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息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


一生に一度の月


小松左京展を見に行ってから、著者に興味を持った私。集中して著者の作品を読んだ。本書はその最後の一冊だ。

本書はショート・ショート傑作選と銘打たれている。
ショート・ショートといえば、第一人者として知られるのが星新一氏。星新一氏といえば、著者や筒井康隆氏と並び称されるSFの三巨頭の一人として著名だ。

三巨頭といってもそれぞれに得意分野がある。
著者の場合、あまりショート・ショートは発表していない印象がある。私は今まで著者のショート・ショートを読んだことがなかった。

本書は著者が1960年代から70年代中期にわたっていろいろな雑誌に発表したショート・ショートが収められている。
いろいろな、といっても本書に収められているのは雑多なショート・ショートではない。構成として五部のカテゴリーに分けられている。

例えば第一部「向かい同士」に収められた八編。それらは、「団地ジャーナル」が初出展だそうだ。
雑誌名から想像できる通り、八編は全て団地をテーマにしたショート・ショートだ。団地という濃縮された人間関係の中で起こり得る出来事をタネにアイデアを膨らませたこれら。ショート・ショートとしても傑作に仕上がりだと思う。

団地から想像されるのは、サラリーマンと核家族の集まり。そして、そうした世帯に付き物の小市民そのものの出来事。
著者はそれらから話を膨らませ、簡潔でしかもオチのあるショート・ショートにまとめている。
団地の上も下も筒井という名字の家族が住んでいたり、ゴールデンウィークと仕事人間を風刺したり、不倫に忙しい二組の夫婦を描いたり、団地への憧れを逆手にとったり、酔った亭主が最上階の家へと昇ったり、訪問販売員への風刺をしてみたり。

第二部「歌う空間」の四編は「新刊ニュース」が初出展のようだ。四編のどれもがSFの彩りを備えた作品だ。
宗教を風刺してみせたかと思えば、コミュニケーションの脆弱な本質を暴いてみせ、コンピューターに依存する人類の未来を予言したかと思えば、意識と肉体の実存について鋭くついてみせる。

ここで取り上げられた四編のどれもがショート・ショートというには長い気がする。原稿用紙に換算して二枚近くに及ぶような。
また、内容も、現代から見るといささか発想に古さを感じる。だが、これらのショート・ショートが発表されたのが、EXPO’70が開催された頃だと考えれば、どれもが未来への深い洞察を感じさせる。

第三部「一生に一度の月」は、毎日新聞で発表された一編だ。アポロ13号の月面着陸に湧く世間をよそに、一番盛り上がるはずのSF作家の生態を描いていて面白い。月面着陸を中継するテレビ番組をしり目に、マージャンに興じるSF作家というのがたまらない。まさに逆説そのものだ。

その時の感慨を表すのにふさわしく、著者はマージャンパイを月に向けて投げ、これが現代だと喝破する。なんとも本質をついているようで面白い。
テレビ中継で月の様子が見られる。そのイベントは当時よりもさらに技術が発達し、ネット社会になった今、考えてもすごいことではないだろうか。
ましてや当時の技術力ではとてつもない出来事で、一生に一度の月だったはず。

SF作家の矜持として、その様子をテレビにかじりつくことをよしとせず、あえてマージャンに身をやつし、無視して見せることで逆に技術の到達を体験した。その逆説的な態度がとても印象に残った。

第四部「廃虚の星にて」に収められた十三編は、朝日新聞が初出展とある。全てが環境問題に着想の源をもとめたブラックな内容になっている。

これらもまた、環境問題がしきりに起こっていた当時の世相を表している。ましてや当時はオイル・ショックによって高度経済成長が止まる前に書かれた話。だからどの編も明るそうに見える前半とそれが環境問題としてはね返ってくる後半の対比になっており、SF作家が鳴らす未来への警鐘としてもてはやされたのだろうなと思わせる。

それと同時に、不思議なことにこれらのショート・ショートが現代でも通じるのではないかという相反する思いすら感じた。
つまり、高度経済成長やバブル景気の破綻を経験した今の日本と、当時、未来を予見していた著者の立場が同じだったのではないか、ということだ。それが著者の尋常ではない学識を表していたとも言える。すでにある程度の経済レベルや技術力や文明の高みを達成したという意味で、著者と今の私たちはそう変わらないと思う。

第五部「人生旅行エージェント」に収められた十一編は、媒体もまちまちだ。雑誌名からはそれが何をテーマとしたものか判然としない。例えば原子力についての雑誌であれば、それに沿ったテーマのショート・ショートなので納得できるが、何を表しているのか定かではない出展もとも記されている。

それぞれのショート・ショートが指折りの内容なのはもちろんだ。それにも増して感心させられるのは、その雑誌に合わせてテーマをかき分ける著者の筆力だ。
もちろん著者の博学の広さと深さゆえであるのは今ら言うまでもない。

『日本沈没』のような一つのテーマに知識量を詰め込めるタイプの小説とは違い、ショート・ショートはテーマに沿った気の利いたオチがもとめられる。
だからかえって書くのは難しいように思う。
それをさまざまな媒体に描き分けた著者の筆力とアイデアに感服する。

本書のあちこちには、著者が人間を根本的な部分で信頼しておらず、むしろ愛すべき愚かな存在として慈しむ様子が感じられる。一方で自然や科学が必ずしも人間にとって有益ではないという哲学も見られる。
だからこそ、著者はSFをテーマに作品を書き続けたのだろう。

著者のSF史における立ち位置や、ショート・ショートの歴史などについては、本書の解説で最相葉月氏が触れている。『星新一』という評伝を発表した氏。著者についても評伝を手掛けてほしいものだ。

‘2020/01/04-2020/01/05


ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


バナナ剥きには最適の日々


本書の帯には著者の作品中でもわかりやすい部類とうたわれている。だが、やはりとっつきにくさは変わらない。なぜなら全てのお話が観念で占められているから。小説にストーリー性を期待する向きには、本書は相変わらずとっつきにくいはずだ。

著者の作品を初めて読む人には、本書はどう取られるのだろうか。エッセイでなければ哲学の考察でもない。やはり小説だと受け取られるのだろうか。私の感覚では、本書は確かに小説だ。

本書は観念で占められている。観念とは、作家と読者の間に取り交わされる小説の約束事を指す。それは形を取らない。通常、それはわかりやすい小説の形を取る。例えば時間の流れ方だ。全体や各章ごとに時間の流れ方は違ったとしても、それぞれの描写の中で時間は過去から未来に流れる。それもまた約束事だ。他にもある。作家と読者の間には、同じ人間として思惟の基準が成り立っているとの約束事だ。その約束事が成立していることは、通常は作家から読者に向かって事前に了解を取らない。なぜなら、ものの考え方が共通なことは了解が不要だから。読む側と書く側で多少は違えども同じ思考様式を使うとの了解は、人類共通のもの。だから小説の作家と読者の間には了解を取る必要がない
。ところが、本書にはその了解が欠かせない。本書に必要なのは、作家の観念が小説として著されているとの了解だ。

そこを理解しないと、本書はいつまでたっても読者の理解を超えていってしまう。

本書に収められた九編のどれもが、約束事を理解しなければ読み通すのに難儀するだろう。

「パラダイス行」
約束事の一つに、基準がある。作家と読者の間に共通する基準が。それをわかりやすく表すのが単位だ。172cm。cmは長さの単位だ。172という数値がcmという単位に結びつくことで、そのサイズがお互いの共通の尺度になる。これは作家と読者の間で小説が成り立つためには重要だ。

ところが本編はその基準を無視する。基準を無視したところに考えは成り立つのだろうか、という観念。それを著者はあらゆる角度から検証する。

「バナナ剥きには最適の日々」
おおかたの小説には目的がある。それは生きがいであったり、自己実現であったり、社会貢献だったり、世界の平和だったり、世界征服だったりする。表現が何らかの形で発表される時、そこには作家と読者の間に買わされる約束事があるのだ。

話が面白い、という約束事もそう。どこかで話のオチがある、というのもそう。ところが本編は目的を放棄する。目的のない宇宙の深淵に向かって進む探査球。本編の主体である思惟はだ。そもそも宇宙の深淵に向かって進むだけの存在なので、追いつこうにも追いつけない。だから思惟の結果は誰にも読まれない。そして語られない。完璧なる孤独。しかも目的を持たない。そこに何か意味はあるのか、という作家の実験。読者が理解するべき約束事とは、孤独と無目的を追求する著者の問題意識だ。

「祖母の記憶」
本編に登場する約束事は、物語には意識する主体があるということだ。植物状態になった祖父を夜な夜な外に連れ出し、物言わぬビデオの主役に据える兄弟。物言わぬ祖父のさまざまな活躍を日々ビデオに収めては観賞する。そんな闇を抱えた行いは、いったい何を生み出すのか。

著者の実験にもかかわらず、本書に登場する主体はあくまでも兄弟だ。祖父は単なる対象物でしかない。祖父の代わりにマネキン人形でも良いことになる。そして、兄弟の活動に興味を持った娘と同じように物言わぬ祖母が現れると、本書の罪深さは一層濃厚になる。

祖父や祖母のような意思のない物体は、マネキン人形のコマ割りとどう違うのか。それが本編で著者が投げかけた観念だ。祖父を齣撮りする兄弟が、祖母を齣撮りする少女に出会う。そんな話だけなのに、そこには意思に対する問題意識の共有が必要だ。

「AUTOMATICA」
本編が示すのは文章の意味そのものだ。自動生成された文章が成り立つ要件とはそもそも何か。著者の観念が本編では論文体の文章で書き連ねられる。そもそも作家として、何を文章につづるべきなのか。そんなゲシュタルト崩壊したような、作家の存在自体への疑問が本編にはある。

そして、その情報が作家から読者に投げかけられる過程には、たしかに約束事がある。それは語彙のつながりであり、文法であり、情報の伝達である。その約束事を著者はいったん解体し、再構築しようと試みる。そこには作家とはいかなる存在か、という危機感もある。読者は普段おのれが仕事や学校で生み出している文章やウォールやツイートが何のために生み出されているのかも自問しなければならない。無論、私自身もその一人。

「equal」
本編は18の断章からなる。本書の中で唯一横書きで書かれている。内容は取り止めのないイメージだ。本編は小説というより、長編の詩と呼べるのかもしれない。

本編で押さえるべき約束事。それは小説にはストーリーや展開が必要との前提だ。それを著者は本編で軽やかに破り捨てる。だからこそ本編は長編詩なのだ。

詩とは本来、もっと自由なもののはず。詩人はイメージを提示し、読者はそのイメージを好きなように受け取る。そこには約束事など何もない。そもそも文学とはそういう自由な表現だったはず。なぜストーリーがなければならないのか。読者もまた、ストーリーを追い求めすぎてはいなかったか。そこに固定観念はなかったか。

「捧ぐ緑」
人間の生涯とは、つまるところなんの意味があるのか。ゾウリムシの生態を語る本編は、そんな疑問を携えて読者の観念を揺さぶりにかかる。生きるとはゾウリムシの活動となんら変わることはない。思弁する存在が高尚。それは誰が決めたのだろうか。著者の展開する文の内容はかなり辛辣なのに、語り口はあくまでもソフト。

だが、その裏側に潜む命題は、辛辣を通り押して虚無にまで至る。企業や仕事、全ての経済活動を突き放した地平。もしかすると人が生きていくための動機とは本編に書かれたような何も実利を生まない物事への探究心ではないだろうか。そんな気がしてくる。

「Jail Over」
本編は、倫理観の観念を料理する。かつて生命を宿していた肉体を解体する。それが生きていようと死んでいようと。人間だろうと動物だろうと。自分だろうと他人だろうと。果たしてそこに罪はあるのか。幾多の小説で語られてきた主題だ。

本編ではさらにその問いを推し進める。肉体を解体する作業からは何が生み出されるのか。そこにはもはや罪を通り越した境地がある。意識のあるものだから肉体を解体してはならないのか。

jailを超えて、語り手は肉片となった牢屋の中の自分に一瞥をくれる。肉体を破壊するとは、意志する主体が自分の入れ物を分解しただけの話。そうなるとそこには罪どころか意味さえも見いだせなくなる。遠未来の人類のありようすら透けて見える一編だ。

「墓石に、と彼女は言う」
無限と量子力学。この宇宙はひとつだけではない。泡宇宙や並行宇宙といった概念。その観念が作家と読者の間に共有されていなければ本編は理解できない。宇宙の存在をその仕組みや理論で理解する必要はない。あくまでイメージとしての観念を理解することが本編には求められる。

無限の中で、意識とはどういう存在なのか。己と並列する存在が無限にある中、ひとつひとつの存在に意味は持てるのか。その思考を突き詰めていくと強烈な虚無感に捕らえられる。虚無と無限は対の関係なのだから。

「エデン逆行」
本編が提示する観念は時間だ。どうやってわれわれは時間を意識するのか。それは先祖と子孫を頭に思い浮かべれば良い。親がいてその親がいる。それぞれの親はそれぞれの時代を生きる。そこに時間の遡りを実感できる。子孫もそうだ。自分の子があり、その孫や孫。彼らは未来を生きるはずだ。

命が絶たれるのは、未来の時間が絶たれること。だからこそ罪があるのだ。なぜなら時間だけが平等に与えられているから。過去もそう。だから人を殺すことは悪なのだ。なぜ今を生きる人が尊重されなければならないか。それは先祖の先祖から積み重ねられた無限の時間の結果だからだ。あらゆる先祖の記憶。それは今を生きている人だけが受け継いでいる。時間のかけがえのなさを描いた本編。本編が提示する観念は、本書の中でも最もわかりやすい概念ではないか。

本書の9編には、さまざまな約束事がちりばめられている。それぞれの約束事は作家によって選ばれ、読者に提示されている。それをどう受け取るかは読者の自由だ。本来ならば約束事とは、もっと自由だったはず。ところが今の文学もそうだが、ある約束事が作家と読者の間で固定されているように思う。今までも文学の閉塞については論者がさんざん言い募ってきた。そしてその都度、壁をぶち破る作家が読者との間に新たな約束事を作り出してきた。おそらく著者は、私の知る限り、今の文壇にあって新たな約束事を作り上げつつある第一人者ではないだろうか。

‘2017/08/12-2017/08/16


神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23


異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


EXCELを使っていて、誰もが一度は遭遇したことがある #DIV/0エラー。セルの関数式で、ある数または関数の結果が0で割られた際に出現するエラーだ。0で割ると正常な結果を得られない。これはEXCELでもどうしようもない仕様だ。もちろんバグではない。数を0で割ることは高等数学でもできないのだから。本書の第0章では、米国軍艦ヨークタウンがプログラム内に潜んでいた0で割るバグによって止まってしまったエピソードも紹介される。

本書はこの0に焦点をあて、人類が0を使いこなそうと努力して来た歴史がつづられる。

第1章は古代バビロニアからエジプト、ギリシャ、ローマ、マヤの諸文明の0の扱いをみていく。そしてもちろんそれらの文明は0を知らぬ文明だった。数を数えたり、暦を作ったり、面積を調べる上で、数があることが前提だから当然だ。数がないという概念を数体系に含める必要はなかったのだから無理もない。実務に不要な0はこれら文明では顧みられなかった。逆にマヤ文明に0の概念があったことのほうがすごい。

第2章では、ギリシャに焦点が当てられる。そこでは0に迫ろうとする者たちが現れるからだ。その者の名はゼノン。彼によるアキレスと亀のパラドックスだ。亀の歩みにアキレスは永遠に追いつけないというアレだ。あのパラドックスが0の概念を如実に表していること、それを私は本書で知った。つまりこのころすでに無限に小さな数として0は発明されていたかもしれないのだ。だが、そのチャンスはアリストテレスがゼロを退けたことで一千年以上遠ざかる。なぜ彼の学説がそれほど長く用いられたか。それは彼の学説が神の存在証明に有用だったからに他ならない。

アリストテレスは0を忌避すると同時に無限の証明も拒否した。無限とは外側の数だ。地球は不動である事は当時の常識だった。では何が天体を動かすのか。それはさらに外の天体が動かすからに違いない。ではその外の天体は、さらに別の天体によって動かされている。ではその天体を動かすのは、、、と考えて行くと最終的に仕組み全体を動かす存在が求められる。アリストテレスはそれを神となぞらえた。神とは人知を超えるところにあるから神なのだ。0も無限も。

その考えはのちにキリスト教会によって布教に取り入れられる。神の存在が信仰の前提であるキリスト教会にとっては、アリストレテスの考えは金科玉条とすべきものだったのだろう。そのため、神の存在を証明するアリストテレスの学説が長きにわたり西洋世界を覆い続ける。

西洋にとっては不運とでも言おうか。0がなくてもギリシャは繁栄し、ローマは版図を広げてしまったのだから。さらに0にとっては不運なことにローマ崩壊後、神の存在が広く求められる。アリストレテスの神学を受け継いだキリスト教の繁栄だ。0を忌避したアリストレテスの神学は、西洋から0の存在する余地を奪い去ってしまう。その結果が西洋にとっての暗黒期だ。

本書を読んでいて気づくのは、数学の発展と文明の発展が対になっていることだ。あたかも寄り添い合う双子のように。そしてローマ崩壊後の西洋は暗黒期に突入し、東洋は逆に発展してゆく。その事実が対の関係を如実に表す。

足踏みを続ける西洋を尻目に0は東洋で産声を上げる。インドで。

0123456789。これらをいわゆるアラビア数字と呼ぶ。でも、実はこれらの数字はインドで産まれたのだ。インド生まれの数字が、なぜアラビア数字と呼ばれるようになったのか。この由来にも文明の伝播と数学の伝播が重なっていて興味深い。当時の西洋は、イスラム教とともにやって来たアラブ商人が席巻していた。アラブ商人が商売を行う上で0はすこぶる便利な数だったのだ。そして当時のイスラム社会は数学でも世界最先端を行っていた。アルゴリズムという言葉の語源は、当時のイスラム世界の大数学者アル=フワリズミの名前に由来することなど興味深い記述がたくさん出てくる。

そして、この時期に1を0で割ると無限大になる無限の観念が西洋に伝わる。いまや旧弊となった神の理論に徐々にほころびが見え始める。その結果、起こったのがルネサンスだ。ルネサンスと言えば後世のわれわれにはきらびやかな美術品の数々でその栄華の残照を知るのみ。だが、数学は美術の世界にも多大な影響を与えた。

例えばフィボナッチが発見したフィボナッチ数列は、黄金比率の確立に貢献した。また、ブルネレスキが見いだした消失点は、絵に奥行きを与えた。無限の彼方の一点に絵の焦点を凝縮させるこの考えは、無限の考えに基づいている。この辺りの事実も興奮して読める。

ルネサンスは教会の権威が揺らぐに連れ進展する。教会の権威に挑戦した皮切りはコペルニクスの地動説の証明だ。その後、数学者たちが次々に神の領域に挑んで行く。以後の本書は、数学者たちによる証明の喜びが中心となる。いまや神は発展を謳歌し始める数学と文明に置いていかれるのみ。

まずはデカルトとパスカル。デカルトによる座標の発明は、軸の交点である0の存在なしにはありえない。パスカルは真空の発見とともに確率論の祖として知られる。パスカルの賭けとは、神の存在確率を証明したものだ。だが、その論理を支えているのはパスカル本人による信仰しかない。すでに神が科学の前に劣勢であることは揺らがない。

ニュートンによる微積分の発見は、無限小と無限大が数式で表せるようになったことが革命的だ。そしてこれによって科学者たちの関心は神の存在証明から離れて行く。替わりに彼らが追い求めるのはゼロと無限だ。この二つは常に相対する双子の観念だ。しかし、その正体はなかなか姿を見せない。ニュートンの微分はそもそも無限小の二乗を無限に小さい数であるため0に等しいとみなしたことに突破口を見い出した。無限小を二乗したら0と扱い、なかったこととすることで、証明のわずかなほころびを繕ったのだという。それによって微分の考え方を確立したニュートンは、微分によってリンゴの落下から惑星の軌道まであらゆるものが数式で説明できることを示したのだ。その考え方は同時期に微積分を考案したライプニッツも表記法は違えど根本の解決は一緒だったらしい。ニュートンとライプニッツがともに抱えた根本の矛盾―0で割る矛盾や無限小を二乗すると0として扱うことも、無限小で割ってなかったことにすれば解消しうるのだと述べられている。

そしてこの辺りから私の理解は怪しくなってくる。二次関数グラフや曲線に対する接線など、かつて苦労させられた数学の魔物が私を襲う。ついには虚数や複素数がまでもが登場して私の苦手意識をうずかせる。複素平面、そして空間座標や球が登場するともうお手上げだ。

有理数と無理数の定義上、あらゆる数を覆えるほど小さい単位。それがゼロ。そのような定理は私の理解力に負えない。私には論理の飛躍とすら思えてしまう。

だが、それを発見してからの量子力学や物理学の世界はまさに0の概念から飛躍手に発展した。相対性理論やブラックホールなど、話は宇宙論に広がって行く。ひも理論や超弦理論、そしてビッグバンや宇宙定数、赤方偏移。それらは最新の宇宙論を学ぶ人には常識と言える概念だそうだ。それらはすべて無限とゼロの完全な理解の元に展開される理論なのだ。一つだけ私の腑に落ちたのは、あらゆる物質の基本要素をゼロ次元のゼロとしてしまうと、成り立たない理論がでるため、紐のような次元のあるもので物質を成り立たせる、それがひも理論という下りだ。といっても数式のレベルではまったく理解していないのだが。

本書は宇宙の終わりまで話を広げる。宇宙に終わりが来るのか。来るとすればそれはどんな終わりか。無限に広がり続け、やがて熱が冷めてゆくのか。宇宙はある一点で収縮へと転じ、収縮の果てにビッグバンの瞬間の膨大な熱に終わるのか。

本書の答えは前者だ。ゼロから生まれた宇宙は無限に広がり、冷たくなるゼロを迎えると結論を出している。本書は以下に挙げる一文で幕を閉じる。

宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

本書には付録として三つの証明がついている。
ウィンストン・チャーチルが人参であることの数学的証明。
黄金比の算出方法。
現代の導関数の定義。
カントール、有理数を数える
自家製ワームホールタイムマシンをつくろう

こうやって見ると数学とはかくも魅力的で学びがいのある学問に思える。そう思って数式を見た瞬間、私の意欲は萎えるのだ。普段プログラムロジックをいじくり回しているはずの私なのに。

‘2017/03/11-2017/03/15


カフカ式練習帳


エッセイと小説の違い。いったいそれはどこにあるのか。本書を読みながらそんなことを思った。

かつて、私小説という小説の一ジャンルがあった。作家の生活そのものを描写し、小説に仕立てる。明治、大正の文学史をひもとくと必ず出てくる小説の一ジャンルだ。

では私小説とは、作家の身の回りをつれづれに記すエッセイと何が違うのだろう。

私は平たく言えばこういうことだと思っている。私小説とは作家が身の回りのあれこれを小説的技巧を駆使して描いたもの。それに対してエッセイは技巧を凝らさず、肩の力を抜いて読めるもの。もうひとつの違いは、小説としての筋のあるなしではないだろうか。起承転結らしきものが作家の日常を通して描かれるのが私小説。一方、エッセイは構成が曖昧でも構わない。

こんな風にエッセイと小説の違いを振り返ったところで、本書の内容に踏み込みたいと思う。まず本書には、筋がない。書かれる内容は多種多様だ。著者の子供時代を回想するかと思えば、宇宙の深淵を覗き込み、科学する文章も出て来る。一文だけの短い内容もあれば、数ページに章もある。著者の周りに出没する猫をつぶさに観察した猫を愛でているかと思えば、歴史書の古めかしい文章が引用される。

本書に書かれているのは、エッセイとも私小説とも言えない内容だ。両方の内容を備えているが、それだけではない。ジャンルに括るにはあまりにも雑多な内容。しかし、本書はやはり小説なのだ。小説としか言い様のない世界観をもっている。その世界観は雑多であり、しかも唐突。

著者は実にさまざまな内容を本書に詰めている。一人の作家の発想の総量を棚卸しするかのように。実際、著者にとっての本書は苦痛だったのだろうか、それとも病み付きになる作業だったのか。まるで本書の一節のようなあとがきもそう。著者の淡々とした筆致からは著者の思いは読み取れない。

だが、著者は案外、飽きを感じずに楽しんでいたのではないか。そして、編集者によって編まれ本になった成果を見て自らの作家としての癖を再認したのではないか。もしくは、発想の方向性を。

これだけ雑多な文章が詰められた本書にも、著者の癖というか傾向が感じられる。文体も発想も原風景も。

実をいうと、著者の本を読むのは初めてだ。それでいながらこんな不遜なことをいうのは気が引けるが、本書の内容は、著者の発想の表面を薄く広くすくい取った内容に思えた。その面積は作家だけあって広く、文章も達者。けれども、一つのテーマを深く掘り下げたような感じは受けなかった。

言うなれば、パッと目の前にひらめいた発想や思考の流れを封じ込め、文章に濾し出した感じ。たぶん、その辺りの新鮮な感覚を新鮮なうちに文章に表現するのが本書の狙いなのだろう。

本書には、そのアイデアを延長させていけば面白い長編になりそうなものがたくさんあった。私もまずは著者の他の長編を読みたいと思う。そして、著者の発想や書きっぷりが本書のそれとどれくらい違うのか確かめねば、と思った。

‘2016/09/13-2016/09/26


ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー


It is a period of civil war. Rebel spaceships, striking from a hidden base, have won their first victory against the evil Galactic Empire.
During the battle, Rebel spies managed to steal secret plans to the Empire’s ultimate weapon, the DEATH STAR, an armored space station with enough power to destroy an entire planet.
Pursued by the Empire’s sinister agents, Princess Leia races home aboard her starship, custodian of the stolen plans that can save her people and restore freedom to the galaxy….

ここに掲げた文はStar Wars Episode Ⅳの冒頭、あのテーマ音楽の調べとともに奥へと流れていく文章だ。本作は、ここに記されたエピソードが描かれている。

直訳がパンフレットに載っていたので転載させて頂く。

大戦のさなか。
秘密基地を発った反乱軍の複数の宇宙船が、邪悪な銀河帝国に対して初の勝利を収めた。この戦いの中で、反乱軍スパイは帝国の究極兵器の秘密設計図を奪うことに成功する。それはデス・スターと呼ばれる、惑星をも破壊するのに十分な威力を備えた、武装宇宙ステーションだった。
設計図を受け取ったプリンセス・レイアは、人々を救い、銀河に平和を取り戻すべく、自身の宇宙船で故郷へと向かうが、帝国の邪悪な特使に追いつかれてしまったのだった・・・

Star Wars Episode Ⅳは、1977年に封切りとなったシリーズ第一作。第一作にしていきなりエピソードⅣというのも意外だった。しかしエピソードⅣから始めることによって、第一作でありながら練り上げられた世界観を観客に期待させる効果はあった。その広がりが世界の映画ファンによって支持され、空前のヒット作となったことは周知の事実だ。

後年、エピソードⅠ~Ⅲも映画化されたのだが、それはダースベイダーという稀代の悪役の誕生に焦点が当てられていた。それによって、肝心のエピソードⅣの冒頭に流れたプロローグが宙ぶらりんになったままだった。しかも大仰な割にはミサイル一発で木っ端微塵になってしまうなど、最終兵器にしてはデス・スターってもろすぎちゃう? という観客からの突っ込みどころも満載の一作だった。

本作は、そういったエピソードⅣの矛盾や忘れられていた点を全て解消する一作だ。外伝という形にはなっているが、エピソードⅣ~Ⅵのファンにとっては、エピソードⅠ~Ⅲよりも重要な一作かもしれない。

だが、本作にとっては外伝という体にしてよかったのではないだろうか。Star Warsサーガというプラットホームに載りながら、新たな作品世界を作り出すきっかけになったのだから。

私は例によって一切の事前情報無しに観にいった。事前にあれこれ情報を仕入れると、無心に観られない。そして、無心な私が観た本作は、期待に違わぬ思いと、物足りない思いの半々だった。

期待に違わぬ点とは、本作が忠実にエピソード3.5としての役割を果たしていたこと。エピソードⅣに矛盾点が残されたままであったことは上に書いた。その点が本作で払拭されたことはとても大きい。また、エピソードⅣで登場した懐かしい人物が現れたことにも嬉しい思いがある。まさか出てくるとは思っていなかったし、本当にそっくりだったから。

物足りない思いとは、Star Warsの枠組みにあまりにも忠実であったことだ。昨年、エピソードⅦ-フォースの覚醒が公開された。このときに思ったのも同じく、Star Warsの世界観からはみ出ることに臆病になってはいないか、ということだ。せっかく外伝という位置づけを与えられたのだから、もう少し枠組みを外すような冒険があっても良かったように思う。

しかも、フォースの覚醒と同じく、こちらも女性が主人公となっている。正直なところ、本作があまりにもStar Warsの世界観を踏襲していたことで、フォースの覚醒の印象が少し薄らいでしまったようにすら思っている。

ただ、フォースの覚醒の印象が薄らぐぐらいに、本作のキャスティングは良かったと思う。主人公のジン・アーソを演ずるフェリシティ・ジョーンズはとても良かった。フォースの覚醒でレイを演じたデイジー・リドリーの印象を薄めるほどに。さらに共演者たちもいい感じの演技だった。なかでもチアルート・イムウェを演じたドニー・イェンと、ベイズ・マルバスを演じたチアン・ウェンがとても印象的だった。元々Star Warsには日本の侍や武士道、時代劇が影響を与えていることは有名だ。だが、このところ公開されたエピソードⅠ~ⅢやⅦからはその要素が薄れていたのではないだろうか。ところがこの二人の東洋的な容姿、とくに禅にも通ずるジェダイ・マスターの神秘的思索的な雰囲気を纏ったチアルート・イムウェの登場は、東洋的な思想を漂わせていた旧三部作を思い出させる。このキャスティングと彼ら二人の演技によって、本作がエピソードⅣの正統なプロローグであることが証明されたように思う。

あと、本作のラストでは旧三部作でお馴染みのあの方が当時と変わりない様子で登場する。実際には別の俳優が演じたらしいのだが、そのメイク技術には驚くほかはない。その方のお名前はエンド・クレジットのSpecial Thanksに登場していた。おそらく本作にもなんらかの形で協力したのだろう。

それにしても、本作でもっとも印象に残ったのは、デス・スターの攻撃が惑星に与える影響だ。惑星の一点に攻撃が行われただけで、核爆発のようなきのこ雲が沸き立ち、衝撃波が惑星の表面を全て壊滅させてしまう。これは、地球に巨大隕石が落ちたときの地球破滅のCGのようだ。今までのStar Warsに出てくる爆破シーンは、通常の戦闘の爆撃や宇宙空間での爆発、あとはデス・スターによる星の丸ごと爆破だろうか。今回、デス・スターによる惑星表面への攻撃が、星を木っ端微塵にせず、惑星表面を全て覆うような破滅の表現で描かれたのは印象に残った。多分それがリアルな惑星破壊の有様なのだろう。

’2016/12/18 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ フォースの覚醒


本作を一言でいうとファンによるファンのための完璧な続編である。

実は本作を観る前、この数日を掛けて旧三部作を全て観てからスクリーンに臨んだ。観るのは16年以上ぶりにだろうか。かつてはそれぞれを10回以上見るほど好きだったにも関わらず、今回見直してみると演出のテンポが遅いところや妙にわざとらしい箇所があったり、そもそもロボットの動きがコマ送りのように不自然だったりと、かつての記憶も若干美化されていたらしい。

J.J.エイブラムス監督による本作の内容については、指摘すべき点もない。あえていうなら、あまりに続編として出来過ぎていて、ストーリーに新たな驚きがないことだろうか。エピソード4や6を彷彿とさせるシーンが随所に見られる。旧三部作のファンとしてはぐいぐいと画面に引き込まれ、嬉しくなるばかりだ。本作は映像の美しさや演出のテンポなど文句もない。旧三部作に敬意を払いつつ、その不自然な点も修正されているとなれば猶更である。しかし敬意のあまり、旧三部作を踏襲してしまっており、それが新たなる三部作の始まりにあたって新味が薄いという批判にもつながるかもしれない。

本作の中で旧三部作との違いを書くとすれば、BB-8の動きだろう。これは旧三部作にも新三部作にもなかった技術の進化の賜物だ。このところの映画にSF的な最新技術の描写がほとんどないことは、先日の007 SPECTREのレビューでも書いた。本作でもそれは同じである。同じどころか、逆に古びたレトロ感を大きく出している。使いこまれたヘルメットや戦闘機など、これでもかと古い道具が出されてくる。しかしBB-8は新たな動きとともにR2-D2を彷彿とさせる。

また、本作で登場したフィンは帝国の雑魚キャラストームトルーパーから逃亡した人物である。今まで新旧三部作を含め、雑魚キャラであったストームトルーパーが描かれたことはほぼない。しかし本作ではストームトルーパーからの視点が新しい視点として物語に効果を与えている。

さらに、旧三部作に日本の要素が強いことは良く知られている。ジェダイとは日本語の「時代」が語源という話も有名だし、ダース・ベイダーのマスクのモデルとされる伊達正宗公の鎧も見たことがある。しかし本作からは日本的な要素は殆ど失われている。むしろ本作からはケルト民族やドルイド教の要素が感じられた。

しかし結局のところ、スター・ウォーズサーガとはストーリーが肝のシリーズだ。旧6作をはじめ、スピンオフも多数作られたシリーズは、その全てのストーリーに最大限の魅力がある。壮大なサーガの正当な続編として描かれた本作は、新旧6作にない新たな対立軸が打ち出されている。それが何かはここでは書かないほうがよいだろう。だが、旧三部作のファンであれば是非見ておくことをお勧めしたい。

骨太のストーリーを活かすのは俳優たちの演技あってこそである。それがまた実に良かった。特に新たに本作でヒーロー・ヒロインとなった二人は実に素晴らしいと云える。新たなる三部作に相応しい。これからも楽しみとしたい。特にラストシーンでは不覚にも涙がでそうになった。次作へとつながる素晴らしくも重要なシーンといえる。

最後に一つだけネタばらしする。本作に登場するレイア姫は実に美しかった。実は昨年、レイア姫を演じたキャリー・フィッシャーが本作出演に当ってダイエットを命ぜられたという記事を読んだ。そういう事前知識があっただけに、一体どんな風に変貌を遂げてしまったのか、心配だった。しかし本作のレイア姫は実に美しかった。

’2015/12/23 イオンシネマ新百合ヶ丘


下町ロケット


本書を読み終えてから一年近く経ち、ようやく本稿を書いている。その間には本書を原作としたテレビドラマも始まったと聞く。例によって一度も観ていないが。

だが、読み終えて一年経ったにも関わらず、本書の内容はよく覚えている。心動かされたシーン、クライマックスのシーンを何度読み返したことか。何度も読み返したことによって本書の内容は頭に入った。しかしそれだけではない。他にも本書の内容を覚えている理由はある。それは、題名から想像した内容と実際の内容に違いがあったことだ。

はじめ、本書の題名から想像していたのは「まいど一号」である。「まいど一号」とは東大阪市の中小企業団地の会社が集まり、開発したロケットの名前である。それは 宇宙開発協同組合SOHLAとして知られている。私が本書を読む前に持っていた下町ロケットのイメージは、宇宙開発協同組合SOHLAのニュースを下敷きとしたものであった。

しかし、本書の粗筋はそれとは大分違っている。中小企業といっても、主人公佃航平が社長を勤める佃製作所は、技術に定評のある精密機械の製造会社。しかし、ここに来て大口顧客の契約を失注し、ライバル社からは特許侵害で訴えられ、さらにメインバンクへの融資依頼も渋られる始末。

立て続けに起こった会社存続の危機に際し、折よく帝国重工の宇宙航空部長財前より、佃製作所の持つ特許の譲渡を持ち掛けられる。その特許がないと帝国重工は自社の新型水素エンジンを商品化できない。しかし、航平は逆に財前に提案する。部品供給者として共同開発に参画させてもらえないかと。巨額の特許譲渡収入を捨ててまで航平にそう決断させたのは、自身が宇宙開発事業団の主任エンジニアとしてロケット打ち上げに失敗した経験があるため。その苦い経験の払拭や、自らの夢への想い。

はたして航平は自社内製品しか採用しないという帝国重工を説得できるのか。また、佃製作所は、帝国重工の求める苛烈な試験を通せるだけの製品を送り出せるのか。ライバル社からの特許侵害裁判に勝てるのか。何よりも社内の空気を航平の夢に向ける事が出来るのか。

著者の作品全てに目を通した訳ではないが、著者は組織の嫌らしさや軋轢を描くのがうまい。そういう印象を持っている。組織の嫌らしさや軋轢に抗い、勝ち上がる個人のしたたかさ。著者の作風はそのようなものだと勝手に思い込んでいた。しかし、本書を読んだ後では、そういう著者の作風に対する見方は改めねばならない。人の負の感情に対するのは、己を信じる自負心である。本書の底には一貫して前向きの気が流れている。もちろん本書には、足を引っ張る人間や懐疑的な人間も多数出てくる。しかし、本書にはそれを覆すだけの信念とそれを貫き通すことの美しさが気高く書かれている。

また、本書は佃製作所という中小企業が舞台だ。中小企業をいじめる大企業。その構図は、著者の他の作品でもお馴染みだ。しかし、本書に登場する帝国重工の財前や、メインバンクから出向して佃製作所の経理部長を勤める殿村といった人物は、大企業のプライドにふんぞり返ることなく航平の夢に協力する。そういったシーンはとても印象に残る。会社とは、仕事とは何かといった思いが、本書を読み終えると胸に実感として湧き出るはずだ。

何かを成し遂げるにあたって、立場や損得よりも大切なものがある。そのようなテーマは書き方を誤ると、とにかく「くさいシナリオ」になってしまう。が、本書では日本の中小企業に焦点を当てているためか、話に現実性がある。実際、わが国では町工場から世界に雄飛した松下やソニーといった先例もあり、世界シェアの大半を握る中小企業も珍しくない。戦後の熱い成長の記憶は我々の無意識に残っており、本書の内容が嘘っぽく聞こえない。日本の中小企業はもっと自信を持って良い。そう思える。

本書に感じられる中小企業への温かい視点は、或いは大手銀行出身の著者の自省によるのかもしれない。かつての我が国の高度経済成長を支えたのは、財閥系の大企業よりも、むしろ中小企業だった。そのような論は良く目にする。大手銀行が大企業だけを相手にし、中小企業への融資を控えたのが、日本経済の失速の原因ではないか。もし著者がそう思って本書を書いたのだとしたら、非常に心強い話である。少なくとも私は本書をそう受け止めた。そして今でもそう信じている。舞い上がった気持ちのままに。

本書は、中小企業への著者からのエールである。そうに違いない。

‘2014/12/25-2014/12/26