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愚者の夜


本書は芥川賞を受賞している。
ところが図書館の芥川賞受賞作品コーナーで本書を見かけるまで、私は著者と本書の名前を忘れていた。
おそらく受賞作リストの中で本書や著者の名前は見かけていたはずなのに。著者には申し訳ない思いだ。

だからというわけじゃないが、本書は読んだ甲斐があった。
別に芥川賞を受賞したから優れているということはない。
だが、受賞したからには何かしら光るものはある。そして、読者にとって糧となるものがある。私はそう思っている。
私にとって本書から得たものはあった。

本書からは、旅とは何かについて考えさせられた。
旅。それは私にとって人生の目的だ。
毎日が同じ人生などまっぴらごめん。日々を新たに生きる。少しでも多く新たな地を踏む。一つでも多く見知らぬ人々と会話する。異国の文化に触れ、異国の言語に耳を傾け、地形が織りなす風光明媚な姿を愛でる。
それが私の望むあり方だ。

旅とは、私の生涯そのものだといってもよい。
確かに、日常とは心地よいし、安心できるものだろう。
だが、その日々が少しでも澱んだとたん、私の精神はすぐに変化を求めて旅立ちたくなる。
好奇心と変化と刺激を求める心。それはもはや、私が一生、付き合ってゆく性だと思っている。

本書の主人公の犀太は、まさに旅がなければ生きられない人物だ。
日本で海外雑誌の紹介で生計を立てている。
妻はオランダから来たジニー。
その日々は変化に乏しく、ジニーはそんな状況に甘んじる犀太にいらだっている。犀太もまた、不甲斐ない自分と今の八方塞がりの状況に苛立っている。

以前の自分は旅と放浪で輝いていたはずなのに、今の体たらくはどうしたことだろう。
何よりも深刻なのは、旅に行こうという気にならないことだ。
日本にしがみつこうとする心の動き。
それはほんの数年前には考えられなかったことだ。
二人が知り合ったのは犀太が海外を放浪していた間だ。
その時の犀太は溌溂としており、二人はすぐに意気投合し、パリで結婚生活を送る。

ところが、犀太はパリで新婚生活を送るにあたり、定期収入を得るための暮らしに手を染める。
人生で一度ぐらいは体験しておこうと軽い気持ちで始めた暮らし。
犀太は、定期的な収入を稼ぐ生活で調子を崩してしまう。
作家になる夢を目指すため、執筆に手をつけるが全く進まない。
ジニーをオランダに帰らせてまで、執筆に集中しようとしてもうまくいかない。
ついにはパリの生活を切り上げ、ジニーをともなって日本に戻ってしまう。

あんなに憧れていて、自由を満喫していたはずの旅。
なのに所帯をもって母国に帰ると、なぜか旅に惹かれなくなってしまう。冒険心が不全を起こしたのだ。

ジニーはパリでも奔放に生き、別の男と夜をともにし、そのことを隠し立てなく犀太に話す。
すべてに嫌気がさした犀太は、何度もジニーとの離婚をくわだてる。が、ちょっとした加減で二人の関係は元のさやに戻る。
本書は、そんな二人の生々しいやりとりに満ちている。

生活の疲れが旅の記憶にまで影響を及ぼす。そんな人生の残酷な一面。
それが本書にはよく描かれている。
あれほど憧れていた旅。日本で生まれ、一生を日本で過ごす境遇からすれば、例えば定期的に職場に通っていたとしても、フランスでの生活はそれだけで一大冒険のはず。

だが、異国であっても規則的な日常を送るようになると、途端に毎日は旅ではなくなる。パリの日々は確実に犀太から旅の意欲を削り取ってゆく。そこから次の場所に刺激を求めに行こうにも、もう力は残されていない。
そのような旅をめぐる描写は、人生の残酷な現実そのものだ。
本書はそれがとても印象的だ。

つまり旅の本質とは、母国から離れることではない。
そうではなく、決まりきった日常こそが、旅の対極なのだ。
であれば、日本にいたとしても、変化に富んだ毎日であればそれは旅とは呼べないだろうか。

本書は日常と旅をくらべることで、人生の真実を探り当てようとしている。
私にとって、人が旅をしなくなる理由。それがまさに現実の日常の日々の中に隠れている。

それゆえ、人は日常の罠にハマらぬよう、日ごろから気をつけねばならない。
日常であっても、無理やりに変化をつける。日常であっても、強引に刺激を受け入れる。そうした工夫を私は今までしてきた。
それによって、私は最近、ようやく日常の罠から逃れられるようになった。場合によっては日常に絡め取られることもあるが。

そうした意味でも本書は、人生の真実と機微を描いた作品として印象に残る。
実際、作者は犀太が目指していた作家として独立できた。
だが、世の中には作者のように大成できず、日常の中に沈んでいった人間は多いはず。
読者として、本書から受けた学びは自分自身の戒めとして大切にしたい。

私自身、三十代の頃は、日常が仕掛ける罠にほとんど、ハマりかけていた。そのことを思い起こせただけでも本書には価値があった。
本書はほぼ世の中から忘れられているが、今の若者だけでなく、四十代を迎えたかつての青年にも読まれるべき価値があると思う。

ただし、本書に登場するセリフ。これはちょっと受け入れられない。
悲鳴にしても感嘆詞にしても、本書のセリフはとてもリアルな人の発するそれには思えなかった。
これは、本書にとってもったいないと思う。今、本書が敬遠されているとすれば、これが理由のはずだ。
本書の生々しい会話と、旅をした者にしかわからない旅の魅力。その反対の日常の倦怠がよく描かれていると思うだけに残念だ。

‘2019/4/5-2019/4/8


るり姉


本書の帯の裏表紙は、書店の実際の売場ポップをそのまま使っているらしい(梅原潤一氏・有隣堂 横浜駅西口 )。そしてそのポップが実によいのだ。帯にしたくなるのも分かるぐらいに。ポップ一つに私の云うべきことが凝縮されているといってもよい。このレビューは不要なぐらいに。ポップはこちらからも確認できる。

しかし、それだけでは寂しいので、蛇足かもしれないが私もレビューを書いてみる。

本書で書かれているのは2つの家族の日常。気取りやキザとは無縁の日常。気負いもなければ使命感もなく、ただただ日々が過ぎてゆくような毎日。ただ毎日を過ごしている、といった表現がぴったりの家族。イベントといってもイチゴ狩りに行くのが精々で、バイトや仕事に精を出す日々。そんな家族は、シングルマザーの母けい子と、高校生のさつき、中学生のみやこ、小学生のみのりの母娘四人からなっている。そしてけい子の妹にあたるのがるり姉。

生活感も疲労感もなく、ひょうひょうと生きるるり姉の存在。本書は、三人の娘達から見たるり姉への親しみと愛情が満ちている。それが本書のテーマになっている。題名になるぐらいだから、るり姉もさぞかし主役としてあちこちに出ているかと思えばそうでもない。

本書は五章からなっているが、るり姉からの視点で語られる箇所は本書のどこにもない。
第一章 さつき-夏
第二章 けい子-その春
第三章 みやこ-去年の冬
第四章 開人-去年の秋
第五章 みのり-四年後 春

第一章から第五章まで、るり姉以外の家族がそれぞれの視点で、2家族とその日常を綴っている。高校生のさつきから見た二家族の日常。続いて母けい子から自分の家族と妹るり子の家族の日常。さらに遡って、中学生みやこから見たるり姉。そしてさらに遡り、るり姉に一目ぼれして結婚した開人とるり子のなれそめや結婚と新婚旅行もどきの旅。このように、第一章を起点に時間が遡ってゆく。なぜこのような構成にしたかというと、第一章でいきなり2家族にとってつらい現実が起こる為である。著者はるり姉以外の人々の視点から、つらい現実をまず読者に突き付ける。それから、あらためて他の家族の視点もからめて、つらい現実に襲われる前の平和な日常を遡って描いていく。

るり姉をめぐる家族の視点で紡がれるこの物語の中で、魅力ある人物として書かれるのはるり姉。その天真爛漫な魅力が沢山描かれる。その自然で気取らない魅力は、知らず知らずのうちに人を惹きつける。各章で語られる2家族それぞれの視点からは、るり姉への愛情や好意がよくにじみ出ている。るり姉の視点だけを物語から締め出しながらも、他の人々からの視点だけで、るり姉の魅力を浮かび上がらせ、るり姉を本書の主人公とする。そのような難しい技に著者はまんまと成功している。

第五章のみのりによる四年後の物語は、実際に読んでみて頂ければと思う。第一章で予告されたつらい現実が、四年後にどのようになっているか。そこに向けて、著者はそれぞれの視点から、時間を遡らせる構成を駆使して、読者を引きつけて離さない。特別なイベントやアクシデントに頼らずに、語り口だけでここまで読者を引きつける技は、絶妙としかいいようがない。

下世話に陥らず、それでいて完全に等身大の親しみやすい登場人物達を造形したこともあわせ、著者の筆力はたいしたものだと思う。

私は著者を本書で初めて読んだ。それまでは名前すら知らなかった。おそらくは世の中の大多数の読者もそうではないかと思う。そして、それゆえに、帯となったポップが真価を発揮する。出版社の営業的な売りコピーは紋切調で好きになれない。そもそもあまり読まない。だが、この帯は読者と直に接する書店員の声であり、書店員の商売っ気もありつつ読んでほしいという想いが伝わってくる。

今はネット販売が主流になり書店が次々と潰れつつある。書店の生き残り策としてリアル読者の獲得が叫ばれている。各地の書店では工夫されたポップによる販促策の実例をしばしば目にする。ポップが出版社によって帯として採用された本書のような事例は、書店業界にとっては一つのエポックとなったのではないだろうか。

‘2015/6/25-2015/6/27