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夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


タイガーズ・ワイフ


生と死。
それは私たちに人間にとって永遠の問題だ。頭ではわかっているつもりになっても、心で理解することが難しい。

人が自分の死を実感することは、不可能のようにも思える。それは、死が儀式で飾られる今の日本ではなおさら到達できない概念のように思える。

かつての戦争では、無数の人が死んだ。空襲によって燃え上がった翌朝の街には黒焦げの焼死体が数限りなく転がっている。それが当たり前の日常だった。
そうした光景が当たり前になると死への感覚がマヒしてしまう。その時に同時に起こるのは、死が日常になることだ。実感として死が深く刻み込まれる。
戦乱に次ぐ戦乱の日々が続いた中世の日本ではなおさら死は身近だったはずだ。
今の日本は平和になり、死の感覚は鈍っている。もちろん私もそうだ。それが平和ボケと呼ばれる現象ではないだろうか。

平和な日本とは逆に、世界はまだ争乱に満ちている。例えば本書の舞台であるバルカン北部の国々など。
著者はセルビアの出身だという。幼時に騒乱を避け、各国を転々とした経験を持ち、アメリカで作家として大成した経歴を持っているようだ。
そのため、本書には生と死の実感が濃密なほどに反映されている。

例えば舞台となったセルビアとその周辺国。バルカン半島は火薬庫と呼ばれるほど、紛争がしきりに起こった地である。
死者は無数に生まれ、生者は生まれてすぐに死を間近にしていた。

本書において、著者は人の死の本質を描こうとしている。生と死をつかさどる象徴があちこちに登場し、読者を生死への思索へと向かわせる。
例えば主人公は、人の生と死を差配する医者だ。主人公に多大な影響を与えた祖父も医者だった。本書の冒頭はその祖父の死で始まる。

主人公は、祖父の死の謎を追う。なぜ祖父は死ぬ間際に誰にも黙って家族の知らない場所へ向かったのか。何が祖父をその地に向かわせたのか。
主人公は奉仕活動に従事しながらの合間に祖父の死を追い求める。
奉仕活動の現場で主人公は墓掘りの現場に遭遇し、人々の間に残る因習と向き合う経験を強いられる。墓場は濃厚な死がよどむ場所であり、このエピソードも本書のテーマを強める効果を与えている。

祖父の生涯を追い求める中、主人公は祖父の子供時代に起きた不思議な出来事を知る。
永遠の生命を持つ謎めいた男。殺しても死なず、時代を超えて現れる男。祖父はその男ガヴラン・ガイレと浅からぬ因縁があったらしい。
不死もまた、人の生や死と逆転した事象だ。

不死の本質を追究することは、生の本質を追い求める営みの裏返しだ。
そもそも、なぜ人は死なねばならないのか。死は人間や社会にとって欠かせないのだろうか。不死を願うことは、生命の本分にもとるタブーなのだろうか。
死が免れない運命だとすれば、なぜ人は健康を願うのか。そもそも死が当たり前の世界であれば、医者など不要ではないか。
著者は生と死に関する疑問の数々を読者に突き付ける。そして、死と生の不条理と不思議を描いていく。

祖父の謎めいた出来事の二つ目は生を象徴する出来事だ。つまり誕生。
ここから著者はバルカンの豊穣な神話の世界を描いていく。
サーカスから逃げ出した虎が周辺の人々を襲う。そんな中、夫のルカに日頃から虐待されていた幼い嫁は、夫のルカが忽然と姿を消した後に妊娠が発覚する。
虎が辺りを彷徨っている目撃情報もある中、幼かった祖父は、幼い嫁に食料をひそかに運んでやる。
あたりには虎の気配が満ちている中、幼い嫁と幼かった祖父は襲われずに生き延びる。幼い嫁は虎の嫁ではないかといううわさがまことしやかに語られる。

そんな虎を追って、剥製師のクマのダリーシャが罠をあちこちに仕掛ける。だが虎は捕まらない。やがてクマのダリーシャも死体となって見つかる。その姿を見つけたのは薬屋のマルコ・パロヴィッチ。

著者は、ルカや虎の嫁、クマのダリーシャ、薬屋のマルコといった人々を生い立ちから語る。
彼らの生い立ちから見えてくるのは、街の歴史と、戦争に苦しんできた人々の生の積み重ねだ。
そうした歴史の積み重ねの中に祖父や主人公は生を受けた。無数の生と死のはざまに。

やがて虎の嫁が臨月を迎えようとした頃、虎の嫁は死体で見つかる。そして虎は忽然と姿を消す。

本書の冒頭は、祖父に連れられた動物園での主人公の追憶から始まる。
なぜ祖父がそれほどまでに動物園の、それも虎に執着するのか。それがここで明かされる。
虎はあくまでも生きのびようとしたのだ。生への執着をあらわにして。
だが、動物園は相次ぐ戦乱の中で放置され、動物たちは次々と餓死していった。
祖父が子供の頃に見かけた虎はどこかに子孫を残しているのだろうか。

成長して医師になり、重職に上り詰めた祖父は、子供の頃と若い日に出会った生と死の象徴である二人の人物に再び出会うため、最後に旅にでた。
主人公はそのことに思い至る。

生と死に満ちた時代を生き抜いた祖父は、生涯を通じて生と死のメタファーに取り付かれていた。
おそらくそれは、著者自身の体験も含まられているはずだ。
あとがきには訳者による解説が付されている。そこでは祖父のモデルとなった人物との交流があったそうだ。

そうした思い出を一つの物語として紡ぎ、神話と現実の世界を描いている本書。戦争に苦しめられた地であるからこそ、生と死のイメージが豊穣だ。

生と死、そして戦争を描く手法は多くある。その二つの概念を即物的に描かず、歴史と神話の世界のなかに再現したところに本書の妙味があると思う。

‘2020/07/18-2020/07/31


アクアビット航海記 vol.34〜航海記 その20


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/1にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

子どもが持てない可能性


今回は、作:長井、監修:妻でお送りします。

前回、過去の私を呼びだしてインタビューに応じてもらいました。
過去の私は薄れつつある記憶をたぐり寄せ、なぜ正社員になったのかを語ってくれました。怪しい関西弁で。
そのインタビューの中で彼はこう証言していました。正社員になったのは子どもができたから、と。

今回は、そのあたりの事情をもう少しつまびらかに語ってみようかと。

子どもを作る。結婚したら意識しますよね。
ところが当時の私は、子どもを持つことに積極的ではありませんでした。結婚前も、結婚した後でさえも。

結婚してから三、四年は夫婦で海外などを旅し、思うがままに見聞を広める。子どもはそれからでいいや。のんきに考えていた私の心の中です。
一方。妻の当時の目標は、所属していた大学病院から矯正歯科医の認定医資格をもらうことでした。
子どもを産めば産後は休まねばなりません。それは、認定医の資格取得の時期を大幅に遅らせます。ましてや休職など論外。
つまり、結婚してすぐに子どもを作る選択肢は夫婦ともに眼中になかったのです。

ところが、妻の下腹部より生理でもないのに出血があったことで、夫婦の人生設計に狂いが生じました。
妻が産婦人科で聞いた診断結果。それはもう衝撃。左右の卵巣が嚢腫だったのです。右がチョコレート嚢腫、左が卵巣嚢腫。さらに、子宮内膜症と子宮筋腫まで発症してました。
つまり、子どもが授かりにくい。それが無情な診断結果でした。

私がその診断結果を聞いたのは、妻からの電話でした。
大泣きする妻を慰める私も動揺を押さえ切れませんでした。
私がその電話を受けたのは、辻堂にある密教寺院での護摩焚きに招かれ、歩いて向かっているところでした。
人生で初めて経験する護摩焚き。目の前の護摩壇に護摩木が投じられ燃え盛る炎。
貫主が唱える真言を聞きながら、私の心は炎と同じく揺らいでいました。
妻の体のことや、これからの結婚生活のことを考えながら。

妻に四重の婦人科疾患の診断が告げられてからというもの、私たち夫婦にとっての結婚は、悠々自適プランどころではなくなりました。
ただでさえ乏しい妊娠の可能性は、時間がたつとともにさらに減っていくからです。

強盗に襲われ切迫流産


数カ月後、ありがたいことに妻のおなかに新たな命が宿りました。
おそらくですが、受胎したのは淡路島の南端、鳴門海峡近くのホテルです。当時開催されていた淡路島の花博で訪れました。

新たな命の兆しは、2000年5月の連休前からすでにありました。
横浜天王町のバーを二人で訪れた際、妻が好きだったはずのジントニックで体調を崩したのです。さらに、連休に夫婦で訪れたハウステンボスで、妻のつわりの症状がはっきりとし始めました。ハウステンボス内にあるバーで飲んだジントニックも、妻が好きな杏仁豆腐味のカクテルも味が違うと訴える妻。
一方、ホテルの朝食のオレンジジュースがおいしいからと何杯もおかわりし、レストランのチーズリゾットの味にはまってモリモリと。明らかに味覚が変わったのです。
ハウステンボスの翌日は、大浦天主堂や野母崎を訪れました。家々にひるがえっていた鯉のぼりは、振り返って考えるにまさに子どもの兆しでした。

ハウステンボスの旅から戻ってすぐ、妊娠検査薬に陽性反応があらわれます。つまりオメデタ。翌日には義父や義弟と一緒に横浜でお祝いしてもらいました。
ところが陽性と出た翌々日、オメデタの喜びに浸るうちら夫婦に新たな苦難が襲いかかりました。強盗です。

連載の第二十七回でも触れたとおり、私たち夫婦が住んでいたのは町田の中心地にある180坪の土地です。しかも裏の家には、普段は誰も住んでいませんでした。二つの家を隔てる中庭にはうっそうと木々が茂り、怪しからぬ輩が忍び込むにはうってつけです。

妻が強盗に遭遇したのは、わが家の敷地内でした。この時、私はその場にいませんでした。詳しく事情を説明しておきます。

当時、私たち夫婦は車を持っていませんでした。そのため、車は毎回義父に借りていました。そして、義父の家は私たちの家から徒歩数分のところにありました。
この日、二人で映画(ファンタジア2000とポケモン)を観に行った私たち夫婦。妻を家の前でおろし、私はいつものように義父の家に車を返しに向かいました。

事件はその直後に起こりました。
当時、鉄筋三階建てのわが家は玄関が二階にありました。車を降りた妻が玄関口へと登ってゆく時、中庭が見下ろせます。その時、妻が見つけたのは、裏の家に潜む怪しげな賊です。妻がダレ?と問い詰めると同時に、妻は実家にSOSの電話をかけます。さらに、逃げようとする賊を確保しようと動きました。
そんな妻の動きを見た賊は、そうはさせじと向かってきます。

ちょうどその頃、何も知らない私は義父の家に着きました。すると、血相を変えて飛び出してきたのは義父と義弟。妻が襲われたとの話しを聞いた私は、車を止めて二人を追います。
家の前の道路では刃物を振り回す強盗に義弟が対峙していました。空手を習っていた義弟はすぐに強盗を取り押さえました。
そして、おっとり刀で駆け付けた刑事に強盗を引き渡し、まずは一件落着。とは行きません。

私たち夫婦はパトカーで町田署まで連れていかれました。そして、取り調べ室で事情聴取へと。
パトカーに乗るのも取り調べ室に入るのも初めて。そもそも、夫婦にとって妊娠自体が初めて。全てに慣れない私たち。妻にとっては朝まで続いた取り調べは相当応えたのか、この時の疲労とショックから切迫流産を起こしてしまいました。

切迫流産とは、流産には至らないけど流産寸前の状態です。大学病院への出勤などもってのほか。即刻でドクターストップです。
結果、妻は一カ月以上にわたって実家での安静を余儀なくされたのです。

連載の前回、前々回で書いた正社員の話は、ちょうどこの事件が起こり、妻の静養期間が終わるか終わったかの頃でした。

強盗に襲われた際、私自身の対応が間違っていたとは思いません。ですが、結果として私は義弟に手柄を譲ることになりました。本来であれば夫である私が強盗を撃退しなければならないはず。ここで妻を守れなかったことで、私は自分自身に対しての面目を大きく損ねました。
これではあかん!自分も成長しなければ!妻と子どもを守らなければ!

私が正社員の話を受けた背景には、このような出来事がありました。

ちなみにこの騒動には後日談があります。この強盗、なんと無罪放免になったのです。
なぜなら障がい者手帳を持っており、生活保護を受けていたからです。はるばる愛川町のあたりから夜の荒稼ぎに出かけるだけの元気があったにもかかわらず、です。検事の判断か何かは知りませんが、送検されなかったこの方は世に放たれました。
私はそれを後日、町田署のK刑事から教えてもらいました。この時のやるせなさといったら!
結果として、娘が無事に産まれたからよかったものの、もし何かあったら私はこの犯人を決して許さなかったでしょうし、社会福祉のあり方にも疑念を持ち続けたでしょう。
私は弱者には手を差し伸べるべきと思いますが、弱者がすなわち無条件に善だとは思いません。今もなおそう思います。
それはこの時の経験が大きく尾を引いています。この事件は、私に残っていた青い理想主義を大きく傷つけました。
この出来事をへて、私は正社員になる決意を固めたのです。妻は切迫流産の危険が去り、再び大学病院へと。

娘が生まれた感動


無事に妻の胎内にしがみついた娘(野母崎の鯉のぼりは息子の予兆ではなかったようです)は、順調に成長していきます。
私も妊娠中のママさん達の集まりに単身で参加し、男一匹、ヒーヒーフーとラマーズ法のハ行三段活用を一緒に唱え。つわりに苦しむ妻に寄り添ったり、夜中に妻に頼まれたものを買い出しに行ったりしたのもこの頃の思い出です。

2000年12/28。長女が誕生。二日にわたる難産でした。私も立ち会いました。

産まれた瞬間。それはもう、感動としか言い表せません。ただでさえ荘厳な出産。それに加えて、四重の婦人科系の疾患に加えて強盗による切迫流産の危機を乗り越え、私たちの前に姿を見せてくれたのですから。
出産直後の異様に長い頭に毛が生えておらず、歯がないことに動揺した私が口走ったあらゆる言葉はもう時効を迎えているはず。20年がたった今となっては笑い話です。

子どもを授かってから産まれるまでの一連の出来事。これは、私に大人の自覚を備えさせました。
それまでに持っていた自覚とは、私が心の中で作り上げただけのもの。思いが揺らげば、覚悟も揺れるいわば根無し草のような頼りないものです。
ところが子が産まれる奇跡は、私の思いをはるかに上回っていました。
私にはまだ身につけるべきものがある。知らなければならないことがある。
子どもに恵まれなかった可能性が高いのに、娘の顔を拝めたこと。そのありがたみ。もうちっと真剣に生きようと思わされました。

この頃の私に、起業という選択肢はみじんもありませんでした。それどころか、状況さえ許せば、私はこのまま勤め人であり続けたかもしれません。全てが無問題ならば。
ところがそうはうまく進まないのが人生。
私が結婚によって抱え込んでしまった責任。それが私にさらなる困難を背負わせるのです。
その困難とは家。私たち夫婦が住んでいた家が、私と妻の人生を大きく揺さぶりにかかってきます。

次回は家の問題を語る前に、初めてホームページを作った話を書いておきます。ゆるく長くお願いします。
ゆるく長くお願いいたします。


結婚20周年の旅 2019/11/22


さて、八ヶ岳の朝を迎えました。
11月の八ヶ岳は都内よりも秋の深まりをしんしんと感じさせてくれます。

まずは昨晩もお世話になった「YYグリル」の朝食ビュッフェで体を整え、丸山珈琲では優雅に朝のコーヒーで体と心を暖めまして。

しかも、コーヒーを飲んでいると、今日は観光するな、ここにいろ、といわんばかりの天候となり、リゾナーレ小淵沢は雨に降られました。

そのため、昨日に引き続き、終日をリゾナーレ八ヶ岳の中だけで過ごしました。
私にとっては実はもっとも苦手な時間の過ごし方。ところが妻にとってはそのような時間こそ求めていたのだそう。動き回らずにのんびりと過ごすゆったりした時間を。

昨日も訪れた「Epicerie Fine Alpilles」で長い間、ためつすがめつ商品選びに余念のなかった妻。迷った揚げ句、フランスのお店の写真があしらわれたエコバッグを購入し、まずはご満悦の様子。

午後は「Books & Cafe」で本に囲まれながら、それぞれ存分に一人の時間を使いました。
私はここで持ってきたパソコンを開いてお仕事もこなしつつ。

旅先に来ているにもかかわらず、どこにも出かけない。バカンスの本来の意味は「空」からきているといいますが、私は地方に来ているのにあちこちに出かけないという時間の過ごし方がもったいなく思えて本当に苦手です。多分、生き急いでいるのでしょうね。
旅に出ると毎度毎度、私にあちこち連れまわされていた妻にとっては、今回の旅のあり方が非常に嬉しかったそうです。

結局、私たちは17時半ごろまでリゾナーレ八ヶ岳で過ごしていました。

このホテルは妻や娘たちがお気に入りで、今までに何度も来ています。泊まりではなく立ち寄るためだけでも。

それほどまでに気に入っているこのホテルですが、実は最初の思い出は芳しくありませんでした。
それは長女がまだ乳児の時分。星野リゾートが運営に携わる前のことです。
その時の残念な対応が妻の中でしこりとなって残っていただけに、十年ほどたって再訪した時に受けた心温まる対応の数々にすっかり魅了され、今では何かあればリゾナーレというほどにほれ込んでいます。

私としてもkintoneのヘビーユーザーとして知られる星野リゾートさんには親近感を覚えています。
今回も貴重な時間を過ごさせてもらえました。感謝です。

最後にせっかく山梨に来ているのだからほうとうを食べていこうと、清里の小作まで足を延ばしました。
雨脚は相変わらず弱まらず、小作の広い店内には私たち夫婦以外はもう一組だけ。
小作には何度も来ているのですが、いつものにぎわった店内とは全く違う雰囲気が印象に残りました。これもまた、思い出に残る出来事でした。

また、こうやって夫婦で来られる日を願いつつ。


結婚20周年の旅 2019/11/21


結婚して二十年目の記念日。
本当は海外に行くなど、より思い出に残る旅をする予定でした。が、いろいろあって妻の気に入っているリゾナーレ八ヶ岳で夫婦の時間を過ごすことにしました。

とはいえ、この日は夫婦ともに日中に予定が入っていました。私は仕事の打ち合わせが入ってしまい、午前は恵比寿にいました。
まさに二十年前のこの日、披露宴を挙げたのが恵比寿。商談とはいえ、記念日に訪れられたのも何かのご縁でしょう。

この日は偶然にももう一つのニュースがありました。それは、弊社がサイボウズ社のオフィシャルパートナーになった記念の盾が届いたことです。盾が届いたので、弊社としても正式にその旨を告知することができました。

そこから家に戻り、車を駆ってリゾナーレ八ヶ岳に着いたのは17時半頃。
本来の私のスタイルならば、近隣を観光してからチェックインするはず。が、どこにも寄らず、いきなりホテルにチェックインしました。
でも良いのです。今回の旅はとにかくぼーっとしたい、との妻の意向があったので。

リゾナーレ八ヶ岳の街並みは、訪れるたびに新鮮な気分にさせてくれます。来るたびに装いが変わっているから。
今年は、ワインの空瓶をランプに見立て、それをツリー状に束ねたオブジェが見ものでした。
クリスマス仕様に装った街並みは、それだけで旅人の、そして夫婦の気持ちを盛り上げてくれます。

ここの街並みには、旅情に寄り添ってくれる店々が軒を並べています。
ここで私たちが長い間足を止めたのが、「Epicerie Fine Alpilles」というお店です。
このお店にはフランスからの輸入雑貨や食品が並んでおり、店内にいるだけで異国情緒が感じられます。

私たちはロゼシャンパンを買い求めましたが、妻はエコバッグに興味をひかれていた模様。とても長い間、商品を手にとっては返しを繰り返していました。
部屋に戻ってまずは結婚二十周年を祝って乾杯しました。

続いては本屋とCaféが併設された「Books & Cafe」へ。特に夕食までに終わらせるべき用事もなく、ゆとりの時間をたっぷりと味わいました。

そして夕食の「YYグリル」です。ここのビュッフェはリゾナーレに来るたびに訪れています。
今回は結婚記念日ということもあって、デザートもいただきました。美味しい食事に舌鼓を打った夫婦でした。

海外に行って豪勢な二十周年は過ごせなかったですが、妻にとってはのんびりできたことが何より嬉しかったそうです。
この時、すでに翌年の手術もほぼ決まっていただけに。


戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(https://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


DESTINY 鎌倉ものがたり


本作を観終わった私が劇場を出てすぐにしたこと。それは鎌倉市長谷二丁目3-9を検索したことだ。その住所とは作中で一色夫妻の住む家の住所だ。一色夫妻とは、堺雅人さん扮する一色正和と高畑充希さん扮する妻亜紀子のこと。作中、何度も映し出される一色家の門柱にこの住所が記されている。私はその番地を覚えておき、観終わったら実際にその番地があるのか検索しようと思っていたのだ。何が言いたいかというと、本作で登場する二人の家が実際に鎌倉にあるように思えたほど本作が鎌倉を描いていたという事だ。

その住所はおそらく実在しない。二丁目3-6と3-11は地図から地番が確認できるが、二丁目3-9の地番は地図からたどれないからだ。Googleストリートビューで確認すると、3ー9と思しき場所に建物は立っているのだが。ただ、ストリートビューでみる二丁目3-9の周囲の光景は、本作に登場する二丁目3-9とは明らかに違っている。それもそのはず。本作に出てくる鎌倉の街並みは、現代からみればノスタルジックの色に染まっているからだ。パンフレットに書いてあった内容によると、エグゼクティブプロデューサーの阿部氏からは1970-1980年代の鎌倉でイメージを作って欲しいと監督に依頼したようだ。つまり、その頃の鎌倉が本作の舞台となっている。

そのイメージ通り、冒頭で新婚旅行から帰ってきた二人の乗っているクラシックカーは江ノ電と海岸に挟まれた道を走り、江の島をバックにして有名な鎌倉高校前の踏切を折れ、山への道を進む。その光景の中には全く現代風の車は登場しない。走っている江ノ電の正面にある行き先表示は電光掲示板で、あれっ?と思ったが、どうもその車両は1000系のように思えた。調べてみると1000系の車両は1979年にデビューしたようだ。スクリーンで電光掲示を掲げた江ノ電を見た瞬間、本作の時代考証に疑問を抱きそうになったが、その車両ならギリギリ許されるのだろう。

本作はあちこちでVFXを駆使しているはず。ところが、公式サイトの解説によれば冒頭の車のシーンの撮影には苦労したようだ。それはつまりVFXに安易に頼らず、なるべく生のシーンを撮影しようという山崎監督の意識の高さの表われなのだろう。本作は山崎監督の抱く世界観が全編に一貫している。その世界観とは、原作の絵柄を生かしながら、懐かしいと思われるような鎌倉の街並みを再現しつつ、魑魅魍魎が登場してもおかしくない世界でなければならない。そんな難しい世界観の創造に本作は見事に成功している。監督が本作で作り上げた世界観が私にはしっくりとしみた。なお、私は原作は読んだことがないので、本作のイメージがどの程度作風を思わせる仕上がりなのかはわからない。でも、監督がその世界観の再現に相当苦労したであろうことは伺える。

何しろ、本作に登場する鎌倉は現実と幻想のはざまにある鎌倉なのだから。リアルすぎても不思議すぎても駄目。その辺りのさじ加減が絶妙なのが本作のキモなのだ。日本の古都には狐狸、妖鬽の類がふさわしい。京都などその代表といえる。鎌倉は京都と同じく幕府を擁した過去があり、寺社や大仏などあやかしのものを呼び寄せる磁力にも事欠かない。そのため、鎌倉にあやかしがうろついていても違和感がない。ただ、私は本作を観て、鎌倉とあやかしのイメージが親しいことに初めて気付かされた。今までまったくそのことに気づかなかったが、私にそのことに気づかせるほど本作の映像は絶妙だったのだ。

本作でみるべきは、鎌倉を装飾する監督のセンスだと思う。全編にわたって、鎌倉の何気ない路地や、緑地、砂浜が登場する。そこかしこにコマい魔物がうろちょろするのだ。そして現実も幻想もまとめて縫い付けるように走る江ノ電。本作には多くの伏線が敷かれている。その一つが一色正和の鉄道模型趣味なのだが、江ノ電が本作の映像の核になっていて、鉄ちゃんにもお勧めできること請け合いだ。

また、江ノ電が現世と黄泉を1日一度運行しているという設定もいい。海岸の砂浜にある現世駅はとても現実にあり得ない設定のはずなのに、江ノ電ならではの雰囲気をまとっていた。駅が好きな私でも許せるようなたたずまい。運行される車両はタンコロという鉄ちゃんには有名な車両。今も一両が由比ヶ浜で静態保存されている。そして、本作で現世駅が設置されている場所もたぶん由比ヶ浜にあるのだろう。砂浜に海岸と平行に軌道が延び、その先は黄泉へと通ずる渦がまいている。こういう江ノ電の使い方もとても興味深い。

本作は冒頭から一色夫妻の仲の睦まじさが全開だ。それはもちろん、終盤に正和が黄泉へと亜紀子を連れ戻しに行く展開の伏線になっている。伏線は他にもたくさんある。例えば夜店で亜紀子が正和に買ってとねだる鎌倉彫りの盆や、納戸の中で亜紀子が見つける像など、全てが黄泉の国でのクライマックスに向けて進んで行く。

黄泉の国に向けて走る江ノ電のシーンは本作でも印象に残る美しい映像が見どころだ。パンフレットによれば中国にまで赴いてイメージを作って来たそうだ。その甲斐があって、とても特徴的な黄泉の国のイメージに仕上がって居ると思う。死神によると黄泉の国のイメージは見た人が心に抱く黄泉の国のイメージが投影されるらしい。そうやって語り合う正和と死神の背後に映り込む黄泉とは、実は私自身が黄泉に対して抱くイメージなのだろうか。実は一緒に観た妻や娘にはスクリーン上の黄泉が違った風に映っているのだろうか、と思ったり。そう思わされる独創的な黄泉の国だったと思う。昭和30-40年代の家屋が斜面に積み重なったような黄泉のイメージとは、実にステキではないだろうか。

ただ、本作の美術や衣装、小道具をはじめとした世界観は良かったのだが、全体的な構成はアンバランスだったように思えた。もっと言えば前半部分が少し冗長だったかな、と。それは本作が原作のエピソードを複数組み合わせたことによるもので、仕方なかったかもしれない。例えば、一色正和が事件を推理し解決するエピソード。このエピソードが貧乏神への伏線となり、亜紀子の遺体探しのエピソードにしか掛かっておらず、本編全体にかからないなど。

それもあってか、本作の豪華な俳優陣の演技に統一感が感じられなかったのは残念だ。確かに一色夫妻を演じる二人はとてもよかった。でも、どことなく全編につぎはぎのようなぎこちなさが感じられたのだ。でも、それはささいなこと。娘たちはとても本作を気に入ってくれた様子。今までに観た日本映画で二番目に好きといっていたくらいなので。妻も私も本作はよかったと思う。

ここまで鎌倉を妖しく魅力的に描いてくれたからには、行きたくもなるというもの。その際はぜひとも事前に原作をしっかり読んでから散策したいと思う。

’2018/01/03 TOHOシネマ日劇


武田家滅亡


武田家滅亡。そのものズバリの題名だ。だが、私にとってこの題名はそれだけではなく、何か響くものを感じる。

それは、私にとって武田家とは滅亡した一族ではないからだ。

確かに戦国大名としての武田家は、最後の当主勝頼公が勝沼近くの天目山で自害して滅んだ。と、されている。が、滅亡の際、武田家に縁のある人々が八王子辺りに逃れたことは戦国史に詳しい方なら既知の話だと思う。私の妻が昔から親戚同然でお付き合いしている方は、まさしく八王子の武田さんという。私も以前、自宅にご招待頂いたことがある。詳しい系図を伺ったことはないが、おそらくは直系でないにせよ、武田家初代義光公のご縁に連なる一族なのではないか。

我が家は「週末は山梨にいます」と銘打たれた観光ポスターのコピーがはまるほど、頻繁に山梨を訪れている。また、ここ数年は友人と連れ立って武田家関連の史跡の訪問も重ねている。ただ、私にとって心残りなのは、未だに天目山の景徳院に訪問できていないことだ。それもあって武田家滅亡については一度きっちり勉強したいと思っていた。そんなところに本書を見かけ、手に取った。

だが、本書を手に取ったのは題名もあるが、著者の存在も大きい。というのも本書を読む8ヶ月ほど前、先に書いた友人と共に著者の講演を拝聴させてもらっているからだ。それは小田原市で行われた嚶鳴フォーラムでのこと。著者は北条氏五代を題材にとり、小田原の城郭都市としての成り立ちについて話されていた。その講演の際、私の印象に残っているのは、自己紹介でIT系の会社から作家への転身を成し遂げたとのくだりだ。IT系の会社から歴史作家への転進というのは、なかなか興味深い。私が飯を食っているITの世界の激務の合間を縫い、歴史を紐解きそれを物語りとして世に問うことは早々出来ることではない。それで著者にはなおさら興味を持った。それ以来8か月、本書が私にとってようやくの著者デビューとなる。

本書の舞台は戦国時代の甲斐国。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてすぐの武田家の本拠が舞台だ。武田家は信玄公亡き後、勝頼公が後を継ぐ。が、武運拙く長篠の戦いで一敗地に塗れることになる。本書では長篠合戦大敗の後、再起を果たさんとする勝頼公を中心に、それぞれの思惑を抱えた武田家の人々が描かれる。

複数の人々の思惑を描くにあたり、本書は複数の視点を語り手として物語を進める。その視点とは勝頼公、勝頼公の継室で北条夫人として知られる桂、そして長坂釣閑斎、などの人々のそれだ。

戦国時代といえば下克上の世として知られている。しかし、主従の縛り以上に軽視されたのは契約と女性だ。とくに武田家が治める甲斐は、相模の北条、駿河の今川、のちに徳川、そして越後の上杉などの強国に囲まれる地勢にあった。外交が固まらないことには国の経営も難しい複雑な国情。そんな山国が戦国の世を乗り切るには、犠牲にしなければならないものも多々あったはず。それは契約に左右される人々の運命であり、政略結婚という名の輿入れを強いられた女性たちだったろう。そして、信玄公の治下、一枚岩だった人々の思いは、その重石が取れたことによって千々に乱れ、それが武田家を滅亡へと導いて行く。

著者の筆さばきは、このあたりの人々の思惑を丹念に描いていく。それぞれの時局でなぜそのような判断、決定が成されたかをおざなりにせず、きっちり書き込む。そのあたりの論理の構築と、プロセスの進展は見事というほかない。著者がIT業界で培ったスキルの賜物だろう。

山に囲まれた武田家がなぜあれほどの軍勢を養えたか。その財源が黒川金山と湯之奥金山から算出される金にあったことは、武田家に関心がある方にとってはよく知られる事実のようだ。私も以前、湯之奥金山に訪れたことがあるが、往時はかなりの金産出量を誇っていたと聞く。それが信玄公存命中から枯渇の兆しを見せたことが、武田家の政策を誤らせたと著者は見る。

教科書的知識では、武田家の衰滅の因は長篠の戦いで騎馬軍団が信長軍の鉄砲隊に全滅させられたことにある。しかし、著者はそこに決定的な原因を置いていない。武田家の軍勢は長篠の大敗後もまだ戦国大名としての体裁を保っていた。しかし、著者の解釈では、長篠の戦いで信玄公の薫陶を受けた宿老たちが戦死し、そこに乗じて権勢を手にしたのが長坂釣閑斎で、彼が国策を誤らせた元凶としている。

釣閑斎は、信玄公直々の薫淘を受けた宿将ではない。どちらかといえば信玄公の父信虎公に属していた。そのため、信玄公の治下にあっては不遇を囲っていた。また、信玄公の嫡男義信公が、父への謀反を疑われて自害を命じられた事件に連座して我が子源五郎を殺されている。本書は、釣閑斎がその処遇に関する私怨を宿老たちに抱いているとの設定だ。そのような暗さを視線に含む釣閑斎が、枯渇した金山の替わりとなる財源を求めているところに、上杉景勝公の名代として訪れた直江兼続の見せ金に目がくらみ、伊豆の土肥金山を狙って北条との絆を断ったのが武田家衰亡のはじまり。そう著者は分析する。このあたりは甲陽軍鑑にも書かれている話らしく、真偽は不明ながらも一定の評価を得た史観を題材に筋が組み立てられていることがわかる。ただ、それだけでは足りないので、釣閑斎に宿老への暗い私怨を抱かせ、それが信玄公の遺した国策と違った方向へ武田家を導いたというのが著者の描いた構図である。

本書の幕開けは、北条家から勝頼公の正夫人として政略結婚で輿入れしてきた桂の描写で始まる。だが、桂と勝頼公の蜜月は、北条家と武田家を土肥金山欲しさに離間させようとする釣閑斎の謀りの前に、あっけなく崩される。しかし、勝頼公に遠ざけられてもなお勝頼公を信じ、武田家のために生きようとする桂のけなげさが、政略ロジックが縦横する本書にあって、彩を放っている。

一方、甲斐武田家最後の当主である勝頼公。ともすれば暗君として見られがちな勝頼公は、最近の研究ではむしろ武に優れ、英明な君主だったとの見方をされている。だが、自身が諏訪氏を継ぎ、信玄公の治下にあっては世継ぎではなく義信公の下に置かれていた立場から一点、義信公の謀反死によって後継ぎの座を得られた。そんな経緯が勝頼公に遠慮を抱かせ、それが君主としての隙を産み、ひいては釣閑斎に乗じられる悲劇を生んだというのが著者が勝頼公に投げるまなざしだ。なので、本書が勝頼公を書く筆致には愚かさというよりは哀しみを感じさせる。釣閑斎の奸計で遠ざけられた後、桂が勝頼公の誤解を解き、再び夫婦として愛を育む。その時すでに二人には残された時間は限られており、事態は急流のように二人を死へと追いやる。そのあたりの悲哀が武田家滅亡を弔う調子となって効果的に響く。

本書で二人の夫婦の周辺を固める人物達の造型も実に豊かだ。

釣閑斎が権勢を築くなか、釣閑斎の政策への反対派として追放した武士が何人か登場する。そのうち小宮山内膳は修験者や旅の僧に身をやつし、武田家に恩返しする日を待っている。また、同じく追放された辻弥兵衛は徳川に仕官するために間者に身を落とし、武田方の高天神城の落城に暗躍し徳川方に恩を売ろうとする。

その高天神城では伊那の地侍の片切監物と宮下帯刀と四郎佐の親子三代が徴兵され、守りについている。高天神城の落城後、城内にいた武田家の姫君を甲斐へ落ち延びさせる役割を担い、勝頼公の敗走ルートを辿ることになる。

こういった人々が、武田家の最期に向かって天目山に集ってゆく。そして武田家の最期を飾るに相応しい舞台の登場人物としてそれぞれの役割を果たす。最期の最期まで辻弥兵衛の策に踊らされ、勝頼公と桂が一縷の望みを掛けた亡命策まで奪われてしまう筋の組み立てには隙がない。小山田信茂公も土壇場で主君を見限った不忠者として後世に汚名を残しているが、案外真相は本書で書かれたような徳川方の離間策に嵌ったためではないだろうか。そして小宮山内膳は最後に盟友辻弥兵衛を武田家の家臣として名誉のうちに葬り去り、片切四郎佐は四郎佐は勝頼公の最期まで共に戦い、命を落とす。共に武士道を体現したかのような鑑のような最期を遂げる。そしてその父帯刀は姫君を八王子まで落とすという役割を全うする。

あの武田軍団が最期は十数騎を数えるほどまで残骸をさらし、勝頼公と桂は、そして嫡男である信勝は武田家の最後に恥じぬ自死を遂げる。そして全てが終わった後に姫君を送り届けた帯刀が彼らの遺骸を懇ろに葬り、故郷の伊那に帰ったところで物語は終わる。

武田家の家臣達の多くは徳川家に丁重に迎えられ、江戸時代を全うした家も多いと聞く。あまりにあっけなく滅亡した武田家だが、早晩山国の甲斐では衰退は避けられなかったのかもしれない。しかし「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉を残した信玄公は未だに甲州各地で偲ばれている。それは伊那に帰った帯刀のような人物がその威徳を伝え残したためだろう。国破山河在で知られる杜甫の春望を例に引くとすれば、国破人声在と400年以上も人々の声を残し続けたのが武田家だったのではないか。

見事な滅亡の謎解きと、ロジックを越えた所にある人の心情や友情を書き尽くした著者はただただ見事。IT系の企業出身であることは嚶鳴フォーラムの自己紹介で知っていた。が、本書の奥付の記載で著者が日本IBM出身であることを知った。猛烈に働く人々の多いかの会社から著者のような作家が登場したことに例えようもないほどの励みをもらった。行きたいところがありすぎる私だが、なるべく早く天目山には訪れたいと思っている。おそらくは著者も立って、武田家に思いを馳せた場所で。

‘2015/9/24-2015/9/28


ウィスキー検定3級合格


昨夜、私の元に第3回ウイスキー検定の合格証が届きました。今年の2/7に妻と一緒に3級を受験した結果です。私は77点しか取れず、妻は52点で不合格。正直言って私にとっては不本意な得点でした。3級と侮り9割は取れると思っていた驕りを自分で戒めなければと思っています。負け惜しみにしか聞こえないのですが、3級の出題レベルは相当上がっていました。
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実はこの検定、昨年の第2回(2015/5/31)の際に受ける予定でした。が、法人設立直後ということもあり断念した経緯があります。元々ウイスキー検定については、麹町のBar LittleLinkさんから御紹介頂いていました。丁度、第1回(2014/12/7)が開催された少し後の事です。その場では、名古屋のウイスキー好きの愛好家ともお知り合いになる機会を頂きました。そこでお互い第2回を合格したらまたこのBarで会いましょうという約束を交わしました。が、私は上に書いた理由で第2回の受験を断念せざるを得なくなりました。以降、Bar LittleLinkさんには顔向けできない状態でしたが、ようやくこれで伺えます。

今回、私だけでなく妻も受験したのには理由があります。昨年10/11に妻と「SAITAMAブリティッシュフェア2015」を訪れました。「SAITAMAブリティッシュフェア2015」にはスコッチ文化研究所(この春からウイスキー文化研究所に名称変更)さんが出展されていたのです。私から感化されたのか、妻もウイスキー好きとなってくれ、老後の夫婦の愉しみがまた一つ増えています。GlenFiddichをこよなく愛する妻に、もっと色んなウイスキーを経験してもらえれば、と思ったのが夫婦で訪れた理由となります。

そして、このブースには土屋守氏も来ておられました。土屋守氏といえば世界のウイスキーライター五人にも選ばれ、かの「マッサン」のウイスキー考証・監修も担当されています。私自身、20年前からウイスキーに親しんでいますが、土屋氏の著作は何冊も持っています。私も土屋氏とツーショット写真を撮らせて頂き、その場でトートバッグにもサインして頂きました。著書を持ってこなかったのが悔やまれます。そして、その場で土屋氏から受験を薦められた妻は、一念発起で受験してみようと思ったのでしょう。私も受験勉強の時間がなかなか取れず、2級合格の自信が持てなかったこともあり、共に3級を受験しました。あまり勉強せずとも3級なら受かるでしょ、との驕りとともに。
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GlenFiddich好きの妻は、ほとんどウイスキーの背景など知らず、私に何度か蒸留所に連れて行かれたくらい。受験直前に付け焼刃で学んだのもいいところでしたが、それでも52点取れたのだから、その努力は大いに褒めても良いと思います。正直、今回の3級のレベルは以前の2級のレベルにも匹敵するのではないかと思います。それほど高度でした。

でも、それは私が77点しか取れなかったことの言い訳にはなりません。勉強すれば2級も難しくないと思っていたし、Bar LittleLinkの方からも、そこで知り合った名古屋の方にも2級受かるでしょう、と言われましたが、これでは到底受からなかったでしょう。まだまだ自分の勉強不足を痛感します。

私自身、今まではこういった資格取得を軽んじていました。本業であるIT系の資格ですら、10数年受けていません。実際、現場でもお客様に対しても資格の有無を問われることはほぼありません。それでも仕事はこなせます。また、最近は色々な資格が乱立しています。「真田三代戦国歴史検定」「ベルサイユのばら検定」「たこ焼き技能検定試験」などなど。それはもはや、資格商法と言われても仕方ないほどの乱立振りです。実際のところ、私もそう思って馬鹿にしていたことを白状しなければなりません。

しかし、ウイスキー検定は少なくとも私にとって歯ごたえのある試験でした。普段仕事を行いながら、趣味で道を究めることは簡単なようでいて実は難しい。客観的なフィルターを経ることがないので、自分の知識に対して夜郎自大になりかねない。今回のウイスキー検定は、そのことを私に教えてくれました。乱立する色んな資格も実は馬鹿にしたものではないとまで思うようになっています。

次回は2017/2に実施されるとか。私は2級を、妻は3級を。再び一緒に受験しようと思っています。夫婦でこうやって何かの道を一緒に勉強できることって、素晴らしいことだと思います。ゆくゆくは夫婦でスコットランドへ。これも目的の一つです。私にとってのウイスキーの師匠とも呼べる方が大阪にいらっしゃるのですが、この方も何度も夫婦でスコットランドに行かれているのだとか。私の今後の目標でもあります。


ビッグ・ドライバー


先日紹介した1922のレビューで、本書は、4つの中編を編んだ「Full Dark, No Stars」のうち、「1922」と「公正な取引」の2編を文庫化したものである、と書いた。残りの2編が納められているのが本書である。

1922のレビューにも書いたが、著者がその類い希なる力量を注いだ表題作「1922」は、間違いなく傑作である。「Full Dark, No Stars」と題した原題からは光を拒絶した、暗く塗り潰された物語を想像する。確かにダークではあるし、表題作こそその様な作風だが、もう一編の「公正な取引」はギャグ的なブラックユーモアに満ちた一品である。では、本書に収められた残りの二編はどのような内容だろうか。

表題作でもある「ビック・ドライバー」は復讐譚である。作家である主人公は、講演の帰り道、車がパンクするというトラブルに見舞われる。さらには、通りがかりに助けを求めた巨漢に廃屋でレイプされ、あわや殺されそうになる。彼女の味わった恐怖と絶望、そして命からがら逃げ帰った後の激烈な怒り。キング一流の心理描写が主人公の感情の流れを鮮やかに写しだす。自分の名声を擲ってまでも主人公は復讐を遂げるのだが、復讐過程にも一捻り加える。つまりは鬱憤を晴らし、溜飲を下げるような筋書きには持って行かない。あえて謎解きの要素も若干散りばめ、通りのよい復讐劇に不可解な謎を散りばめ、混乱の色を加える。そうすることで物語から救いを消し去る。そして残るのは重苦しい読後感だけ。

もう一編の「素晴らしき結婚生活」は、長年の幸福な結婚生活を楽しむ主婦が、夫の連続殺人犯としての素顔に気付き、戦慄する話。

夫の正体に気付いた後、どのような筋運びがよいか。私のような素人でも何通りかの筋は考え付くことができる。しかし、著者が選んだ筋は意表を突いたもの。ありきたりな結末に終わらせることなくまとめるあたり、さすが巨匠である。明るく平穏な親しい人の裡に潜む、他人にはうかがい知れぬ闇。一読すると明るい彩りで物語は進むが、ガレージのわずかな隙間から、闇は夫婦の間に忍び込む。闇の射し込み加減を効果的に活写する技巧には、ほれぼれする他はない。

「ビッグ・ドライバー」が、ある日突然襲い来る暴力の不条理をギラギラと攻撃的に尖った漆黒の暗色だとすれば、「素晴らしき結婚生活」の暗さとは、光の眩しさの対極にある影の作り出す陰影の色だろうか。「1922」は、あらゆる光を吸収し、底しれぬ闇の色で塗り潰し、「公正な取引」は読者の心をくすぐり、賑やかで楽しげな構図を、グレイと黒の二色で塗り分ける。

4編のダークな中編を、単一で平板な黒ではなく、多彩な濃淡で書き分けるところに、著者の巨匠たる所以がある。

‘2014/9/13-‘2014/9/16