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「超」怖い話


考えて見ると、怪談本を読むのはえらく久々かもしれない。夏といえば怪談、ということで図書館の特集コーナーに置かれていた本書を手に取ったわけだが。

読者からの体験談をもとに、二人の編者が文章を再構成し、編みなおした一冊。怪談ネタなど出し尽くされたのでは、と思うのだが、なかなかどうして、そうではないらしい。かつて谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたような、昔ながらの日本家屋が醸し出す闇。本書にそういう家屋は全く登場しない。だから、ますます怪談の出る幕がないようにも思える。

ところがあらゆる場所が立体である以上、陰もあれば闇も生じる。そして人間の恐れが生み出した幽霊や魂魄も出現する。彼らは陰をねぐらとし、闇に漂う。そんなわけで本書のような怪談は、この技術社会にあっていまだに健在だ。むしろ、かつてのように闇に慣れていない今の私たちのほうが免疫がない分、闇を怖がるのだろう。

本書に収められた話の全てが一級品に怖いわけではない。体験投稿をもとにしているため、むしろ当たり前だ。むしろ、それがかえって本書をリアルにしている。そして作り物と本書の話を分けている。編者と文章の編集を担当しているのは作家の平山夢明氏だ。平山氏は先日当ブログにアップしたDINERの著者だ(ブログ)。DINERもそうだったが、肉体の変容とそのグロテスクさを書かせれば当代きっての書き手だと思う。彼が描き出す霊魂は、悲惨な事故によって肉体をグロテスクに変えられている分、無念さを抱えている。その無念が念入りに描写されていればいるほど、存在自体が恐怖を与える。

よくよく考えると、日本古来の怪談には、本書で平山氏が書いたほどには人体を蹂躙した話が登場しない。せいぜいがお岩さんのような目の上の爛れ。妖怪のように人体の一部が変異を起こした物の怪。そんなところだろう。多分、昔は人体にそこまで強く理不尽な力が加わることもなかったはず。いや、ちがう。戦場では惨たらしい死体などザラにあったはず。ということは死んだ人体が損壊していることなど普通だったはず。ところが、もともと普通の人体だったものが生きながらにして変容することが珍しかったのだろう。それが幽霊となっていったのかもしれない。

その意味では平山氏の書かれたような人体の変容を焦点とした怪談は珍しい。それは怪談にとって新たな機軸となるだろう。なにしろ、現代とは人の死から遠ざかった時代だから。それゆえ、今のわれわれは死に免疫を持たない。そして恐怖におののく。闇だけでなく、死からも遠ざかっているのだ。そして今の世とは、ますます死の実感とかけ離れつつある。人工的なものが我が物顔で世にあふれ、人が動物であることすら忘れてしまう。そんな時代だからこそ、人体が損壊されることでしが死を実感できない。そこに本書が目指す怪談の方向性の正しさがあると思う。

‘2017/08/25-2017/08/26


DESTINY 鎌倉ものがたり


本作を観終わった私が劇場を出てすぐにしたこと。それは鎌倉市長谷二丁目3-9を検索したことだ。その住所とは作中で一色夫妻の住む家の住所だ。一色夫妻とは、堺雅人さん扮する一色正和と高畑充希さん扮する妻亜紀子のこと。作中、何度も映し出される一色家の門柱にこの住所が記されている。私はその番地を覚えておき、観終わったら実際にその番地があるのか検索しようと思っていたのだ。何が言いたいかというと、本作で登場する二人の家が実際に鎌倉にあるように思えたほど本作が鎌倉を描いていたという事だ。

その住所はおそらく実在しない。二丁目3-6と3-11は地図から地番が確認できるが、二丁目3-9の地番は地図からたどれないからだ。Googleストリートビューで確認すると、3ー9と思しき場所に建物は立っているのだが。ただ、ストリートビューでみる二丁目3-9の周囲の光景は、本作に登場する二丁目3-9とは明らかに違っている。それもそのはず。本作に出てくる鎌倉の街並みは、現代からみればノスタルジックの色に染まっているからだ。パンフレットに書いてあった内容によると、エグゼクティブプロデューサーの阿部氏からは1970-1980年代の鎌倉でイメージを作って欲しいと監督に依頼したようだ。つまり、その頃の鎌倉が本作の舞台となっている。

そのイメージ通り、冒頭で新婚旅行から帰ってきた二人の乗っているクラシックカーは江ノ電と海岸に挟まれた道を走り、江の島をバックにして有名な鎌倉高校前の踏切を折れ、山への道を進む。その光景の中には全く現代風の車は登場しない。走っている江ノ電の正面にある行き先表示は電光掲示板で、あれっ?と思ったが、どうもその車両は1000系のように思えた。調べてみると1000系の車両は1979年にデビューしたようだ。スクリーンで電光掲示を掲げた江ノ電を見た瞬間、本作の時代考証に疑問を抱きそうになったが、その車両ならギリギリ許されるのだろう。

本作はあちこちでVFXを駆使しているはず。ところが、公式サイトの解説によれば冒頭の車のシーンの撮影には苦労したようだ。それはつまりVFXに安易に頼らず、なるべく生のシーンを撮影しようという山崎監督の意識の高さの表われなのだろう。本作は山崎監督の抱く世界観が全編に一貫している。その世界観とは、原作の絵柄を生かしながら、懐かしいと思われるような鎌倉の街並みを再現しつつ、魑魅魍魎が登場してもおかしくない世界でなければならない。そんな難しい世界観の創造に本作は見事に成功している。監督が本作で作り上げた世界観が私にはしっくりとしみた。なお、私は原作は読んだことがないので、本作のイメージがどの程度作風を思わせる仕上がりなのかはわからない。でも、監督がその世界観の再現に相当苦労したであろうことは伺える。

何しろ、本作に登場する鎌倉は現実と幻想のはざまにある鎌倉なのだから。リアルすぎても不思議すぎても駄目。その辺りのさじ加減が絶妙なのが本作のキモなのだ。日本の古都には狐狸、妖鬽の類がふさわしい。京都などその代表といえる。鎌倉は京都と同じく幕府を擁した過去があり、寺社や大仏などあやかしのものを呼び寄せる磁力にも事欠かない。そのため、鎌倉にあやかしがうろついていても違和感がない。ただ、私は本作を観て、鎌倉とあやかしのイメージが親しいことに初めて気付かされた。今までまったくそのことに気づかなかったが、私にそのことに気づかせるほど本作の映像は絶妙だったのだ。

本作でみるべきは、鎌倉を装飾する監督のセンスだと思う。全編にわたって、鎌倉の何気ない路地や、緑地、砂浜が登場する。そこかしこにコマい魔物がうろちょろするのだ。そして現実も幻想もまとめて縫い付けるように走る江ノ電。本作には多くの伏線が敷かれている。その一つが一色正和の鉄道模型趣味なのだが、江ノ電が本作の映像の核になっていて、鉄ちゃんにもお勧めできること請け合いだ。

また、江ノ電が現世と黄泉を1日一度運行しているという設定もいい。海岸の砂浜にある現世駅はとても現実にあり得ない設定のはずなのに、江ノ電ならではの雰囲気をまとっていた。駅が好きな私でも許せるようなたたずまい。運行される車両はタンコロという鉄ちゃんには有名な車両。今も一両が由比ヶ浜で静態保存されている。そして、本作で現世駅が設置されている場所もたぶん由比ヶ浜にあるのだろう。砂浜に海岸と平行に軌道が延び、その先は黄泉へと通ずる渦がまいている。こういう江ノ電の使い方もとても興味深い。

本作は冒頭から一色夫妻の仲の睦まじさが全開だ。それはもちろん、終盤に正和が黄泉へと亜紀子を連れ戻しに行く展開の伏線になっている。伏線は他にもたくさんある。例えば夜店で亜紀子が正和に買ってとねだる鎌倉彫りの盆や、納戸の中で亜紀子が見つける像など、全てが黄泉の国でのクライマックスに向けて進んで行く。

黄泉の国に向けて走る江ノ電のシーンは本作でも印象に残る美しい映像が見どころだ。パンフレットによれば中国にまで赴いてイメージを作って来たそうだ。その甲斐があって、とても特徴的な黄泉の国のイメージに仕上がって居ると思う。死神によると黄泉の国のイメージは見た人が心に抱く黄泉の国のイメージが投影されるらしい。そうやって語り合う正和と死神の背後に映り込む黄泉とは、実は私自身が黄泉に対して抱くイメージなのだろうか。実は一緒に観た妻や娘にはスクリーン上の黄泉が違った風に映っているのだろうか、と思ったり。そう思わされる独創的な黄泉の国だったと思う。昭和30-40年代の家屋が斜面に積み重なったような黄泉のイメージとは、実にステキではないだろうか。

ただ、本作の美術や衣装、小道具をはじめとした世界観は良かったのだが、全体的な構成はアンバランスだったように思えた。もっと言えば前半部分が少し冗長だったかな、と。それは本作が原作のエピソードを複数組み合わせたことによるもので、仕方なかったかもしれない。例えば、一色正和が事件を推理し解決するエピソード。このエピソードが貧乏神への伏線となり、亜紀子の遺体探しのエピソードにしか掛かっておらず、本編全体にかからないなど。

それもあってか、本作の豪華な俳優陣の演技に統一感が感じられなかったのは残念だ。確かに一色夫妻を演じる二人はとてもよかった。でも、どことなく全編につぎはぎのようなぎこちなさが感じられたのだ。でも、それはささいなこと。娘たちはとても本作を気に入ってくれた様子。今までに観た日本映画で二番目に好きといっていたくらいなので。妻も私も本作はよかったと思う。

ここまで鎌倉を妖しく魅力的に描いてくれたからには、行きたくもなるというもの。その際はぜひとも事前に原作をしっかり読んでから散策したいと思う。

’2018/01/03 TOHOシネマ日劇


新訂 妖怪談義


日本民俗学の巨人として、著者の名はあまりにも名高い。私もかつて数冊ほど著書を読み、理屈に収まらぬほどの広大な奥深さを垣間見せてくれる世界観に惹かれたものである。

本書は著者の多岐に亘る仕事の中でも、妖怪に視点を当てたものとなる。

妖怪といえば、私にとっては子供の頃から水木しげる氏原作のゲゲゲの鬼太郎のテレビアニメが定番だ。とくに子泣き爺や砂掛け婆や一反木綿や塗り壁の印象は、このテレビアニメによって決定的に刻印されたといってもよい。ゲゲゲの鬼太郎はアニメだけでなくファミコンでもゲーム化されたが、結構秀逸な内容だった。青年期に入ってからも、京極夏彦氏の京極堂シリーズによってさらに奥深い妖怪の世界に誘われることになる。京極堂シリーズはご存じのとおり妖怪とミステリの融合であり、該博な妖怪知識が詰め込まれた内容に圧倒される。さらにその後、私を妖怪世界に導いたのが本書で校注と解説を担当されている小松和彦氏の著作である。確か題名が日本妖怪異聞録だったと思うが、新婚旅行先のハワイまで氏の著作を携えていった。ハワイで妖怪の本という取り合わせの妙が強く記憶に残っている。

一時の勢いは衰えたとはいえ、最近では子供の間で妖怪ウォッチの話題が席巻している。こちらについては、もはや私の守備範囲ではない。しかし、妖怪ウォッチの各話では’70年~’80年代のカルチャーが幅広く登場し、明らかにアニメのゲゲゲの鬼太郎世代の製作者による影響が見られる。私も娘から何話か見せてもらった画、製作者の狙い通り結構楽しませてもらった。

上に挙げたように、平成の今も妖怪文化が連綿と伝承されている。そういった一連の流れの走りともいえるのが本書ではないだろうか。著者以前にも鳥山石燕氏や井上円了氏などの妖怪研究家がいた。しかし近代的な文明が流入した世にあって妖怪を語ったのは本書が嚆矢ではないかと思える。そのことに本書の意義があるように思える。

伝承されるさまざまな妖怪一体一体の発生について文献を引用し記している。語彙的な分析から筆を起こし、語源や各地での伝わり方の比較がされている。河童、小豆洗い、狐、座敷童、山姥、山男、狒々、ダイダラボッチ、一つ目小僧、天狗。本書で取り上げられる妖怪は比較的有名なものが多い。とくにダイダラボッチは私が住む相模原、町田に伝承が多く残っている妖怪であり、著者の解釈を興味をもって読んだ。

本書の良い点は、それらについての記述についての詳細な注解が附されていることだ。その労は校注者として名前が挙がっている小松和彦氏による。かつて私を妖怪学へと導いて下さった方だ。そして、本書の解説も校注者の小松氏自らが買って出ている。この解説こそが本書の価値を一段と高めているのだが、意外なことに小松氏は著者の事績を全て手放しで褒めてはいない。逆に堂々と批判を加えている。それは文献引用の不確かさや著者自身による創作の跡が見られることについての批判だ。

冒頭に書いた通り、著者の名前は日本民俗学の泰斗としてあまりにも高名であり、そのために、著者のいう事を鵜呑みにしがちなのが我々である。しかし小松氏は解説の中でそういった盲信的な読み方を強く諌めている。その権威を盲従せず学問的な姿勢を貫く点にこそ、本書の本当の価値が込められているのではないだろうか。もちろん、著者の価値がそれによって補強されることはあっても貶められることがあってはならない。近代へ移り変わる我が国にあって、旧弊の文化を辛抱強く掬い上げ、現代へと残してくれたのは紛れもなく著者の功績である。

著者の「妖怪談義」は名著として様々な出版社から出されている。が、角川文庫の本書こそは現代の視点も含めた柳田妖怪学を後世に正しく伝えていると言える。

‘2015/6/12-2015/6/18


眩談


著者の民俗学・妖怪学への造詣の深さが尋常ではないことは、今さら言うまでもない。そのことは、京極堂シリーズをはじめとした著作のなかで実証済みだ。両方の学問に通じた著者は、妖怪の産まれ出でる背景にも造詣が深い。著者の代表作でもある「嗤う伊右衛門」や「覘き小平次」や「数えずの井戸」は、いずれも著名な怪談噺に着想を得ている。妖怪がなぜ産まれるのか、についての深い知識を有する著者ならではの作品といえる。妖怪の産まれ出でる背景とは、開放的でありながら、陰にこもったような日本家屋の間取りをいう。かつて陰翳禮讚の中で大谷崎が詳細に述べたような陰翳の多彩な空間から、妖怪は産まれ出でる。

著者の書く物語、特に本書ではそのあたりが濃密に意識されている。

ただし、本書に収められた小編が家屋を舞台としているわけでない。見世物小屋や温泉旅館、街並みなど、多彩な舞台が用意されている。舞台はそれぞれだが、陰影の醸し出す不安感、畏れがいずれの小編にも濃密に描かれている。

著者は本邦における妖怪の第一人者だけに、闇に潜むモノ、蠢く怪したちの棲む陰影を小説のモチーフとして見逃すはずはない。我が国において産まれ消えていった幾多の妖怪たち。それらを産み出した陰影とそこに棲むモノへの畏れ。著者は本書において、陰影に拘りをもって物語の背景を描く事に筆を費やす。

陰に濃淡を与えるのは、何も光の加減によってのものだけではない。浮世を渡る快活な人々の狭間にも陰は生じる。快活な人々の谷間で世をやっかむように浮世を徘徊する「常ならぬ人」もまた人間の陰を体現している。また、晴朗な精神がふとした拍子に変調し、その途端、曇天の下に隠れるように暗く覆われる心の動きも陰を表現している。とかく世の中にはそのような陰が至る所にある。その影について本書は究める。妖怪が産まれいずる場所を探し求めて。本書には、それら陰影から妖怪が産みだされる瞬間を切り取り、物語として織り上げた成果が収められている。

考えると、今まで著者が世に出した作品のほとんどは、既存の妖怪を下敷きにしていたように思う。先に上げた三作や京極堂シリーズなどはそうだった。しかし本書では、そのような手法から一歩踏み出している。妖怪の産まれる舞台や人の抱く畏れを描き出すことで、著者は新たな妖怪を創造している。伝承や口伝、民話には頼らずに新たな妖怪を創造することは、云う程に容易いことではない。凄いことというしかない。

本書は8編から成っている。

「便所の神様」は、日本家屋の不気味な陰々とした気配の中に棲む、怪しを描いている。本編では家屋の滅滅とした気配のおおもとを執拗に描写する。その描写は視覚だけではない。臭気までをも執拗に描写する。トイレではなく便所。今の水洗トイレからは徹底的に締め出され、蓋をされた便所の匂い。家の汚濁が全て集積した場所。著者の筆は匂いを徹底して描き、暴き立てる。そこに何があるのか、その匂いの中心にいるのは・・・あやしの爺。

「歪み観音」は、本編の中では毛色の変わった短編である。主人公は高校生の女の子。会話からして今風で、出てくる言葉もCGやら食洗機やら。陰影など出てくる余地がなさそう。しかし、そうではない。女の子の陰。目に映るものすべてが歪む心の陰が執拗に描き尽される。心の中の歪みそのものが妖怪であるかのように。主人公の女の子は歪んだ世の中を成敗するかのように観音様に罰当たりな行為をする。その瞬間、女の子の心の歪みは歪んだ世界に同化する。うつつか夢か、夢か歪みか。まさに妖怪の産まれた瞬間である。

「見世物姥」は、昔の縁日でよく出ていたという見世物小屋に舞台を借りた一編。見世物小屋は、その特異な怪しさから言って日本の怪談にとって欠かせない舞台装置だと思う。本編では神隠しと見世物小屋という二つの怪談要素を複合させ、一編の怪談として仕立てあげている。かつての少年にとって、夜店の雰囲気は魅惑的な大人の世界の入り口として避けて通れない存在だった。私にとってもその想い出は強く残っている。本編の主人公のように幼馴染の女の子を連れて行ったら神隠しにあったという経験は、少年の心に決定的に妖怪の存在を刻印したことだろう。

「もくちゃん」は、あるいは本書の中でも一番の問題作かもしれない。私の幼少期には、家の近所に少しおかしな人が普通に住んでいた。子どもの頃は気になったけれど、忙しい大人になると急に見えなくなってしまうおかしな人。本編ではそのおかしな人に憑かれてしまう恐ろしさを描いている。決して悪気がなさそうなのに、何を考えているか分からないおかしな人。本編では注意深く言葉狩りに遭いそうな語彙は避けられている。そういった語彙は出さないが、本編はおかしな人が妖怪に変わる瞬間を描く。かなり印象に残る一編である。妖怪の本質とは、人の心に棲む畏れが変化したものなのだろう。その変化は、こういったおかしな人への畏れからも産まれるともいえる。これは差別意識を通り越した、普遍的な人の心の有りようなのかもしれない。

「シリミズさん」は、「便所の神様」にも通ずる家屋の闇を描いた一編。とはいえ、本編は陰惨な様子は描かれない。その替り描かれるのは付喪神が憑いていそうな古い家屋に、来歴不明で祀られ続けている謎の生物である。本編の語り口は実に軽い。敢えて陰影を遠ざけるかのように軽い語り口で語られる。しかし起こる出来事は支離滅裂で怪異の極みである。産まれいずるというより、そこに前からいた妖怪の不条理を描いた一編である。産まれるのではなく、元から或るというのも妖怪の存在様式の一つであることを描いている。

「杜鵑乃湯」は、ひなびた温泉旅館に起こる怪異を描いた一編である。離れにある不気味な湯に取り込まれる男の心理描写が秀逸である。妖怪とは怪異とは、心に疚しい思いを抱く者の心に容易に現れ、その者を容易く取り込んでしまう。まさに本編は自らの心が産み出した妖怪に取り込まれる男の自滅を、ホラータッチで描いている。本書の中では唯一怪談ではなくホラーに相応しい一編といえる。読んでいて怖気に襲われた。

「けしに坂」は、前の一編と同じく心に疚しさを抱える男の産みだす物語である。本編に登場するのは幽霊。舞台も葬式。葬式の場で、無意識に秘めた罪悪感が次々と男の視界に怪異と幽霊を産み出す。妖怪が産まれるのが、心の闇や陰であることを示す一編である。

「むかし塚」は、時間の流れをうまく使った一編。時の流れに沿って思い出が消え去り、街並みも変わっていく。その時間の中で浄化される想い出もあれば、変質してしまう思いでもある。その時間の経過は人の心に陰を落とし、怪しの跋扈する隙を与える。まるで百年経った道具が妖怪に変わるかのように。本編では子供の頃に借りたマイナーな漫画という小道具で、その想い出の陰影を色濃く出している。

‘2014/11/23-2014/11/28


生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て


昨日、神奈川県立近代文学館で催されていた「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ -「遠野物語」から「海上の道」まで」を観に行きました。残念なことに朝から山手洋館めぐりをしていた関係で、ここでの観覧時間は1時間しか取れませんでした。そのため駆け足の観覧しかできなかったのが惜しいところです。

しかし、そんな中でも少しでも日本の民俗学の巨人の足跡を追い、その業績の一部に触れることができたのではないかと思っています。この展示会は柳田國男の学問的な業績を云々することよりも、生涯を概観することが主眼に置かれていたような印象を受けました。

なぜ柳田國男の生涯に主題を置いたのか。それは本展編集委員の山折哲雄氏の意図するところでもあったのでしょう。宗教学の泰斗として知られる山折氏の考えは分かりません。ただ、私が思うに、柳田國男の生涯がすなわち日本の近代化の過程に等しいからではないかと思います。近代化の過程で都心部と農村の生活の差が激しくなり、農村に残っていた民俗的なモノ、例えば風習や民話、妖怪のようなモノが失われつつ時代に柳田國男は生きました。そして近代化によって失われつつあるものの膨大なことを、誰よりも憂えたのが柳田國男だったと云えます。そしてそのことは、柳田國男が農商務省の官吏であったからこそ、大所高所で農村の現状を観ることができたからこそ気づき、民俗学の体系を築きあげることが出来たのではないかと思います。本展からは、山折氏の意図をそのように見て取ることができました。

実際のところ、柳田國男の民俗学研究には独断や恣意的な部分も少なくないと聞きます。なので、本展ではそれら妖怪研究の詳しいところまでは立ち行っていません。でも、それでよいと思うのです。今の民俗学研究は、柳田國男の研究成果から、独断や恣意部分を取り除けるレベルに到達しつつあるとの著述も別の書籍で読みました。ならば、現代の我々は柳田國男が膨大なフィールドワークで集めた素材を尊重し、そこから料理された成果については批判する必要はないと思うのです。なので、本展でそういった研究成果を云々しなかった編集委員の判断も支持したいと思います。

むしろ、情報が貧弱な柳田國男の時代に出来て、現代の我々に出来ないことは何かを考えた方が良いのではないでしょうか。現代の我々はインターネットで瞬時に世界中の情報を集められる時代に生きています。そのため、地方と都会の情報格差も取っ払われていると思います。が、一方では都心への一極集中は収まる兆しを見せません。地方が都会のコピーと化し、地方の文化はどんどん薄まり衰えつつあるのが現代と言えます。

私は地方が都会に同化されること自体はもう避けようがないと思っています。しかし、それによって地方に残された貴重な文化を軽視するような風潮は、柳田國男が存命であったとしたならば許さなかったと思うのです。先年起きた東日本大震災の津波で、遠く江戸時代初期の石碑が、津波の最大到達範囲を示していたことが明らかになりました。また、同じく先年起きた広島の山津波の被害では、地名がその土地の被害を今に伝えていたことが明らかとなりました。しかし、それら古人の知恵を、今の現代人が活かせなかったことはそれらの被害が如実に示しています。

文字や碑に残せない言葉や文化が地方から消えつつあることは避けえないとしても、文字で伝えられるものは現代の感覚で安易に変えることなかれ。柳田國男の民俗学が懐古趣味ではなく、実学として世の中に役立てられるとすれば、その教訓にあるのでは、と本展を観て感じました。

先日、縁を頂いて奈良県の某自治体の街おこしについて、知恵を貸してくれと頼まれました。なかなかに難しく、私の拙い知識には荷が重い課題です。古来、伝えられてきたその地の土着地名のかなりが○○ヶ丘といった現代的な地名に変えられ、景観すらも新興住宅地やショッピングセンターに姿を変えた今となっては、かなりの難題と言っても良いでしょう。しかし、その地にはまだ古代から連綿と伝えられてきた独特な祭りや古墳の数々が残っています。これらを活用し、本当の街おこしに繋がるヒントが、実は柳田國男が現代に残した業績から得られるのではないか、そう期待しています。

私も浅学ではありますが、柳田國男の本は今後も読み込み、街づくりの課題を与えられた際には役立てるようにしたいと思っています。街づくりだけではなく、日本人として得られる知見もまだまだ埋もれているはずです。それぐらい、偉大な知の巨人だったと思います。今回は素晴らしい展示会を見られたことに、同行の友人たちに感謝したいと思います。


有頂天家族


京都には、あやかしのモノが似合う。

江戸にみやこの座を貸し出したとはいえ、千年以上みやことして栄えた京都。平安の御代から偸盗が跳梁し、あやしのモノどもが跋扈した街。あまたの戦乱に耐え、今に碁盤の目を伝える街。今に至ってもなお、愛想良い笑顔の陰で一見さんを排除する街。

日本の歴史を見続けてきたその懐は、果てしなく深く、そして暗い。

科学万能の今でも、この街にはあやしの類いがよく似合う。狐狸や天狗、蛙の類いが。

本書には、そのいずれもが登場する。普段は人間の振りをしながら京都の街に長らくのさばり、世の移り変わりを眺めてきた人外のモノ共。

しかし人外と云っても、本書に登場する彼ら彼女らは陰惨で残忍なモノノケではない。逆。長い間、人に化けることを営んできたからか、その言動には果てしなく 愛嬌が付きまとう。人並みの感情を持ち、人情の機微を解し、悩みもすれば有頂天にもなる。実に愛すべき「もののけ」たちである。読者は本書を読み進めるにつれ、もののけの彼ら彼女らに強く惹かれるに違いない。

本書は、奇妙奇天烈な能力の持ち主である登場魔物たちが、京の街を縦横無尽に駆け巡る物語である。

若いおなごに耽溺し、落ちぶれた天狗はただ情けなく。狸一族を統べる頭領一家も兄弟は仲が良かったり喧嘩したり、はたまた世をはかなんで井の中の蛙に化けたりと忙しなく。頭領の母は宝塚ミーハーとして夜な夜な男装の麗人に成りすまし。

そんな愛すべき狸達と老いぼれ天狗が、賑やかに、猥雑になった京の街に自分達の居場所を求め、懸命に生き、そして戦う。戦いと云っても、ただただ野放図な能力をばらまき、当り構わず好き放題で、読んでいて喝采を叫ぶこと間違いなしである。

たまに萎れたり、舞い上がったり、水面に映る自分に涙したりしながら、彼ら一家の表情はどこまでも明るい。有頂天一家の題に恥じない楽天家ぶりである。そのパワーには、怪しげで暗いはずの京の町を陽気なエネルギーに溢れたるつぼへと返る。

楽しく、明るく、充実した狸一家は、どこまでも人間臭く、モノノケにもケモノにも思えなくなる。人間がしかめ面して悩むのと、彼らの切実な悩みとどちらが高尚か。そんな問いなどどうでもよくなるほど、笑い飛ばしたくなる。そんな快活な作品が本書である。

‘2014/09/08-‘2014/09/12


光の帝国―常野物語


柳田國男の有名な作品として、遠野物語がある。岩手県の遠野地方に伝わる説話集を筆記したもので、妖怪譚や怪異譚、民俗学的な記述まで、多岐に亘った内容のそれは、日本民俗学の嚆矢として名高い書物である。

本書は、題名からも分かるとおり、遠野物語を明らかに意識したと思われる。常野物語とは、常野と呼ばれるどこか世間とは違う場所に属する人々の物語である。常野に属するとはいえ、本書で描かれる舞台は、読者の属する世間である。そこで書かれる出来事やしきたりも、世間の約束事に従っている。

本作は連作短編の形式を取っている。それぞれの短編では、世間の中に住まう常野の民達が常野の民であることを隠しつつ生きている。隠しつつも、常野の民の持つ様々な能力を発揮し、周囲の人々を救い、癒す。またある時は常野からの世間に忍び入るあやしの影を撃退する。

短編とはいえ、本書は作者のストーリーテラーの力量が遺憾なく発揮されている。常野という異世界の設定がなくても、十分優れた短編として通用する粒ぞろいの内容が揃っている。常野の民の持つ能力は、短編の基本設定と、物語の進展において、欠かせないものとして書かれている。が、それも短編の面白さにとっては本質ではなく、本書においても多種多様な短編群をつなぐコンセプトのようなものとして機能している。

著者の短編作家としての技量を改めて見直した一作。

’14/07/09-‘14/07/12