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しゃべれども しゃべれども


著者の本は初めて読んだが、とても面白かった。本書が面白いのは、読者のほとんどにおなじみの「しゃべり」が扱われているからだろう。しゃべること自体が小説のテーマになっていることはそうない。なぜなら人がしゃべるのは日常で当たり前のことだからだ。

話す事で糧を得る人は世の中に多い。落語家もそう。話すこと自体が芸となっている。本書が描き出すのは、落語家の生態や、彼らに伝えられる口承芸ー噺についてだ。ただ、噺家の生態を描くだけではなく、噺家の回りに集う人々との関わりで描くのが本書のいいところだ。噺家の周りに集う人々に共通するのが、話すのが苦手な人というのがいい。話す技術とは、生きていく上で欠かせない。だが、誰もが自在に扱えるかといえばそうでもない。ほとんどの人が身につけていながら、その技を完全にわが物としている人はそうそういない。私もそう。しかも主人公の噺家すら、その難しさに悩んでいるのだから。だから、本書は読者の共感を呼ぶ。

主人公は今昔亭三つ葉。今昔亭小三文門下の二つ目である。ちなみに二つ目とは噺家の階級のこと。「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」とあり、三つ葉はプロとして認められた段階だ。ところが、話すことにかけてはプロであるはずの三つ葉は伸び悩んでいる。噺家をなりわいとしていくには芸道の先がみえず、焦る日々を過ごしている。

そんな三つ葉の周りには、不思議なことに話すことが不得手な人が集まる。まずは、いとこの良。彼はドモる癖を持っていて、会話が少し不自由。ドモリがテニスクラブのコーチの仕事にも影響を及ぼしはじめている。

そんなある日、師匠の小三文がカルチャースクールの話し方講座に呼ばれる。付き人として付いて行った三つ葉は、そこで黒猫こと十河を知る。彼女は本音で生きており、その口調は取りつく島もないぐらいに攻撃的。話し方講座とは、話すことが苦手な人の集まりだ。話し方講座を聴講していた良も本気でドモリを治したい、内輪の集まりでよいから、話し方教室を開いてくれといってくる。ならば、と三つ葉はこぢんまりとした落語教室を始める。

落語教室の生徒は四人だ。良と十河、そして近所に住む小学校六年生の少年村林。彼は、関西で育ち最近吉祥寺に越してきた。だが、意地になって関西弁を直さずにいるため、クラスでなじめずにいる。もう一人は湯河原。彼は代打専門の元プロ野球選手として有名な人物。ところが、プロ野球のテレビ中継の解説が全くダメで解説者として崖っぷちに立っている。

生徒の四人が四人とも、しゃべることに劣等感を持っている。それが苦手なあまり、世の中に生きにくさすら感じている。三つ葉は、彼らとの落語教室をほそぼそと開きながら、噺家としての日々も送る。師匠からダメ出しをくらい、二つ目として二人会の舞台を催し高座に上がる。だが、噺家として壁にぶつかり、もだえる日々を過ごしている。

話すことは、本当に難しい。私も自分のこととして深く思う。ここ数年、このままでは自分の人生の可能性を生かし切れない、自分のキャリアパスに活路を開かねばならない、と人前で話す機会を増やしている。私の場合、話し方についての師匠はいない。全てが自分の独学。果たして自分の話し方の成長カーブ学校上向いているのかも分からぬままだ。何しろ、自分の話す内容を動画で残さない限り、反省するすべがないのだから。話すとは、その場限りの一瞬の行いなのだ。

だからこそ、場数を踏まねばならないと思う。場数を踏んで、毎回反省し、反省しながら、少し上達していることに気づく。まれに聴講してくださった方から話がうまいといわれて、そうかといい気になる。だが、しゃべるプロたちが立て板に水を流すように淀みなく登壇しているのを見ると、自分の技術がまだまだであることに気づく。そして、話す技術に到達点はない。それは噺家だって同じことだ。

「良は生徒のことを気にしすぎるんだ。あんたがマイクの前に座って視聴者にビクビクするのと同じだ。俺が高座で客の顔色をうかがうのと同じだ。誰だって好かれたいよな。」(220p)。これは、三つ葉が湯河原に向かって言うセリフだ。結局、好かれようとするあまり、いいたいことが言えなくなる。人にしゃべったことがどう思われるか、どう伝わるか。ここを気にしてしまうとうまく話せなくなる。

本稿を書く数日前、懇意にしているデザイナーの方からこんなセリフを聞いた。「絵を描くとき、自分の理想とする絵が頭にあると、失敗作にしかならない。もう、書き始めたら手に全てを委ねてしまう。それがどうあれ作品なのだ。」と。けだし名言だ。クリエイターとはこうあるべき。

もちろん、それには基礎がいる。基礎があれば、表現した内容には何らかの実が伴う。わたしもそう。もう、人の反応は気にしないことにしてから随分とたつ。その境地に至ってからは、人前で話すことが苦ではなくなった。

私がやるべきなのは、基礎となるべき部分をたゆまずメンテし続けること。それさえ怠らずにおれば、あとは、自分の中身を話すのみ。手に委ねるように、口に委ねてしまう。

とはいえ、その境地にどうやって至るのかは人それぞれだ。四人の生徒がしゃべる苦手を克服するには、時間がかかる。きっかけもいる。三つ葉もそれがわかるので、到達点を示そうと発表会を企画する。話す事が苦手な四人は、噺を暗記しなおかつそれを人前で披露する。これは小さな落語教室にとっては大したことだ。小さいながら、さまざまな悶着があり、四人もそろったり来なかったり、関係もごちゃごちゃしたり。

村林は自分をいじめるクラスメイトに野球で立ち向かい、湯河原に教えを請うたにもかかわらず負ける。でも、村林は落語教室が主催する発表会で「まんじゅうこわい」を披露して喝采をさらう。

成長したのは村林だけではない。落語教室に来ていたそれぞれが、それぞれに自分を見つめる。良も十河も、湯河原も、そして三つ葉も成長する。一年の間でも、人はグッと成長できる。人間が持って生まれた性質は簡単には変えられない。それでも成長はできる。成長する機会は生きていれば雨のように降ってくる。それを受け取るのか縮こまって避けるのか。それが成長につながる。妻の母が言っていた言葉だ。

三つ葉は、古典落語の装いを愛し、たとえモノマネといわれようと、古典落語の伝統を皆に伝えたいと願う。その思いは、三つ葉をライバル一門の白馬師匠の元に赴かせる。普段から自分の芸をネタにけなす白馬師匠でありながら。その思いが、三つ葉の芸の道を一段上に上げる。そして自分の生徒たちが成長する姿を見てさらに。

本書は落語の芸が詳しく書かれる。噺とは地の文とセリフを一人の話者が使い分け、客に面白く伝える芸能だ。

そこに流れる芸の道とは、小説の技術にも通じる。本書もそうだ。端正な地の文にセリフを挟むことで、ストーリーにリズムと変化がつく。勢いがつく。江戸の言葉、上方の言葉。大人の言葉、少年の言葉。男言葉、女言葉。それらが端正な地の文の間にうまく乗っていることで、本書はさらに魅力を放つのだ。

本書を読むと、きっと落語に関心が向く。そして、好きになれるに違いない。本書をよんだ後、私は落語の寄席に行きたくなった。

‘2017/07/27-2017/08/01


少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


少年は残酷な弓を射る 上


本書は子をもつ親にこそ勧めたい。特に、難しい年齢の子をもつ親に。

子作りとはなんと罪作りな行いなのか。子育てとはなんて深淵で取り返しのつかない営みなのか。特に今のような中途半端に人間関係が希薄になり、中途半端に情報が流通している社会では、親が子を育てることはますます難しい。

子供を育てる。それは私がまさに日々直面する親としての現実だ。私も自分なりによき父であろうと努力して来たつもりだ。が、娘達からすれば物足りない点、欠けている点もあちこち目につくことだろう。とくに仕事の忙しさにかまけるのがもっともよろしくない。仕事に忙殺され、子どもをないがしろにすると、自らの子どもから手痛いしっぺ返しを食らう。これは私も経験済み。

親の一挙手一投足は、一刻一刻が取り返しの付かない影響を子供に与えている。良くも悪くも。本書を読むとその事実が重くのしかかってくる。重く歪んだ読後感を伴う本書だが、まぎれもない傑作だと思う。

本書は妻エヴァから夫フランクリンへの手紙に似た語りかけの形式をとる。離れた場所にいる夫への語りかけは、物語に定まった視点を生む。全てはエヴァの一人称で話が進んでゆく。近況を報告し、二人の間の過去の思い出を語るエヴァの語りを読み進めていくうちに、読者は二人の息子ケヴィンが大量殺人を犯した事実を知る。

冒頭からまもなくエヴァの語りは、少年院に面会に行き、ケヴィンと対峙する経緯に差しかかる。反省の色を浮かべるどころか、実の母を挑発するケヴィンとの一部始終を夫に語るエヴァ。事件後、二年たってもまだエヴァは事件の後始末に関わっている。本書は、事件が起こった後の混乱が収まった後もなお、自身の人生と子育ての日々を見つめ直そうとするエヴァの探求の旅だ。エヴァの胸につかえる思い 。彼女の胸を満たすのは、いったい何が悪かったのか、どこで間違えてしまったのか、との後悔。

本書の設定では、ケヴィンが大量殺戮を犯してすぐにコロンバイン高校の銃乱射事件が起こったことになっている。それはケヴィンの犯行が世間に与えた衝撃の度合いを薄めた。ケヴィンは憤る。コロンバイン高校で銃乱射を行った二人の少年が自分の行いを薄めたことに。そこには反省など微塵もない。そして、エヴァの求める答えも救いもない。それでもエヴァは、息子から逃げずに定期的に少年院に通う。そしてその様子を逐一フランクリンに報告する。

エヴァは夫に便りを書きながら、同時に自分へと問いかける。二人が出会ったころのなれそめから遡れば、その問いへの答えがわかるとでもいうように。

ロケーション・ハンティングを営み、家を留守にすることの多いフランクリンと、海外へ向かうトラベラー向けの出版社経営に没頭するエヴァ。結婚してからも二人の仲は熱く、子作りの必要など感じないくらい。だが、エヴァとフランクリンの温度差はある日臨界を迎え、衝動的に避妊せずにセックスする。高年齢での妊娠はリスク。そしてエヴァにとっては今まで築き上げたライフスタイルが失われる恐れを抱きながらの妊娠。この辺り、女性の女性が描く細やかな描写が読者にさまざまな思いを抱かせる。

なお、著者の名前がライオネルとなっている。が、著者は女性だ。著者自身の意思で男性の名に思えるライオネルに改名したそうだ。著者の紹介によると、著者には子がいないらしい。それにもかかわらず、子を持つ母の思いがリアルに描かれている。著書の想像力の豊かさが見てとれる。

エヴァの語りから感じられるのは、自分の感情と責任に正直でありたいという率直さだ。すでに殺人犯の母と汚名を被った以上、自分を飾る必要もないということだろう。エヴァの語りを追うと、他の母親並みに妊婦学級に参加したり、我が子との対面を待ち望む気持ちがあるかと思えば、全てがどこかで間違った方向に進んでいるのではないかとおののき惑う気持ちも描く。そんな正直な心境をエヴァは夫に向けてつづる。その率直さはケヴィン誕生の瞬間の気持ちにも現れる。その気持ちとは感動がないという驚き。

著者は本書をありきたりの母と子として描かない。ケヴィンが大量殺戮に走った理由が今までの歩みのどこかに潜んでいなくてはならない。エヴァは、その原因を思い出すために当時の自分に向き合う。

子を持つことに積極的でないエヴァとそんな母の元に生まれたケヴィン。受胎の瞬間から破局は始まっていたかのようにエヴァの語りはケヴィンが誕生してからの日々を描き出す。母乳に興味を持たずひたすら泣きわめくケヴィンとそれを持て余すエヴァ。エヴァも愚かではない。ヒステリックに怒鳴り散らしたい気持ちを抑え、良き母であろうと努力する。だが、そんなエヴァをあざ笑うかのように、ケヴィンは父フランクリンの前では良き幼子として振る舞う。

以後、上巻では、ケヴィンとエヴァの緊張をはらんだ関係と、無邪気にケヴィンに騙され続ける父フランクリンの関係が描かれる。成長するにつれ行動に不穏な気配を帯びてゆくケヴィンに恐れを抱きながら母を演じようとするエヴァと、最初から自分が理想の父を演じていることに一瞬たりとも疑いを挟まないフランクリン。二人の夫婦としての温度にも微妙な差が生じ始める。

おそろしいのは、三人の関係だけではない。この展開を自然にグイグイ読ませる著者の力量も恐ろしい。本書がケヴィンの起こした破局に向かって突き進んでゆくことは予想できるのだが、それがどういう方向に向かうのか読者はわからぬままだ。わかっているのはケヴィンの起こした事件が重大であり、大勢を殺傷したこと。それ以外は詳細が語られぬまま物語が進んでゆく。読者は、スリリングな気持ちと不気味さを同時に味わうことになる。上巻も終わりを迎える頃には、夫婦が事態を打開するためシーリアという娘ももうける。シーリアはケヴィンと違って全く手のかからない天使のような娘。それが物語に一層の波乱の予感を与えつつ、本書は、下巻へと向かう。

‘2017/04/12-2017/04/15


解錠師


本書はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞(最優秀長編賞)とCWA(英国推理作家協会)のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞を受賞している。受賞作品という冠は、本書の場合、本物だ。だてに受賞したわけではない。登場人物の造形、事件、謎、スリリングな展開、それらが本書にはそろっている。傑作というしかない。

本書には設定からしてユニークな点が多い。まず、本書の主人公はしゃべれない。八歳の時に起こった事件がもとで言葉を失ってしまったのだ。だから主人公は言葉を発しないけれど、主人公の心の動きは理解ができる。それは、主人公の視点で描かれているからだ。口に出して意志は伝えられないが、独白の形で主人公の心が読者には伝えられる。ているの動き、感情、そして読者は口がきけないことが思考にどう影響を与えるかを想いながら本書を読むことになる。マイク、またの名を奇跡の少年、ミルフォードの声なし、金の卵、若きゴースト、小僧、金庫破り、解錠師と呼ばれた男の物語を。

本書は、刑務所にいるマイクの独白で展開する。そのため、複数の時代が交互に登場する。最初は分かりにくいかもしれないが、著者も訳者も細心の注意を払ってくれているので、まず戸惑うことはないはずだ。それぞれの章の頭にはその時代が年月で書かれているし。

しゃべれなくなったマイクは、叔父リートの店を手伝いながら、店の古い錠前で錠前破りに興味を持ちつつ、コミュニケーション障害を持つ子供たちの学校に通う。進学した健常者の高校では絵の才能が開花する。そして親友のグリフィンと会う。しかしその出会いから、マイクの運命は変転を加えていくことになる。

卒業記念に強盗という無法を働こうとしたグループにグリフィンと巻き込まれたマイクは、押し入ったマーシュ家で独り捕まる。そこからマイクの運命はさらに変転を重ねる。マーシュ家で保護観察期間のプログラムとしてプール作りの労働に励むことになったマイク。そこでマイクは錠前破りの弟子としての道を示され、さらにマーシュの娘アメリアに出会う。マイクは錠前破りのプロとして独り立ちし、たくさんの犯罪現場の場数を踏む。その後もマイクの独房での独白は進んでゆくのだが、それ以上は語らないでおきたい。

本書のユニークな点は、錠前破りの論理的な部分を図解なしで紹介することにある。金庫の錠前を破るにはロジックの理解と指先の微妙な感覚を検知する能力が求められる。シリンダーの細かい組み合わせと、そのわずかなひっかかりを基に正しい組み合わせを逆算出するのだから当然だ。もちろん、本書を読んだだけで誰でも錠前破りになれるわけではない。だが、図解なしにそういったセンシティブな部分を書き込むにはかなりの労力を要したことだろう。著者略歴によれば著者はIBM出身だそうだ。本書のロジカルな部分にIBMのセンスが現れている。

だが、本書で見逃せないユニークな点は、マイクとアメリアの間に交わされる絵によるコミュニケーションだ。最初はマイクからアメリアへのポートレイトのプレゼントから始まる。夜間にマーシュ家に忍び込み、寝ているアメリアの横にポートレイトを置いて帰るという向こう見ずな行い。それに気づいたアメリカからの返信の絵。寝室で合った二人は、声を交わす前からすでに恋人同士のコミュニケーションが成り立っている。

むしろ本書は、マイクとアメリアの若い恋人によるラブストーリーと読んでもよいかもしれない。声が出せなくても、マイクには絵という感情と、表情と身ぶりでを想いを伝える手段がある。声を出さないことでアメリアへの思いが発散し、薄れてしまわないように。マイクの内に秘めた熱い感情は声なしでアメリアに伝わってゆく。声というのはもっとも簡単な伝達手段だ。だが、たとえ声が出せなくても絶望することはないのだ。マイクからは口がきけないことを後ろ向きに感じさせない強さがある。

先に、著者がIBM出身であることを書いた。IBMは声を使わない情報伝達を本業としている。そんなIBM出身の著者だからこそ、口がきけないマイクとアメリアの交流を考え付いたのだろうか。多分、ヒントにはなったかもしれないが、それ以上に著者は考えたはずだ。口を使わない情報伝達の限界を。それは単にロジックを考えればよい問題ではない。心と感情について、著者は深く考えぬいたのだろう。心の描写をゆるがせにしなかったことが本書を優れた作品に持ち上げたのだと思う。

マイクから言葉を奪った事件も本書の終わりのほうで語られる。それは、八歳の少年から声を奪うに十分な出来事だ。そんな出来事があったにも関わらず、マイクは強い。芯から強い。アクの強い犯罪者たちの間に伍して冷静に錠前破りができるほどに強い。声を出せないことがマイクをそのように強くしたのか。それとも、そのような試練に打ち勝てるだけの素質がもともとあったのか。マイクの強さと心のまっすぐさは、犯罪を扱っている本書であるがゆえに、かえって強く印象付けられた。

おそらく本書の魅力とは、マイクのひたむきな前向きさにあると思う。

‘2016/08/29-2016/09/05


真夏の方程式


当代きっての人気作家である著者。その魅力を語りつくすには私の文章では力不足だろう。あえて二つ挙げるとすれば、多作なのにシリーズものに頼らないこと、シリーズもの以外にも秀いでた作品が多いことだろうか。我々素人からみても、シリーズもののほうが毎回設定を構築する手間が省ける分、作家にとって楽なことは分かる。しかし著者はシリーズものに頼らない。それでいて、あれだけの良作を産み出し続ける著者の筆力は半端なものではないと云える。

とはいえ、昨今の著者を超がつく売れっ子にしたのは、代表的な2シリーズの力に与ることも否めない。代表的な2シリーズとは、「新参者」「麒麟の翼」に代表される加賀恭一郎シリーズと、「探偵ガリレオ」「容疑者Xの献身」で知られるガリレオシリーズのことである。シリーズ物にありがちな惰性とは無縁な2シリーズは、駄作とも縁がない。

この2シリーズに共通する魅力とはなんだろうか。私はそれを人情に篤い主人公のキャラクター設定に見た。加賀恭一郎も、ガリレオこと湯川学も、怜悧な論理を自在に操る能力の持ち主だ。しかし、二人とも論理一辺倒の人物ではなく、その論理が情の豊かさに裏打ちされているのがいい。論理を越えたところで見せる暖かく血の通った振る舞いが、読後に爽やかな感動を残す。謎が解かれるカタルシスももちろんだが、彼らの見せる優しさに心を動かされ、それが後々まで小説の余韻として残る。

彼らの情の篤さは、事件の幕引きにおいて顕著だ。加賀恭一郎シリーズには「赤い指」という名作がある。この事件で、加賀恭一郎がとった事件の幕の引きかたは感動的とさえいえる。それは、厳しくそれでいて相手を真に思いやらねば決して出てこない言動である。ガリレオにしても理詰めに謎を解き、犯人を追い詰めるだけの冷徹なキャラであれば、ここまでの支持が得られたかどうか。理論の塊にみえる彼が時折見せる人間的な心の揺れは、理論武装の平素からするとその人間臭さが余計に強調される。物理学の公理に照らすと合理的でない行動も、ガリレオの心は彼の心にとって合理的な行動を選ぶ。理論と自らの人間性のはざまに揺れる彼の悩みや迷いは、大方の読者にとって大いに共感できる部分であり、だからこそ本シリーズが支持されるのだろう。

ガリレオは本書でも、印象的な言動を多々見せる。冷静で論理の筋が通った頭脳のさえは相変わらず。が、本書にはガリレオのペースを乱す人物が登場する。それは恭平少年である。海岸沿いのひなびたリゾート地へ向かう列車の中で知り合った恭平少年とガリレオ。お互いの行先が一緒であることから、ガリレオは宿泊先を少年が泊まる宿に定め、夏休みの間の二人の交流が始まる。事件に巻き込まれるという類まれな経験とともに。

本書でガリレオが見せる恭平少年への接し方は、本書の最大の見どころである。子どもが苦手という設定のガリレオだが、それゆえに手慣れた大人としての接し方ではなく、彼なりの振る舞いで恭平少年と相対する。一見すると冷徹な理屈で冷たく突き放すように見えるが、そこには恭平少年を大人扱いし、真に少年の立場にたって考えた彼の思いやりが背景にある。恭平少年も、大人の型にはまらず血の通ったガリレオとの交流に感じる思いがあったのか、ガリレオを博士と呼んで慕う。

子どもを子ども扱いせず、一人の人間として接することで、子どもはその相手に敬意を抱く。私も子を持つ親として頭では分かっているつもりだが、それを実践するのは口にいうほど簡単ではない。しかし、本書で描かれるガリレオと恭平少年の交流はどうだろう。ある時は親身にある時は突き放し、恭平少年のひと夏の自立を促すガリレオの様子は、とても独身物理学者のそれとは思えない。

本書の前半部では、自然保護と資源開発の対立が描かれる。それは釣り餌のようにして読者の前にぶら下げられる。それらに対するガリレオの考えも述べられ、大変興味深い。おそらくは著者が平生考えている内容をまとめた内容と思われるが、頷ける論理である。しかし、本書は自然保護論を云々する本ではない。序盤でこういった少し手垢のついた題材での対立が描かれることに、失望を覚える読者もいるかもしれない。ああ、ガリレオシリーズもついにマンネリ化への道を進むのか、と。しかし、本書はそんな単純な筋書きでは進まない。むしろ恭平少年とガリレオを囲む外部が俗っぽくなればなるほど、彼らの交流の豊かさが際立つ。私はそのような意図があって、本書の構成にしたのではないかと思う。

本書のテーマはあくまでガリレオと少年のこころの交流に置かれている。ガリレオが恭平少年に対してみせる気遣いや応対は、読者が大人であればあるほど、普段の子どもへの向き合い方を考えさせられるものである。子どもをいかにして世間から守り、自立した大人へ旅立たせてやれるか。それは決して頭で考えるものではない。

事件は現場で起きているという。それは云うまでもない真理に違いない。しかし、事件は子どもの中にも何かを起こすことも忘れてはならない。今までの推理小説は、子どもの心中を描写することにおいて、あまりにも無関心だったように思う。事件に巻き込まれるという経験は、大人にすら平穏なものではない。ましてや、子どもに対しての影響はもっと重大なはず。有事のとき、大人がどのように子どもを守り、どのように事件の影響からケアするのか。本書が提起する内容は存外に重く、考えさせられる。

云うまでもなく、子どもにはこれからの人生と可能性がある。それを活かすも潰すも大人の責任となる。理屈だけでは追い切れない人生の複雑な襞の一つ一つを、ガリレオは恭平少年に提示し、それと直面するようにさばき、守りぬく。本書を読む興を削ぐことになるのでこれ以上は書かない。が、本書がガリレオシリーズの名作としてまた一つ加えられるのは間違いないとだけは書いておく。

‘2014/10/3-2014/10/4


月と蟹


著者の作品を読むのは「向日葵の咲かない夏」に続けて2作目。妙に心をざわつかせる作風故、積極的に読みふけりたい作家ではないのだが、直木賞受賞作ということから、手にとってみた。

妙に心をざわつかせると書いたのも、著者が少年時代の持つ一種の危うさを巧みに書くゆえに、自分の子供時代の暗部を掴みだされるように思えるから。

本書は特に子供の心の不条理さが、主人公の家庭の不安定さ、満たされぬ環境とあいまって、不気味なほどに、心に刺さる。不条理さゆえに行き場のない、少年の閉ざされた、切羽詰まった心の闇が、ざりがにに対する残酷な行為となって、現れてくる。

その砕け散りそうな切り立った崖のような危うさは、全編を通して一貫しており、この主人公がざりがにだけでなく、何に、誰にどういう風にして暴発してしまうのか、という怖いもの見たさの一点で、ページを繰る手が止まらない。

ホラーやサスペンスで怖がらせる作品は世に色々とあるが、少年の心の闇の深さで、これほどまでに読者を恐れさせ、嫌な気持ちにさせる作品というのはそうそうないのではないか。

大人になった今、少年期の闇を潜り抜け、生きていることが、実はどれだけ危うく、得難い経験であったかと、思わせるのが本書。

’12/03/29-12/03/30


すべての美しい馬


少年と青年を隔てるものがなにか、という主題について近代文学では、幾多の作家が採り上げてきた。

大部分の人は少年から青年への移り変わりに気付かず、青年になって初めて自分が何を失い何を背負ったかを知る。そして、社会に囲われ時代に追われる自分を突き付けられる度に、こんなはずではなかったと精進を誓い、そこから逃れるために少年期の自分が何者だったかもう一度思い返そうと文章に表したり、読み返したりすることで、失われた過去を取り戻そうとする。

私などがそのいい見本である。

本書は少年から青年への通過儀礼を描く試みに成功しているばかりか、国境越えと恋愛、そして荒野と都会との対比など、重層的なテーマを詩的な文体の中に散りばめることで、見事な文学作品として体をなしている。

広がる荒野、夜空に瞬く星々、素朴な人々、そして生命力の象徴である馬。それら描写は少年のまっさらな人生のこれからの可能性を想像させて余りある。

逆に、少年の農場が工場になる将来、粗暴な人々、新たな出会い、そして別れは青年に降りかかる試練を暗示しているように思える。

本書では重要な分岐点として、主人公の燃えるような恋と、それがもたらす新たな苦難についても残酷なまでに筆を揮っている。人生にとって恋が分岐点となる展開は、通俗的ではあるが、外せない点ではないか。

読み終えた後、読者は主人公たちが少年から青年へと成長を遂げ、これから彼らがどんな人生を歩んでいくのだろうと思わずにはいられない。子供の時にあれほど憧れていた大人の世界を、大人になった今どう思っているか、読者の想像力に委ねられる部分であり、読書の醍醐味もここにあるのではないだろうか。

大方の人がこういった分かり易い通過儀礼を経ている訳ではないけれど、自分の過ぎ去った成長の跡を思い返すきっかけには相応しい作品である。

’12/02/24-’12/02/29