Articles tagged with: 山岳

ドキュメント 滑落遭難


ここ数年、滝に関心を持ち、ひとりであちこちの滝を訪れている。ここ二年は山登りのパーティーに参加し、あちこちの山へ登るようになってきた。
そのパーティーのリーダーによる硬軟を取り混ぜた見事なリーダーシップに、私自身も経営者として学ぶところが多い。

私の場合、独りで移動するにあたってはかなりむちゃもしている。体力にはある程度の自信があり、パーティーでの移動とはちがって速度を緩める理由がないためだ。実際、一人の行動では標準タイムよりもペースが速い傾向にある。
それは過信だ。その過信が事故を招きかねないと肝に銘じている。そのため、山はあまり一人では登らず、なるべくパーティーで訪れるようにしている。

実際、本書を読む一年前には、独りで相模原の早戸大滝をアタックし、遭難しかけたことがある。
それがどれほどの危険な状況だったのかは、正直なところ、まだ甘く見ていた。本書を読むまでは。
本書を読むと、私のその時の経験は、実は相当に危険な状況だったのではないか、と思うようになった。

本書を読んだことで、そうした無謀な行動は控えなくては、と思うようになった。
また、遭難の事例を通じ、人々の山への熱意がより感じられた。それによって私に残された命がある限りは、できるだけ多くの山に訪れたいと意識するきっかけにもなった。

本書は、六例の遭難事例が載っている。また、それに加えて埼玉県警山岳救助隊の報告としてさまざまな遭難の事例がドキュメントとして収められている。

まず富士山。私自身は、まだ富士山に登ったことがない。しかも冬山に関してはスキーであちこちを訪れた程度であり、山登りを目的に置いたことはない。
スキーで訪れた際に、雪山の視野の悪さは充分すぎるほど知っているし、あえて雪山を目指そうとする意欲はない。

とはいえ、実際に雪山での滑落がどれほど想像を絶するものかは、本書の記述から感じ取れる。おそらく、スキー場の急斜面よりももっと強烈な斜面を転げ落ちていったのだろう。
夏山でもよく目にするのが、登山道の脇にありえない角度で斜面が口を開けている光景だ。あの斜面を転がり落ちたらどういうことになるか。想像するだけで恐ろしい。
本書で書かれている通り、そもそも止まることすら不可能になるのだろう。
ここで取り上げられた方は500メートルを滑落したと言う。そのスピードがどれほど強烈だったのか。

本編では教訓として富士山の冬山トレイルであれば、さほど難易度が高くないという錯覚と、下準備の不足を指摘している。また、登山届が未提出だったことや、救急療法に関する知識の不足というところも教訓として上がっている。
これらの教訓は、私にとって耳の痛い内容を含んでおり、私がもし無謀な思い付きを実行していたら間違いなく糾弾の対象となることだろう。ちょっとやばいと思った。

続いての事例は、北アルプスの北穂高岳だ。こちらは山のベテランがガレ場から滑落し、膝を強打したというものだ。
本書に載っている事例の中では最もケガとしては軽いが、膝の打撲がひどくて下山できず、ヘリコプターを呼ぶ羽目になったという。
ヘリコプターを呼んだことによる救出のための費用は相当かさみ、その額なんと440,000円だという。
山岳保険に加入していたため、実際の費用は抑えられたそうだが、山岳保険に入っていない私の身に置き換えてみると、これはまずいと痛感した。
また、ストックの重要性にも触れられているが、私はまだ持っていない。これもまずい。

続いては、大峰山脈・釈迦ケ岳の事例だ。
練馬区の登山グループ17名が、新宿から大峰山系の釈迦ケ岳に向かっていたところ、続けて2件の事故を起こしてしまう。そのうちの1人は、首の骨を折って即死するという痛ましい事故だ。

当日の天気は地元の人に言わせれば山に行くべきではない程度の雨脚だったという。一方でパーティーのリーダーであるベテランの引率者は小雨だったという。
出発時間も早いほうがよかったという批判があり、そのリーダーは時間には問題なかったと言い張っている。つまり平行線だ。
責任逃れと切って捨てることもできるが、実際の状況はその場にいた方しかわからない。ただ、それで人が死んでしまったとすれば大問題だ。

著者は大峰山の自然を守ろう会の方の意見を紹介している。事故が起きたあたりは、修験道の修行場であり仏の聖域でもある。そのような場所に人が入るべきではないと言う意見は、登山そのものへの問題提起だ。
決して登山自体が悪いわけではないと断った上で、いわゆる昨今流行している登山ツアーのあり方について一石を投じる。ここで事故が起こったコースは、二つの日本百名山に登れることから、登頂数が稼げるコースとしても人気があったという。こうした登頂数を稼ぐ考え方に問題の根がある、と。これは私自身も肝に銘じなければならない。

続いては赤城山・黒檜山だ。
数日前に訪れたばかりの冬山を急遽、一人で登ることになった遭難者の五十代女性。
数日前に訪れていたことによって冒険心を起こしてしまったのか、違う道を行ってしまった。登山届がでておらず、単独行だったので足取りも推測するしかない状態だが、迷った揚げ句に体力を消耗し、最後は滑落して動けなくなって凍死したということらしい。
自らの経験への過信と、何かあった時に備えた装備の不足とリスクマネジメントの欠如がもたらした事例だ。

ちょっと知っているから、と芽生えた冒険心に誘われるまま、違う道に分け入ってしまう。これは似たような行動をしがちな私にとって、厳に教訓としなければなるまい。

続いては、北アルプス・西穂高岳独標の事例だ。
登山には着実なステップアップの過程がある。まず近所の小さな山から始め、やがて千メートル級の山、二千メートル級の山、さらには冬山、そして単独行といったような。
その道のりは長くもどかしい。それが嫌だから着実なステップを踏まずに次々と難易度の高い山に挑戦し、そして大ケガを負う。
そんな人がいる中、本編で事故にあった方は着実で堅実なステップアップをこなしてきた方だ。準備も多すぎるほど詰め込むタイプで、事故には遭いにくいタイプ。

ところが、山荘からすぐ近くの独標へ向かう途中で滑落してしまう。そこから一気に400メートルを滑り落ちてしまう。
奇跡的に命は取り止めた後、ほんのわずかだが、つながった携帯電話を頼りに、切れ切れに遭難の一報も出すことができた。
重すぎるザックがバランスを崩した原因となったが、そのザックがクッションになり、さらにザックの中には連絡手段や遭難時の備えが入っていたことが功を奏した。

なによりも、この方が生きて社会復帰してやる、との強い意志を持っていたことが、生き延びた原因だという。これもいざとなった場合に覚えておかねばなるまい。

続いては、南アルプス・北岳の遭難事例がとり上げられる。
この編で語るのは滑落した当人ではなく、それを間近で目撃し、救助にも携わった方だ。
この時期の北岳にはキタダケソウという可憐な花が咲き乱れ、それを目当てに訪れる人も多いのだとか。だが、六月末とはいえまだ雪渓は残っている状態。そこをアイゼンやピッケルもなしで向かおうとする無謀な行為から、このような事故が起こる。夏山とはいえ、準備は万端にする。思い込みだけで気軽に訪れることの危険を本編はよく伝えている。

最後は、埼玉県警山岳救助隊があちこちの事例を挙げている。
ここであがっている山はそれ程の高峰ではない。
それでも、ちょっとした道迷いや油断によって転落は起こりうる。
高峰に登ろうとする際は心の準備に余念がないが、低山だとかえって気楽な気持ちで向かってしまうため、事前に山に行ったことを教えずに向かってしまうことはありそうだ。そうなると遭難の事実も分からず、救助隊も組織されない。
そうやって死んでいった人の多さを、本編は語っている。
多分、私がもっとも当事者になりそうなのが、ここで取り上げられた数々の事例だろう。

こうして本書を読み終えてみると山の怖さが迫ってくる。
本書を読む少し前、私は十数人のパーティーの一員として至仏山に登った。
そこから見下ろす尾瀬は格別だったが、雲の動きがみるみるうちに尾瀬の眺望を覆い隠してしまい、それとともに気温がぐっと下がったことも印象に残っている。これが山の怖さの一端なのだろう。

私はまだ自分が山の本当の怖さを知らないと思っている。また、私は自分の無鉄砲な欠点を自覚しているため、独りで無謀な登山はしないように心がけている。
だが、その一方で私は一人で滝を巡りに行くことが多い。多分、私にとって危険なのは滝をアタックしてアクシデントに遭遇した場合だろう。
滝に向かう時、おうおうにして私は身軽だ。遭難時のことなど何も考えていない。

冒頭に書いた早戸大滝の手前であわや遭難しかけた事など、まさに命を危険にさらした瞬間だったといえる。
早戸大滝は今までもなんどもチャレンジし、その度に引き返す勇気は発揮できている。
この引き返す勇気を今後も忘れないためにも、本書はためになった。

‘2019/9/9-2019/9/10


槍ヶ岳開山


日本の仏教をこう言って揶揄することがある。「葬式仏教」と。

平安から鎌倉に至るまで、日本の宗教界をリードしてきたのは紛れもなく仏教であった。しかし、戦国の世からこのかた、仏教は利益を誘導するだけの武装集団に堕してしまった。その反動からか、江戸幕府からは寺院諸法度の名で締め付けを受けることになる。その締め付けがますます仏教を萎縮させることになった。その結果、仏教は檀家制度にしがみつき「葬式仏教」化することになったのだと思う。

では本当に江戸時代の仏教は停滞していたのか。江戸時代に畏敬すべき僧侶はいなかったのか。もちろんそんなことはない。例えば本書の主人公播隆は特筆すべき人物の一人だろう。播隆の成した代表的な事跡こそが、本書の題にもなっている「槍ヶ岳開山」である。

開山とは、人の登らぬ山に先鞭を付けるということだ。人々が麓から仰ぎ見るだけの山。その山頂に足跡を残す。そして、そこに人々が信仰で登れるようにする。つまり、山岳信仰の復興だ。山岳信仰こそは、行き詰っていた江戸仏教が見いだした目標だったのだろう。そして現世の衆生にも分かりやすい頂点。それこそが山だったのだ。登山を僧や修験者といった宗教家だけのものにせず、一般の衆生に開放したこと。それこそが播隆の功績だといえる。

だが、播隆が行ったのは修行としての登山だ。修行とは己自身と対峙し、仏と対話する営み。純粋に個人的な、内面の世界を鍛える営みだ。それを、いかにして小説的に表現するか。ここに著者の苦心があったと思われる。

本書には、越中八尾の玉生屋の番頭岩松が、後年の播隆となって行く姿が描かれている。だが、その過程には、史実の播隆から離れた著者による脚色の跡がある。wikipediaには播隆の出家は19の時と書かれているらしい。wikipediaを信ずるとなると、19で出家した人間が番頭のはずがない。ただ、どちらを信ずるにせよ、槍ヶ岳を開いたのが播隆であることに変わりはないはず。

播隆に槍ヶ岳を登らせるため、著者はおはまを創造する。越中一揆において、おはまは岩松が突き出した槍に絶命する。仲の睦まじいおしどり夫婦だった二人だが、夫に殺された瞬間、おはまは夫をとがめながら絶命する。一揆の当事者として成り行きで農民側に加担することになった岩松は、越中から逃げて放浪の旅に出る。おはまが最後に己に向けた視線に常に胸を灼かれながら。

一揆で親を亡くした少年徳助を守るという名分のもと、旅を続ける岩松は椿宗和尚のもとに身を寄せることになる。そこで僧として生きることを決意した二人は、大坂の天王寺にある宝泉寺の見仏上人に修行に出される。そして見仏上人の下で岩仏という僧名を得、修行に明け暮れる。次いで京都の一念寺の蝎誉和尚の下に移り、そこで播隆という僧名を与えられることになる。八年の修行の後、播隆は椿宗和尚の元に戻る。

八年のあいだ、俗世から、おはまの視線から逃れるため、修行に没頭した播隆。皮肉にも修行に逃れようとしたことが播隆に威厳を備えさせてゆく。俗世の浮かれた気分から脱し、信心にすがり孤高の世界に足を踏み入れつつある播隆。だが、一方で播隆を俗世につなぎとめようとする人物も現れる。その人物とは弥三郎。彼はつかず離れず播隆の周りに出没する。一揆の時から播隆 に縁のある弥三郎は、播隆におはまの事を思い出させ、その罪の意識で播隆の心を乱し、女までめとわせようとする。播隆 と弥三郎の関わりは、本書のテーマにもつながる。本書のテーマとは、宗教世界と俗世の関わりだ。

だが、僧の世界にも積極的に俗世と関わり、そこに仏教者として奉仕することで仏業を成そうとする人物もいる。それが播隆 を僧の世界に導いた椿宗和尚だ。椿宗和尚は、播隆こそ笠ヶ岳再興にふさわしい人物と見込んで白羽の矢を立てる。

播隆は期待に応え、笠ヶ岳再興を成し遂げる。しかし、その偉業はかえって播隆 を、事業僧として奔走する椿宗和尚の影響下から遠ざけてゆく。播隆にとっての救いは、笠ヶ岳山頂でみた御来迎の神々しさ。おはまの形をとった 御来迎に恐れおののく播隆 は、おはまの姿に許しを得たい一心で名号を唱える。

再びおはまの姿をとった御来迎に槍ヶ岳の山頂で出会えるかもしれない。その思いにすがるように播隆 は槍ヶ岳開山に向け邁進する。だが、笠ヶ岳再興を遂げたことで弟子入り希望者が引きも切らぬようになる。一緒に大坂に修行に向かった徳助改め徳念もその一人。また、弥三郎は播隆にめとらせようとした女てると所帯を持つことになるが、その双子の片割れおさとを柏巌尼として強引に播隆の弟子にしてしまう。俗世の邪念を捨て一修行僧でありたいと願う播隆に、次々と俗世のしがらみがまとわりついてくる。

皮肉にも槍ヶ岳開山をやり遂げたことで、仏の世界から俗界に近くなってしまう播隆。そんな彼には、地元有力者の子息を弟子にといった依頼もやってくる。徳念だけを唯一の弟子に置き、俗世から距離を置きたがる播隆は、しつこい依頼に諦めて、弟子を取ることになる。さらには槍ヶ岳開山を盤石にするための鎖の寄進を願ったことから、幕府内の権力闘争にも巻き込まれてしまう。それは、犬山城を犬山藩として独立させようと画策する城主成瀬正寿の思惑。播隆の威光と名声は幕政にまで影響を与えるようになったのだ。播隆本人の意思とは反して。

播隆の運命を見ていると、もはや宗教家にとって静謐な修行の場はこの世に存在しないかに見える。それは、宗教がやがて来る開国とその後の文明開化によって大きく揺さぶられる未来への予兆でもある。宗教界も宗教者もさらに追い詰めて行くのだ。宗教はもはや奇跡でも神秘でもない。科学が容赦なく、宗教から神秘のベールをひきはがしてゆく。例えばたまたま播隆の元に訪問し、足のけがを治療する高野長英。彼は蘭学をおさめた学者でもある。長英は播隆に笠ヶ岳で見た御来迎とは、ドイツでブロッケン現象として科学的に解明された現象である事を教えられる。

本書は聖と俗のはざまでもがく仏教が、次第に俗へと追い詰められて行く様を播隆の仏業を通して冷徹に描いている。まな弟子の徳念さえも柏巌尼 との愛欲に負けて播隆のもとを去って行く。1840年、黒船来航を間近にして播隆は入寂する。その臨終の席で弥三郎がおはまの死の真相やおはまが死に臨んで播隆 に向けたとがめる視線の意味を告白する。全てを知らされても、それは意識の境が曖昧になった播隆には届かない。徳念と柏巌尼が出奔し、俗世に堕ちていったことも知らぬまに。西洋文明が仏教をさらに俗世へと落としてゆく20年前。播隆とは、宗教が神秘的であり得た時代の古き宗教者だったのか。

取材ノートより、という題であとがきが付されている。かなりの人物や寺は実在したようだ。しかしおはまの実在をほのめかすような記述は著者の取材ノートには触れられていない。おそらくおはまは著者の創作なのだろう。だが、播隆が実在の人物に即して書かれているかどうかは問題ではない。本書は仏教の堕ちゆく姿が主題なのだから。獣も登らぬ槍ヶ岳すらも人智は克服した。最後の宗教家、播隆自身の手によって。誤解を恐れずいうなら、播隆以降の仏教とは、葬式仏教との言い方がきつければ、哲学と呼ぶべきではないか。

‘2016/11/15-2016/11/19


山で失敗しない10の鉄則


私も不惑の年を過ぎ、アウトドア趣味の一つに、山登りを加えたいと思う。

ここ1、2年ほど滝の魅力に惹かれている。一瞬として同じ姿を見せることのない滝。ただ流れ落ちるだけの様を見ているだけで、1、2時間は優に過ごせてしまう。

もっといろんな滝を巡りたい。滝と対峙し、その飛沫を浴び続けていたい。しかし、滝を味わうためには、まず滝へ向かわねばならない。滝があるのはたいていの場合、山である。滝を極めるにはまず山への畏れを育まねば。車で近くまで乗り付けられる滝ならともかく、ほとんどの滝への行程は険しい。ハイキング気分で行くとトラブルにも巻き込まれかねない。

私にとって滝とは山への誘い水なのだ。文字通りに。滝は脇においたとしても、山登りの爽快感は他に変えがたい。子どもの頃は両親によく六甲に連れられたものだ。金剛山にも何度か登った記憶がある。だが、大人になってからは高尾山が精々。あとは10年ほど前に大学生達と丹沢の二の塔、三の塔を縦走したくらいだろうか。

山登りの経験が乏しい今の私が、千メートル以上の山へ向かうとなると、遭難する危険はかなり高いと云わねばなるまい。そんなわけでたまたま目についた本書を手に取った。

実は本書を手に取る前までは著者のことを全く知らずにいた。が、著者は中高年登山の普及に一役買った著名なクライマーなのだとか。本書はどこかの雑誌の連載を一冊に編んだものらしいが、山への心構え、そろえるべき装備や山での振る舞いなどを分かりやすく記して下さっている。エッセイ風の語り口なので構える必要もなくすらすらと8読み進められる。

しかも勿体ぶることもない。読み始めてすぐの8Pに早速山登り10の鉄則が記されている。このあたりの気前の良さも気持ちよい。

1.家族の理解を得ておく
2.装備と服装を整えておく
3.体力を養成しておく
4.技術を習得しておく
5.知識を蓄えておく
6.計画は万全にしておく
7.いい仲間を育成しておく
8.リーダーシップを発揮する
9.メンバーシップを発揮する
10.山岳保険に加入しておく

実に簡潔な鉄則である。しかし甘く見てはならない。本書の残り200頁あまりでは、この10の鉄則をじっくりと解説してくれる。ところどころには10の鉄則を甘く見たために起こった悲劇のエピソードを挟みながら、頃よく読者の気を引き締める。

用意すべき服装やストック、食糧や水。携帯する地図の見方。本書は私のような山の素人にとって有用な内容に満ちている。本書を読みこんだ後は、いつどこに行くかという決断だけが求められる。そして本書にはいつどこでという情報も懇切丁寧に記されている。春夏秋冬、それぞれの季節ごとの山の姿の紹介がエッセイ風に記され、こちらも力を抜いて読める。また、著者のお気に入り百山を挙げて下さっているが、本書を読む2か月前に読んだ「日本百名山」のような名峰高峰ではなく、素人にも親しめる100メートル級の山から多数紹介されている。ここで紹介されている山々はほとんどが日本百名山に入らない山々であり、まさに私のような初心者にとって行きたくなるような山ばかり。さすがに我が故郷の風景としてお馴染みの甲山や六甲山は入っていなかったが・・・

近々ちょっと行ってこようかな・・・

と、上の文章を書いたのが本書を読んだ直後の去年の7月。それからの私は徐々に山男ぶりを発揮することになる。9月には家族で上高地に行き、二連泊の車中泊を。さらに翌日は山梨から有楽町へ向かい、山登りを趣味とし奈良県山岳会の会員である大学の後輩からさらなる山の素晴らしさを教えられ。今年に入ってからも滝めぐりや山への訪問。さらには妻のご縁でお知り合いになったかたから山登りの会へと招待され、、、、本書を読み終えてから一年。この夏、一山は登りたいと思っている。

‘2015/7/6-2015/7/7