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黄金峡


公共事業の推進。国による大規模な工事や事業。
それは、あらゆる利害関係の上に立つ国が行使できる権力だ。

国の事業によって影響を受ける人は多い。
例えば、ダムの建設に伴って立ち退きを余儀なくされる人々だとか。本書に登場する村人たちのような。
国が判断した事業がいったん動きだすと、村人たちの思いなどお構いなしだ。事業は進められ、山は切り崩され、川はせき止められる。

国の事業とはいえ、ダムによって立ち退きを強いられる村人がすぐに賛成するはずはない。
自らが生まれ育った景色、神社、山々、川、あらゆるものが水の中に沈む。それは普通の人であればたやすく受け入れられないはずだ。

一方の国は、何が何でも事業を成し遂げるために金をばらまく。ばらまく相手は立ち退きにあたって犠牲となる住民だ。
そのお金も中途半端な額ではない。村人の度肝を抜くような金額だ。それらが補償金額として支出される。
そのため、あらゆる補償対象に対して値段がつけられる。村のあらゆるものが文字と数字の柱に置き換えられる。価値は一律で換算され、その柱の中に埋没していく。個人の感傷や思い出など一切忖度されずに。

その補償は村人に巨額の利益をもたらす。潤った村を目当てに群がった人々は狂宴を繰り広げる。
本書のタイトルは、狂奔する村人の姿を黄金郷と掛け合わせて作った著者の造語である。
その峡とはモデルとなった只見地方のとある村の姿になぞらえたものだ。

その金を手にし、好機が来たと張り切る人。戸惑う人。
金が入ってくると聞きつけ、捨てたはずの故郷にわざわざ戻る人もいる。また、何があっても絶対に山から出ないと頑強に拒む人もいる。
人々は金の魔力に魅入られ、金の恐ろしさを恐れる。
事業を進める側は、あらゆる搦手を使って反対派を切り崩しにかかる。金銭感覚を狂わせ、一時の快楽に身を委ねさせ、懐柔につぐ懐柔を重ねる。

ありとあらゆる人間の醜さが、ひなびた山峡を黄金で染めていく。人々はそれぞれの思惑をいだいている。
そうした思惑を残した交渉には百戦錬磨の経験が必要だ。国が送り込んだ事業の推進者はそうした手練手管に長けている。

本書は、そうした人々の思惑を、一人一人の過去や人格まで掘り起こさない。なだらかだった日々が急に湧き上がり、そしてしぼんでいくまでを冷徹な事実として描いている。
冷静に事実を描くことによって、金に踊らされた人々の愚かさをあぶりだす。その姿こそ、人間の偽らざる姿であることを示しながら。

本書を通して、一時の欲にまみれる人の愚かさを笑うことは簡単だ。
だが、多額の金は人を簡単に狂わせる。多分、私もその誘惑には抗えないだろう。

こうした公共事業に対する反対の声は昔からある。
本書にも、都内からわざわざ反対運動のためにやってきた大学生の姿が描かれる。公権力が振りかざす強権に対し、民はあくまでも抵抗すべきと信じて。
それでも、国は下流の治水が求められているとの御旗を立て事業を推進する。

問題はその事業にあたって巨額の金が動くことだ。土木事業を請け負う業者には巨額の金が国から流れ、それが下流へと低きへと流れてゆく。
それは、流域の人々の懐をうるおす。

問題は、その流れが急であることだ。金に対して心の準備をしていなければ、価値観や生活の基盤が急流に持っていかれる。生きるために欠かせない水が時に生活の基盤を破壊し、氾濫のもととなってしまうように。
そして、金の流れが急に増えたからといってぜいたくに走ってはならない。その急流は、国が金を流したからなのだ。それを忘れた人は、金が枯れたときに途方に暮れる。
国が金を降らせるのは一度きりのこと。同じだけの金を人が自由にできやしない。一度枯れた水源は天に頼るほかないのだ。

公共事業に対する反対とは、公共事業による環境の変化よりも、金が一時に急激に動くことへの懸念であるべきだ。
その急激な金の流れに利権の腐臭を嗅ぎつけた人々は、全ての人は公平であるべきと考え、その理想に殉じて反対運動に身を投じる。
そうした若者や左派の政治家がダム反対などの公共事業に反対運動を起こす例は三里塚闘争以外にも枚挙にいとまがない。田中康夫氏が長野県知事になった際も「脱ダム」宣言をした。民主党政権時にも前原国公相が八ッ場ダムの凍結を実施した。

中流・下流への治水の必要性は分かる。だが、それを上流のダム建設で補おうとしたとき、上流の人々の既得権は侵される。その時、金ですべてを解決しようとしても何の解決もできない。
全ての人が幸せになれることは不可能。そのような諦念に立つしかないのだろうか。
結局、公共の名のもとによる補償がどこまで有効なのかについて、正しい答えは永久にできない気がする。

少なくとも本書に登場する村人たちは、二度生活を奪われた。
一度は故郷の水没として。二度目は金銭感覚のかく乱として。
本書はその事実を黄金峡という言葉を通して描いている。

私たちは、公と個を意識しながら生きるだけの見識は持っておきたい。
それが社会に生きることの意味だと思う。

‘2020/08/18-2020/08/19


アンデスのリトゥーマ


著者の著作のうち、未訳の作品が続々と日本語に訳されている。ノーベル文学賞効果もあるだろうが、こうして読めることに感謝したい。

ここ最近の著者の作品は、都会を舞台にしたものが多かったように思う。本書は一転して土着的呪術的な内容となっている。ページを繰る間、私には土埃が舞う光景が見え、土埃が鼻から入ってくるような感覚にとらわれた。荒涼とした黄土色の起伏が一面に広がる景色。埃っぽい住居が山にへばりつくようにして並ぶ。一歩住居に足を踏み入れると、外の単調な土気色とはうって変わって極彩色に飾られた空間。そこには、シャーマンとも魔女ともつかない女が巣食い、箴言を発する。

本書は、ペルーの山中に跋扈するテロルとインデイオの窮乏、その隙間を縫うように呪術が幅を効かせる地を舞台にしている。現代にあって魔術が大真面目に語られる土地。そのような地に迷い込んだ都会人の無力さ。その無力さを描いているのが本書だ。

主人公のリトゥーマは、治安警備隊の伍長として、アンデス山中に駐屯している。部下は一人。トマス・カレーニョ、通称トマシート。二人はナッコスのハイウェイ工事現場の治安維持を担当している。最近、ナッコスでは住人三人が忽然と行方をくらました。その事件の調査にあたる二人だが、手掛かりは掴めず途方に暮れている。三人は一体どこへ消えたのか。

ペルーは今、暴力革命を謳うセンデーロ・ルミノソが猛威を奮っている。三人はテロリストによって何処かへ消されたのか?それともインディオ達に伝わる伝承に従い生け贄とされたのか。

一方、フランス人旅行者のアベックはアンデス越えをバスで果たそうとし、謎の集団に捕まり顔を石で潰される。暴力が荒れ狂う。本書全体を覆う暴力の血の匂いが冒頭から立ち込める。そのシーンに、トマシートがリトゥーマに語るセリフがかぶさっていく。著者お得意の重層的な進行だ。トマシートはリトゥーマに、ティンゴ・マリーアで見たサディストによる拷問を語る。そして、サディスティックに女をいたぶっていたトマシートのボスを辛抱できず殺してしまう。リトゥーマの合いの手がトマシートの独白に挟まれる。

著者お得意の構造に読者は目を眩まされるかもしれないが、落ち着いて読み進めれば物語から落ちこぼれずに済む。

再び第三者の視線に戻り、リトゥーマとトマシートの二人はドーニャ・アドリアーナが駐屯地に近づいて来るのを見る。彼女は三人目の行方不明者の最後の目撃者。酒場を経営するディオニシオの妻であり、呪いや占いを行っている。

そして、物語は一人目の行方不明者について語り始める。唖者のペドリートはリトゥーマとトマシートの手伝いをしていた。ペドリートは二人の手伝いをする前、羊飼いに拾われていた。だが、謎の集団に捕まり、家畜を全て殺される憂き目に遭う。謎の集団には名前がない。狼藉を働く者共は本書を通して無名のままだ。それが読者に不安な気持ちを与える。読者は漠然とした不安と恐れを抱いたまま、本書を読み進めることになる。

再びトマシートの独白。暴行から救い出した女を連れ、トラックに乗る。女の名はメルセーデス。

そして、舞台はディオニシオの酒場へ。フランス人アベックが惨殺されたことが会話のネタにされる。が、行方不明者たちの消息は依然として不明。かつて鉱山で栄えたナッコスは、ハイウェイ工事で余命を保っている状態。街に次第に不安の空気が立ち込める。読者もまた、不安な気持ちが高まる中、ページを読み進める。ナッコスで何が起こったのか。

フランス人アベックと同じように暴力の嵐にさらされる犠牲者はまだいる。アンダマルカの副町長は、共産主義的な謎の集団によって町を搔き回され、九死に一生を得て逃げる。ダルクール夫人は、国連機関の支援を得て、辺りの植林に携わる善意の人だ。しかしブルジョアと見なされ、処刑される。

トマシートの独白とリトゥーマの茶々入れはなおも続く。メルセーデスによって筆下ろしを果たしたトマシートはペルーの首都リマへと向かう。メルセーデスも一緒に。

二人目、三人目の行方不明者の挿話が語られ、トマシートはメルセーデスを連れて、警官を脅して旅を強行する。これで第一部は終わる。

第二部では、リトゥーマの調査が佳境を迎える。悪霊ピシュターコの噂が飛び交う。ピシュターコは人間の脂を抜き取る、悪霊とも人間ともつかぬもの。

このあたりから、段々と三人の行方不明者を探すリトゥーマの状況と、トマシートとメルセーデスの逃避行、ナッコスの呪術伝承が絡み合い始める。リトゥーマとトマシートとメルセーデスの別の話が同時に進行し、交錯するため、物語全体に満ちる不穏な空気はページの外まで漂い出すかのよう。不穏な空気に反応するかのように、メルセーデスはトマシートのもとから逃げてしまう。

一方、ピシュターコの伝承はいよいよ怪談染みる。それはホラーと云っても良いレベル。追い討ちをかけるかのように、ナッコスの民を養ってきた鉱山は、超自然もここに極まれりとばかりに山津浪に襲われる。リトゥーマもすんでのところで助かる。

アドリアーナは果たして魔女なのか。正体は明かされぬまま、物語は進む。アドリアーナはいう。ナッコスとは魔術的、霊的な場であり、そこを乱すハイウェイは決して開通することはないと。

その霊的な力は、都会の者共を一層するかのように山津波を起こす。

アドリアーナの預言が本書の性格を語り、本編は一旦幕を下ろす。

しかし読者にとっては何も解決していない。三人は一体どうなったのか。トマシートとメルセーデスの逃避行の行方は。

エピローグでリトゥーマはナッコスを去る。去るに当たってディオニシオの酒場に赴く。最後にディオニシオとアドリアーナに挨拶をするために。三人の行方不明者の運命を訪ねるために。ナッコスの霊的な力が街を一気に寂れさせようとする中、その酒場で酔い潰れる無名のインディオは、リトゥーマに衝撃の事実を伝える。その衝撃の余韻消えぬままに、エピローグは幕を下ろす。

解説は訳者の木村榮一氏自身が担当している。ラテンアメリカ文学の愛好家なら氏の訳はお馴染みだ。氏による解説は適切で解りやすい。本書がギリシャ神話に枠組みを借りていることが指摘される。アドリアーナがアリアドネー。ディオニシオがディオニューソス。ナッコスがナクソスを指すとの本書解説での指摘にはさすがの慧眼である。私は初読ではそのことに気づかぬままだった。

そのことを教えられた後で本書を読むと、アドリアーナやディオニシオ、さらには徹底して無名のままのインディオ達の存在が理解できる。テロルや扇動によって生じる暴力は、土地や時代の枠組みから生じるのではない。それは、人が集い、空気の澱んだ場所に等しく生じるのだ。

そのような場所にハイウェイ工事のような風通しをよくするための人間の営み、つまりは都市や文明といったものが何を引き起こすのか、または引き起こしたのか。それこそが本書の主題ではないだろうか。

‘2015/03/13-2015/03/25


鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町


昔からの街歩き好き、旅行好きである。名所旧跡はもちろん、風光明媚な景色や古人の遺した事跡、地元の人々との交流。旅から得られる喜びは何物にも替え難い。街歩きとは、時間の無い私にとって、それら旅のエッセンスを手軽に味わう手段でもある。歴史ある街には旅の要素が凝縮されているからである。街歩きを行う上で、私にとって欠かせないのは駅。街歩きと言えば郊外から車で乗り付けるよりも、街の中心である駅のホームに降り立つ一歩を好む。車で乗り付けた際も、初訪問の街の場合はまず駅に訪問し、観光情報を入手する。これが私の流儀である。

そんな私の街歩き史において、街歩きのスタート地点である駅が街の中心にないといった経験が度々ある。街の中心に駅がなく、駅前すなわち繁華街という思い込みが覆される街。町はずれの閑散としたロータリーに、風雨に疲れたバス停の錆びたポール。近隣に人を呼ぶ観光地がない無名な駅ならまだしも、徒歩1時間圏内に著名な旧市街地があるにもかかわらず、町はずれの閑散とした駅は存在する。私の経験では、西鉄の柳川駅や、JR萩駅、近江鉄道の五箇荘駅がそうである。柳川城址や御花、水郷巡りで知られ、維新の志士を生んだ長州藩御膝元で知られ、近江商人を輩出した商家の街並みで知られる地である。また、今でこそ大ターミナルである大阪梅田も、駅開設当初は町はずれの寂しい地だったと聞く。梅田が元々は埋田という意味だったことからも。

それらの駅と旧市街地はなぜ離れているのだろう。そんな私の疑問は、何かの書物から得た知識によって曖昧に解消されていた。明治の鉄道敷設にあたり、鉄道や駅が旧市街地から遠ざけられた場所があるという知識に。本書を読む前、私の中ではそのような曖昧な知識が定着していた。そのような鉄道忌避地は、近代化の波に取り残され衰退していったという知識に。

本書を読み、普遍と思い込んでいたそれら知識が何の裏付けもない、文献の鵜呑みであったことを思い知らされた。本書のタイトルにある、鉄道忌避伝説。著者は本書の中で、「明治の人々は鉄道建設による悪影響に不安をもち、鉄道や駅を街から遠ざけた」という通念を、鉄道忌避伝説として一蹴している。一蹴どころか、本書の中でそれが何の根拠もない伝説であることを繰り返し訴えている。

本書では、まず鉄道忌避伝説の定義について触れ、それが人口に膾炙していた理由として、鉄道史学が未発達であったため、学問的に検証されてこなかったことを指摘する。そして鉄道発祥のヨーロッパにおいては鉄道敷設に反対の運動があったことも紹介する。その前提を設けたのち、実際に文明開化期にそのような反対運動が文献資料として残っているかの証拠を探し求める。そして、そういった反対運動が文献上に残っていないことを提起する。それは、中央に残る文献だけでなく、地方史の忘れ去られたような文献まで当った上で。

続いて、各地に残る有名な鉄道忌避伝説が伝わる地について、個別に検証を重ねていく。私は本書を読むまで、東京の府中や愛知の岡崎、千葉の流山が鉄道忌避伝説の伝わる地であることは知らなかった。特に府中は数年通勤した経験もあり、故郷西宮に似た地として好きな街であるため、意外であった。本書ではそれらの地を例にとり、鉄道が敷設されなかった理由を解明していく。

本書が主張する鉄道忌避の理由は、明治期の未熟な鉄道敷設技術と予算の都合があって鉄道軌道が決まったことである。決して近隣の宿場町からの反対運動によって軌道を曲げた訳ではないことを種々の材料を用いて反証する。例えば府中は武蔵野崖線の崖上に一直線で通すルートとして中央線が通された為であり、岡崎は矢作川と岡崎市街地の位置から架橋によるルートではなく遠回りのルートを選んだため、流山は上野からの短絡線による常磐方面の経路を採用したこと。その理由を導き出す上で、本書では地形図による説明が必ず載せられており、理解しやすい。

また、本書では鉄道敷設に関する住民からの注文が全くなかったと主張している訳ではない。むしろ住民からの注文事例についてはかなりのページを割いて説明している。陸海軍からの国防上の理由による要望。農地利水の観点からの反対。伊勢神宮の参道沿線住民による声。東京天文台の観測に対する光害懸念などなど。それらの反対運動が、従来の鉄道忌避伝説で挙げられている理由に依るものでなく、さらに鉄道敷設それ自体を反対している訳ではない点も本書は強調する。この点、本書で断定しているが、鉄道忌避伝説を否定する根拠としては少々無理が見られるため、今後の研究が待たれるところである。

末尾に、何故そういった伝説が流布したのかという考察も本書は怠っていない。その一つとして、小学校社会科の副読本の記述を指摘している。なるほど副読本か、と蒙を啓かれた思いである。そして、貧弱な鉄道史学が近年発達したことにより、そういった鉄道忌避伝説を助長するような記述が減ってきていることも、著者の研究成果として、自負している。我々は都市伝説の一つが覆されつつある瞬間を、本書の中で目撃しているのかもしれない。

別に鉄道忌避伝説があったからといってなんら困ることはない。私の正直な想いである。私にとっては本書を読んで得たのは、街歩きや駅めぐり好事家の好奇心の解消だけなのかもしれない。だが、読書とは本来そのようなものではないだろうか。

’14/04/23-’14/04/25