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サラバ! 上


私は本書のことを、電車の扉に貼られたステッカーで知った。そのステッカーに書かれていた、本書が傑作であるとうたうコピー。それが本書を手に取った理由だ。その他の本書についての予備知識は乏しく、それほど過度な期待を持たずに読み始めた。迂闊なことに、帯に書かれていた本書が直木賞受賞作であることも気づかずに。

だが、それが良かったのかもしれない。本書は私にとって予期しない読書の喜びを与えてくれた。上質の物語を読み終えた時の満足感と余韻に浸る。本読みにとっての幸せの一瞬だ。本書はすばらしい余韻を私にもたらしてくれた。

本書の内容は、いわゆる大河小説と言ってもよいだろう。ある家族の歴史と運命を時系列で描いた物語。一般的に大河小説とは、長いがゆえに、読者をひきつけるエピソードが求められる。内容が単調だと冗長に感じ、読者は退屈を催す。だから最近の小説で大河小説を見かける事はあまりない。ところが、本書は大河小説の形式で、読者に楽しみを提供している。本書には読者を退屈させる展開とは無縁だ。奇をてらわずに、読者の印象エピソードを残しつつ、ぐいぐいと読ませる。

本書に登場するのは、ある個性的な家族、圷家。主人公で語り手である歩は、そんな家族の長男として左足からこの世に生まれる。つまり逆子だ。歩が産まれたのはイランのテヘラン。革命前の1977年のことだ。普通の日本人とは違う。生まれが人と違う。ところが本人はいたって普通の人間であろうとする。そればかりか自ら目立たぬように心がけさえする。エキセントリックな姉の陰に隠れるように。

体中で疳の虫が這いずり回っているような姉の貴子。自分が認められたい、注目されたい。そんな姉は産まれてきた唯一の理由が母を困らせること、であるかのように盛大に泣く。欲求が満たされるまで泣く。決して満たされずに泣く。自己主張の権化。ホメイニによるイラン革命の余波を受け、一家が日本に帰国してからも、姉の振る舞いに歯止めはかからない。ますますおさまりがつかなくなる。

よく、次男や次女は要領よく振る舞うという。本書の歩も同じ。長男ではあるが、男勝りの姉の下では次男のようなもの。姉と母の戦いを普段から眺める歩は、自らの身の処し方を幼いうちから会得してしまう。そして要領よく、一歩引いた立場で傍観する術を身につける。

幼稚園にはいった歩は社会を知り、歩なりに社会と折り合いをつけてゆく。ところが、社会よりもやっかいなのが姉の奇矯な言動だ。貴子の扱いに悩む母。「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」と名付けられたはじめの章は、まさにタイトル通りの内容だ。猟奇的な姉の陰に隠れ、歩は自らのそんざを慎むことを習い性とする。それに比べて貴子は自らを囲むすべてに敵意と疑いの目を向け続ける。すでにこの時点で本書の大きなテーマが提示されている。人は社会にどう関わってゆくのか、という表向きの大きなテーマとして。

本書は歩の視点で圷家の歴史を語ってゆく。歩の幼稚園時代の記憶も克明に描きつつ。園児の間にクレヨンを交換する習慣。一読するとこのエピソードはさほど重要ではないように思える。だが、このエピソードは本書を通して見逃せない。なぜなら、歩がどういう立場で社会に関わっていくかが記されるからだ。そして、このエピソードは、本書に流れる別のテーマを示唆している。人気がある色を好意を持つ相手にあげるのではなく、自分が好きな色を相手にあげる行い。人気があるから選ぶのではなく、自分の価値観に沿っているから選ぶ。そこには自分しか持ち得ない価値観の芽生えがある。歩がひそかに好意を持つ「みやかわさき」も、皆に人気の色には目もくれず、自分の望む色を集めることに執心する。

続いての章は「エジプト、カイロ、ザマレク」。一家は再びエジプトに旅立つ。歩は7歳。つまり歩は小学校の多感な時期の学びを全てエジプトで得る。日本の教育と違ったエジプトの教育。現地の日本人学校には妙な階級意識やいじめとは無縁だ。なぜならエジプトの中で日本人同士、助け合わなければならないから。そんな学校で歩は親友を作り、その親友と疎遠になる。そして、エジプト人でコプト教徒のヤコブと親友になる。

この章で描かれたエジプトは妙にリアル。これは著者のプロフィールによると実際に住んだことがあるからのようだ。アラブの文化が日本のそれとかなり離れており、幼い時期に異文化をたっぷり浴びた経験が、歩と貴子のそれからに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

ダイバーシティや多様性の大切さは最近よく言われるようになって来た。だが、それを言い募る人は、本当の意味の多様性を理解しているのだろうか。少なくともわたしは自信がない。せいぜい数カ所の、それも一、二週間程度、海外に渡航した程度では、何もわからないはず。せいぜいが日本の各地の県民性を多様性というぐらいが精一杯だろう。少なくとも本書で描かれるエジプトの生活は、日本人が知る生活や文化とは大きく違っていて、それが本書に大きな影響を与えているのは明らかだ。

さて、本書の主人公である歩は男性、そして著者は女性だ。ずっとわたしは本書を読む間、著者自身が投影されていたのはどちらだろう、と考えていた。歩なのか、貴子なのか。多分、私が思うに、著者が自身を投影していたのは、貴子であり、歩が幼稚園で気にかけていたミヤガワアイなのだろう。そして、彼女たちの姿が歩の視点から描かれている、ということはつまり、本書は著者が自分自身を歩の視点から客観的に描いたとも取れる。本書がもし、著者の自伝的な要素を濃く含んでいて、それがわたしの推測通り、主人公の周囲の人物に投影されていたとすれば、本書がすごいのは自分自身を徹底して客観化させたことではないか。もちろん、本書で描かれた貴子やミヤガワアイと同じ行いを著者がしたはずはない。だが、彼女たちの奇矯な行動は、著者が自分の中に眠る可能性を最大限に飛躍させた先にある、と考えると、著者のすごさが分かる気がする。

私は下巻まで一気に読み終えた後、著者にとても興味を持った。そして面白い事実を知った。それは著者が1977年生まれで大阪育ち、という事だ。私と4つしか違わない。しかも、出身は私と同じ関西大学。法学部だという。ひょっとしたら私は著者と学内ですれ違っていたかもしれない。それどころか政治学研究部にいた私は、法学部に何人もの後輩がいたので、著者を間接的に知ってい他のかもしれない。そんな妄想まで湧いてしまう。

歩の両親に深刻な亀裂ができ、その結果、両親は離婚する。父を残して圷家は日本に引き上げる。歩はヤコブに「サラバ!」と言い残し、エジプトを離れる。なぜ両親は離婚したのか。その事実は歩に知らされない。そして、垰歩から今橋歩に名が変わり、中学、高校と育ちゆく歩。サッカー部に属し、クールでイケてる男子のイメージを築き上げることに成功する。彼女ができ、初めてのキスと初体験。

そんな今橋家の周りを侵食する宗教団体。いつの間にか発生したが宗教団体は、サトラコヲモンサマなる御神体を崇める。教義もなく、自然に発生し、自然に信者が増えたその宗教団体。人望のあった大家の矢田のおばさんの下、集った人々が中心となったこの奇妙な集まりは、無欲だった事が功を奏したのか、歩の周囲を巻き込み、巨大になってゆく。姉貴子も矢田のおばさんの元に熱心に通い詰め、自然と教祖の側近のような立場で見られるようになる。幼い頃から自分を託せる存在を求め続けた貴子がようやく見つけた存在。それが信心だった事は、本作にも大きな意味を与える。「サトラコヲモンサマ誕生」と名のついたこの章は、本書の大きな転換点となる。

そんな周りの騒がしさをモノともせず、青春を謳歌し続ける歩。一見すると順風満帆に見える日々だが、周りに合わせ、目立たぬような生き方という意味では本質はぶれていない。流れに合わせることで、角を立てずに生きる。そんな歩の生き方は、私自身が中学、高校をやり過ごした方法と通じるところがある。ある意味、思春期をやり過ごす一つのテクニックである事は確かだ。だが、その生き方は大人になってから失敗の原因にもなりかねない。今の私にはそのことがよくわかる。

結局、ここまで書かれてきた歩と貴子の危うさとは、同じ道を通ってきた大人の読者にしかわからないと思う。若い時分の危機を乗り越えてきた大人と、若い読者。ともにやきもきさせながら、歩と貴子の二人の人生は、強い引力と放ち、読者をひきつける。そして結末まで決して読者を離さない。なぜならば、読者の誰もが通って来た道だから。そして、たどろうとする道だから。個性のかたまりに見える歩と貴子だが、誰もが心のどこかに二人のような危うさを抱えていたはず。

‘2018/08/13-2018/08/13


しろばんば


本書は著者の幼少期が取り上げられている。いわゆる自伝だ。著者は伊豆半島の中央部、天城湯ヶ島で幼少期を過ごしたという。21世紀になった今も、天城湯ケ島は山に囲まれ、緑がまぶしい。百年前はなおのこと、自然の豊かな地だったはずだ。その環境は著者の分身である洪作少年に健やかな影響を与えたはず。本書の読後感をさわやかにする洪作少年のみずみずしく素朴な感性。それが天城湯ヶ島によって培われたことがよく分かる。

小学校二年生から六年生までの四年間。それは人の一生を形作る重要な時期だ。伊豆の山奥で洪作少年の感性は養われ、人として成長して行く。洪作の周囲にいる大人たちは、素朴ではあるが単純ではない。悪口も陰口も言うし、いさかいもある。子どもの目から見て、どうだろう、と思う大人げない姿を見せることもある。大人たちは、少年には決して見せない事情を抱えながら、山奥でせっせと人生を費やしている。

一方で、子供には子供の世界がある。山あいの温泉宿、天城湯ヶ島は大人の目から見れば狭いかもしれない。だが、子供の目には広い。子供の視点から見た視野。十分に広いと思っていた世界が、成長して行くとともにさらに広がってゆく。本書を読んでうならされるのは、洪作の成長と視野の広がりが、見事に結びつけられ、描かれていることだ。

洪作の視野は土蔵に射し込む光で始まる。おぬいばあさんと二人、離れの土蔵に住まう洪作。洪作は本家の跡取りとしてゆくゆくは家を背負うことを期待されている。だが、洪作は母屋では寝起きしない。なぜなら洪作は祖父の妾だったおぬいばあさんに懐いているからだ。洪作の父が豊橋の連隊に勤務しているため、母と妹も豊橋で暮らしている。おぬいばあさんも洪作をかわいがり、手元に置こうとする。そんなわけで、洪作は母屋に住む祖父母や叔母のさき子とではなく、おぬいばあさんと暮らす。洪作の日々は閉ざされた土蔵とともにある。

本書の『しろばんば』という題は、白く浮遊する羽虫のことだ。しろばんばを追いかけ、遊ぶ洪作たち。家の周囲の世界だけで完結する日々。外で遊び、学校に通い、土蔵で暮らす。そんな洪作の世界にも少しずついろいろな出来事が混じってくる。母の妹のさき子とは温泉に通い、汗を流す。父の兄であり、学校の校長である石守森之進宅に呼ばれた時は、見知らぬ場に気後れし、長い距離を家まで逃げ帰ってしまう。おぬいばあさんとは馬車や軽便鉄道に乗って両親のいる豊橋に行く。その途中では、沼津に住む親族たちに会う。

話が進むにつれ、洪作の見聞する場所は広がってゆく。人間としても経験を積んでゆく。

低学年の頃、一緒に風呂に入っていた叔母のさき子が、代用教員として洪作の学校で教壇に立つ。洪作にとって身近な日常が、取り澄ました学校につながってゆく。校長というだけで父の兄のもとから逃げていた洪作も、もはや逃げられなくなる。さきこともお風呂に入れなくなる。一気に大人の雰囲気を帯びたさき子は、別の教師との仲をうわさされる。そしてそれは事実になり、妊娠して学校を辞める。そして、結婚して相手の赴任地へ移ってしまう。それだけでなく、その地で結核にかかり命を落とす。さき子は母や妹と離れて暮らす洪作にとって身近な異性だった。そんなさき子があっという間に遠ざかり、遠くへ去ってしまう。

さき子がいなくなった後、洪作に異性を意識させるのは、帝室林野局出張所長の娘として転校して来たあき子だ。あき子は洪作を動揺させる。その動揺は、少年らしい性の自覚の先駆けであり、洪作の成長にとって大きな一歩となる。

おぬい婆さんとの二人暮らしはなおも続く。が、洪作が成長するにつれ、おぬい婆さんに老いが忍び寄る。おぬい婆さんは下田の出身。そこで、老いを感じたおぬい婆さんは故郷の景色を見たいといい、洪作はついて行く。そこで洪作が見たのは、故郷に身寄りも知り合いもなくし、なすすべもないおぬい婆さんの姿だ。自分には知り合いや知識が広がってゆくのに、老いてゆくおぬい婆さんからは知り合いも知識も奪われてゆく。その残酷な対照は、洪作にも読者にも人生のはかなさ、人の一生の移ろいやすさを教えてくれる。

洪作に人生の何たるかを教えてくれるのはおぬい婆さんだけではない。洪作の家庭教師に雇われた犬飼もそう。教師の仕事が引けた後に洪作に勉強を教えてくれる犬飼は、洪作に親身になって勉強を教えてくれる。だが、犬飼のストイックな気性は、自らの精神を追い詰めて行き、変調をきたしてしまう。気性が強い洪作の母の七重の言動も洪作に人生の複雑さを示すのに十分だ。田舎だからといって朴訥で善良な人だけではない。人によって起伏を持ち、個性をもつ大人たちの生き方は、洪作に人生のなんたるかを指し示す。それは洪作の精神を形作ってゆく。

本書は著者の自伝としてだけでなく、少年の成長を描いた作品としてd語り継がれていくに違いない。そして百年前の伊豆の山間部の様子がどうだったか、という記録として読んでも面白い。

私は伊豆半島に若干の縁を持っている。数年前まで妻の祖父母が所有していた別荘が函南にあり、よく訪れては泊まっていた。ここを拠点に天城や戸田や修善寺や富士や沼津などを訪れたのも懐かしい。その家を処分して数年たち、伊豆のポータルサイトの仕事も手がけることになった。再び伊豆には縁が深まっている。また、機会があれば湯ヶ島温泉をゆっくりと歩き、著者の足跡をたどりたいと思っている。

’2017/10/04-2017/10/08


旅猫リポート


久々に著者の本を読んだ。本書は猫が主役だ。

冒頭から「吾輩は猫である」を意識したかのような猫の一人称による語りから始まる。そこで語られるのは、猫の視点による飼い主とのなれ初めだ。猫にとっては自らを養ってくれる主人との出会いであっても、そこに猫によるおもねりはない。飼われてやった、とでもいいたげに。自我と自尊心を持つ猫による、猫ならではのプライド。しょっぱなから、猫の心を再現したような描写が思わず読者の頬を緩めさせる。猫好きならばなおさら本書の出だしにはぐっと心をつかまれることだろう。ああ、猫やったらこんな風に考えそうやな、とか。

ナナ、が本書の語り手だ。旅する猫。ナナは五年前、冒頭でナナによって語られたようななれ初めをへて、優しそうな主人ミヤワキサトルの飼い猫となる。今、サトルにはナナを手放さねばならない理由が生じてしまった。

本書のタイトルにもある「旅」とは、ナナとナナを託せる相手を探すサトルの旅のことだ。サトルの小学校の時の親友コースケ、中学校の時の大切な友達ヨシミネ、高校時代に微妙な三角関係を作ったスギとチカコ。彼らはサトルにとってナナを託すに足る人々だ。彼らを訪問し、ナナを預けられないかをお願いしつつ、サトルの人生を旅する一人と一匹。その旅をナナの視点でリポートするのが本書の内容だ。旅をする猫によるリポートだから「旅猫リポート」。

まず小学校時代。サトルは小学校の修学旅行で京都を訪れている間に両親を交通事故で失う。その時にサトルが飼っていた猫がハチ。両親を失ったことでハチを遠縁の親戚に預けざるを得なくなった。それからのサトルは両親を喪失した心の傷を繕いつつ、離ればなれになったハチを案じつつ生きてきた。コースケこそが、一緒にハチを拾った親友であり、大きくなった今は写真館の店主として切り盛りしている。

中学時代の親友はヨシミネだ。両親のいないサトルにとって、両親からの愛を得られずにいたヨシミネとの絆は大切だった。そんな日々を懐かしむ二人がナナの視点で描かれる。サトルがナナにそそぐ愛情の源が感じられるシーンだ。

高校時代によくつるんでいたのはスギとチカコ。彼らは結婚し、富士山のふもとでペットが泊まれるペンションを営んでいる。結果として結ばれたのはスギとチカコだが、サトルとチカコの間に恋が生まれていたかもしれない。そんな思い出を描くのは著者の得意とするところ。また、ここでは犬と猫どっちが好き?というおなじみのテーマが語られる。なぜならスギは犬派でチカコは猫派だから。

小学校、中学校、高校とサトルは大切な友人との旧交を温める。だが、彼らにはナナを託せない。コースケは家を出た奥さんを呼び戻すためナナを飼いたがるが、それを察したナナがゲージから出てこない。ヨシミネの飼い猫とは相性が悪く、スギとチカコのペンションにいる飼い犬とは相性が合わず、ナナを託せる相手は見つからない。だが、サトルがかつて結んだ人生の絆は再び温められて行く。彼らとのエピソードにはサトルとハチのその後が語られ、その思い出がナナとの旅によって思い出させられる。少しずつ、サトルがどうしてナナを飼えなくなったのかが明かされていく。そのあたりのさじ加減は絶妙。

最後にサトルとナナは北海道へ渡る。ここにサトルの両親は眠っている。墓参りを済ませる二人。墓は人が最後に辿り着く場所だ。北海道もまた、サトルにとって最後の場所となる。そこでサトルは叔母のノリコと最後の日々を過ごす。それはナナにとってもサトルとの最後の日々になる。

サトルとの旅の間、ナナがみたさまざまな景色が記憶に蘇る。ナナはサトルの病院から動かず、ただサトルのそばにいる。犬に比べて薄情と言われることの多い猫に、ナナのような感情はあることを著者は訴えたいかのようだ。とても感動させられる。

本書を読み、一カ月前に亡くなったチワワの風花のことを思った。そして残されたヨーキーの野乃花のことを思った。はじめて私が本格的に飼った犬が風花だ。風花を肩に載せたまま町田の駅前をともに闊歩した日々。北海道の幸福駅で行方不明になりかけて探し回った思い出。今の家に引っ越してすぐに2週間行方不明になり探し回った日々。

風花が亡くなってから、野乃花が私にべったりくっつくようになった。そして本書を読んだ数日後、私は野乃花を連れて八王子の金剛の滝に向かった。ここで野乃花と二人で山を歩き、滝を見た。野乃花に心があれば、滝を見ながら何を思うんやろうかと思った。旅猫リポートならぬ、滝犬リポートやな、とひとりごちた。そして野乃花や風花もナナのようにいろいろな心を持ちながら飼われていたんやろうな、と思った。本書を読むまで、私は本当に犬の立場で考えることがなかった。じっとこちらを見つめてくる時、犬には確かに感情がある。そして心がある。それは多分、猫も。

本書を読むと、犬猫の気持ちが少しは理解できるような気持ちになる。

‘2017/08/07-2017/08/08