Articles tagged with: 孤児

闇に香る嘘


本書は乱歩賞を受賞している。
それも選考委員の満票一致で。
私もそれに同意する。本書はまさに傑作だと思う。

そもそも私は、本書を含めて全盲の視覚障害者の視点で描かれた小説を読んだ記憶がない。少なくとも本書のように全編を通して視覚障碍者の視点で描かれた小説は。
巻末の解説で有栖川有栖氏が谷崎潤一郎の「盲目物語」を挙げていたが、私はまだ「盲目物語」を読んだことがない。

視点が闇で閉ざされている場合、人はどう対処するのだろう。おそらく、自分の想像で視野を構成するのではないだろうか。手探りで、あるいは杖や記憶を頼りとして。
それでも、健常者に比べて情報の不足は歴然としている。

私も本書を読んだ後、目を閉じて少し移動してみた。だが、たったそれだけのことが大変だった。
暗闇の視野の中、街を歩くことを想像するだけで、もう無理だと思ってしまう。ましてや、謎解きなどとんでもない。
視覚情報を欠いて生きることは、とても不便なのだ。

本書が描くような闇の中を手探りで行動する描写を読むと、普通の小説がそもそも、正常な視点で語っていることに気づく。その当たり前の描写がどれだけ恵まれていることか。
全盲の人から見た視野で物語を描くことで、著者は健常者に対して明確な問題意識を提示している。
本書は、健常者に視覚障碍者の置かれた困難を教えてくれる意味で、とても有意義な小説だと思う。

もう一つ、本書が提示しているテーマがある。それは、中国残留孤児の問題だ。
太平洋戦争が始まる前、政府の募集に応じて満洲や中国大陸に入植した人々がいた。それらの人々の多くは敗戦時の混乱の中現地に放置された。親とはぐれるなどして、現地に放棄された人もいる。ほとんどが年端のいかぬ子どもだった。彼ら彼女らを指して中国残留孤児という。
彼らは中国人によって育てられた。そして成長してから多くの人は、自らのルーツである日本に帰国を希望した。
私が子どもの頃、中国残留孤児の問題が新聞やニュースで連日のように報じられていた事を思い出す。

彼らが親を見つけられる確率は少ない。DNA鑑定も整っていない1980年初めであればなおのこと。
双方の容貌が似ているか、もしくは肉親が覚えている身体の特徴だけが頼りだった。
当然、間違いも起こり得る。そして、それを逆手に他人に成り済まし、日本に帰国する例もあったという。

幼い頃に比べると顔も変化する。ましてや長年の間を離れているうちに記憶も薄れる。
ましてや、本書の主人公、村上和久のように視覚障碍者の場合、相手の顔を認められない。
そこが本書の筋書きを複雑にし、謎をより魅力的な謎に際立たせている。
視覚障碍者と中国残留孤児の二つを小説の核としただけでも本書はすごい。その着想を思いついた瞬間、本書は賞賛されることが約束されたのかもしれない。

自らの孫が腎臓移植を必要としている。だが孫のドナーになれず、意気消沈していた主人公。さらに、血がつながっているはずの兄は適合検査すらもかたくなに拒む。
なぜだろう。20数年前に中国から帰国した兄。今は年老いた母と二人で住んでいる兄は、本当に兄なのだろうか。

兄が検査を拒むいくつかの理由が考えられる。背景に中国残留孤児の複雑な問題が横たわっているとなおさらだ。その疑心が主人公を縛っていく。兄と自分の間にしがらみがあるのだろうか。それとも、兄には積りに積もった怨念があるのだろうか。
それなのに、村上和久にはそれを確かめる視野がない。すべては暗闇の中。

そもそも、視覚でインプットされる情報と口からのアウトプットの情報との間には圧倒的な断絶がある。
私たち健常者は、そうした断絶を意識せずに日々を暮らしている。
だが、主人公はその断絶を乗り越え、さらに兄の正体を解き明かさねばならない。
なぜなら、孫娘に残された時間は少ないから。
そうした時間的な制約が本書の謎をさらに際立たせる。その設定が、物語の展開上のご都合を感じさせないのもいい。

中国残留孤児のトラブルや思惑が今の主人公にどう絡み合っているのか。そこに主人公はどのように組み込まれているのか。
そうした相関図を健常者の私たちは紙に書き出し、ディスプレイで配置して把握することができる。だが、主人公にはそれすらも困難だ。
そのようなハンディキャップにめげず、主人公は謎の解明に向けて努力する。その展開に破綻や無理な展開はなく、謎が解決するとまた新たな謎が現れる。

目が見えない主人公が頼りにするのは、日々の暮らしで訓練した定位置の情報だ。
だが、それも日々の繰り返しがあってこそ。毎日の繰り返しからほんの少しでも違った出来事があるだけで主人公は異変を察知する。それが謎を解く伏線となる。
主人公の目のかわり、別居していた娘の由香里も担ってくれるようになる。あるいは謎の人物からの点字によるメッセージが主人公に情報を伝える。

白杖の石突きや踏み締める一歩一歩。あるいは手触りや香り。
本書にはそうした描写が続出する。主人公は視覚以外のあらゆる感覚を駆使し、事件の真相の手がかりを求める。
その五感の描き方にも、並々ならぬ労力が感じられる。実に見事だ。

本書の解説でも作家の有栖川有栖氏が、著者の努力を賞賛している。
著者は幾度も新人賞に落選し続け、それでも諦めず努力を続け、本作でついに受賞を勝ち取ったという。
そればかりか、受賞後に発表した作品も軒並み高評価を得ているという。

まさに闇を歩きながら五感を研ぎ澄ませ、小説を著すスキルを磨いてきたのだろう。
それこそ手探りでコツコツと。

あり余る視覚情報に恵まれながら、それに甘えている健常者。私には本書が健常者に対する強烈な叱咤激励に思えた。
ましてや著者は自らの夢を本書で叶えたわけだ。自分のふがいなさを痛感する。

‘2020/02/19-2020/02/20


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


孤児


本書にはヒトの営みが描かれている。「ヒト」と書いたのは、もちろん動物としてのヒトのこと。

原初の人類を色濃く残す16世紀の南米インディオたち。南米全域がポルトガルとスペインによって征服され、キリスト教による「教化」が及ぶ前の頃。本書はその頃を舞台としている。

孤児として生まれた主人公は、燃える希望を胸に船乗りとなる。そして新大陸インドへと向かう船団の一員となる。船団長は寡黙な人物で、何を考えているのかわからない。何日も何週間も空と太陽のみの景色が続いた後、船団はどこかの陸地に着く。

そこで船団長は感に耐えない様子で、「大地とはこの・・・」と言葉を漏らした直後、矢を射られて絶命する。現地のインディオたちに襲われ、殺される上陸部隊。主人公だけはなぜか殺されない。そして生け捕りにされインディオの集落に連れて行かれる。「デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!」と謎の言葉でインディオたちに呼び掛けられながら。

はインディオの集落に連れて行かれ、インディオたちの大騒ぎを見聞きする。それはいわば祭りの根源にも似た場 。殺した船乗りたちを解体し、うまそうに食べる。そして興奮のまま老若男女を問わず乱交する。自分たちで醸した酒を飲み、ベロベロになるまで酔っ払う。そこで狂乱の中、命を落とす者もいれば前後不覚になって転がる者もいる。あらゆる人間らしさは省みられず、ケモノとしての本能を解き放つ。ただ本能の赴くままに。そこにあるのは全ての文明から最もかけ離れた祭りだ。

インディオたちによる、西洋世界の道徳とはかけ離れた振る舞い。それをただ主人公は傍観している。事態を把握できぬまま、目の前で繰り広げられる狂宴を前にする。そして、記憶に刻む。主人公の観察は、料理人たちがらんちき騒ぎに一切参加せず、粛々と人体をさばき、煮込み、器に盛り、酒を注ぐ姿を見ている。西洋の価値観から対極にあり、あらゆる倫理に反し、あらゆる悪徳の限りを尽くすインディオ達。そしてその騒ぎを冷静に執り行う料理人たち。

捕まってから宴が終わるまで、主人公はずっとインディオたちの好奇心の対象となる。そしてインディオたちはなぜか主人公に声を掛け、存在を覚えてもらおうとする。デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!何の意味かわからないインディオの言葉で呼びかけながら。なぜインディオ達は主人公に向けて自分のことをアピールするのか。

しかも、宴が終わり、落ち着いたインディオたちはこれ以上なく慎みに満ちた人々に一変する。タブーな言葉やしぐさ、話題を徹底して避け、集団の倫理を重んずる人々に。そして冬が過ぎ、日が高くなる季節になるとそわそわし出し、また異国からやってきた船団を狩りに出かけるのだ。

主人公はその繰り返しを十年間見聞きする。自分が何のために囚われているのかわからぬままに。主人公が囚われの身になっている間、一人だけ囚われてきたイベリア半島の出身者がいる。彼はある日、大量の贈り物とともに船に乗せられ海へ送り出されていく。インディオたちの意図はさっぱりわからない。

そしてある日、主人公はインディオ達から解放される。十年間をインディオたちの元で過ごしたのちに。イベリア半島の出身者と同じく、贈り物のどっさり乗った船とともに送り出され、海へと川を下る。そして主人公は同胞の船に拾われ、故国へと帰還する。十年の囚われの日々は、主人公から故国の言葉を奪った。なので、言葉を忘れた生還者として人々の好奇の目にさらされる。故国では親切な神父の元で教会で長年過ごし、読み書きを習う。神父の死をきっかけに街へ出た主人公は、演劇一座に加わる。そこで主人公の経験を脚色した劇で大当たりを引く。そんな主人公は老い、今は悠々自適の身だ。本書は終始、老いた主人公が自らの生涯を振り返る体裁で書かれている。

そしてなお、主人公は自らに問うている。インディオたちの存在とは何だったのか。彼らはどういう生活律のもとで生きていたのか。彼らにとって世界とは何だったのか。西洋の文化を基準にインディオをみると、全てがあまりにもかけ離れている。

しかし、主人公は長年の思索をへて、彼らの世界観がどのような原理から成り立っているかに思い至る。その原理とは
、不確かな世界の輪郭を定めるために、全てのインディオに役割が与えられているということだ。人肉を解体し調理する料理人が終始冷静だったように。そして冷静だった彼らも、翌年は料理人の役割を免ぜられると、狂態を見せる側に回る。主人公もそう。デフ・ギーとは多様な意味を持つ言葉だが、主人公に向けられた役割とは彼らの世界の記録者ではないか。彼らの世界を外界に向けて発信する。それによってインディオ達の世界の輪郭は定まる。なぜなら世界観とは外側からの客観的な視点が必要だからだ。外界からの記憶こそが主人公に課せられた役目であり、さらには本書自体の存在意義なのだ。

インディオたちは毎年決まった周期を生きる。人肉を食べ、乱交を重ね、酒乱になり、慎み深くなる。それも全ては世界を維持するため。世界は同胞たちで成り立つ。だからこそ人肉は食わねばならない。そして性欲は共有し発散されなければならないのだ。それら営みの全ては、外部に向け、表現され発信されてはじめて意味を持つ。それが成されてはじめて、彼らの営みはヒトではなく、人、インディオとして扱われるからだ。もちろんそれは、なぜサルが社会と意識を身につけ、ヒトになれたのかという人類進化の秘密にほかならない。

訳者あとがきによれば、実際に主人公のように10年以上インディオに囚われた人物がいたらしい。だが、その題材をもとに、世界観がどうやって発生するか、というテーマにまで高めた本書は文学として完成している。見事な作品展開だと思った。

‘2017/07/19-2017/07/24


完盗オンサイト


本書もこのところ読んできた江戸川乱歩賞受賞作の一つだ。江戸川乱歩賞の受賞作は、作風や構成がバラエティに富んでいる。応募作も推理作家の登竜門であるため、力が入った作品が多い。粗削りだが、魅力もあるのだ。

本書もその一つ。皇居に忍び込み徳川家光公が愛した盆栽「三代将軍」を盗み出すというプロットは野心的だし、勢いに満ちている。奇想天外なストーリーではあるが、小説の内容自体がぎりぎり破綻していないのもいい。興味を惹かれつつ読み進められる。なおかつ、登場人物が挫折から再起する様子が描かれている事にも好感が持てる。

主人公の水沢浹(とおる)は21歳。恋人のクライマー伊藤葉月と別れ、クライマーとしての未来にも自信を失い、ホームレスと変わらない日々を送っていた。

浅草で行き倒れ寸前になるところを救ってくれたのが、寺の住職岩代辿紹だ。ぶっきらぼうだが、温かみのある辿紹。言葉が不自由な少年斑鳩(いかる)を養っている辿紹は、さらに浹も養うことにする。浹に何かを感じたからだ。辿紹は工事現場で作業員の仕事にも出かけており、そこに浹を連れて行く。ところがそこで浹は休憩時間にクライミングトレーニングをしてしまい、そこから浹はその施主の社長國生環にスカウトされる。そこで依頼されたのが、皇居にある「三代将軍」を盗み出すことだ。

その施主、國生地所は日本有数のデベロッパー。その設計事例の多くは、社長の國生環ではなく会長の國生肇の頭脳から生み出されている。自らは動けずストレッチャーにのって移動する肇は、自らが動けないため脳裏に描く欲求を実現せずにはいられない人物。そんな彼の歪んだ欲求は「三代将軍」を手に入れることに向けられている。

依頼を受け、浹はどうすべきか。ここから、本書は面白い展開を見せる。ただ浹が盆栽を盗み出して終わりにはならない。世界的な名声を保っていた元恋人の伊藤葉月。さらに辿紹が養っている斑鳩。そして明らかに精神に深刻な病を抱えている人物瀬尾貴弘も合間に描写される。

奇矯な人物が奇妙な動機と行動で話を進めていく本書。展開がかなり独特な感じなのだが不思議とすいすい読める。違和感もあまり感じない。「著者の都合が感じられなかった」と選評で東野圭吾氏が書いていたが、私もそう思った。著者の都合が感じられないため、読者としても白けることなく付いていけるのだ。奇抜な目標を設定しているだけに、読者としてはその結末がどうなるか気になるのだ。こうなればもう著者の勝ちだ。

本書の後半の動きはめまぐるしい。展開も強引すれすれな速度で進む。だが、それがかえって本書に独特の色合いを与えている。そして著者の都合は感じられない。選評で内田康夫氏が、漫画の原作のような非現実的なストーリーで、受賞には反対したと書いていた。確かにそういう見方もあるだろう。私は書き直された本書しか知らないので、応募時と本書がどう違うのかはわからず、応募時にはもっと展開が強引だったかもしれない。

だが、それはあくまでも受賞作という視点で見た時の話。本書を受賞作と切り離してみてみれば、展開も予想外だし、人物が良く書けている。エキセントリックな人物もいれば、リアルな存在感を出す人物もいる。それぞれのバランスが良いのだ。そのため、風変わりな動機と目的であっても円滑に読めるのだ。そして、その中で浹が挫折を乗り越え、成長を遂げてゆく姿を楽しめるのだ。ただ、最後に浹が取った判断は賛否分かれると思う。特に斑鳩の扱いについては。あと、続編への色気を見せるラストも余計だと思う。多分、本書の読後感については好き嫌いがわかれると思う。

なお、タイトルにあるオンサイトとは、「自分が一度もトライしたことのないルートを、初見で完登すること」(146P)ということだ。そこで完登を完盗と変えたのが肝だ。応募時には「クライマーズ ハイ」というタイトルだったらしい。本書のほうが良いタイトルだと思う。

「クライマーズ ハイ」というあまり良いとは思えないタイトルでこれだけ奇天烈なテーマと構成で受賞したのだから、次回作も気になる。まだ著者の作品は本書しか読んだことがない。見つければ読んでみようと思う。

‘2017/07/18-2017/07/18