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故郷七十年


数年前に著者の故郷である福崎を訪れたことがある。

その訪問の記録はこちらのブログにまとめた。
福崎の町に日本民俗学の礎を求めて

訪問する前の秋には、神奈川県立近代文学館で催された「柳田國男展」を見た。展示を見た感想はこちらのブログにまとめている。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

著者の偉大なる実績と生涯はその二つの経験で十分に学んでいたつもりだ。著者だけでなく、著者の生家である松岡家がとても偉大であったことも含めて。というのも、著者を含めて成長した松岡家の四兄弟の皆が世に出て名を残したのだから。
民俗学という研究分野が、私にとっての関心でもある。どうすればあれだけの成果をあげられたのだろうか。
著者が私に感銘を与えたことは他にもある。著者が博覧強記を誇る民俗学の巨人として実績を積み上げながら、実はキャリアのほとんどを官僚として勤め上げたことだ。

私は展示会において、著者がどのようにして日々の勤めと自らの興味を両立したのかについて強い興味を持った。
そこで展示会を訪れた後、福崎の街を訪れた。
著者が少年時代を過ごした場所を見てみたいと思ったためだ。

私が訪れた福崎の街。今もなお中国自動車道が街を横断し、JR播但線が南北を貫く交通の要衝だ。だが、今の福崎の状況からかつての街道の栄華を想像することは難しい。東西の動脈を擁するとはいえ、かつての往来のあり方とは違ってしまっている。かつての繁栄のよすがを今の福崎から想像することは難しい。
訪れた著者の生家の近くは拓けている。農村風景の余韻もの残っている。が、著者が幼い頃は旅人が頻繁に往来し、家の存在感はさらに顕著だったはずだ。
生家は明治・大正の様子をかろうじて想像させる。そのたたずまいは、著者が小さい家だったと本書でも述べている通りの質素な印象を私に与えた。生家の裏山から受ける印象はからりとして明朗。民俗という言葉からうける暗さやしがらみを感じなかった。

著者は、どういうところから民俗学の関心を得たのだろうか。

まず一つは、本書にも書かれている通りだ。生家近くの三木家の書物から受けた恩恵は大きい。三木家へ預けられている間に、著者は三木家にあった何百、何千冊の書物をあまねく読み込んだようだ。それはは著者の世その冊数は何千冊もあったことだろう。書物の世界をきっかけに、人間の住むこの世界への想像をたくましくしたことは想像がつく。さらに、これも本書に書かれているが、街道に面した著者の家の近くにはありとあらゆる旅の人が行き交い、幼き著者はそうした人々から興味深い地方のよもやま話を聞かされたのだろう。

あともう一つだけ考えられるのは著者が場所による文化の違いを若い頃から知ったことだ。著者は、福崎で生まれ育った。が、長じてのちに茨城の布佐で医師となって診療所を開いた長兄を頼り、茨城へ住み家を移した。つまり著者は幼い頃に兵庫の福崎と茨城の布佐の二カ所で育った。文化が全く違う東西の二カ所で暮らした経験は、地域ごとの風習や民俗の違いとして著者の心に深く刻まれただろう。

私が訪れたのは福崎だけだ。布佐にはまだ訪れたことがない。
もっとも、私が訪れたところで福崎と布佐の違いをつぶさに観察できると思えない。ただ、当時は今よりも訛りや習わしやしきたりの違いも大きく、若き日の著者に大きな影響を与えた事を想像するしかない。

本書で著者は福崎で過ごした日々と、布佐で受けた日々の印象を事細かに書いている。

本書はインタビューを聞き書きし、再構成したものだという。著者はおそらく椅子に座りながら昔を語ったのだろう。昔を記憶だけですらすらと語れること著者の記憶力は驚くべきことだ。
著者の博覧強記の源が、老年になっても幼い頃のことを忘れないその記憶力にあったことは間違いない。
私は本書から、著者のすごさが記憶力にあることを再確認した。

民俗学とは、文献と実地を見聞し、比較する学問である。インターネットのない著者の時代は、文献と文献をつなげる作業はすべて記憶力に頼っていたはずだ。たとえ手帳に書きつけていたとしても、そのつながりを即座に思い出すには記憶の力を借りる必要があった。
各地の伝承や伝説をつなぎ合わせ、人々の営みを一つの物語として再構成する。
誰も手をつけていなかったこの学問の奥深さに気づいた時、著者の目の前には可能性だけがあったことだろう。
ましてや、著者が民俗学を志した頃は江戸時代の風習がようやく文明開化の波に洗われつつあった。まだまだ地域ごとの違いも大きく、その違いは今よりもいっそう興味をそそられるものだったはずだ。
そう考えると今のインターネットや交通が発達した現代において、民俗学の存在意義とはなんだろうか。

私が考えるに、文明が地域ごとの違いを埋めてしまいつつある今だからこそ、その違いを探求する事は意義があるはず。
本書を読み、民俗学に人生をかけようと思った著者の動機と熱意の源を理解したように思う。

最後に本書から感銘を受けたことを記しておきたい。
このこともすでに展示会を訪れて感じ、本稿でも述べた。それは、著者の民俗学の探究が中年に差し掛かって以降に活発になった事だ。

私たちは人生をどう生きれば良いか。
著者のように官吏として勤務につきながら、自分の興味に打ち込むために何をすれば良いか。

本書を読む限りでは、それは幼い頃からの経験や環境にあることを認めるしかない。
幼い頃の環境や経験に加え、天賦の才能が合わさり、著者のような個人が生まれるのだろう。

では、私たちは著者のような才能や実績を前に何をすれば良いのだろうか。
それはもちろん、時代を担う子供たちへ何をすればよいのか、についての答えだ。
子供たちに何をしてあげられるのか。経験・環境・変化・交流。

私たちが著者のようになることは難しいが、子供たちにはそのような環境を与えることはできる。
著者の人生を概観する本書は、著者の残した実績の重さとともに、人が次の世代に何ができるかを教えてくれる。

2020/11/11-2020/11/21


小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣


歴史が好きな私だが、小栗上野介はあまりマークしていなかった。幕末の日本を動かしたキーマンの一人であるはずなのに。勝てば官軍の逆を行き、負けた幕軍の中で歴史に埋もれてしまった人物。

小栗上野介が世間で脚光をあびる事はなく、せいぜい、赤城山に徳川の埋葬金を埋めた張本人では、と伝説の中で取り上げられるぐらい。あれほどの幕末の激動の中で、幕府側の人物はほとんどが明治になって語られることがなくなった。今も取り沙汰される幕府側の人物といえば、最後の将軍徳川慶喜は別格としても、西郷隆盛と会見し、江戸を無血開城に導いた勝海舟や、五稜郭まで新政府に抵抗したのち、明治政府でも大臣まで歴任した榎本氏ぐらいだろうか。だが、彼らに比べて、幕府のために粉骨砕身した小栗上野介は、今もなおあまりにも過小評価されている人物だといえる。

なぜ私が急に小栗上野介の本書を読もうと思ったか。それは、ある日、家族でこんにゃくパークへ向かう道中で、小栗上野介の隠棲した場所を訪れたからだ。それはまさに偶然のたまものだった。そもそも草津に行くつもりで向かっていたのに、急に草津行を中止し、こんにゃくパークへ行き先を変えたのも偶然ならば、道の駅くらぶちに訪れたのも偶然。道の駅に小栗上野介を顕彰する展示があり、じっくり見られたのも偶然。極めつけはその近辺の地名だ。「長井石器時代住居跡」や「長井の道祖神」、「長井川」。ここまで偶然が続くと、これも何かの縁だと思うしかない。そういうわけで、今まで全く縁のなかったはずの小栗上野介について調べてみようと思い、本書を手に取ってみた。

先に挙げた明治以降も名が伝えられた幕府側の人々。彼らの名前が残ったのは、明治まで生きのびたためだろう。そのため、優れた能力を明治以降でも発揮することができた。ところが、明治維新の前に非業の死に倒れた人物はその事績が正当に伝えられていない。かろうじて安政の大獄で迫害された人々は、弟子たちが明治新政府の要職についたためその人物や事績が後世に伝えられた。だが、幕府側の人物は、正当な立場で論じられていない。安政の大獄の当事者である井伊直弼もそうだし、開国時の老中だった阿部正弘もそう。そして、本書が取り上げる小栗上野介もその一人だ。

本書は小栗上野介の生涯を紹介している。事績の割には、後世にその偉大さが忘れられている小栗上野介。

本書の帯には、小栗上野介の事績の一端を紹介するため、明治の大物である二人が語った言葉が記されている。
「明治の近代化は
  ほとんど小栗上野介の構想の
  模倣に過ぎない」大隈重信

「日本海海戦の勝利は、
  小栗さんが横須賀造船所を
  造っておいてくれたおかげ」東郷平八郎

また、同じ帯には小栗上野介を「明治の父」と評した司馬遼太郎の文章も紹介されている。つまり、小栗上野介とはそれだけのことを成し遂げた人物なのだ。

一八六〇年、日米修好通商条約批准のためアメリカへ旅立った遣米使節団。八十人弱と伝わる一行の中で、正使、副使に次ぐ地位にあったのが目付役の小栗上野介だった。その旅は太平洋からアメリカに向かい、パナマ運河を超えて東海岸に渡りワシントンへ。帰りは船のトラブルがあり、大西洋から喜望峰、香港と巡った一行は世界一周を果たした。その一行の中でもさまざまな文物を吸収し、それを幕政に積極的に取り入れようとしたのが小栗上野介だ。その過程の一部始終が本書には紹介されている。

後年、明治の元勲たちも欧米を視察した。榎本武揚も小栗上野介に遅れること2年でオランダ留学を果たした。だが、彼らと小栗上野介が違うのは、小栗上野介は江戸幕府にあって改革を推進できる立場だったことだ。

当時の幕府には黒船来航から巻き起こった動乱を乗り切るための人材が底をついていた。なので、積極的に小栗上野介を登用し、小栗上野介もそれに応える仕事をする。だが残念ながら、めまぐるしい情勢の変化は、小栗上野介に腰を据えて改革するための時間を与えなかった。

薩長がイギリスと結んだことへ対抗するため、幕府がフランスと結び、軍制改革に当たったことはよく知られている。その推進を担ったのが小栗上野介だ。小栗上野介がなした最大の業績が横須賀造船所の建造であることは先にも東郷平八郎の言葉として出ている。それも小栗上野介が持っていたフランス人とのつながりから生まれたもののようだ。他にも大砲製造所や反射炉の建設など、幕府の改革に取り組んだ小栗上野介。時流に遅れた幕府のため、必死になって幕府を再建しようと努力した跡が感じあっれる。フランス語学校も設立したというから、まさに孤軍奮闘にも似た働きだったのだろう。もし幕末の情勢がどこかで少しでも変わっていたら、日本にはフランスを由来とする文物がもっとあふれていたかもしれない。

また、経済にも明るかった小栗上野介は、日米修好通商条約の際に為替比率を見直そうと旅先で交渉に励んだという。アメリカとの間に結んだ為替比率が、日本の貨幣に含まれる金銀の含有量からして不公平だと、フィラデルフィアの造幣局で貨幣の分析試験を求め、不均衡を証明したという記録も残っている。また、日本最初の株式会社を設立したのも小栗上野介だという。よく坂本龍馬が作った亀山社中こそが株式会社の元祖というが、亀山社中が設立された二年後に小栗上野介の作った兵庫商社のほうが、先に株式会社を名乗っていたらしい。

ところがそれほどの逸材も、交戦派として将軍慶喜からは罷免される。そして上州に引っ込んでしまう。そして薩長軍が上州にやってくる。従容と捕縛された小栗上野介だが、無駄なあがきはせずに潔く斬首されたという。それらの地こそ、私が訪れた倉渕。今もなお小栗上野介が顕彰されていることからも、穏やかに隠棲していたことが伺える。

能力のある官吏であり、新政府でも相当の働きをしたはずの小栗上野介。だが、要領よく立ち回って延命しようとの野心はなかった様子からも、私利私欲の目立つ人物ではなかったようだ。小栗上野介を捕縛した人物の愚かなふるまいがなければ、小栗上野介の名前が忘れられることなかったはずなのが惜しい(捕縛した人物は後に大臣や各県知事を歴任し、昭和十一年まで生きたという)。

この時、立ち寄った倉渕は、のんびりとした感じが良い印象を残している。にもかかわらず、この時はこんにゃくパークへ急ぐため、小栗上野介の墓所や斬首の場をきちんと見ていない。私の名が付くあちこちの史跡も。なるべく早く再訪したいと思っている。

‘2018/09/22-2018/09/23