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会津の旅 2018/10/9


さわやかな朝。私にとっては民泊で迎える初めての朝です。昨夜、日が替わるまで語り合った疲れはどこへやら。旅を満喫している今を祝福して目覚めました。

早速、荷作りとあいさつを。昨夜の語らいで仲良くなったオーナーのSさん、島根から来たOさんも私たちと顔なじみになりました。Oさんに至っては気ままな一人旅ということもあって、H.Jさんの田んぼの手伝いに来てくれることになりました。仕事に出るSさんとはここでお別れ。昨日語り合ったことは、決して忘れないでしょう。良いご縁に感謝です。今後も会津の観光やITでご縁があるに違いありません。

昨夜、車を置かせてもらった「酒家 盃爛処」まで歩く途中、会津の風情を存分に堪能しました。かつての城下町を彷彿とさせる風景も、昨晩のお話を伺った後では私には違う風景として映ります。戊辰戦争の前後ではどう変わったのか。十字路のない街角の様子はかつてはどうだったのか。理髪店の数も心なしか他の都市に比べて多いように思えます。こうした知識は、ガイドマップに頼っていると知らずに終わったはず。得た知識を即座に確認できることが、旅先で語らうことの醍醐味と言えましょう。

この日の私たちは、さらに会津を知識を得るべく、昨日に続いてH.Jさんのお宅へ。この日、私たちに任されたのはお米を袋に詰める作業です。昨日、収穫したお米は巨大な乾燥機の中で乾燥され、摩擦によってもみ殻を脱がされます。風で吹き飛ばされたもみ殻は、大きな山となって刻々と成長しています。

乾燥機から選別機へと移動したお米は、品質を二種類に選別されます。良い方は「会津米」の新品の紙袋に、悪い方は東北の各県の名がうたれた再利用の紙袋に。紙袋をセットし、一定の量になるまでお米をため、適量になったら袋を縛るまでの一連の作業は人力です。私たちが担ったのはこの作業。これがなかなか難しい。茶色の紙袋は初めは当然、ぺたんこ。で、そこにお米がたまるにつれ、紙袋はじょじょにかっぷくの良い姿へと変身します。変身した紙袋を最後にうまく縛る。その縛るコツががなかなかつかめない。結んだひもの位置がずれると、それは収穫の寿ぎではなくなるのです。縦横が正しくあるべき姿に結ばれてはじめて、収穫のお祝いに相応しく袋となり、晴れて出荷されるのです。米の紙袋の結び目にもきちんと意味があることは初めて知りました。結び目が重要なのはなにも水引だけではなかったのです。

きちんと結んだ後は、出荷準備完了を占めるシールを貼り、パレットの上にきちんと並べて積み上げていきます。私たちはまさに、収穫から出荷直前までのすべてのプロセスに携わらせていただけたわけです。

今回、H.Jさんは袋詰めの工程に助っ人を呼んでくださっていました。地元の方でよくこしたお手伝いをされているとか。慣れた手つきでひもを縛り、積んでゆく。私たちの縛りが甘ければ、再度縛りなおしてくださいます。多分、たどたどしい私たちに「しょうがねえなあ」と思っていたことでしょうが、もくもくと働く姿に、私はただ従うのみ。慣れない私たちには難しいこれらの作業も、慣れると立て板に水のごとく、こなせるようになるのでしょうか。あれから十カ月たった今でも、動作を再現できるかも、と錯覚に陥りそうになるくらい、何度も結びました。こうした作業の全てが私にとっては新鮮で、そのどれもが農業の奥深さを伝えてくれます。農業に携わる人々は皆さんがたくましく、生活力をそなえているように見えるのは気のせいでしょうか。

作業の合間に水分の補給は欠かさず、H.Jさん宅からもあれこれと差し入れをいただきつつ、すでにお昼。お昼には食事に連れて行ってくださいました。向かったのは会津若松駅近くの中心部。ただ、はじめH.Jさんが考えていたお店が閉まっていたらしく、かわりに向かったのは「空山neo」というラーメン屋さん。こちらは繁盛しており、味もとてもおいしかったです。そこは、会津若松の目抜き通りで、朝まで泊まっていた「隠れ家」さんは、同じ通りをさらに進むとあります。どこも軒並み、風情のある店構え。酒蔵があり、お店が並ぶ。それでいてあまり観光地ずれしていない様子に好感がもてます。私たちがラーメンの後に寄った「太郎焼総本舗」も、落ち着いたたたずまいで私たちを迎えてくれました。味がおいしかったことはもちろんです。

Oさんは午前、昨日私たちが体験したコンバインの運転などをさせてもらったりして別行動でしたが、午後もそれぞれが別々に作業にあたりました。私たちは選別機によって下に選別された米を紙袋に袋詰めする作業に従事していましたが、しばらくたってからH.Jさんに野菜の畑へと連れて行ってもらうことになりました。

その畑は、昨日の田んぼとは違う場所にあり、丸ナスとキャベツが植えられています。もちろん、無農薬栽培。キャベツ畑なのにキャベツがほとんど見えず、草が奔放に生い茂っています。しかし地面には丸々としたキャベツがつつましやかに私たちの収穫をお待ちしているではありませんか。丸ナスも色合いとツヤがとてもおいしそう。バッタやカエルがわんさかと群がる畑の作物は、見るからにおいしそう。こうまで無農薬の畑に生き物が群がる様子を見ると、生き物もいない農薬まみれの畑への疑問がつい湧いてしまうのです。

畑への往復、私はH.Jさんの軽トラックの助手席に乗せてもらい、農業のIT化について意見を交換していました。人手の足りなさを解消するための開発も進んでいる、とはつねづね聞いていますが、H.Jさんもそうしたロボットによる農業の効率化には大賛成の様子。無農薬栽培は、H.Jさんが農業の本質を探る中、たどり着いた結論であることは間違いないでしょう。要するに農薬の使用は、作物の本質を損ねるもの。でも、農薬を使用しなければ、人手も手間もとてもかかります。そうした矛盾を解消する可能性をIoTを活用した仕掛けは秘めているのです。作物に優しく、手間を減らす。いい事ずくめです。

私も弊社も、IoTはまだ実務としてはほとんど手がけていません。特に農業関連は未経験。IoTに関するご相談はちょくちょく受けるようになっており、この二日で、IoTが農業で必要な理由を自分の体で感得しました。その可能性を見せてもらえた以上、何かに活かしていきたいと思うのは当然です。とてもためになった道中の会話でした。

さて、H.Jさんの家に戻った私たちは、ブルーベリーやブドウや梅干しをおいしくいただきました。ところが、時刻はそろそろ15時になろうとしています。東京へ帰る準備をしなければ。名残惜しいですが、キャベツや丸ナスやフルーツ類をいただき、H.Jさんのもとを辞去しました。たった二日なのに名残惜しさが心を締め付けます。

Oさんも加えた五人でK.Hさんの運転で鶴ヶ城へ。まずは会津若松のシンボルともいえるここを訪れなければ。ぐるりとお濠をめぐり、駐車場から城内を歩いて一回り。時間があれば城内にも入りたかったのですが、さすがに時間が足りません。大河ドラマ「八重の桜」は一度も見なかった私ですが、会津の街にがぜん興味が湧いてきましたし、また来たいと思います。城内で売っていた奥只見の産物を買い求めて。

もう一カ所「道の駅 ばんだい 徳一の里きらり」にもよりました。ここで最後のお土産物を購入し、会津を後にしました。また会津には来ることでしょう。私にお手伝いできることがある限り。

さて、Oさんは次の目的地に移動するため、郡山駅で降ろすことになり、郡山インターチェンジから市街へ。2年前に自転車や車やバスで動き回った郡山の街を、ひょんな縁でまた来られることになり、私の喜びもひとしお。大友パンや柏屋も健在の様子。駅前にはgreeeenのドアがあり、二年前の興奮が思い出されます。

Oさんはこの後まだまだいろいろな場所を旅するのだとか。うらやましい。またの再会を約して、Oさんとはここでお別れ。旅のご縁のすばらしさや、時間と場所を共有した思い出の余韻に浸りながら。

さて、私たちも旅の余韻に浸りたいところですが、そうも言ってられなくなりました。なぜなら東北道が通行止めという情報に接したからです。そこでK.Hさんが下した判断は、磐越自動車道でいわきまで出て、常磐道で都内に帰る、という遠回りのプラン。普通ならまず取らないこのプランも、東北道が通れないのでは仕方ありません。道中、高速道路の脇にある放射線量を示す電光掲示板が、この地域の特殊性を示します。

常磐道は何事もなく順調で、休憩した友部サービスエリアを経由して、私たちは表参道の駅前で降ろしてもらいました。K.Hさんはそこから柏のご自宅まで帰られるのだとか。二日間、運転をしてくださり、ありがとうございました。そういえば、帰りの車の中では「会津ファンクラブ」の存在を教えてもらい、その場で入会しました。

旅の終わりはいつもあっけないものですが、この二日間の旅もこうやって終わりました。あとは重いキャベツや丸ナス、そして数えきれない思い出を背負い、家に帰るだけです。折悪しくこの日、小田急は毎度おなじみの運転見合わせが起きており、会津の余韻も首都圏の日常がかき消しにかかってきていました。

四日後にはH.Jさんが東京の有楽町の交通会館に農産物を販売に来られると伺っていたので、妻を連れて伺いました。そして余蒔胡瓜や立川ごぼうといった会津野菜をたくさん購入しました。その二つとも妻や家族が美味しいと大変気に入ってくれまして、私が持って帰った丸ナスもキャベツもあっという間に品切れ。

会津野菜がわが家からなくなると時を同じくして、私は首都圏の日常に追われるようになってしまいました。そして気が付くと10ヶ月。今、ようやく会津の思い出をブログにまとめられました。でも、思い出してみると、二日間があっという間に鮮やかに思い出せました。それだけ素晴らしい旅だったという事でしょう。それにしても皆さま、本当にこの二日間、ありがとうございました。