Articles tagged with: 子育て

地方消滅 東京一極集中が招く人口急減


わが国をめぐる問題を挙げろ、と問われて答えをいくつ思い浮かべられるだろうか。私はすぐに十以上は用意できると思う。
では、その問題の中ですぐに解決策が見いだしやすく、しかも今のわが国に悪い影響を及ぼしている問題を一つ挙げろと言われればどうだろう。
その場合、私は東京への一極集中を挙げる。

本書にも書かれている通り、都心への一極集中は地方から人を一掃し、消滅の危機に追いやっている。
そして、都心の機能は3.11の時に如実に現れたとおり、飽和の極みにある。このまま問題を放置しておけば悪い事態に陥るのは確実。
だが、一極集中への解決策は他の問題(国防、少子化、移民、地震、感染症、温暖化、宇宙からの災厄、人工知能、遺伝子)に比べるとまだ対策のしようがあると思う。少子化をのぞいた他の問題は日本だけでは難しいが、一極集中は国内でどうにかできる問題だからだ。

本書は、このまま手をこまねいていると896の都市が亡くなると危機感をはっきり表明している。そして、それに対してさまざまな打つ手を提示している。
元岩手県知事で総務大臣も務めた著者が提示する現状認識と処方箋は明確だ。白い表紙がおなじみの中公新書で、赤一色の本書の装丁は目立つ。内容もあいまって本書はベストセラーになったという。

だが、こうした危機が迫っているにもかかわらず、国が一極集中へ本腰を入れて対応しているとはとても思えない。それどころかマスコミもこの問題については口を閉ざしているように思える。
おそらく出版・マスコミ業界がもっとも一極集中の恩恵を受け、また、促進してきた当人だからだろう。

だが、新聞離れ、テレビ離れが叫ばれている今、もう既存のビジネスモデルに未来はないと思う。
インターネットは情報の価値を拡散し、都市でも都会でも情報が等しく受け取れるようにしてしまった。
今や、情報に関しては都会の優位性はなくなっている。あえて言うなら、ネットワーク越しよりも対面で会った時のほうが受け取れる情報は多いぐらいだろうか。

なぜ人は都会に出てきてしまうのか。
その理由は、従来から言われていた仕事があるかどうか、に尽きるのではないか。
戦前や戦後、農村から出稼ぎと称して多勢の人々が都会へと出てきた。それが戦後の高度経済成長につながった。そうした成功の体験を今も引きずっているのが日本ではないだろうか。
ネットワークがない時代、情報は都会が独占していた。都会にはチャンスがあり、金が流れていた。だから人々は集まってきた。都会だと仕事につける。地方にはないやりがいが都会にはある。そうした幻想がわが国をいまだに縛っている。

かつての私もそうだった。
兵庫の西宮に住んでいた私は、私が求めていた編集者には大阪ではなれないと思い、東京に出てきた。
もちろん、理由はそれだけではない。
当時、付き合っていた今の妻が東京に住んでいて、しかも歯科大学の病院に勤務していたため、動けなかったという理由もある。

私の場合、東京に出た理由はそれだけだ。東京に対する憧れはなかった。
家から自転車を漕いで1時間で大阪の梅田に行けた。そもそもファッションやビジネスに興味がなかった。
もし妻が仙台に住んでいて、私が望む仕事があれば仙台にだって向かっていたかもしれない。

そういう過去をもっている私だから、今の若者が地方から都会へと向かう理由も分かる。
当時の私と同じような動機だろうと察する。漠然とした都会に対する憧れで東京に出てきて、そして消耗してゆくのだろう。
その理由や幻滅はよくわかる。なので、私は今の若者たちを非難しようとは思わない。
それどころか、そうした若者に対して地方に仕事先が就職先が用意されていれば、都会に来なくてもよいのではないか、と提案したい。

今や、私が上京した頃と違い、ネットワークが日本の全土を覆っている。
仮に地方から都会に出てきたとしても、仕事が終わればスマホとにらめっこしているのであれば、都会に住む意味はないはずだ。稼げる仕事の有り無しの違いにすぎないので。

そして今、職種にもよるが、地方で仕事は可能だ。
私の仕事は情報系だが、ネット会議で大抵のことはケリがつく。仕事の発注から受注、納品までを一度も顧客と会わずに済ませたことも何度もある。

本稿をアップする二週間前には奈良の下北山村に行き、二泊三日でワーケーション体験をした。
コワーキングスペース「Shimokitayama Biyori」のWi-Fi環境が良かったのか、AWSのオンラインカンファレンスに参加し、東京で行われた顧客との会議にもオンラインで参加できた。

また、この体験で、田舎の暮らしはお金がかからないことも知った。そもそもお金を使う場所がないのだ。
都会には刺激的なものが多すぎる。そして、その刺激が仮にネット上のコンテンツで満たせるのであれば、地方でもそれは享受できる。

個人の性格にもよるが、私の場合、二週間に一度、東京や大阪に出られればそれで十分。それであれば地方でも働けるし暮らしていけるめどはついた。

だが、その体験をもってしても、本書の内容を読むにつけ危機感が募る。
本書には今後の人口予測と消滅可能性のある896の市町村のリストも付されている。
そこには当然、下北山村も含まれている。しかもこのリストによれば2010年の下北山村の人口は1000人を超えているが、先日訪れた時点ではWikipediaの情報では800人を割っていた。
日中でもほとんど車が通らない下北山村のメインストリートを思い出すにつけ、「消滅」の二文字が切実に迫ってくる。

本書では国による国家戦略の必要も記されている。
だが、今の国会ではモリ・カケ問題や桜を見る会やその他の大臣の失言の糾弾にばかり時間が空費されている。
そのような足をすくわれるようなことをしでかす与党にも失望させられるし、そうした問題をあげつらうばかりの野党にも期待が持てない。
党利党略や利益誘導より、国家の大計に取り組み、足元をしっかり固めて喫緊の課題に注力してほしいと思う。
マスコミももっともっとこの問題には発言してほしい。旅情を誘う番組もいいが、一極集中の問題の危機感を報道しないと何が報道機関か、と思う。

少子化の問題も本書は一章を割いて取り上げている。そして、都会の生きにくさが子作りの妨げになっていることは確実だ。
保育園落ちた日本死ね!!! のブログが反響を巻き起こしたことは記憶に新しい。これもまた、都会の生きづらさの顕著な例だと思う。
子育てをしながら働ける環境を。企業においてもそうした対策が求められていることは自明のことだ。
もし自社の利益を追求するモチベーションを自社の百年後の存続にあると考えているならば、少子化を甘く見るとそもそも会社のサービスの売り先が消え去っていますよ、と忠告したい。

本書にはさまざまな処方箋が載っている。それらの一つ一つはもっとも。
だが、実際に効果を上げうるかどうかはやってみてはじめて分かる点が多い。
だから二の足を踏むのではなく、今のうちに取り組まなねば間に合わないのだ。
本書には各地に人口流出のダムとなる地を作る対策を挙げている。
たとえば下北山村を例に挙げると、村の若者が外に出るのを防ぐのは難しいかもしれない。だが、その流出先が東京ではなく、熊野市や尾鷲市であれば下北山村にはすぐ戻れる。
そうしたダムになりうる都市を各地に育てていくべき、という提言には賛成だ。
ある程度の経済規模さえ確保してもらえれば、都会の人が地方で転職する際にもハードルは少ない。

本書では、そうしたモデルケースとして北海道を取り上げている。
今、日本で最も過疎化が進んだ地域と言えば北海道だろう。
私もあの原野の雰囲気は好きだが、それが将来の日本全土の景色と言われれば、言葉を失ってしまう。
北海道の中でも札幌だけがダムになりうるのではなく、函館、帯広、旭川、釧路といった都市をダムとして、それ以上の流出を食い止める。本書にはその事例が詳しく載っている。

それでは地域がどのようにして雇用を創出していけばよいか。
この課題は当然、考えられなければならない。今までにも議論は出し尽くされてきている。
本書には地域が活きる6モデルとして、産業誘致型、ベッドタウン型、学園都市型、コンパクトシティ型、公共財主導型、産業開発型が挙げられている。
どれもが可能性があるモデルだと思うが、地域によってどれを選ぶかは、地域の特性にもよるだろう。

本書は最後に増田氏と識者による三つの対談が載っている。
最初は藻谷浩介氏との対談。藻谷氏はかつて私もブログで取り上げた『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』の編者でもある。(a href=”https://www.akvabit.jp/%E9%87%8C%E5%B1%B1%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%AE%89%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%8B%95%E3%81%8F/” target=”_blank”>レビュー)
二人の結論もやはり今のままでは地方ばかりか日本も破綻するというもの。
さらにお二人は提言として東京に本社を置く必要の意味を問うている。アメリカではニューヨークに本社を置く企業は四分の一だが、日本の場合、七割が東京にあるという。

二つ目の対談は、小泉進次郎氏、須田善明氏と行っている。
小泉氏は政治家として著名だが、須田氏は宮城県女川町の町長であり、東日本大震災で被害にあった町の復興を担当している。
本稿をアップする今、小泉氏の株はかなり下がってしまった。だが、小泉氏が一極集中を問題として認識していることはこの対談でも述べられている。そして今も持ってくれているはずだと期待している。
結局、一極集中の解消を国家戦略として策定し、それを確実に遂行していかなければこの問題は解決しないと思う。
その戦略とは東京オリンピックや大阪万博ではない。地方を主役にしたイベントを誘致するといったことでもない。
たとえば、本社の機能を六大都市以外の都市に移した企業に対しては税務上の優遇措置を与えるとかの策でもあるし、いつの間にか誰も言及しなくなった遷都の問題を真剣に議論することでもある。

三つ目の対談は、慶応義塾大教授の樋口美雄氏と行っている。
6モデルに即した地方の生き残り策を提言しているが、それらを推進するためのリーダーの存在が指摘されている。
まったくその通りだと思う。本当であれば、地方から選出されたはずの国会議員が担うべきことだが、国政や党政を優先させることに汲々としている。

本書を読んで思うのは、考えるよりも実行の必要性だ。
もちろんそれは私や弊社にも当てはまる。
東京に登記し、東京に住んでいる私。働き方を変えることで朝夕の通勤ラッシュを一人分だけ解消させることができた。
ここ数年、地方でも講演する機会も増えてきた。ワーケーション体験に参加し、地方で働き、暮らす可能性も確信できた。
働き方改革を掲げるサイボウズ社のkintoneを担ぐことで、地方の方とのご縁は増えてきた。
そうした実践ができる立場にある弊社と私。だが、それが実体ある生活として地方に還元できているとはとてもいえない。
下北山村へ伺う契機となった紀伊半島はたらくくらすプロジェクトはカヤックLivingさんをはじめとした複数の企業が共同している。そうした取り組みがすでになされている今、私も弊社に協力できることはあるはず。

これから私や弊社に何ができるのか。これからも動いていかねばなるまい。

‘2018/11/13-2018/11/16


少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


少年は残酷な弓を射る 上


本書は子をもつ親にこそ勧めたい。特に、難しい年齢の子をもつ親に。

子作りとはなんと罪作りな行いなのか。子育てとはなんて深淵で取り返しのつかない営みなのか。特に今のような中途半端に人間関係が希薄になり、中途半端に情報が流通している社会では、親が子を育てることはますます難しい。

子供を育てる。それは私がまさに日々直面する親としての現実だ。私も自分なりによき父であろうと努力して来たつもりだ。が、娘達からすれば物足りない点、欠けている点もあちこち目につくことだろう。とくに仕事の忙しさにかまけるのがもっともよろしくない。仕事に忙殺され、子どもをないがしろにすると、自らの子どもから手痛いしっぺ返しを食らう。これは私も経験済み。

親の一挙手一投足は、一刻一刻が取り返しの付かない影響を子供に与えている。良くも悪くも。本書を読むとその事実が重くのしかかってくる。重く歪んだ読後感を伴う本書だが、まぎれもない傑作だと思う。

本書は妻エヴァから夫フランクリンへの手紙に似た語りかけの形式をとる。離れた場所にいる夫への語りかけは、物語に定まった視点を生む。全てはエヴァの一人称で話が進んでゆく。近況を報告し、二人の間の過去の思い出を語るエヴァの語りを読み進めていくうちに、読者は二人の息子ケヴィンが大量殺人を犯した事実を知る。

冒頭からまもなくエヴァの語りは、少年院に面会に行き、ケヴィンと対峙する経緯に差しかかる。反省の色を浮かべるどころか、実の母を挑発するケヴィンとの一部始終を夫に語るエヴァ。事件後、二年たってもまだエヴァは事件の後始末に関わっている。本書は、事件が起こった後の混乱が収まった後もなお、自身の人生と子育ての日々を見つめ直そうとするエヴァの探求の旅だ。エヴァの胸につかえる思い 。彼女の胸を満たすのは、いったい何が悪かったのか、どこで間違えてしまったのか、との後悔。

本書の設定では、ケヴィンが大量殺戮を犯してすぐにコロンバイン高校の銃乱射事件が起こったことになっている。それはケヴィンの犯行が世間に与えた衝撃の度合いを薄めた。ケヴィンは憤る。コロンバイン高校で銃乱射を行った二人の少年が自分の行いを薄めたことに。そこには反省など微塵もない。そして、エヴァの求める答えも救いもない。それでもエヴァは、息子から逃げずに定期的に少年院に通う。そしてその様子を逐一フランクリンに報告する。

エヴァは夫に便りを書きながら、同時に自分へと問いかける。二人が出会ったころのなれそめから遡れば、その問いへの答えがわかるとでもいうように。

ロケーション・ハンティングを営み、家を留守にすることの多いフランクリンと、海外へ向かうトラベラー向けの出版社経営に没頭するエヴァ。結婚してからも二人の仲は熱く、子作りの必要など感じないくらい。だが、エヴァとフランクリンの温度差はある日臨界を迎え、衝動的に避妊せずにセックスする。高年齢での妊娠はリスク。そしてエヴァにとっては今まで築き上げたライフスタイルが失われる恐れを抱きながらの妊娠。この辺り、女性の女性が描く細やかな描写が読者にさまざまな思いを抱かせる。

なお、著者の名前がライオネルとなっている。が、著者は女性だ。著者自身の意思で男性の名に思えるライオネルに改名したそうだ。著者の紹介によると、著者には子がいないらしい。それにもかかわらず、子を持つ母の思いがリアルに描かれている。著書の想像力の豊かさが見てとれる。

エヴァの語りから感じられるのは、自分の感情と責任に正直でありたいという率直さだ。すでに殺人犯の母と汚名を被った以上、自分を飾る必要もないということだろう。エヴァの語りを追うと、他の母親並みに妊婦学級に参加したり、我が子との対面を待ち望む気持ちがあるかと思えば、全てがどこかで間違った方向に進んでいるのではないかとおののき惑う気持ちも描く。そんな正直な心境をエヴァは夫に向けてつづる。その率直さはケヴィン誕生の瞬間の気持ちにも現れる。その気持ちとは感動がないという驚き。

著者は本書をありきたりの母と子として描かない。ケヴィンが大量殺戮に走った理由が今までの歩みのどこかに潜んでいなくてはならない。エヴァは、その原因を思い出すために当時の自分に向き合う。

子を持つことに積極的でないエヴァとそんな母の元に生まれたケヴィン。受胎の瞬間から破局は始まっていたかのようにエヴァの語りはケヴィンが誕生してからの日々を描き出す。母乳に興味を持たずひたすら泣きわめくケヴィンとそれを持て余すエヴァ。エヴァも愚かではない。ヒステリックに怒鳴り散らしたい気持ちを抑え、良き母であろうと努力する。だが、そんなエヴァをあざ笑うかのように、ケヴィンは父フランクリンの前では良き幼子として振る舞う。

以後、上巻では、ケヴィンとエヴァの緊張をはらんだ関係と、無邪気にケヴィンに騙され続ける父フランクリンの関係が描かれる。成長するにつれ行動に不穏な気配を帯びてゆくケヴィンに恐れを抱きながら母を演じようとするエヴァと、最初から自分が理想の父を演じていることに一瞬たりとも疑いを挟まないフランクリン。二人の夫婦としての温度にも微妙な差が生じ始める。

おそろしいのは、三人の関係だけではない。この展開を自然にグイグイ読ませる著者の力量も恐ろしい。本書がケヴィンの起こした破局に向かって突き進んでゆくことは予想できるのだが、それがどういう方向に向かうのか読者はわからぬままだ。わかっているのはケヴィンの起こした事件が重大であり、大勢を殺傷したこと。それ以外は詳細が語られぬまま物語が進んでゆく。読者は、スリリングな気持ちと不気味さを同時に味わうことになる。上巻も終わりを迎える頃には、夫婦が事態を打開するためシーリアという娘ももうける。シーリアはケヴィンと違って全く手のかからない天使のような娘。それが物語に一層の波乱の予感を与えつつ、本書は、下巻へと向かう。

‘2017/04/12-2017/04/15


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


ソロモンの偽証 第Ⅲ部 法廷


第三部は、初公判から閉廷に至るまでの裁判の過程が描かれる。ど素人の中学三年生による裁判が果たしてうまくいくのか。著者はその部分をどのように書き切るのか。本書の筋や真相だけでなく、著者の手腕に興味は尽きない。

中学生が中学生だけで裁判をやりきる。著者は判事役の井上康夫や検事役の藤野涼子、そして弁護人の神原和彦をどのような役回りで演じさせるのか。裁判をつつがなく進めさせるため、著者は彼ら三人にいくらなんでも弁が立ち過ぎじゃないの、と思わせるほどに弁論させる。語らせる。第一部のレビューで彼らに感情移入できないと書いたのは、その弁論のあまりの達者さについてだ。

だが、それだけ喋らせただけのことはあり、本書の展開は法曹ミステリ―のそれを地で行っている。実に見事なものだ。第一部で謎は提示され、起こるべくしてさまざまな出来事も起きた。第二部では中学生たちが大人への反旗を翻しながら、日々をフル活用して調査を進める。そして本書第三部では謎解きが中心となる。

法廷ミステリ―に付き物の展開としてよくあるのは、意外な証人が出てきて爆弾発言をすることだ。証人が口にする想定外の発言によって新たな展開が産まれ、謎が増幅され波紋を呼ぶ。本書もまた法廷ミステリーの骨法に則り、予想外の証人が次々と登場する。そこで第一部、第二部と細やかに丁寧に書き綴ってきた著者の努力が実を結ぶ。今までの出来事を疎かに書いていたら、本書で登場する証人たちが唐突で、とって付けた感じが出てしまう。

裁判に召喚される証人たちの多くは大人たちだ。中学生の扮する検事や弁護人が大人を証人喚問し、その証言に揚げ足を取り、被告または原告に都合の良い方向に法廷の空気を誘導する。本書で描かれる丁々発止のやりとりは、正直なところ中学生には荷が重すぎると思える。だが、それは置いておこう。彼らはあまりにも優秀すぎる中学生なのだから。

本書第三部で肝となる人物は三宅樹里だ。柏木卓也の事件が学校の枠をはみ出て社会的な事件になってしまったのは、彼女の作った告発状がマスコミに漏れたからだ。三宅樹里と一緒に告発の手紙を投函した友人の浅井松子は、良心の呵責から真相を暴露しようとしたところ、三宅樹里の目の前でトラックに轢かれてしまう。浅井松子の死の真相はいったいどこにあるのか。ひどいニキビでいじめられ、性格がねじくれてしまった彼女こそが、著者にとって本書の中で一番書きづらい人物だったことは想像できる。

思春期の女の子が容姿を気にするのはとても自然だ。ねたみやそねみなどを胸のうちに隠しながら、他人とどうやって折り合いを付けていくのか。女の子の悩みは深い。私も娘を持つ身としてなんとなく分かる。でも、彼女たちがどのような想いを抱いているかについては、全く想像が及ばないのも事実だ。一見すると穏当な父娘関係を築き上げているかに(私自身は)思っている私と娘ですら、私が思っているよりもはるかに闇に塗れているのかもしれない。

第一部から三宅樹里が放つどす黒い闇の念。それは、彼女が浅井松子の死によって口が利けなくなってからも衰えるどころかますます暗さを増す。いかにして彼女を証人として呼び出すか。検事側と弁護側の駆け引きが盛んにおこなわれる。

三宅樹里と大出俊次。同じ嫌われ者同士。二人の間にあるいじめと報復の関係が、柏木卓也の墜落死をさらなる混乱に導いたともいえる。かれらの苦しみが法廷の場でどこまで暴かれ、どのように浄化されるのか。いじめやねたみはなぜ起きてしまうのか。けがれなき思春期という幻想は嘘であり、実はすでに大人の世界に半分足を踏み入れてしまっている城東第三中の彼らは、その燃え盛る激情を鎮めるすべも知らずに暴走してしまう。

中学生の抱える爆発寸前の悩みは、大人になりたくもあり、なりたくもない微妙な年頃に特有だ。自分の思いが世の中に受け入れられない悩み。また、受け入れてもらうための方法が分からない苦しみ。ただ、肥大した自我だけが膨張する年齢。第一部のレビューに書いた厨二病とは、中学生の自我が必ず通過する成長の痛みであり、人生にとって欠かせない宿痾なのかもしれない。

本書の発端となった柏木卓也墜死事件もそう。自分には止めようもない自我の暴走によって引き起こされた不幸な出来事。その自我に目を配り、暴走を止める責任までを全て教育現場に求めるのは酷といえないだろうか。

最終論告が終わった後、評決を前にして茂木記者と津崎校長が対峙する場面がある。その中で茂木はこのようにいう。
「学校という制度は、この社会の必要悪です。僕はその悪と戦っている」
それに対して津崎校長は「よくわかります。だが、悪といえども“必要”ならば、私はそのなかで最善を尽くしたいと願い、努めてきました」。
このようなやり取りは、作り事でない教育現場を巡る本音の会話なのだろう。本書が傑作である理由とは、教育現場を悪と見なして終わり、と紋切型に描かないことだ。暴発寸前の自我を抱えた何百人の中学生を、その何十分の一の人数の教師たちで運営する。それはどれだけ至難の業か。そのことに中学を卒業して何十年もたって、ようやく気づいた。しかも本書と違って今の中学生にはLINEもメールもinstgramもある。娘たちの学校の出来事もある程度聞いているけど、リアルだけでなくネットの中の世界にも気配りが必要な先生って大変だなぁ、と。

そんな思いを感じたからこそ、本書で明かされる真実はやるせない。そしてとても切ない。

本書は三部作の中でも法曹ミステリーの要素が強いと冒頭に書いた。でも、本書は単なる推理ゲームには堕さない。それどころか、裁判という場を借りて中学生の抱える闇と戸惑いと不安を描き尽した人生小説である。

本書のエピローグは2010年に飛ぶ。城東第三中学に教師として赴任したある人物のモノローグで進められる。もちろんその人物とは学校内裁判に登場した主要人物である。

第一部のレビューで、本書の時代と世代が私とほぼ同じことにシンパシーを感じると書いた。私もあの時代をとも過ごしたのだから。エピローグに登場する彼の言葉こそ、同じ裁判を体験した仲間にしかいえない実感がこもっている。殻をかぶっていた私も、自分の中学生活を振り返って、思うことが沢山あった。なんだかんだといろんなことがあった中学時代だったなぁと。よくぞあの時期を乗り越えてきたなぁと。本書のエピローグが2010年だったことで、私にも自分自身の中学時代を振り返るきっかけとなった。

エピローグに登場するのは、その人物だけだ。他に裁判を共にした人々のその後の消息は出てこない。でも、彼の言葉が泣かせるのだ。「あの裁判が終わってから、僕ら」・・・・「友達になりました」。彼が教師であるだけになおさら、20年経ってから振り返る中学生の時期に実感が沸くのだろう。生きていればどれほど壮絶なことがあっても幸せに振り返ることができるのだ。

そんな心に沁みるメッセージで本書は幕を閉じる。間違いなく本書は傑作といえる。

‘2016/01/23-2016/01/25


ソロモンの偽証 第II部 決意


第一部の最後は、藤野涼子による決意の言葉で締められた。第二部は、その決意の提案から始まる。城東第三中学校では、恒例行事として三年生が卒業制作を行うことになっている。その卒業制作を学校内裁判を開くことに充てたい、というのが藤野涼子の提案だ。

優等生である藤野涼子が決意を表明した時、学年主任の高木先生は優等生の予期せぬ反抗に目をむき、逆上のあまり平手で頬を打ってしまう。そして藤野涼子はしたたかにも平手打ちの件を訴えないかわりに学校内裁判を開く権利を勝ち取る。大人の言うがままに操られ、真相から遠ざけられたままで中学生活を終わりたくない。そんな藤野涼子の叫びはクラスに波乱を巻き起こす。裁判の期間は夏休みの2週間。高校受験を控えた中三生にそんな暇があるのか、と拒絶やためらいが乱れ飛ぶ。しかし、有志の生徒たちが少しずつ手を挙げ、検事・弁護人・陪審員・判事が決まってゆく。

だが、肝心の被告である大出俊次の意思はまったく顧みられていない。被告が白黒つけたいと意思を示さない限り、原告のいないこの裁判はそもそも成り立たない。そこで生徒たちを応援する北尾教諭は勝木恵子を仲間に入れる。彼女は大出俊次の元カノ(90年当時にこの言葉は一般的じゃなかったと思う)であり、捨てられた格好となった今も大出俊次のため尽くしたいとの意思を持っている。彼女が仲立ちとなり、大出俊次に被告人の立場で裁判に出廷してもらうためお願いに行く裁判関係者たち。

その中には弁護人の任についた神原和彦が加わっている。彼は他校生だが柏木卓也とは親しい。それもあって彼の死の謎を解くため協力を申し出たのだ。学校内裁判の弁護人に新たな一員が加わった今、大出俊次をどう口説き、どうやって裁判の場に引っ張り出すのか。

大出俊次は自他共に認める札付きの不良だ。とはいえ、周りの皆から殺人犯と見なされて平然としていられるほど図太くはない。図体も態度もふてぶてしいようでいて、そこはまだ中学生なのだ。そんな不安定で危うい彼の心理を著者は細やかに描き出す。大出俊次だけではない。勝木恵子、藤野涼子、野田健一、そして神原和彦。彼ら中学生の壊れそうに揺れ動く心のひだを著者はとても丁寧に、細やかに描く。第一巻のレビューで、私は本書に登場する中学生たちに感情移入できなかったと書いたが、それは彼らの行動そのものへの感想であって、中学生の心を描き出す著者の切り込み方には共感できる。きっと私も中学生の頃はこういう心の振れ方をしていたんだろうなぁ、と。

裁判を開こうとする藤野涼子の意図は、上辺だけで考えると無理な流れに思える。しかしこの裁判に法的拘束力はない。真似事であってもいいと先生方が黙認する中、裁判の実現に向けて彼女は懸命に努力する。この流れに少しでも作者のご都合主義が混じると読者は白けてしまう。なので、著者の筆は丁寧に丁寧に裁判開催までの経緯を紡ぎ続ける。中学生が無理なく裁判を実現するための能力と心の有り様に気を配りながら。中学生とはこうであったか、とかつて中学生だった私にも納得できるくらい丁寧に。本書の紙数がこれだけ増えてしまったのも無理もない。

中学生が裁判を開く。それは、中学生が大人の世界に足を踏み出すには格好のイベントだ。イベントとはいえ遊び半分ではない。きちんと裁判の前提や手続きに則っている。それが法的に無効なだけであって、彼らは真剣に裁判を行い事実を明らかにしたいと願っているのだ。

藤野涼子は叫ぶ。「あたしたちは、いろんなことを聞かれて、書かれて、憶測されて、想像されるんだ。何にも確かなことを教えてもらえないまんまで。あなたたちは知らなくていいことですって」

私は、第一部のレビューに書いた通り、のほほんとした無個性のノンポリ中学生だった。なので、藤野涼子が抱いたような深い不信を大人たちに抱いてなかった。でも、私の中学時代は無風平穏な日々ではなかった。校長室にも呼び出されたし、警察にも呼び出されたし、個人面談では担任より攻撃された。友人に大金を盗まれたことだってある。二度にわたって足の手術を受け、合計で1ヶ月はベッドの上にいた。多分、私は自分が思っている以上に親を嘆かせた中学生だったと思う。しかも、どれも私が自ら動いたのではなく、周りに引きずられて。今、こうやって中学時代の自分を思い返しても、反抗期でもなかったのに反省することばかりだ。私個人の反抗期は中学時代ではなくずっとのちにやってきた。大学を出た後、真っ当に新卒就職の道を歩まないことが反抗と信じて。

そんなわけだから、私は本書に登場する中学生達に感情移入出来なかったのだと思う。でも、今の私には同じ年頃の娘がいる。いつの間にか大人になってしまった私は、子どもたちに対して高木先生と同じような態度を取っていないだろうか。まだ子どもなんだから。まだ中学生なんだから。でも、実はそれって中学生からすればもの凄く嫌な気分にさせられる態度なんだろうな。私自身が中学生であった頃、同じような訳知り顔の態度を大人たちから示されて嫌な気分にならなかっただろうか。のほほん中学生だった私も、思い出せないだけできっと同じような気分を味わわされていたはずだ。

大人たちの都合でいいようにされてたまるか。中学生たちが自己を目覚めさせ、成長していく過程。大人の入り口に立った子供が、大人の真似事にどこまで迫れるのか。本書に書かれる中学生たちの悩みは、当人にとっては真剣な思春期の悩みだ。そんな中学生の悩みに迫る本書は推理小説でも犯罪小説でもない。ましてや、ヤングアダルト小説やライトノベルでもない。本書は子供から大人への成長を丹念に描いた人生小説だ。だから本書を読み進めるうち、読者にとって大出俊次が柏木卓也を突き落としたのか、柏木卓也はなぜ死んだのかといった謎は二の次三の次になる。謎解きのスリルよりももっと深い部分で考えさせられる。そして、必ずや読者は自分自身の中学時代について想いを馳せるはずだ。私のように。

本書に登場する親たちの描写も丁寧だ。柏木卓也の親。藤野涼子の親。野田健一の親。それぞれがそれぞれの思惑で子に接している。子どもとともに生きようと愛情を注ぐ親もいれば、心が子から離れてしまっている親もいる。私も娘たちにはなるべく誠実に接しようと心がけているつもりだが、親として残念な自分に思い当たる節も多々ある。

第一部のレビューで書いた通り、私にとって本書は同世代を生きた経験からも思い入れを感じる一冊だ。本書を読んだことで私自身の中学生活を省みるきっかけにもなった。しかし、私にとっての本書は、中学生の娘を持つ親の立場でも思い入れを感じる一冊でもある。いや、思い入れを感じるという表現は正確ではない。親となってしまった今、自分がいつの間にか中学生の頃の気持ちを忘れ、大人の目で子どもに接していたことへのうろたえを含んだ「きづき」と言えばよいか。大人の約束事や大人の事情。どれも世を渡って生きていく上で欠かせないスキル。しかし、そんなスキルに溺れすぎて、子供の頃の自分を忘れていないか。そんな自分への苦い問いが本書を読むと湧き上がってくる。しかもその問いに理想論や青臭さは含まれておらず、それが余計に心に沁みる。

三部作の中間にあたる本書は、ミステリの要素が一番薄い。だからその分、最も考えさせられるのかもしれない。

‘2016/01/22-2016/01/23


組体操をやるリスク・やらないリスク


日頃、私はほとんどテレビを見ません。が、たまたま昨夜は早めに帰宅したので、組体操の10段ピラミッドが崩れる瞬間をテレビで見ることができました。

10段は、見た感じ確かに高いですし、崩れた瞬間の衝撃も半端な強さではなかったことでしょう。怪我をされた方が苦痛から早く回復されることを願います。

今回の崩壊映像を見て思ったのが、あ、自主規制が入るな、ということでした。実際に10段ピラミッドをナンセンスとして退け、廃止を求める意見が多いようです。また、実際に大阪市教育委員会からは高さ制限をかけるとの指針が出されました。案の定です。

ただ、私の意見はそのような論調には与しません。むしろ反対意見に近いです。
「参加の判断は各家庭に委ねるべき」
これです。

10段はたしかに高いし危険です。今回のような事故リスクはついてまわるでしょう。私も小中学生の頃に運動会で組体操を経験しましたが、こんな高さに挑んだ記憶はありません。今回の騒動で、一番負荷がかかる生徒には大人3,4人分の荷重が掛かっているとの分析も目にしました。もしこれがきちんとした分析や試行なしに挑まれたのであれば、非難もやむなしです。

今のままでは、おそらく10段ピラミッドの廃止は避けられないでしょう。しかし、本当にそれでよいのでしょうか。子を持つ親として、リスク回避の論調にちょっと待てよ、との想いが沸き上がります。その想いがどこから来るのか考えたとき、教育現場や生徒の意見が全く顧みられていないことに思い至ります。

廃止や高さ制限といった縮小は、本当に教師や生徒の総意なのでしょうか。そこに現場無視の事なかれ主義は入り込んでいないでしょうか。もちろん、やりたくない生徒や、保護者の意見をないがしろにするわけではありません。強制や同調圧力は私の最も忌み嫌うものです。生徒と保護者が相談して、不参加を決めたのであれば、教師も学校も参加を強制させることはできません。当たり前の話です。しかし、一部の生徒にとっては10段ピラミッドの達成がかけがえのない財産になっていたかもしれません。また、教師にとっても普段の授業の百倍の教育効果が見込めていたかもしれません。もし10段ピラミッドが過去に実績のある種目であれば、喝采を浴びた経験は、一番負荷のかかる生徒にとっても上に立つ生徒にとっても貴重な成功体験となっていたかもしれません。

臨海学校の遠泳や、長距離ウォークなど、同じような危険を伴う行事は他にもあります。むしろその行事が長年の学校名物となっていることもあるようです。今回の件を機に、そういった行事が事大主義のもとに中止される可能性は否定できません。競技の違いこそあれ、教育現場にとって10段ピラミッドと他の競技は挑戦という意味において本質は同じはずです。拙速な中止が全ての生徒にとって最善の選択肢なのか、というと疑問です。

せめて、生徒と家庭の意向を聞く形にはできないのでしょうか。生徒自身はかったりぃからエスケープしてえ、と思っていたとしても、保護者の教育方針として、リスク回避をよしとしない場合、子育ての一環として参加させる選択肢は残せないものでしょうか。もちろん、その際は不慮のトラブルに対する責任の所在の念書は保護者からとっておくべきでしょう。また、生徒と保護者の下した決断が不参加であれば、引け目を感じさせずに見学させるべきです。

私自身、小中学生の頃であれば、10段ピラミッドなどは、かったりぃからやんぴ、と決め込んでいたでしょう。しかし、保護者となり、社会に出た今となっては、違います。10段ピラミッドなど屁のカッパに思えるほどの試練が人生には多数待ち構えていることを知っています。それは肉体的にも精神的にもつらい試練です。そんな試練を乗り越えてきた目からみると、小中学生の運動会で10段ピラミッドを回避させることが我が子の人生にとって何をもたらすか。逆に不安に思えます。なので、リスクや負荷を避ける論調が、現場の教師や生徒、保護者の意向を顧みないまま主流となることに待ったをかけたいと思うのです。

もちろん、親の意向で参加させた結果、我が子を喪う可能性はあります。あるいは激しい後悔に苛まされることもあるかもしれません。子育ては所詮結果でしか成否がわからないものです。あらゆるリスクを回避させた結果、それでも我が子の人生は平穏無事に終わることもありえます。また、リスクを覚悟で本番に送り出した結果、ピラミッドから落ちて半身不随となった我が子を介護する未来もありえます。逆の場合もまたあり得ます。リスクに打ち勝ち、大成する子供もいれば、リスク回避の考えから、思うようにいかない人生を歩む子供も出てきます。いづれの場合も、親は当然自らの決断の責任を取らねばなりません。全ては保護者の教育方針であり、子にたいする愛情や考え方によると思うのです。そこに善悪や優劣はありません。子どもの人生は子どもが死ぬまで評価出来ないし、当然、親の教育方針を問うことも無意味です。だからこそ、10段ピラミッドの実施を、親や子供の意向を顧みずに中止することに違和感を覚えるのです。

うちの娘たちは、幼時よりチアを習っています。とくに長女はどちらかといえば内向的で、チアをやる印象からは遠いです。しかし、そんな長女はチア・コンペティションという大会で2回もグランプリをとっています。上に投げあげた仲間をキャッチする役割なので、手足に痣がたえません。顔にも痣ができることもあり、一歩間違えば命の危険もあります。しかし、内向的な長女はチアを続けています。グランプリを獲った時の感動も折に触れて話してくれます。おそらくかけがえのない成功体験として心の糧として持ち続けてくれていることでしょう。外向的な次女にとっても、身近な憧れや目標として、姉の偉業を感じてくれているようです。娘たちのこれからの人生で、リスクに直面し、打ち勝とうとした経験は、貴重な糧となるに違いありません。私たち親がチアは危険だからと辞めさせていれば、それらの得難い経験は想像することすらできぬままに、娘たちの人生に当初からなかったものになっていたことでしょう。

今回、怪我された方々も、言い方は語弊があるかもしれませんが、他では得られない経験を得られたと思います。禍福は糾える縄のごとし、という言葉もあります。また、人生の終末に当たっては、良いことと悪いことが釣り合う、というのが私の人生観です。怪我された方々には、必ずや今回の経験が活きるはず、と言いたいです。そして今後の人生が豊かなものになることを願ってやみません。

これからの我が国には、地震や津波、火山の噴火や台風、隣国の暴発、といった不慮の事故リスクが多数訪れるでしょう。10段ピラミッドの崩壊などとは比べ物にならないくらいの力に翻弄される目に遭うかもしれません。今のうちにリスクを避けたところで、人生に痛みはつきものです。小中学生の多感な時期に痛みと向き合い、それに耐え抜く経験は、きっと自分を守ってくれるはずです。

教育現場も、一時の感情的な理由ではなく、長期的に考えて、それでも中止のほうがよいということであれば、それはそれでよいでしょう。ただ、リスクを恐れて中止といった腰砕けの結論には落ち着いてほしくないと思い、あえて書いてみました。


未成年の実名報道について


痛ましい川崎の事件。こういった事件が起きる度に俎上に載せられるのが、少年法です。

私が少年法について常々思っていたこと、抱いていた迷い。それらを長谷川さんが文章に著して下さいました。

長谷川さんのブログはよく拝見しています。ほとんどのブログについて、書かれている主旨の大枠に共感できます。ただ、細かい表現の切れ味や深さが私の思いと一致しない時がありました。

しかし、今回書かれていた内容は私の思いにぴたりとはまりました。少年法への期待と諦めに揺れる心境も的確に表現されておりさすがです。思うに、私の親としての視点が一致したのかもしれません。

とくに、ネットを介した発言がこれだけ溢れている今、少年法による保護は無意味との論旨は、我が意を得た思いです。同様の論旨は木走さんのブログでも取り上げられていて、この点について法曹界の方々はどう思うのか、気になります。さっそく日弁連が遺憾の意を表明したようですが、遺憾の意ではなく行動にでなければ世に溢れる情報はせき止められません。

私見ですが、少年法をあくまで遵法させるのであれば、少年法を改正する必要があるでしょう。今の少年法の第六十一条は以下のようになっています。

   第四章 雑則

(記事等の掲載の禁止)
第六十一条  家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

 書かれているとおり、定義されている処罰対象はマスコミだけです。今の時代、マスコミだけでは不足なことは云うまでもありません。中でもアマチュアジャーナリスト。ツイッターやブログを駆使し、社会に対するゲリラ報道を繰り返すプロのマスコミでない人々。その膨大な書き込みを徹底的に監視するしかないでしょうね。もちろん刑事罰付きで。それが果たしてやりきれるかどうか。

あと、もう一つ思ったことがあります。それは、子を持つ親の覚悟が問われる、ということです。今回の川崎の事件、主犯とされる本人だけでなく、家や両親、祖父母の情報まで、ネット上に流され、晒されているとか。

子を持つ身として、我が子が仮に重大犯罪を犯したとすればどうなるか。今の少年法に謳われる情報保護の壁が取っ払われれば、親の生活も晒され、あげつらわれ、築いてきた人生も炎上すること間違いなしです。焼かれるのは火葬場で一度きりで充分。大多数の親はそう思っているのではないでしょうか。

私も含め、親である皆さんが子に対し普段どれだけ注意を払い、親として子に向き合えているか。これからはその成果が、今以上に問われます。

仕事にかまけて夜の子どもとの会話を怠ることなかれ。
給油と称して毎晩酩酊状態で帰宅することなかれ。
付き合いの名の下に、毎週末フェアウェイで芝刈ることなかれ。

子どもは親が思う以上に、親を見て育っていきます。親が自分を向いていないと感じたが最後、子どもの関心は外に向かいます。外では夜な夜な悪いスリルに身を任せる仲間達とつるむこともあるでしょう。そこからさらに取り返しの付かない末路へ進まないとも限りません。忙しさを理由に構えなかった子どもの不始末が、まっとうな社会生活や生業を親から奪う。今までにそんなニュースを何度見たことか。

少年法が改正された暁には、子どもを持つ親は上に挙げたようなリスクにさらされます。そんなことも、頭の片隅におくべきでしょう。

私自身、今の生活を鑑み、肝に銘じ襟を正して子どもたちと向き合いたいと思います。少年法改正に賛成する以上は。


おおかみこどもの雨と雪


全くの事前知識なしで家族と見に行った。アルプスの少女ハイジのような大人も楽しめる子供向け映画を想像していたのだが、予想とは違い、子を持つ大人向けに訴えかけるものがあったように思う。

アニメはジブリアニメを見る程度で、それほど詳しくないのだが、描写がお見事。都会のシーンについてはディテールまで丁寧に、田舎のシーンも草木や水、雪の描写まで丁寧に書き込まれている。自然を扱ったドキュメンタリーなどの実写映像だと意識せずに眺め過ごしてしまう風景描写が、アニメだと風景の輝きや妙のそれぞれに印象を残す。

ここまで細分にこだわっているからこそ、物語で監督が訴えかけたい問題に説得力がでてくるのではないかと思う。

他人との交流を最低限にしてもやり過ごせた日常と、子を持つ事で否応なしに周囲との軋轢を生む現実の対比。うがち過ぎかもしれないが、障害児を持つ親の立場についても監督は注意を払っていたのではないだろうかとまで思える。

田舎暮らしも単に自然万歳ではなく、DIYの厳しさや近所の助け合い精神が描写されており、単なる田舎礼賛を連ねるだけの作品ではないのが見て取れる。

でも一番監督の言いたかったのは母性と父性の問題ではないだろうか。

父親が雨と雪の幼少期に亡くなってしまい、母一人、都会で子育てをし、さらには田舎で一からの暮らしを作り上げる部分は果たしてそれが可能か?という突っ込みもあるけれども、あえて現代のママさんたちに頑張ってほしいというエールを送っているのかもしれない。

父である私にとっては父性の問題についても考えさせられた。作中では子育てに父が関与しないがために、却って父性の重要性が提起されているように思う。それは韮崎の爺さんや、おおかみの先生が彼ら一家にもたらす影響によって、想像し得る。

男と女のそれぞれの生き方を決める上で、女は環境に順応し、男は父性と本能に導かれるままに、女親から離れていく。この見方が生物学的に正しいのか私にはわからないが、今の情報氾濫の世の中で子育てについて迷う私を含めた親たちにとって、示唆を与えてくれているのは確かである。

下の娘(雨と同じぐらい)にとっては退屈に思えたかもしれないが、上の娘(雪と同じぐらい)にとっては、自分のこれからを決める上で考えるきっかけになればよいなと思った。

余談だが、子作りのシーンらしきものが冒頭に少し。本作品は子供にも見てもらうことを十分に考えていると思うのだけど、ここまで描いてしまうんや、と思った。参考になった。

’12/09/23 ワーナーマイカルシネマ 多摩センター