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怪談―不思議なことの物語と研究


このところ、右傾化していると言われる日本。そのとおりなのかもしれない。今になって気づいたかのように、日本人が日本の良さを語る。

とはいえ、従来から日本の良さを語る日本人が皆無だったわけではない。要はこのところの国勢の衰えに危機感を持った方が増えたということだろう。だが、その国の良さを認めるという行為は、本来、国が栄えようが衰えようが関係ないように思える。それが証拠に、古来より他国からの来訪者に我が国の美点を取り上げられることも往々にしてあった。それだけではなく、我々が他国の方の指摘に教えられることも多かったように思う。それら来訪者の方々は、日本が世界の中で取るに足らぬ存在だったころに、日本の良さを称え、賞賛した。古代に朝鮮半島や中国から渡ってきた渡来人達、戦国の世にキリスト教をもたらした宣教師達、幕末から明治にかけて技術を携え来日した雇われ西洋人達、等々。

彼らが見聞きし書き残した古き良き日本。その文章には、現代に通ずる日本の良さが凝縮されている。今の我々の奥底で連綿と伝わっているにも関わらず、忘れさろうとしている日本が。彼ら異邦人から我々が教わることはとても多い。にわか愛国者達がネット上で呟く悪態や、拡声器でがなり立てるヘイトスピーチなど、他国を貶めることでしか自分を持ち上げられない次元とは違う。

著者もまた、異文化である日本の素晴らしさを認め、海外にそのことを伝えた一人。そればかりか、日本に心底惚れ込み、日本人女性と結婚し帰化までした。

本書の現代はKWAIDANである。原文は英文で書かれ、アメリカで刊行された。耳なし芳一、ろくろ首、雪おんな、などといった日本でも著名な物語のほか、あまり有名ではない日本各地の民話や昔話を種とした話が多数収められている。その意味では純然たる著者の創作ではない。しかし、その内容は種本の丸写しではなく、著者が日本に伝わる話を夫人の力を借りて翻訳し、翻案したものという。つまり、日本の精神を、西洋人である著者の思考でろ過したのが本書であると言える。

では、本書の内容は西洋人の異国趣味的な観点から日本の上澄みだけを掬ったものに過ぎないのか。本書を読む限り、とてもそうは受け取れない。本書の内容は我々現代日本人にも抵抗なく受け入れられる。それは我々が西洋化してしまったために、西洋風味の日本ばなしが違和感なく受け入れられるという理屈ではあるまい。ではなぜ西洋人の著者に本書が執筆できたのだろうか。

著者は日本に来日する前から、超自然的な挿話を好んでいたという。そして諸国を渡り歩いた著者が日本を終の地と定めたのも、その超自然的な嗜好に相通ずるものを日本に感じたからではないか。超自然的とは合理的とは相反する意味を持つ。また、合理的でないからといってみだりに排斥せず、非合理な、一見ありえない現実を受け入れることでもある。我が国は永きに亘り、諸外国から流入する文化を受け入れ、自らの文化の一部に取り込んで来た。その精神的な器は果てしなく深く、広い。著者は我が国の抱える器の広さに惹かれたのではなかったか。

そうとらえると、本書の内容が今に通じる理由も納得できる。これらの話には、日本の精神的な奥深くにあるものが蒸留され、抽出されている。不思議なものも受け入れ、よそものも受け入れる話が。科学的な検証精神には、荒唐無稽な話として一蹴され、捨て去られる内容が、今の世まで受け継がれてきた。著者もその受け継がれた内容に、日本の精神的な豊かさを感じた。そしてその豊かさは、まだ我々が忘れ得ぬ美点として残っているはずである。

本書にはもう一つ、怪談噺以外にも著者のエッセイ風の物語が収められている。「虫の研究」と題されたその中身は、「蝶」「蚊」「蟻」という題を持つ3つの物語である。

「蝶」は日本に蝶にまつわる美しい物語や俳句があり、そこには日本人の精神性を解くための重要なヒントが隠されているという興味深い考察が為されている。蝶の可憐な生き様の陰には、日本人の「儚さ」「わびさび」を尊ぶ無常観があると喝破し、蝶を魂や御先祖様の輪廻した姿になぞらえるといった超自然的な精神性を指摘する。

「蚊」は日本の蚊に悩まされる著者の愚痴めいた文章から始まる。続いて蚊に対抗するには、蚊を培養する淀んだ水々に油を垂らすことで増殖を抑えることが可能、という対策を紹介する。そこで著者の論点は一転し、科学的に蚊を退治することに疑問を呈する。蚊を退治するために犠牲になる大切な物-佇む墓石の群れや公園の佇まいに対する慈愛の眼を注ぐ。蚊を退治するのではなく、共存共栄の道を探り、西洋的な科学万能な視点からは一線を画した視点を提示する。

「蟻」はその巣を営むためになされる無数の生き様から、社会的な分業の有り方を評価し、個人主義的な風潮に一石を投ずる。そればかりではない。今、最新の科学現場では、生物の生態から有益な技術が多数発見されている。有名なところでは、蜘蛛の糸の強靭な性質性から人工繊維の開発、サメの肌から水の抵抗を抑えた水着の開発、鳥の身体の形状からは新幹線など高速鉄道の形状の開発等が知られている。「蟻」には、このような蟻の社会的な能力から、人間が学べることがもっとあるのではないかという提起が為されている。今から100年以上前に刊行された本書に、今の最新科学技術を先取りした内容が書かれていることは、実に驚きと言わざるをえない。同時代の寺田寅彦博士の諸研究も、今の科学を先取りしていたことで知られる。が、著者の書いた内容も、同様にもっと評価されてもいいと思う。

これら3つの物語に共通するのは、謙譲の精神である。日本人の美徳としてよく取り上げられることも多い。著者が存命な頃の日本には、まだまだこのような愛すべき美徳が残っていたようだ。振り返って、現代の日本はどうだろうか。

もちろん、謂われなき中傷には反論すべきだし、国土侵犯には断固とした対応が必要だろう。ただし、そこから攻撃を始めた攻撃が、他国の領土で傷跡を残した途端、日本の正当性・優位性は喪われる。また、著者の愛した日本のこころも危ういものとなってしまう。著者は晩年、東京帝大の職を解かれ、日本に失望していたと伝え聞く。それは丁度、日清・日露戦争の合間の時期にあたる。著者の失望が、攻撃的になりつつあった日本へのそれと重ねるのは的外れな解釈だろうか。

今の日本も、少し危うい面が見え隠れし始めたように思える。果たして著者の愛した、超自然的な出来事や異文化の事物を受け入れる器は今の日本に残っているだろうか。また、著者の愛した謙譲の精神は今の日本から見いだせるだろうか。

何も声高に叫ぶ必要はない。ヒステリックになる必然もない。そんなことをするまでもなく日本の良さをわかっている人は地球上に数え切れぬほどいる。味方になってくれる人も大勢いる。そのことは、一世紀以上前に日本で生涯を終えたラフカディオ・ハーンという人の生涯、そして本書の中に証拠として残っている。

‘2014/9/19-‘2014/9/23