Articles tagged with: 就職

アクアビット航海記 vol.44〜航海記 その28


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/27にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は4年半にわたってお世話になった会社やカスタマーセンターに別れを告げ、新たな道へ進む話です。

会社とカスタマーセンターを去るにあたって


会社から去る。それは私にとって慣れ親しんだ営み、だったはずでした。

それまでの私は、流転につぐ流転の日々を送っていました。
芦屋市役所ではねぎらいの場を会議室に設けていただき、さらには花束というプレゼントまで用意していただきました。
その後、数カ所の現場を派遣社員やアルバイトの立場で訪れましたが、いずれも最後の日にはあいさつを忘れず、気持ちよく去ることができました。
逆に、朝礼の場において皆の前で面罵され、クビを宣告され、石持って追われた屈辱も味わいました。去り時には、さまざまな出来事があります。

株式会社フジプロフェシオから去るにあたり、ドラマチックなことはありませんでした。ですが、去る私にはお礼を伝えるべき方が何人もいました。会社でも、スカパーのカスタマーセンターでも。四年半の月日は軽くありません。
多くの方が私とのご縁を結んでくださいました。辞める日は、カスタマーセンターをずいぶんと回った記憶があります。

スカパーのカスタマーセンターは、東京に出てきた私が生活の基盤を作り上げた場所です。スーパーバイザーの期間はオペレーターさん達と楽しく過ごしましたし、集計チームでの日々はとても私を成長させてくれました。

私がスカパーのカスタマーセンターに在職した期間。それは、傷ついて東京に流れてきた私が結婚し、家を持ち、わが子と出会った日々に重なっています。
わたしが社会人としてなんとかやってこれたのも、カスタマーセンターでの日々があったからてす。
パソナソフトバンク、あらため、プロフェシオ、あらため、フジプロフェシオで学んだことは大きかった。と、今では思うのです。とても感謝しています。もちろん、スカパーカスタマーセンターにも。

いざ辞める私は、それまで抱えていた閉塞からの解放感を感じていました。ですが、いざやめるとなると寂しさも募ります。
私はフジプロフェシオをそんな感慨の中、退職しました。

私が去った翌月、フジプロフェシオは株式会社フジスタッフとさらに社名を変えたと聞きます。さらに今は外資系会社と合併し、株式会社ランスタッドと名乗っているそうです。また、スカパー・カスタマーセンターも今は横浜にはなく、数年後に沖縄へ移ったと聞いています。そのころは工事も始まっていなかった相鉄は、今や高架になっています。横浜ビジネスパークの脇を通っても、私の知る人は誰もいません。

今でもこの時に培ったご縁は生きています。オペレーターのソウルメイトとも今も付き合いがあります。本稿を最初にアップした前日にはLINEてやり取りしました。本稿をアップする二カ月前にも家まで送ってもらいました。
また、数年前にはカスタマーセンターの物流チームでマネージャーをされていた方が亡くなりました。私もFacebook経由でご連絡をいただき、告別式で当時の懐かしい皆さんに再会できました。

起業のことなど全く頭になかった自分


ところが、今の私はこの四年半の間に培ったご縁を一度も仕事につなげられていません。それはなぜか。
私も今まで意識していませんでしたが、本稿をアップした機会に考えてみました。

端的に言うと、この時の私には起業するマインドを全く持っていませんでした。もし持っていれば、ご縁をこれからに生かそうと連絡先をマメに交換していたはずです。当時、SNSはまだ生まれたばかり。でも、それは言い訳になりません。
辞める時、新しい会社の名刺を持っていたかどうかは忘れましたが、新たな連絡先も伝えられずじまい。結局、当時の私に人脈という観念は薄かったのでしょう。
上に書いた通り、数年前に当時の方々と再会しました。が、さすがに弔事の場で名刺を配るほど非常識ではなかった私は、この時のご縁も仕事にはつなげていません。

なぜ当時の会社への思いをツラツラと書いたか。それは当時の私に起業の気持ちが全くなかった事を言いたいためです。
転職という一つの決断を果たした私の選択肢に、起業や独立は全くありませんでした。

転職早々、名古屋まで拉致される


転職に際し、私は新たにお世話になる会社の社員旅行に連れていってもらいました。赤城山のふもとに泊まり、翌日は日光見物などを楽しみました。
新たな会社に少しでもなじみたい。私が思っていたのはそれだけでした。
未来の起業や独立は全く考えておらず、勤め人の心をみなぎらせていた私。

私が勤め人であった証拠。その証しは、私が2003年7月に新しい会社に入社してすぐ、トラブル対応の指令に唯々諾々と従ったことでも明らかです。
なんと、入社してわずか数日目にして、いきなり名古屋の小牧まで拉致されました。着替えも持たずに。
私は数人の先輩方とともに、名古屋の小牧に連れたいかれ、郊外の倉庫で延々と商品の交換作業に従事していました。あまりにも突然で、家にも帰る間も与えられず。
宿は名古屋駅前だったので、下着を名古屋駅前のコンビニエンスストアで買った事は覚えています。

訳も分からずに、私の責任でも何でもない不良品の後始末に駆り出す。それは私を試す意味もあったのでしょう。いきなり現実に直面させ、それでも残るだけの根性がこの男にあるのか。この理不尽な仕打ちに耐えられるのか。
もちろん私が負けるわけはありません。
わずかな期間とはいえ、大成社で飛び込み営業を続けた日々は無駄ではありませんでした。訪問販売でヤクザの家に飛び込んでもなお、見知らぬ家々のチャイムを押し続けたのですから。

入社早々、そんな風にして私の新たな会社での挑戦が始まりました。
そして、私が入社して二カ月後には会社が新社屋へ移転する日が決まっており、私にはその通信環境を整える役目が課せられていました。

果たしてどうなるのか。ゆるく永くお願いします。


神去なあなあ日常


このところ、本書のような構想の小説をよく目にする。

社会問題を小説の形で読みやすくし、読者に届ける。政治や産業経済に関わる問題をうまく小説の形に噛み砕き、わかりやすい形として世に訴える。有川浩さんや黒野伸一さんの作品など、何回か当ブログでも取り上げた。
地方創生と若者の就職難の問題は、現在の日本の問題点であり、社会のあり方の変化を組み合わせた小説は取り上げる価値がある。それは一つのやり方だと思うし、教化になることだろう。

課題を抱えた組織が、課題解決の方法として広報を目的として小説家に執筆依頼があるともいう。
私は、そうした試みは全く否定しない。むしろ、それが小説家の題材となり、世の中の役にたつのであればどんどん出すべきだと思う。

本書が誕生した背景にどのようなやりとりがあったのかは知らない。
だが、本書もそのような地方と都会、そこに産業の課題を組み合わせた構成で成り立っている。

本書は、林業を題材にとっている。
横浜で暮らしていた主人公の平野勇気。かれは高校を中途半端に卒業したが、進学もせず就職もしないままで未来に何の展望も感じずにいた。
そんな勇気を見かねた担任の先生と母親が結託し、勇気をいきなり三重県の山中の場所に送り込む。本書はそのような出だしから始まる。

何も知らぬまま、林業の現場に送り込まれた勇気。最初は慣れない世界に戸惑い、逃げることを考えていた。だが、徐々に、勇気は林業の面白さに目覚める。そして村の文化や暮らしの素朴さに惹かれていく。

本書の巻末には、謝辞としていくつもの組織の名前が掲げられている。
三重県環境森林部
尾鷲市水産農林課
松坂飯南森林組合
森林組合おわせ
林野庁
など。

日本の林業は、過去の忘れ去られた産業として認識されている。かつて植林したスギのまき散らす花粉は、花粉症の元凶としてよく知られている。そして、先人たちが日本の林業の将来を期待して森に植えた木材は、今や中国産の材木に押されており、ほぼ放置されている状態だそうだ。

だが、近年になって林業に新たな光も差し始めている。バイオチップの燃料として木材を使う構想や、新たな建材としての加工した木材を活用する取り組みなど。
そうした取り組みが地方の期待を背負って行われつつあり、また林業に脚光が当たりつつあるのが今だ。

だが、林業に脚光が当たったとしても、林業の現場を詳しく知っている人はどれほどいるだろう。もちろん私もよく知らない。
私自身は、山が好きだ。山を歩いていると心が落ち着く。だが、山の中で働く人々の姿を見た事はほぼない。
そもそも、私たちが歩く山道とは安全なハイキングコースに過ぎない。
だが、林業のプロはそうした守られた道ではなく、獣道を歩む。そして下生えや雑木を伐採しながら道を切り開く。さらに、計画に従って一本一本の木を切り倒す。

切り倒す木は重い。倒し方を間違うと命にかかわる。
それだけでない危険もある。たとえば天候による命の危険。野生動物との遭遇。ヒルやアブといった昆虫による被害も無視できない。
加えて本書には、山火事の危険も描かれている。

今の私が楽しんでいる山とは、山の中でもほんの一部に過ぎず、さまざまな危険から守られた安全地帯なのだろう。

わが国の文化を考える時、日本の国土の大半を占める山や谷や林や森が生活や文化の源であることはあらためて認識しなければならないはず。日本列島の周りに広がる海と同じく、山も私たちの文化を育んでくれたはずだ。
それなのに、わが国の山地の大半は人の手が入ることもなく、荒れるがままになっている。
日本人が育んできた生活や文化の多くは、確かに現代の都市部にも移植されているが、わずかな土地しかない平野部に人が密集し、それがさまざまな問題の温床ともなっている。

だからこそ、林業や漁業に再び脚光を当てようとしているのだ。例えば本書のように。
生身の自然が相手だからこそ、林業には人生を賭けるべき価値はある。
林業や山の暮らしに焦点を当てた本書はとても参考になる。

本書を読むと、著者が林業の現場の取材をくまなく行ったことが感じられる。
そして、林業には都会の住人が決して知ることのないさまざまな技術や伝統に守られている事も知ることができる。

本書では神去村の日常が描かれる。村祭りや何十年に一度しか行われない神事。
都会に比べて娯楽もなく、不便な村ではあるが、そこにはそこで楽しみが多い。
何よりも、人間関係が限定されているため、陰湿ないじめやパワハラセクハラといったものとは無縁だ。
狭い社会の中でそのようなことをしでかしたとたん、村の人間関係から弾かれてしまうからだ。
彼らの人間関係は、長年の間に育まれてきたルールに沿っている。本人の目の前で言うべきことを言う。仲間として受け入れたら、すぐに一員として扱う。

一方で、都会から地方に行った人が田舎の閉鎖性に閉口し、都会に戻ってしまうと言う話はよく聞く。
事例やケースによって、一概には言えないと思うが、それらはお互いの問題であるはずだ。そうした事例を聞くだけで、だから田舎は閉鎖的なんだ、と決めつけるのは良くないと思う。

まずは本書を楽しみながら読むのが良い。
そして林業っていいなぁとほのかに憧れ、地方で生きる事について考えを巡らせるのはどうだろう。
週末に近場の山に行ってみるのも一興だ。
その時、運良くそこで林業に携わる人を見かけたら、本書で得た知識をにわかに動員し、声をかけてみるとよいかもしれない。
私も声をかけてみようと思う。

‘2020/07/01-2020/07/02


アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書


経済学の本をもう一度読み直さなければ、と集中的に読んだ何冊かの本。本書はそのうちの一冊だ。
新刊本でまとめて購入した。

前から書いている通り、私には経済的なセンスがあまりない。これは経営者としてかなりハンディキャップになっている。

私だけでなく妻も同じ。お金持ちになるチャンスは何度もあったが、そのために浪費に走ってしまった。だからこそ長年私も常駐作業から抜け出せなかった。その影響は今もなお尾を引いている。

私は若い考えのまま、お金に使われない人生を目指そうとした。金儲けに走ることを罪悪のようにも考えていた時期もある。
二十代前半は、金儲けに走ることを罪悪のように考えていた。

妻は妻で、生まれが裕福だった。そのために、浪費の癖が抜けるのに時間がかかった。
幸いなことに夫婦ともまとまったお金を稼ぐだけの能力があった。そのため、家計は破綻せずに済んだ。だが、実際に破綻しかけた危機を何度も経験した。

私たち夫婦のようなケースはあまりないだろう。だが、私たちに限らず、わが国の終身雇用を前提とした働き方は、お金について考える必要を人々に与えなかった。
一つの企業で新卒から定年まで勤めあげるキャリアの中で、組織が求める仕事をこなしていけばよかった。お金や老後のことも含めた金の知識は蓄える必要がなかった。それらは企業や国が年金や保険といった社会保障で用意していたからだ。

私もその社会の中で育ってきた。そのため、金についての教育は受けてこなかった。風潮の申し子だったといってもよい。
だが、私はそうした生き方から脱落し、自分なりの生き方を追求することにした。ところが、お金の知識もなしに独立したツケが回り、会社を立ち上げ法人化した後に苦労している。もっと早く本書のような知識に触れておけば。

世間はようやく終身雇用の限界を知り、それに紐付いた考えも少しずつ改まりつつある。
私も自分の経験を子どもやメンバーに教えてやらねばならない。また、そうした年齢に達している。

本書は、アメリカの高校生が学ぶお金についての本だ。
アメリカは今もまだ世界でトップクラスの裕福な国だ。経済観念も発達している。貧富の差が激しいとはいえ、トップクラスのビジネスマンともなると、わが国とは比べ物にならないほどの金を稼ぐことが可能だ。

それには、社会の仕組みを知り尽くすことだ。金が社会を巡り、人々の生活を成り立たせる。
人が日々の糧を得て、衣服に身を包み、家に住まう。結婚して子を育て、老後に安閑とした日々を送る。
そのために人類は貨幣を介して価値を交換させる体系を育ててきた。会社や税金を発明し、労働と経済を生活の豊かさに転換させる制度を育ててきた。
金の動きを理解すること。どのようなルートで金が流れるのか。どのような法則で流れの速度が変わり、どの部分に滞るのか。それを理解すれば、自らを金の動きの流れに沿って動かさせる。そして、自らの財布や口座に金を集めることができる。

その制度は人が作ったものだ。人智を超えた仕組みではない。根本の原理を理解することは難しい。だが、人間が作った仕組みの概要は理解できるはずだ。
本書で学べることとはそれだ。

第1章 お金の計画の基本
第2章 お金とキャリア設計の基本
第3章 就職、転職、起業の基本
第4章 貯金と銀行の基本
第5章 予算と支出の基本
第6章 信用と借金の基本
第7章 破産の基本
第8章 投資の基本
第9章 金融詐欺の基本
第10章 保険の基本
第11章 税金の基本
第12章 社会福祉の基本
第13章 法律と契約の基本
第14章 老後資産の基本

各章はラインマーカーで重要な点が強調されている。
それらを読み込んでいくだけでも理解できる。さらに、末尾には付録として絶対に覚えておきたいお金のヒントと、人生における三つのイベント(最初の仕事、大学生活、新社会人)にあたって把握すべきヒントが載っている。
それらを読むだけでも本書は読んだ甲斐がある。私も若い時期に本書を読んでおけばよかったと思う。

376-378ページに載っている「絶対に覚えておきたいお金のヒント10」だけは全文を載せておく。

絶対に覚えておきたいお金のヒント10
この本ではお金についていろいろなことを学んだが、いちばん大切なのは次の10項目だ。

1、シンプルに
お金の管理はシンプルがいちばんだ。複雑にすると管理するのが面倒になり、自分でも理解できなくなってしまう。

2、質素に暮らす
お金は無限にあるわけではなく、そして将来何が起こるかは誰にもわからない。つねに倹約を心がけていれば、いざというときもあわてることはない。

3、借金をしない
個人にとっても家計にとっても、代表的なお金の問題は借金だ。借金は大きな心の負担になり、人生が破壊されてしまうこともある。ときには借金で助かることもあるが、必要最小限に抑えること。

4、ひたすら貯金
いくら稼いでいるかに関係なく、稼いだ額よりも少なく使うのが鉄則だ。早いうちから貯金を始めれば、後になって複利効果の恩恵を存分に受けることができる。

5、うまい話は疑う
儲け話を持ちかけられたけれど、中身がよく理解できない場合は、その場で断って絶対にふり返らない。うまい話には必ず裏がある。

6、投資の多様化
多様な資産に分散投資をしていれば、何かで損失が出ても他のもので埋め合わせができる。これがローリスクで確実なリターンが期待できる投資法だ。

7、すべてのものには税金がかかる
お金が入ってくるときも税金がかかり、お金を使うときも税金がかかる。商売や投資の儲けを計算するときは、税金を引いた額で考えること。

8、長期で考える
今の若い人たちは、おそらくかなり長生きすることになるだろう。人生100年時代に備え、長い目で見たお金の計画を立てなければならない。

9、自分を知る
お金との付き合い方には、個人の性格や生き方が表れる。将来の夢や、自分のリスク許容度を知り、それに合わせてお金の計画を立てよう。万人に適した方法は存在しない。

10、お金のことを真剣に考える
お金は大切だ。お金の基本をきちんと学び、大きなお金の決断をするときは入念に下調べをすること。お金に詳しい人から話を聞くことも役に立つ。

‘2020/05/01-2020/05/11


明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


アクアビット航海記 vol.13〜航海記 その2


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/2にアップした当時の文章そのままです。

大学に入るまで

1996年の3月。私は大学を卒業します。4年制の大学を無事に4年間で。単位も取得し、卒論も提出した上で。その時の私に唯一足りなかったこと。それが4月からの就職先です。

なぜ、そういう事態になったのか。それは本連載の第12回で書いた通りです。私の自業自得。身から出た錆。それ以外の何ものでもありません。私自身に社会に出るだけの準備が整っていなかっただけの話です。モラトリアム(猶予期間)への願望もあったけれど、それは理由にはなりません。誰の責任でもなく、私自身の甘えが招いただけの話です。

では私は大学の4年間、何をしていたのでしょう。単に親のすねをかじって遊び惚けていただけなのか。それとも何かを目指していたのか。たとえば起業を志すとか、学問の世界で身を立てるとか。内定もとれず、大学を過ごした私に志はなかったのでしょうか。いえいえ、そんなことはありません。

高校卒業後、私は関西大学の商学部に現役で入学しました。他にも甲南大学にも受かったのですが、そちらは辞退しました。では当初から商学部に入学したい強烈な動機があったのか。そう聞かれると答えに窮します。正直なところ、商学部にしか受からなかったから商学部に入った。それだけの話です。浪人も面倒だったし。

高校生の私は環境問題に関心がありました。未熟で世間知らずであっても社会のために役に立ちたいと志す気概は持っていたのです。ところが、環境問題を専攻するには理系の学部に入るしかなかったのです。そして私の成績は完全に文高理低に偏っていました。国語と社会は上位、ところが数学や理科は落ちこぼれ。とても将来プログラミングで身を立てるとは思えない体たらく。高校時代の私にはPCやプログラミングの気配など全くなく、スーパーファミコンやPCエンジンでゲームしていたのがせいぜいでした。そんなわけで、私の志とは違って文系の学部にしか進学できませんでした。

商学部で学んだ起業への素地

でも、商学部で学んだ経験は無駄にはなりませんでした。入った当初はまったく興味がなく、必修の語学については苦痛でしかありませんでした。ところが商学部の専門コースに進んでから、少しずつ興味を惹かれ始めたのです。特に、マーケティング論。興味をもって勉強もしたし、優良可の優をとるぐらいには理解していました。いまでも、地方に旅行すると地元のコンビニやスーパー、道の駅巡りは欠かせません。いろんな商品を見て歩き、パッケージに感動する。それはこの時にマーケティング論を学んだ影響が尾を引いています。簿記の初歩も大学の授業で学び、簿記三級の合格が単位取得条件だったのでそれも取りました。こうやって振り返ってみると、勉強も結構していたのですよね。連載の第12回では、私の大学時代は遊びまくっていたように書きましたが。多分、興味を持った授業はそれなりに出ていたということでしょう。ただ、当時の私を振り返ると、将来起業に役立つと考えて授業に臨んだことは一瞬たりともありませんでした。当時はそこでの授業が自分の人生にどう役立つのかまったくわからないまま。でも、商学部での学びは起業の糧となっているのです。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、大学の授業はおろそかにするなかれ、と忠告しておきたいです。

部活動を率いて学んだ起業への素地

あと3つ、大学生活で得た起業の糧があります。一つは部活動です。商学部の私が、なぜか政治学研究部に所属することになりまして。理由は、高校の同級生が関大の法学部に入り、その彼に誘われただけのことです。3回生になった私は政治学研究部の部長を務めます。いまから考えると部活動内容も学生の戯れに過ぎませんでした。が、なんであれ組織を率いるという経験は貴重です。私は高校時代にもホームルーム長(級長)を2回務めたことがあります。ですが、高校のホームルーム長は担任の先生の指導の下、高校の枠の中の役職でしかありません。ところが、大学の部活動における部長にはとても強い自治権が与えられます。その経験は、後年、私が“起業”する上で良い経験となりました。大学時代の私は今よりも人見知りの気質が強かったと思います。今のように積極的にいろんな集まりに飛び込んでいく度胸もありません。そんな未熟な私でしたが、政治学研究部で培った交流関係や、一緒に実行した数々の無謀なイベントはとても得難いものでした。そういうへんな度胸を発揮したり、枠をはみ出たりする楽しさ。私に大学のキャンバスライフを楽しませてくれたのが、この部での体験でした。政治学を専攻する部なのに。生まれて初めて検便を提出したのも学祭のやきとり屋。生まれて初めて貧血で倒れたのも学祭のプロレス観戦中。生まれて初めて胴上げされたのも学祭の後。学祭も政治学研究部で参加しました。いまだにこの部の仲間とは交流が続いていますし、この時に過ごした皆には感謝しかありません。あと、私が社会に出るにあたり大変お世話になった先輩と出会ったのもこの部でした。この方については私の起業人生に関わってくるのでまた触れたいと思います。

話はそれますが、大学の入学時には馬術部にも勧誘されました。新歓コンパまで出ながら、結局入部することはありませんでした。この時、私が馬術部に入っていたらいったいどういう人生を歩んでいただろう、と思うことがたまにあります。内定なしで卒業したことも含め、私は自分の大学時代に後悔は何一つありません。が、この時、馬術部に入らなかったことはいまだに心残りです。朝早いのがいや、という理由で断ったことなど特に。

もし本連載を読んでいる学生の方がいらっしゃったら、どんな仲間でもいいから、とにかく楽しめ、そしてどんな形でもいいから上にたて、と忠告しておきたいです。

次回は、私のキャンバスライフで得た残り2つの起業への糧を述べてみます。


アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。第二回~第十一回までは起業のメリット/デメリットを述べました。今回からタイトルにそって航海記を書いていきます。以下の文は2017/10/26にアップした当時の文章そのままです。ただ、今回参照しようとしたところ、すでに元サイトはキャッシュにしか残っていない模様です。それも踏まえ、今回の連載再開にあたっては、5回に一度ほど、起業についてのコラムを書いていこうと思います。

私の起業への歩みは、ノウハウでもコツでもありません

なぜ、私が“起業”したか。なぜノウハウも人脈もない中、起業に踏み切れたのか。それを説明するのは困難です。なぜならなりゆきだったからです。なりゆきに導かれるように起業にたどり着いた。それが私の起業の経緯でした。よくあるように、たった一度の機会を生かし、清水の舞台からえいやと飛び降りた起業ではないのです。もちろん、強固な目的意識もなければ、明確なスケジュールに沿った起業でもありませんでした。ですから、本連載では起業のノウハウは記しません。起業へのわかりやすいステップも示しません。また、皆様に独立のコツやタイミングの指南もしません。いや、“しない”のではなく“できない”のです。私は起業コンサルタントではなく、今後なるつもりもありませんので。

そうなると、本連載って何やねん。というツッコミが入りそうです。こういう場をいただいている以上、何かしらの気づきや手応えをつかんでもらわなくては連載の意味がありません。たぶん、私が本連載で伝えるべきは起業のコツやノウハウなのでしょう。成り行き任せで“起業”したのに10年以上も事業を続けられているのもどこかで起業のコツを実践していたのでしょうし、適したタイミングで手を打ったのもノウハウと言えるかもしれません。私自身が、決して起業の奥義やツボを会得しているわけではないのですが、書き連ねた内容の中からヒントをつかみ取っていただければうれしいです。

大学時代の就職活動で挫折を味わいました。

私には三親等以内の親族が30名強います(妻側の親族は除く)。その中で私の知る限り、自営業や経営者はいなかったように思います。みなさん、公務員や教師や会社員、主婦など堅実な道を歩む方がほとんどです。つまり私は一族の異端児。そういう一族に生まれた私は、世が世なら“起業”せずに勤め人として平穏に過ごしていたと思います。しかも、東京に出ることなく関西にずっと住んでいたはずです。では、何が私を起業に向かわせたのか。それを解くには大学時代にまでさかのぼる必要があります。

浪人もせず現役で大学に入るまでの私は、親の保護下で順調に成長して来ました。が、大学の自由な風は私のリズムを崩したようです。今思えば無軌道なキャンバスライフだったと思います。いや、楽しみました。それに悔いはありません。無軌道で無鉄砲な学生時代でしたが、それでも留年もせず四年で大学も卒業できたのです。ですが、卒業した時の私は、一つも内定を持っていませんでした。これが私の転機でした。小中高大と浪人も留年もなく過ごしてきた私にとって初めての蹉跌。それが就職活動だったと思っています。いまさら振り返っても仕方ないのですが、もしここで普通に就職していたら私の人生行路もずいぶん違っていたことでしょう。

なぜ内定がとれなかったのか。それは私の実力が不足していたことに尽きます。が、それ以前に就職活動をナメていたのですね。いま思えばずいぶんと横紙破りな就職活動だったと思います。リクルートスーツこそかろうじて着ていました。ですが、自転車や車で面接会場まで行ったり、営業ではなく商品企画を希望したり。就職氷河期と呼ばれた真っ只中にありながら、よくぞ甘えていたものです。現在の私が当時の私を面接しても多分落としていたと思います。それでも、いくつかは最終面接まで行きました。そして、最終面接で内定をもらったと勘違いし、それ以降の就職活動をやめてしまうほどに私は若かった。

一つだけ当時の私を擁護させてください。それは、阪神・淡路大震災です。就職活動の年の一月に起きた地震。この地震は私の家を全壊させました。その経緯はブログにも書いたのでここでは繰り返しません。そして、この経験は私の人生観に多大な影響を与えました。人の命のはかなさ。人生は一回きりであるとの達観。そこに、地震を体験したことによる高揚感が加わりました。そんな精神状態で私は就職活動に臨んだのです。そして、あまり断られず順調に最終面接まで行ったのです。そこで就職をナメてしまった。若かったですね〜。

就職活動を辞めた私は、その夏休みを遊び倒します。若狭、広島、福岡、長崎、柳川、厚狭、台湾一周、沖縄。無論後悔はありません。いまでもこの夏の思い出は鮮烈です。そして、この夏の充実は今にいたるまで私の理想の日々です。それ以降、どうすればこの夏のような生活が送れるか、を模索する基準にもなりました。昔はよかったな~、ではなく、この時のような生活を送るために前向きな気持ちで。

1995年は奇しくもITにとってエポックな年でもありました。

この年に起こった出来事は阪神・淡路大震災だけではありません。オウム真理教による地下鉄サリン事件も起きました。当時の私は、大学や駅で宗教に勧誘された経験があったので、宗教からは距離を置いていました。これは現在もかわりません。あと一つ、この年はWindows95が発売された年でもあります。当時の私はパソコンを職業にするなどまったく視野の外。それどころかWindowsにもほとんど興味がありませんでした。先輩から譲ってもらったX68000というパソコンでネット通信を楽しみ、ゲームを楽しむ程度にはパソコンを使っていましたが、仕事でパソコンを使うなど、想像すらしていませんでした。

そんな1995年。新卒で採用される大学生の進路ルートからそれた日々。この年、私の人生に就職活動の失敗という一つの転機が生じたのです。


神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23


僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由


悩み深き20代前半。私もどっぷりとその深みにはまりこんだ口である。

強烈な揺れと、その後の混乱を乗り切った冬。内定をもらったと勘違いし、就職活動を止めてしまった初夏。西日本のかなりを旅行し、台湾自転車一周や沖縄旅行など、遊びに遊びまくった夏。吹っ切れて関西一円のあちこちに旅行し続けた秋。大学は卒業したけれど、内定社のない春。

その反動からか、どっぷりと鬱になり、本を読みまくって何かを探し続けた次の年。この時期に読みまくった本と、身に付けたITスキル。そして今に至るまで付き合いの続く年上の友人達との新たな出会い。この時期に助けられた友人たちへの恩。

後悔していないばかりか、人生で輝けた2年間を過ごせたと思っている。22~24歳の私である。

本書に登場する人物達は、あるいは引きこもり、あるいはコミュ障を患い、あるいはゲームの世界に埋没し、あるいは挫折から夢を追う人生に転じ、あるいは奇抜な塾経営から生徒たちの心をつかむ。多くは当時の20代の若者たちである。真っ当な社会生活を送る者からすると、何とも歯がゆく、張り倒してやりたくなる人物がほとんどではないだろうか。

おそらくは当時の私も周囲からこのように見られていたことだろう。人生で何を成し遂げたいのか、「自分さがし」という名の陥穽は、青年にとってあまりにも魅力的で避けがたいものである。

私はその後、上京し、結婚もして家も買い、娘達にも恵まれ、曲がりなりにも個人事業主として8年ほど生計を立てている。世間的には陥穽を避け、順風満帆な生を歩む人間として映っているのかもしれない。しかし、そうではない。私の根底にあるのは20代の頃と同じく、自分への探求心である。40になっても不惑とは程遠く、未完成な自分を少しでも納得の行く完成形へと引き上げようとする人に過ぎない。

おそらくは私の人生観は、一般的な社会人のそれよりも、本書の登場人物達に近いのだろう。だからこそ、彼らの生き方に共感する部分は強い。歯がゆくもないし、張り倒す理由もない。むしろ応援したい気持ちになる。

ただ、彼らに、現代の彼らのような若者たちに会ったとして、私に出来ることは実はそれほどない。月並みだけれど、人生とはその人の生である。他人が肩代わりすることはできない。ただ前向きに、他人を傷つけず、陰口も言わず、己の決断に、与えられた機会に飛び込んでいくのみである。本稿の冒頭で「人生で輝けた2年間を過ごせた」と書いたが、それも過ぎた者だけがいえる台詞。過ぎて初めて人の生は語るに値する。

著者も本書の登場人物達に近いニートのような生活を送ったことがあるとか。著者は下手な同情も記さない代わりに、突き放すこともしない。ただ傍らでその人の人生を見つめるのみである。その視線は温かい。おそらくは著者も、登場人物の生は肩代わりできないことを知っていることだろう。替わりに出来ることとして、その生を描くことで、自らの探究心を満たしたかっただけなのだろう。それでいい。人生とは結局は自らを納得させるためにあるようなものなのだから。

’14/04/16-’14/04/17