイドとどのように向かい合い、葛藤をどのように乗り越えたのか。
長岡さんの後継者として目をかけられたが、長岡さんのように被爆資料と向き合うことができず、苦痛のあまり、一度は後継者にと目をかけながらも袂を分かった高橋さん。
被爆の瞬間を70キロ離れた場所で迎えた長岡さんと、1.5キロの至近で浴びた高橋さんには被爆物への思いの桁が違うのだろう。

高橋さんは、原爆ドームの保存を決断した浜井市長やそれに賛同した丹下さんの力も得て、原爆ドームの保存運動に市の担当者として貢献する。
なお、高橋さんは結婚したが子孫を残せなかったという。それは被爆の影響が大きいのだろうが、かわりに原爆ドームという平和のシンボルを残せたことで、わずかにでも心が安らいだのなら良いのだが。
著者は高橋さんの奥様にもインタビューを行っている。まさに奥さまが語った言葉が高橋さんの思いを代弁していることだろう。

本書は、かたちあるものを残すことの困難と、残すことができた建造物がいかに人類に永く影響を与えられるか、を示している。
私は今まで、人工の建造物に対しては山や滝を見るよりも思い入れが少なかったが、本書を読んで思いが変わったように思う。

本書には、高橋さんの体験だけでなく、資料館に陳列された遺品の持ち主の遺族のインタビューもかなりの数が挿入されている。読んでいて涙が出そうになる。
資料館では説明パネルの枠の幅から、遺品の背後にある被爆者の思いの全てが汲み取りにくい。
だが、著者はきちんと遺族を訪ね、インタビューを行ったのだろう。言葉の1つ1つにあの日の血と肉が流れているようで痛ましい。肉親をなくした悲しみが文章から吹きこぼれ、私に迫ってくる。

著者の取材は丁寧で、文体も端正。
私が知らなかった資料館の展示に一時、原子力の平和利用があったことや、浜井市長が一度落選した経緯、反核・非核の運動の紆余曲折など、押さえるべきところを押さえた内容はお見事だ。
そして、20代の初めにヒロシマを訪れ、ヒロシマから影響を受けながら、とうとう本書のような作品を書こうともしなかった私自身が本書から受けた感銘は深い。

著者の作品を読むのは本書が初めてだが、他の作品も読んでみたいと思った。
本書は広島を描いたノンフィクションとして、私の中では最高峰に位置する。

‘2019/9/4-2019/9/4


本音で語る沖縄史


本書を読み始める前日までの2日間、沖縄を旅していた。私が沖縄から得たかったのは海での休息ではない。それよりもむしろ、沖縄の歴史や文化からの学びだ。そのために私が訪れた主な場所は以下のとおり。泡盛酒造所。旧海軍司令部壕。平和祈念資料館。斎場御嶽。ひめゆりの塔。旅行の道中については、以下のブログにまとめている。ご興味のある方は読んでいただければ。
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/18
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/19
 ・沖縄ひとり旅 2017/6/20

沖縄を訪れるのは22年ぶり2回目のこと。今回訪れた場所はひめゆりの塔の他はほとんど初訪問。だからこそ全ては新鮮だった。そして多くの気づきを私に与えてくれた。これらの場所が私に教えてくれたことはいくつかある。大きく分けるとすれば二つ。それは、日本にありながら違う文化軸を擁する琉球の魅力と、近世の琉球史が絶え間ない波乱の中にあった事だ。

特に後者についての学びは、私に沖縄の歴史とは現代史だけではない、という発見を与えてくれた。その発見は私に、沖縄についての歴史とは、現代史だけに焦点が当たりすぎてはいないか、という次の疑問をもたらした。とはいうものの、私自身が今まで持っていた沖縄への歴史認識とは、沖縄史すなわち現代史だった。それは率直に認めねなければならない。沖縄戦の悲惨な史実は常に私の胸の奥に沈んでいた。22年前に訪れたひめゆりの塔。そのホールに流れるレクイエムの強烈な印象とともに。だが、沖縄戦を考える時、私の中にあったのは、なぜ沖縄戦が行われなければならなかったかという疑問だ。そして沖縄の人が内地に対してもっている感情の落としどころがどこにあるのか、ということだ。それは、現代史よりもさらに遡り、沖縄=琉球の歴史を理解しなければ到底わからないはずだ。

大本営が沖縄をなぜ捨て石としたのか。その理由の大半は、戦局の推移と沖縄が置かれた地理的条件によるだろう。だが、本当にそれだけで片付けてよいのか、というモヤモヤもあった。沖縄戦が行われた背後には、今の平和な本土の人間が思いも寄らない文脈が流れていたのではないか、という疑問。それが私の中に常にあった。そして、沖縄戦に巻き込まれた人々が今、日本にどのような思いを抱いているのか。それは琉球処置、沖縄戦、占領期、本土復帰を含めてどのような変遷をへてきたのか。沖縄が日本に属することで得られるものはあるのか。日本から独立したい願いはあるのか。今もなお、沖縄の人々は複雑な感情を抱いていることだろう。内地の人間として、その感情を無視して日本にある米軍基地の大半を負担してもらう現状を是とするのか。または海外からの影響が沖縄に及ぶ現状を指をくわえてみているのがよいのか。それらの知見は、私が今後、基地問題についてどういう意見を発信するかの判断基準にもなるはずだ。いったい沖縄の人々は沖縄戦をどう受け止め、どう消化しようとしているのか。

私はその疑問を少しでも解消したいと思い、沖縄へ向かった。初日に訪れた旧海軍司令部壕でも平和祈念資料館でもその疑問は私の中で強まるばかりだった。旧海軍司令部壕では大田実中将の電文を読み、軍の責任者がこういう責任を感じていた志を知った。平和祈念資料館で得た知識や気づきは多かったが、祈念館が取り上げていたのは、琉球仕置以降の沖縄史。そのため、琉球文化の根源や、沖縄戦に至った根本的な理由はついにわからずじまいだった。

その疑問が少し形をとったのは、二日目に斎場御嶽を訪れた時だ。斎場御嶽の奥、三庫理から見える久高島。それは一つの啓示だった。それを観て、私の疑問が解消される道筋が少しだけ啓かれたように思う。それは、沖縄が受け入れる島である、ということだ。久高島とは、琉球の創世神アマミキヨが初めに降り立った島という伝説がある。だからこそ、久高島を遥拝できる斎場御嶽が沖縄で最高の聖地とされているのだ。

沖縄が受け入れる島である、という気づきは私の沖縄についての見方に新たな視点を加えた。ところがこの旅の間、琉球の歴史を紹介する博物館を訪れる時間がなかった。それもあって、旅から戻った私は琉球の歴史を学び直したい、との意欲に燃えていた。単に「基地反対」と唱えているだけだと何も変わらない。かといって今の現状がいいとも思えない。いったいどうすればよいのか、という問題意識は、同じく基地問題に困っている町田住民としても常に持っておきたい。だからこそ、本書を手に取った。本書は私の意欲に応えてくれた。私が知りたかったのは、沖縄をイデオロギーで捉えない史観。本書のタイトルはまさに私の思いを代弁していた。

「まえがき」で著者はいう。「琉球・沖縄というと、とかく過酷な歴史がクローズアップされ、「悲劇の島」として描かれるケースが多い。また、その裏を返すように王朝の華やかなロマンティシズムが強調されることも少なくない。が、そのような被害者の視点や耳障りのいい浪漫主義だけでこの島の生い立ちを語ることは意識して避けた。」(2ページ)
この視点こそ、まさに私が求めるもの。

琉球を無邪気に被害者だけの立場で捉えてはならない。琉球は加害者としての一面も備えている。本書はその側面もしっかり描いている。ともすれば、われわれ内地の人間からは、琉球が加害者であるとの視点が抜けてしまう。ところが琉球を被害者としての立場だけでみると、大切なものを見落としかねない。どういうところが加害者なのか。代表的なのは、沖縄本島から宮古島や八重山諸島へ課した苛烈な人頭税。これは歴史に残っている。薩摩藩の支配下に置かれ、年貢を求められた琉球王朝は、米の育たない島の住民を人頭税の代替として、強制的に米の育つ島に移住させるなどの施策をうった。そのいきさつは本書が詳しく触れている通りだ。

もちろん薩摩藩からの重税のため、やむを得ない政策だったのだろう。とはいえ、弱いものがさらに弱い者をたたくかのような政策は琉球の黒歴史といえるはず。為政者による政策だったとはいえ、琉球もまた、加害者の一面を担っていた。それは忘れてはならない。その視点を持ちつつ、本書を読み進めることは重要だ。

そして、被害者と加害者を考える上で、本島と八重山諸島の間にあった格差。それも見逃すわけにはいかない。その格差が生まれた背景も本書には紹介されている。上に書いた人頭税こそ、その顕著な事例だ。そもそも八重山諸島が本島による収奪の対象となったきっかけ。それは本書によれば、オヤケアカハチが石垣島で宮古島と本島に反乱を起こし、敗北したことだという。そのほかにも与那国島を統治し、人々から慕われたサンアイ・イソバの事績もある。八重山諸島には伝承されるべき逸話が数多くあり、そこには琉球と違う統治者がいたのだ。つまり、われわれが沖縄を無意識に離島と見なすように、沖縄本島からみた八重山諸島も離島なのだ。そして、そこには従わせるべき人々が存在した。その上下関係は無視できない。その関係を本書で学んだことは私にとって大きい。本書を読むまで、私はオヤケアカハチのこともサンアイ・イソバのことも知らなかったのだから。

本書を読むと気づくことがある。それは琉球の歴史とは周りを囲む強国との国際関係の中にあったことだ。だから本島の中だけで完結する歴史は、本書の中でさほど紙数が割かれていない。各地の豪族が按司として割拠し、それが三山(北山、中山、南山)の有力豪族に集約されていったこと。尚巴志が戦いと治世に才を発揮して三山に覇業を唱え、尚氏王朝を打ち立てた逸話。第一尚氏から、農民出身の金丸が台頭して第二尚氏の王朝を打ち立てる流れ。沖縄を王国として確固たるものにした尚真王の時代。その頃の琉球の歴史は、まだ琉球の中だけで完結できていた。

ところがその間も、琉球と明や清、薩摩の島津家との関係は常に何らかの影響を琉球に与えていた。それらの影響は具体的には平和的な朝貢関係として処理することができた。ところが平穏な日々は薩摩藩の侵攻によって終わりを迎える。それ以降の本書は、薩摩藩の支配下に組み込まれた琉球を立て直すための羽地朝秀による改革や、蔡温による徹底的な改革など、外地との関係の中にいかにして国を存続させるかの苦心に多くの紙数を割いている。戦国武将による琉球への野望や薩摩藩の侵攻、ペリー来琉、琉球処置、人頭税廃止、沖縄戦。琉球の歴史を語る上で欠かせない出来事は、島の外部との関係を語ることなしに成り立たない。

本書は琉球の周辺国との関係史を詳しく語る。とくに薩摩藩の侵攻に至るまでの経緯は、秀吉の朝鮮侵略の野望を抜きに語れない。戦国が終わり、朝鮮の役で悪化した明との関係修復。それのために琉球を利用しようとした徳川家康の思惑。薩摩藩による侵攻の背後には、そのような事情が絡んでいた。その事情がどう絡んでいるのか。薩摩藩の支配下に組み込まれたことは、琉球の歴史にとって重大な出来事だ。なぜ薩摩は琉球に目をつけ、なぜ琉球は清と江戸幕府の二重朝貢を受け入れたのか。その事情を知っておくことは、琉球の歴史を知る上で重要だ。ペリー来琉から琉球処置に至るまでの流れも本書を読むと理解できる。琉球が背負う宿命とはつまるところ、日本と大陸の間に位置していることにある。その地理的条件は動かしようがない。琉球の地政的な位置に目を付けた日本と中国の板挟みにあい、さらに太平洋に進出した米国からの干渉も受けざるをえない。それが琉球の歴史と運命を左右してきた。その端的な結果こそ、沖縄戦である。そして、アメリカ軍政下に置かれた琉球政府としての日々だ。

それらの出来事だけをみると、琉球は確かに被害者だ。だが、先に書いたとおり、琉球は加害者としての一面を持っていた。そして、加害者としての一面は、周辺諸国との身をすり減らすような関係から生まれたことも考慮しなければなるまい。私は著者が宣言したようにロマンティシズムや被害者の立場だけで語らないとの言葉に賛成だ。その上でなお、沖縄が被害者だったことも忘れてはならないと思う。琉球とは一面的に見て済ませられるほど単純な島ではないのだ。

そこには為政者の立場と民衆の立場によって置くべき価値観も違ってくる。なので、批判されるべきは、当時の緊迫した国際情勢も知らず、首里城でロマンティシズムに溢れた王朝文化を築いていた人々だろうか。国を生かすことに苦心した政治家もいたが、おおかたは、状況を受け入れて初めて対策を打ってきた。受け入れに終始し、打って出なかったといってもよい。あえて批判するとすれば、そこにある気がする。

だが、王朝文化の爛熟があってこそ、琉球文化が生まれたこともまた事実。王朝文化もただ非難して済むものでもあるまい。第二尚氏の早期に久高島への参拝の慣習はすたれたそうだ。だが、アマミキヨがやってきたニライカナイに対する憧憬や伝承は、失われることはなかった。聞得大君の存在、組踊の創始、泡盛や琉球料理の数々。それらはニライカナイやアマミキヨへの畏敬の念なしには成り立たない。そして、これらは間違いなく今の沖縄の魅力にもつながっている。

本書は琉球の文化を語ることが主旨ではない。なので、文化史への言及はほとんどない。だが、文化史を語るには、王朝のロマンティシズムに触れないわけにはいかない。著者は被害者意識やロマンティシズムを排した視点で琉球史を語る、という切り口で琉球史を語った。それもまた、沖縄に対する態度の一つだ。その視点からでしか見えない沖縄は確実にあると思う。だが一方で、王朝文化やロマンティシズム、被害者の立場が今の沖縄を作り上げていることも事実。だからこそ、両方の立場から書かれた本があるべきなのだと思う。本書のような立場で沖縄は描かれるべきだし、逆もまたそうだ。本書は琉球を知るために欠かせない一冊として覚えておきたいと思う。琉球を学ぶとは、かくも奥深いことなのだ。

‘2017/06/21-2017/06/28