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原子雲の下に生きて


本書は、長崎原爆資料館で購入した。

長崎に訪れるのは三度目だが、原爆資料館は初めての訪問。前の二回は時間がなかったり、改装工事で長期休館中だったりとご縁がなく、三度目にしてようやく訪問することができた。だが、ようやく実現したこの度の訪問も私にとっては時間がとれなかった。資料館に来る前は如己堂や浦上天主堂に寄り、資料館の後には福岡に戻る用事があったからだ。当然、売店でもじっくりと本を選ぶ時間はなかった。5分程度だったろうか。そんなわずかな時間で購入した二冊のうちの一冊が本書だ。本書の編者である永井隆博士は長崎の原爆を語る上で欠かせない。なので売店には編者の作品が多数並んでいた。あまたの編者の著作の中で本書を選んだことに深い意味はない。ただ、最低でも一冊は著者の作品を買おうと決めていた。

なぜそう決めていたかというと、編者のことをもっとよく知りたかったからだ。原爆資料館に来る前日、長崎への往路で読んだのが高瀬毅著「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」だ。そのレビューにも書いたのだが、その中で著者の高瀬氏は、原爆は神が浦上に与えた試練という編者の言葉を、キリスト教信者でない被爆者への配慮がないと非難している。その言葉を文字通りに解釈してよいならば、私もとても容認できない。ただ、そこに誤解や早合点がないかはおさえておく必要がある。編者がクリスチャンである事実とともに。そして編者はこのような批判にも関わらず、いまだに人々から尊敬され続けている。その理由は著者の発信した著作の中にもあるが、もう一つは如己堂にもあるのではないか。この旅で原爆資料館に訪れる前、如己堂も立ち寄った。如己堂は編者の居宅として知られているが、訪れたのは初めて。二畳しかない如己堂で病に侵されたまま起居し、なおかつ膨大な文章を遺した編者の意志は並大抵ではない。如己堂の狭さを眼前にすると、編者に私心があるなど、とても思えない。

著者が語ったとされる「原爆は神が浦上に与えた試練」を、信仰心によって視野が狭まった発言と読むことは簡単だ。それをまんまとアメリカのイメージ改善策に利用されただけ、と片付けることも可能だ。だがそこで、あの発言にはもっと深い別の意味があったとは読めないだろうか。それは、編者は批判を受けることを承知でもう一段高いレベルから原爆を捉えていたとの考えだ。その場合、われわれの方が逆に編者はクリスチャンである、という偏見で言葉を受け取っていた可能性もある。私は著者の考えがどちらかを知りたいと思った。永井隆記念館に行けなかったこともあってなおさら。

病床でも我が子を慈しんだという著者。そうであれば、子供たちの被爆体験を編んだ本書に慈愛の視点が含まれているはず。そのような判断を売店でとっさにくだし、本書を購入した。だが、結論から言えば永井博士の真意を知ることはできなかった。なぜなら本書は、純粋に被爆児童の体験記だからだ。

体験記が本書に収録されるにあたり、特定の意図で選ばれたのかどうかを私は知らない。ただ、編者の意図を詮索することは無用だ。無用かつ失礼ですらあると思う。

本書に収められた被爆体験は、下は四歳から上は十五歳の児童によってつづられている。まだ物心も付かない子の場合、そもそも何が起こったか理解せぬままに、そばにいたはずの父や母が突然凄惨な姿に変わり果る。あどけないがゆえに真に迫っており涙を誘う。

一方で年かさの子供たちの体験には、当事者にしか書けない切迫感がある。見たままに聞いたままに、人類史上、未曽有の現場に居合わせた体験。何が起こったのか分からぬにせよ、事実を認識し、記憶できる年齢で被爆し、体験したこと。本書に収められた体験記は被爆の残虐さを雄弁に語っている。

体験談を寄せた中には、よく知られた人物もいる。吉田勝ニさんは、右側頭部にひどいやけどを負った。その痛々しいやけどの様子は、長崎原爆資料館にも写真が展示されている。吉田氏の体験談は、被爆の瞬間から被爆後の治療のつらさや、ケロイドによる差別にまで及んでいる。それは延び盛りの青春を原爆に奪われた方のみが叫ぶことのできる魂の声だ。吉田氏が受けたやけどの画像が生々しいだけに、本書で読む体験記は一層われわれの胸に迫る。

あと、本書には再録されていないし、もはや叶わぬ願いとはわかっているが、体験談を聞きたかった方がいる。長崎の被爆少年としてはこの方も著名な方だ。死んだ赤ん坊をおんぶし、焼き場の前で唇をきつく噛んで直立不動でたつ少年。ジョー・オダネル氏による写真で知られたあの少年だ。あの少年の素性は今もなお不明のままという。その固く結ばれた口には、どんなおもいが溢れだしそうになっていたのだろう。残酷で不条理な現実を前に、何かを叫びたくとも日本男児の誇りからか、かたくなに口をつぐむ。

本書に遺されたのはそれぞれが切実な被曝の体験だ。そして、同じだけ悲痛な何万倍もの気持ちが野に満ちていた。そこは何をどう言い繕うとも正当化されることはない。原爆投下には投下側の言い分もあるだろう。それは認めよう。だが、無警告に一般市民の、とくに幼子の頭上に投下した道義上の罪は消えることはない。それは本書に記された体験記が声を大にして主張している。

そして、本書を編纂した永井博士にしても、単に神の試練として全てを委ねるだけでなく、恐らくはいろいろな思いを感じ、汲み取り、考え、悩み、その上で、あのような言葉として絞り出すほかなかったのではないか。たとえ非クリスチャンへの配慮が欠けていたとはいえ。

‘2016/11/14-2016/11/14


長崎の旅 被曝都市からの再生


遅くまでホテルの部屋で仕事をしていた私ですが、朝は普通に起きました。朝ごはんはハウステンボスで買い込んだパン。いわゆるホテルバイキングではありませんでしたが、これがなかなかうまい。満足です。私は早速、駅レンタカーを予約しておいたJRハウステンボス駅に向かいます。昨日学習したとおり、園内を突っ切ることができないため、外周道路を歩いて向かいます。

東京ディズニー・リゾートは、外周道路からパークの内部が見えないように配慮されています。しかしハウステンボスはそうではありません。普通に歩いていても、ハウステンボスのバックルームが丸見えです。確かに、私が歩いた道は観光客の通らないルートです。とはいっても、私みたいに歩いて駅まで向かう酔狂な客はたまにいるはず。そういった好事家には、スキがありすぎ。でもそういう開けっ広げさも、ハウステンボスの魅力が雑多さであることを発見した後では、好ましく思えます。

駅に着いたはいいけれど、レンタカー屋さんの開店まで時間があります。その間を利用して駅を撮りまくります。駅の裏手は国道205号が通り、山が国道の際まで迫っています。どこにでもある田舎の光景。これが面白い。ハウステンボス側が美しいだけに、ギャップとして私に迫ります。東京ディズニーリゾートを擁する舞浜駅の裏に洗練された住宅街が広がっていることに比べ、こちらにはそういった見た目を繕う努力すら感じられません。むしろすがすがしいほどです。

ホテルに車で戻り、ホテルの前に広がる大村湾を眺めながら荷物を積み込みます。波のない凪いだ海。とても静かです。ハウステンボスという日本有数のテーマパークにいながら偉大な辺境にたたずむ解放感に包まれます。名残惜しいですが、長崎に向けて出発です。米海軍針尾住宅地区の物々しく警備された正門を見つつ、西海パールラインという有料道路に乗って南下していきます。大串インターで一般道に合流した後も、長崎の田舎風景は健在です。長崎オランダ村の跡地をみたり、バイオパークの看板に惹かれたりしつつ、ドライブは続きます。琴浦や時津といった街々を過ぎてゆくと、少しずつ車の量は増え始めてます。そしていつしか、道ノ尾駅前という看板が現れます。道ノ尾駅といえば、長崎の原爆を扱う記録に幾度となく登場する駅です。

長崎市内に入ったわれわれはまず、長崎駅によりました。そこで妻がおススメと買ってきた岩崎本舗の角煮まんをほおばります。とてもおいしかった。朝はハウステンボスのパンだけで、何も食べずにここまで来たのでなおさらおいしく感じました。

さて、私が車を止めたパーキングは、爆心地公園と平和公園の間にあります。目の前を国道206号線が通り、交差点で交わる道路は浦上天主堂へと続いています。後で思い返すと、原爆の遺構を歩いて回るには最適な場所だったようです。

駐車場の脇から目の前を登ってゆく階段をいき、高台へ設けられた平和公園に足を踏み入れます。そしておびただしい数の慰霊碑を視野に入れつつ平和祈念像へと向かいました。この像こそ、私が昨日読んでいた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」で取り上げられたテーマである、長崎が被爆したシンボルを後世に残すべき、に直結しています。

今、被爆都市ナガサキのシンボルはこの平和祈念像が担っています。ヒロシマの原爆ドームが持ついかにもな廃虚感は平和祈念像にはありません。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」の著者が非難するのは、浦上天主堂の廃虚を被爆のシンボルとせず、米国の対外宣伝策に乗せられ、新たな天主堂に建て替えてしまったことです。そして、実質的に浦上天主堂の廃虚の代償として建てられたのが平和祈念像なのです。この平和祈念像は、長崎市の公式観光ページの説明文を引用すると「制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。」とあります。私は、この説明の主旨や平和祈念像自体に何も含むところはありません。平和祈念像は後世に伝えられるにふさわしい。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んだあとも、平和祈念像を眼前にした後でもその思いは替わりません。この後訪れた浦上天主堂や原爆資料館に行った後でもそうですし、これを書いている今もそうです。

ですが、一つだけ言えることがあります。それは、責任の不在です。責任の不在とは、ヒロシマの原爆死没者慰霊碑に書かれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言が引き起こした議論でもおなじみです。ここでいう”過ち”が日本を指すのか、アメリカを指すのか、責任はいったいどこにあるのか。ヒロシマの原爆死没者慰霊碑の文言が問いかける主体は何か。そして平和祈念像は責任の所在を示さず、巨大な像として鎮座しています。

昨日のハウステンボスのエントリーでも書きましたが、私が長崎に来たのは16年ぶりです。けど、その時は平和祈念像には訪れませんでした。新婚夫婦が訪れたのは、オランダ坂やグラバー邸、出島、大浦天主堂といった異国情緒の長崎です。原爆資料館や爆心地といった反核平和のナガサキではなく。ですから、私が前回、平和祈念像の前に立ったのはさらにさかのぼること5年。ですから21年ぶりです。

その時は学生時分の気楽さもあり、直前までヒロシマにいました。8/5の朝は原爆ドーム前でテントを立てて野宿して迎え、翌日の投下50周年の投下時刻にはダイ・インにも参加しました。つまり、50年の節目に揺れるヒロシマをそれなりに経験し、ナガサキに乗り込んだといえます。ですが、当時の私は平和祈念像に何の違和感も感じませんでした。そもそも当時は長崎原爆資料館が建て替え中で、ナガサキの原爆の生々しさにあまり触れることができませんでした。ましてや、被爆のシンボルが米国の意向で撤去されたという知識もなく。

ですが、今回は違います。私も40歳を過ぎ、少しは知識がついてきたはず、といううぬぼれがあります。その目でナガサキをきちんと見てまわろうと思って乗り込んでいます。娘たちにナガサキの惨禍を知ってほしい。私自身にも被爆の実相を見せたい。そんな思いで街を歩きます。その目でみたナガサキは、普通の街でした。

まず、平和祈念像の横にある「被爆者の店」に立ち寄ります。長崎の物産を扱うこの店で、私が目にとめたのは書籍コーナー。川上郁子という方が書かれた「牧師の涙 あれから六十五年 老いた被爆者」に惹かれ、少し中身をめくります。著者は官能小説作家として著名な川上宗薫の義理の妹だといいます。内容は、有名作家になってもまったく長崎に帰ってこない義理の兄への恨みつらみでした。この本によると、宗薫自身が被爆死しかけ、母と二人の妹を原爆で喪ったにも関わらず、その事実を作品にほとんど著そうとしなかったとか。発言できる立場にいながら、ナガサキの被爆を語りたがらなかった、ナガサキを遠ざけ続けていたという事実にとても興味を惹かれました。私は川上宗薫の小説は一冊も読んだことがありません。なので本書を購入しようか迷ったのですが、今回は断念しました。

今回の長崎の被爆地巡礼の旅は、妻のリクエストでもありました。詳しくは書きませんが、妻は長崎にある思い入れがあります。なので、今回の被爆遺構巡りの案内は妻に任せます。続いてわれわれが向かったのは永井隆記念館。被爆者として妻を亡くしながら被爆者の治療にあたり、放射線医師としての立場から著した諸作品はよく知られています。記念館の屋外に当時のまま如己堂が残されています。じっくりと見ました。私は如己堂は初めて訪問します。この狭さに起居しながら、命を削って自身の想いを伝えようとした永井博士の意志に頭がさがります。

実は「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」では永井博士は批判的に論じられています。この本でもっとも批判を受けているのは、移設に関わった当時の二人の人物です。浦上天主堂を統括していた山口司祭と田川長崎市長。彼らは著者の非難をもろに浴びています。そして永井博士は彼らに比べると舌鋒は緩めですが、原爆投下を神の摂理と受け入れた永井博士の考えは到底受け入れがたいと、批判の目が注がれています。

しかし、永井博士は別の場所では被爆直後の時期に違うことも言い残しています。原子力の平和利用のため、科学研究が必要、と。これは、なかなかいえないことだと思います。永井博士の言葉の一部を切り取ってあげつらうのは、永井博士の想いを誤解しかねない気がするのです。永井博士だけではありません。どうも、長崎の方は、被爆を被害者として受け取らないように思えます。当時の田川市長は米国の思惑を忖度して転向しただけかもしれません。ですが、山口司祭はなによりも浦上天主堂の再建を考えたようです。また、本島長崎市長が発した昭和天皇の責任問題や、原爆投下は日本軍の犯罪行為の報いだ、という言葉はまだ記憶にも新しいです。

そういった長崎の人々のこころを理解するために、本来ならば永井隆記念館に入ってみるべきだったのでしょう。ですが、今日のスケジュールではとても無理でした。残念なことに。

続いてわれわれは、高台に見える浦上天主堂に向かいます。ここもわたしにとっては初訪問。そして「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」がいうもう一つの原爆ドームとは、被爆遺構の浦上天主堂のことです。ナガサキの被爆のシンボルになりえたのに、建て替えでその機会を永遠に逸した、と著者に嘆かせている場所です。街を歩いていると、あちこちから丘に建つ天主堂が見えます。宗教の施設という見方を抜きにしても、見事な外見です。ここが原爆ドームの廃虚のように今もなお遺構のまま立っていたら、と惜しむ気持ちはわからなくもありません。きっと原爆投下という人類屈指の愚行の証人として長崎のシンボルになっていたことでしょう。原爆ドームのように。グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂よりも、誰もが真っ先にナガサキのランドマークは天主堂として思い描くくらいに。

でも、長崎の街を歩いていて思いました。高台に建つ浦上天主堂は思った以上に目立ちます。今でもそうなのですから、建て替え当時のまだ原子野の気配が濃厚な長崎にあっては、その姿はより目立ったことでしょう。広島の原爆ドームは、大田川沿いで見晴らしのよい場所にあります。でも、高台にはないので街中から見えません。でも、浦上天主堂は常に目に付く場所にたっています。ここが今もなお、被爆の遺構の姿を残していたらどうなっていたでしょう。多分被爆のシンボルではあり続けたことでしょう。でも、それはナガサキの街を今以上に被爆の街として縛ってしまっていたように思うのです。ですが、私が歩いた浦上地区は、平和公園、爆心地公園、長崎原爆資料館の一角を除けば、普通によくある坂の多い街でした。それは浦上天主堂が遺構でなかったから、と仮定するのは言い過ぎでしょうか?街を歩いてみて、ナガサキとヒロシマの被爆のシンボルに対する考え方の違いは、地形にあるのではないかと思うようになりました。

ナガサキが被爆の街として世界の非核化の旗印となるべきか。今もなお、被爆の街として世界にメッセージを発信し続けるべきか。それは、長崎の人が決めるべき話です。私のような長崎に縁の薄い人間がどうこう言う話ではありません。なので、今の浦上天主堂が荘厳な姿で立っていることに、今さら反対も賛成もありません。実は当初「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み終えた後は著者の意見に賛同していました。ですが、こうやって街を歩いてみて賛同の意見が揺らぎました。

被爆のシンボルを残すべきか建て替えるべきか。果たしてどちらが良かったのか。長崎に被爆のシンボルがない事は、確かに後世への痛恨事だったと思います。特に同じ被爆都市ヒロシマとナガサキを比べるとその差は歴然としています。ヒロシマは今や世界遺産である原爆ドームを擁しています。昨年、オバマ米大統領がヒロシマを訪問し、原爆慰霊碑に献花したニュースがありました。そしてオバマ大統領がナガサキに足を延ばすことはありませんでした。毎年挙行されている長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は全国ニュースでもあまり中継されていないようです。ナガサキは被爆都市でありながら、被爆を訴える発信力がヒロシマに比べて弱い。それは当の長崎の皆様が感じていることだと思います。ですが、それは他の地域の方が言うべきことではないと思います。ナガサキの皆様で決めていただくことだと。

われわれは永井隆記念館から歩を進め、浦上天主堂の立つ丘のふもとに着きました。堂々とした天主堂を見上げながら近づき、目にしたのは側溝に落ちた鐘楼。いわゆる長崎の鐘が被爆前まで収まっていた被爆の証人です。実は天主堂の被爆遺構はすべてが撤去されたわけではなかった。被爆の痕跡などなかったかのようにそびえ立つ天主堂の下には、被爆の瞬間を今に伝える遺構が生々しく遺されている。この対照的な景色が持つ意味は、この場に来てみなければ決してわからなかったと思います。

鐘楼の遺構が残されていることは、被爆のシンボルとして天主堂を残さなかったことのささやかな代償だと思います。私は、溝に落ちたままの無残な鐘楼の残骸と、空へと向かう壮麗な天主堂の姿を見比べながら、しばし鐘楼の前にたたずみました。ボランティアガイドの方が鐘楼を由来を修学旅行生に説明している姿が印象的でした。

丘の上に登ると、浦上天主堂の壮麗な建物が目の前に現れます。浦上とは、切支丹禁制の時代からこの地で信仰を守り続け、幾度もの浦上崩れと呼ばれる迫害に耐えた信者の地。天主堂を残骸としてではなく、信者のために建て直したいという当時の山口司祭の願いは理解したいと思います。

礼拝堂の中は撮影禁止でしたが、教会のもつ特有の静けさに包まれていました。見学して、外に出ようとした私は、首だけの小さな像に気づきます。これこそが被爆のマリア像。被爆のマリア像は崩壊した天主堂から首だけ救い出され、45年間各地を転々としたあと天主堂へと戻された数奇な運命の持ち主です。マリア像の、両眼を失い、右ほほに傷を負った姿の前から私はしばらく動けませんでした。その間に私が思ったのは、被爆のマリア像に課せられた使命です。天主堂が再建されたことで、天主堂は被爆のシンボルでなくなりました。日本の中でも一番西洋の宗教を受け入れてきたナガサキを、西洋自身が破壊した罪。その罪を後世に伝えていく役割は本来は天主堂が担うはずでした。しかし、天主堂の遺構はすでにありません。爆心地公園に遺構の一部と、長崎原爆資料館内のジオラマとして再現されているのみです。ですが、この被爆のマリア像が原爆の悪魔的所業を伝える何よりの証人となってくれることでしょう。アメリカが自身の宗教的なバックボーンを破壊し、ミサ中だった信者たちを熱線と暴風と放射線で殺戮した事実。その事実はアメリカの罪の意識をさいなみ、天主堂を再建させようと働きかけさせました。ですが、天主堂の遺構は消えても、被爆のマリア像にはその痕跡が残り続けるのです。西洋文明の母性の象徴をこのように傷つけ汚した証が、被爆のマリア像にくっきりと残っています。そして今も行方不明のマリアの両目は、きっとどこかであの閃光を映し続けているに違いありません。

わたしは、側溝の鐘楼と被爆のマリア像を見て被爆のシンボルがナガサキから撤去された経緯を問うことはやめました。「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」にナガサキの被爆のシンボルが撤去されるまでの経緯は書かれています。その是非を私が判断することはもうありません。結局、長崎に縁のない私がそれをどうこういう必要はないのです。もちろん、キリスト教の文化が根強いナガサキに同じ西洋人が悪魔の兵器を落とした事実は消えません。神を信ずるクリスチャンの頭上に、残虐な兵器が落とされた意味も忘れるわけにはいきません。しかし、アメリカの意向によって遺構が撤去されたとしても、原爆がキリスト教会の上に落とされた事実は消えないのです。そのことは、浦上天主堂の前庭に立つ、被爆して焼けただれた神父像も無言で語っています。

続いてわれわれは信徒会館にも向かいます。ここにも残骸の破片が残されています。それは原爆資料館の展示に比べるといくぶんぞんざいに扱われているようにもみえます。でも、被爆のマリア像と側溝の鐘楼が残されている限り、教会自身も原爆を落とされた事を忘れないと思うのです。

続いて、長崎原爆資料館へと歩いていきます。途中、ファミリーマートで少しだけジバニャンマンをおなかに入れ、横のフルーツいわながさんでおいしそうな果物を買って帰ります。原爆資料館へ向かう道を歩いていると、「被爆国首相よ 八月六日九日を人類総ザンゲの日として休日に制定せよ」というビラが貼られています。その近くには鯨料理の店があるのがなんだかおかしい。

坂を上がってゆくと碑が多数現れ、そこは長崎原爆資料館。初めて長崎にきてから21年。ようやく来ることができました。入り口にはオバマ大統領が来日した際、機内で折ったという千羽鶴が飾られていました。原爆資料館の展示については、今さら私がいうことはありません。ただ原爆の非人間性を思いしるのみです。私一人、じっくり見ました。妻子は、展示は見てくれたのでしょうが、先に出て待っていました。そして時刻は、長崎を出発していなければならない時間をとうに過ぎています。私はこういう資料館にきて、時間の許すままじっくり観覧した経験はほとんどありません。毎回、最後のほうは駆け足になってしまいます。

出がけに売店で、記念館に行けなかった埋め合わせに永井隆博士の著書を買い、山口彊さんの二重被爆の本も買います。これらのレビューは後日アップしたいと思います。そして資料館を出て爆心地公園へ。ここには爆心地を示す碑とともに、浦上天主堂の廃虚の一部が移築復元されています。それらも写真だけ撮影して車に急ぎます。雨も降ってきました。出発するべき時刻はとうに過ぎています。

そこから、車を飛ばして福岡へ。天神の繁華街を焦りながら車を走らせます。妻子を薬院駅の近くで下ろし、私は博多駅のレンタカー返却場所へ向かいます。そこから地下鉄と西鉄を乗り継いで薬院へ。妻の昔からの知り合いであるLucaさんは、私にとって初めての訪問でしたが、とてもおいしかったです。今日一日、食事は控えめにしていたのですが、その甲斐がありました。

そのまま地下鉄で福岡空港へ。そして羽田行きの便へ。そして羽田からは家へと。なんとか日が変わる前に帰れました。昨日のハウステンボスと今日の長崎、福岡のあわただしい二日間が終わりました。ですが、とても楽しみました。そして長崎の街を少し理解できたように思います。また、行きたいと思っています。