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翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて


何も考えずに笑える映画が見たい。
そんな妻の希望に応えて観てきた。

本作は『翔んで埼玉』の続編だ。私は『翔んで埼玉』を家族と一緒にテレビで見たことがある。
虐げられる埼玉と支配する東京、そして周囲に蟠踞する県の関係はとても斬新だった。いわば、県民ショーのようなアプローチだ。
旅を愛する私としては楽しめた。

本作は何も考えずに楽しむべき映画なので、レビューなど無粋な営みは本作にはむしろ邪魔だと思う。本来ならばこの記事を書く必要もない。
だが、私にとって本稿は観劇記録を残すための場である。そのため、あまり堅苦しい内容にならないように書き残しておく。

本作は近畿を舞台にしている。
前作で舞台となった埼玉や東京や千葉や神奈川は本作にはほとんど登場しない。

では「翔んで埼玉」なのにどう翔べば舞台が近畿になるのだろうか。

前作も含めて「翔んで埼玉」で描かれる世界は、私たちの住む日本とは別の世界、別の時間線からなっている。
それでいながら、この後で例を挙げる通り、私たちがよく知る地形や建物、ランドマークや文化風土が登場するのが本作の面白さだ。むしろ、ずれていることに面白さがある。

近畿に無理やりつなげる話の流れは、埼玉から東京に伸びる六路線の争いを発端とする。
東武、JR、西武は東京に進出することだけに血道をあげ、埼玉を横につなげようとする構想には目もくれない。バラバラの埼玉を一つにまとめるため、主人公の麻実麗は越谷に海を作ろうとする。そこで和歌山の白浜まで行くことから本作の物語は動き出す。

そもそも、埼玉に武蔵野線を作りたいとの切実な願いがすでに現実世界を無視している。現実に存在する武蔵野線の存在は本作では当然のように無視されている。そこにツッコミを入れてはいけないのだ。

そして、一行が訪れた近畿のあちこちは、かなり異様な場所に変えられている。
アホらしくてなんぼの本作ではあるが、元関西民の私から見ても、そのくだらなさとぶっとび具合は何度も声を出して笑わされた。

たとえば、片岡愛之助さんが演ずる大阪府知事は冷酷かつド派手。隈取りのようなメイクがまた憎々しさを醸し出している。通天閣のふもとの新世界あたりに登場する知事の背後には通天閣がそびえ、周りを親衛隊のような連中が囲む。当然その親衛隊が身を包むユニフォームは黄色の縦縞。まさにタイガースのイメージそのものである。
このような吹っ切れた戯画感は本作の面白さに確かに貢献している。忖度無用でガンガン突っ込んだ笑いがいい。滑ろうが受けようがお構いなし。関西を知らない方にとっては本作は面白みを感じにくいかもしれないけど、それも気にしない製作陣のすがすがしさが素敵だ。だからこそ、私たちも面白さを感じて大笑いする。

極め付けは、大阪府知事に逆らったものはすべて甲子園の地下に放り込まれる設定だ。
甲子園出身の私としては、地元をおちょくりおってという苛立ちより前に、甲子園の地下を巨大な労働収奪の地獄に変えてしまう発想に笑うしかなかった。
「甲子園へ放り込んだれ〜!」と吠える大阪府知事の台詞回しは流石の一言。

海外のヒーロー物の映画にもこのような地下牢獄(『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のような)が出てくるが、監督の年齢はひょっとして私と同年代ではなかろうか、と思わせられた。
そこで働く労働者の姿は、完全にチャーリーとチョコレート工場に登場する映像そのものであり、ウンパルンパそのものを堂々とパクり、完全に確信犯として笑いをとりに来ている。

私の故郷兵庫ですらも、芦屋とそれ以外の街の間といった具合に分けられている。
それでいながら藤原紀香さん演じる市長は神戸なんやからようわからん。
そうした思い切った区分けの仕方が本作の良さだ。

裏で何を考えているかわからない京都人のことも揶揄されている。そこに登場する山村紅葉さんの強烈な存在感は、神戸市長と不倫している設定の川崎真世さん扮する京都市長すら凌駕してしまっていた。
その一方で、大阪や兵庫に比べると印象の薄い和歌山と奈良の気の毒なこと。例えば一行が最初に訪れた和歌山など、白浜を除けばパンダしか出てこない。奈良も鹿とわずかな出番のせんとくん以外はスルーされている。うーん。

和歌山や奈良をさしおいて、本書のサブタイトルに祭り上げられている琵琶湖。
だが、かつて甲子園に住んでいた私にとって、琵琶湖や滋賀のイメージは実はそれほど強くなかった。たとえ琵琶湖が近畿の水がめであり、淀川を通じて琵琶湖から水の恩恵を受けていたにもかかわらず。

そのような各県のあいだの歪んだ距離感も本作に描かれる面白さだ。
本作の中では、琵琶湖のすぐそばに甲子園があるような感じで描かれている。だが、電車でもこの距離は近くはない。むしろ小旅行ですらある。
そもそも、甲子園が大阪の牢獄と言う時点でもう時空が歪みまくっている。

本作には最新の近畿の名所が登場しない。肩で風を切って歩いているはずの「あべのハルカス」や「空中庭園」も出てこない。「USJ」も全くと言ってもいいほど登場しない。
そのかわりに本作に登場している近畿って、一昔前の近畿ちゃうの?
監督の世代ってひょっとして私と同じ位で、しかも若い時期に上京したんと違う?と思いたくなった。知らんけど。

東京の誰かが関西に抱いているなんとなくの知識の断片をさらに拡大すると、本作で描かれたような感じに戯画化されるんやろか。

これは元関西人としてはとても気になる視点だ。
なるほど、私が上京した当時もそういうふうに思われていたんやろか、と。
この視点は、もう少し視野を広げれば外国の方が日本に対して思うステレオタイプなイメージにも通ずるのかもしれない。例えば、ハラキリ、カロウシ、ゲイシャ、スシ、ポケモンのような。

本作を見ていると、自分の中の故郷への視点と、世間の人、特に関東の人が近畿に対して抱くイメージのどちらが正しいのか、自信を無くす。

実は旅をしない一般の方にとって、近畿のイメージとは、古い情報からアップデートされていないのだろうか。インターネットが情報を簡単に提供する今の時代にもかかわらず。

そうした困惑を私に引き起こす本作。そうした認識のずれも含めて記憶に残る映画だった。

‘2023/12/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


破れた繭 耳の物語 *


耳の物語と言うサブタイトルは何を意味しているのか。

それは耳から聞こえた世界。日々成長する自分の周りで染みて、流れて、つんざいて、ひびいて、きしむ音。
耳からの知覚を頼りに自らの成長を語ってみる。つまり本書は音で語る自伝だ。
本書は著者の生まれた時から大学を卒業するまでの出来事を耳で描いている。

冒頭にも著者が書いている。過去を描くには何から取り出せばよいのか。香水瓶か、お茶碗か、酒瓶か、タバコか、アヘンか、または性器か。
今までに耳から過去を取り出してみようとした自伝はなかったのではないか。
それが著者の言葉である。

とは言え音だけで自伝を構成するのは不可能だ。本書の最初の文章は、このように視覚に頼っている。
一つの光景がある。
と。

著者は大阪の下町のあちこちを描く。例えば寺町だ。今でも上本町と四天王寺の間にはたくさんの寺が軒を占めている一角がある。そのあたりを寺町と呼ぶ。
幼い頃に著者は、そのあたりで遊んでいたようだ。その記憶を五十一歳の著者は、記憶と戦いながら書き出している。視覚や嗅覚、触覚を駆使した描写の中、徐々に大凧の唸りや子供の叫び声といった聴覚が登場する。

本書で描かれる音で最初に印象に残るのは、ハスの花が弾ける音だ。寺町のどこかの寺の境内で端正に育てられていた蓮の花の音。著者はこれに恐怖を覚えたと語っている。
後年、大阪を訪れた著者は、この寺を探す。だが幼き頃に聞いた音とともに、このハスは消えてしまったようだ。
音はそれほどにも印象に残るが、一方で、その瞬間に消えてしまう。ここまで来ると、著者の意図はなんとなく感じられる。
著者は本書において、かつての光景を蘇らせることを意図していない。むしろ、過去が消えてしまったことを再度確認しようとしているのだ。
著者は、日光の中で感じた泥のつぶやき、草の補給、乙行、魚の探索、虫の羽音など、外で遊んで聞いた音を寝床にまで持ち運ぶ。もちろん、それらの音は二度と聞けない。

昭和初期ののどかな大阪郊外の光景が、描写されていく。それとともに著者の身の回りに起こった出来事も記される。著者の父が亡くなったのは著者が小学校から中学校に進んだ歳だそうだ。
しばらく後に著者は、父の声を誰もいない部屋で聞く。

時代はやがて戦争の音が近づき、あたりは萎縮する。そして配色は濃厚になり、空襲警報や焼夷弾の落下する音や機銃掃射の音や町内の空襲を恐れる声が著者の耳をいたぶる。

ところが本書は、聴覚だけでなく視覚の情報も豊富に描かれている。さらには、著者の心の内にあった思いも描かれている。本書はれっきとした自伝なのだ。

終戦の玉音放送が流れた日の様子は、本書の中でも詳しく描かれている。人々の一挙手一投足や敵機の来ない空の快晴など。著者もその日の記憶は明晰に残っていると書いている。それだけ当時の人々にとって特別な一日だったに違いない。

やがて戦後の混乱が始まり、飢えに翻弄される。聴覚よりも空腹が優先される日々。
そのような中で焼け跡から聞こえるシンバルやトランペットの音。印象的な描写だ。
にぎやかになってからの大阪しか知らない私としては、焼け跡の大阪を音で感じさせてくれるこのシーンは印象に残る。
かつての大阪に、焼けただれた廃虚の時代があったこと。それを、著者は教えてくれる。

この頃の著者の描写は、パン屋で働いていたことや怪しげな酒を出す屋台で働いていたことなど、時代を反映してか、味覚・嗅覚にまつわる記述が目立つ。面白いのは漢方薬の倉庫で働いたエピソードだ。この当時に漢方薬にどれほどの需要があるのかわからないが、著者の物に対する感性の鋭さが感じられる。

学ぶことの目的がつかめず、働くことが優先される時代。学んでいるのか生きているのかよくわからない日々。著者は多様な職に就いた職歴を書いている。本書に取り上げられているだけで20個に迫る職が紹介されている。
著者の世代は昭和の激動と時期を同一にしている。感覚で時代を伝える著者の試みが読み進めるほどに読者にしみてゆく。五感で語る自伝とは、上質な歴史書でもあるのだ。

では、私が著者と同じように自分の時代を描けるだろうか。きっと無理だと思う。
音に対して私たちは鈍感になっていないだろうか。特に印象に残る音だったり、しょっちゅう聞かされた音だったり、メロディーが付属していたりすれば覚えている。だが、本書が描くのはそれ以外の生活音だ。

では、私自身が自らの生活史を振り返り、生活音をどれだけ思い出せるだろう。試してみた。
幼い頃に住んでいた市営住宅に来る牛乳売りのミニトラックが鳴らす歌。豆腐売りの鳴らす鐘の響き。武庫川の鉄橋を渡る国鉄の電車のくぐもった音。
または、特別な出来事の音でよければいくつかの音が思い出せる。阪神・淡路大震災の揺れが落ち着いた後の奇妙な静寂と、それを破る赤ちゃんの鳴き声。または余震の揺れのきしみ。自分の足の骨を削る電気メスの甲高い音など。

普段の忙しさに紛れ、こうした幼い頃に感じたはずの五感を思い出す機会は乏しくなる一方だ。
著者が本書で意図したように、私たちは過去が消えてしまったことを確認することも出来ないのだろうか。それとも無理やり再構築するしかないのだろうか。
五感を総動員して描かれた著者の人生を振り返ってみると、私たちが忘れ去ろうとしているものの豊かさに気づく。

それを読者に気づかせてくれるのが作家だ。

‘2020/04/09-2020/04/12


Cybozu Days 2020 Osakaに登壇して


12/3にグランフロント大阪で行われたCybozu Days 2020 Osakaに参加してきました。
https://cybozuconf.com/

今年のCybozu Days 2020は弊社および私にとって、記憶に残るイベントとなりました。初物尽くしだったからです。

まず、11月に幕張メッセで行われたCybozu Days 2020 Tokyoでは、初めて展示ブースにスポンサーとして出展する経験ができましたブログ
さらに、今回のOsakaでは初めてイベントに登壇することができました。

昨年までの私は、そのどちらも未経験でした。
エバンジェリストなのだから登壇の一、二度はあってもよさそう。にもかかわらず、今までCybozu Daysでは登壇したことがありませんでした。
そのことに忸怩たる思いを抱いていたので、今回、EvaCamp 2020のエバンジェリストの一人として登壇できたことはよかったです。
2015〜2017年頃の私は、常駐先がとても忙しく、Cybozu Daysに行くことすらもままなりませんでした。いつエバンジェリストを契約解除になってもおかしくない状態。
その頃に比べると、こうやってCybozu Daysに参加できることがうれしく、感慨もひとしおでした。

しかもEvaCamp 2020の当日にはキンスキ松井さんがお送りするkintoneマニアへお招きいただき、同じエバンジェリストの矢内さんと一緒に出演までできました。数日前にお話をいただき、トントン拍子に。

私は松井さんがYouTubeで展開するキンスキラジオにも出たことがありません。松井さんとはkintone Caféで一緒に登壇した程度。
それが今回、こうやって場をご一緒できたことが喜ばしい。松井さんありがとうございます。

kintoneマニアのTogetterまとめはこちら

それにしても、今回のような大掛かりのイベントに出たことは、多くの学びにつながりました。
映像・音声・演出・進行・テロップ・美術・ナレーター・司会とスタッフが隙もなく配置された現場。
サイボウズの社員さんですら出演者であり、あとの一切は百戦錬磨の演出のプロが仕切っています。

おそらくテレビの現場も、同じような緊張感に満ちているのでしょう。その緊張感とは、私たちがモニター越しで見ていても決してわからないものだと思います。
ただ、その緊張感は、イベントを成功させねばならない運営スタッフの方々の醸し出すもの。出演者の立場としては、ピリピリした胃の痛くなる雰囲気はありませんでした。むしろ程よい緊張感だったと思います。すべてが委ねられており、セミナーやイベントを実施するよりも楽でした。
こうした雰囲気は、今までの視聴者や観覧者の立場では知り得なかった気づきでした。

ただ、よい緊張感とはいえ、私自身の未熟さは否めません。
私は前日のリハーサルにも参加しました。その時には、もっと声を張らなければと思ったのです。
にもかかわらず、本番ではすっかりそれが頭から飛んでしまいました。不慣れと未熟さの証しですね。正直、怖くて本番の動画は見られそうにありません。
ただ、こうした失敗を数多く経験することで人は成長します。おそらく、場数を踏んでいけば多少はましになるはずです。私も最初の頃は悲惨でしたから。
引き続き、こうした登壇の機会をいただけれるよう、精進したいと思います。

EvaCamp 2020のTogetterまとめはこちら

また、今回のCybozu Days 2020 Osakaは、私が初めて参加した大阪のCybozu Daysです。
兵庫で育ち、大阪の大学に通っていた私にとって、故郷で開催されるCybozu Daysに参加するのは悲願でした。
そんな私が今年は夏前にサイボウズ大阪支社に初訪問できました。そして秋にはCybozu Days Osakaに参加し、登壇までできました。これらは間違いなく私の思い出に残ることでしょう。

来年、果たしてコロナがどうなっているか、そしてCybozu Daysが開催されるのか。誰にもわかりません。
でも、もし開催されるとすれば参加したいですね。
その時は、ブースに出展するネタは新機軸で、しかも異質な感じで打ち出したいです。
また、登壇の際には、壇上で頭の中が真っ白になっても、即座に何かを捻りだせるくらいのkintoneへの絶えざる関心を持ち続けたいです。
kintoneへの関心と愛着を持ち続けていけば、来年も良い時期を迎えられるような気がします。

最後になりましたが、皆様に御礼を申し上げたいです。
コロナで急遽オンライン開催になってしまったにもかかわらず、見事なイベント運営はさすがです。
会場設営の皆様、サイボウズ社の皆様、一緒に登壇したエバンジェリストやパートナーの皆様、よい経験をありがとうございました。


かくれスポット大阪


本書は大阪人権博物館ことリバティおおさかで購入した。リバティおおさかを訪れたのは、私の記憶が確かならば二度目のはず。前回の訪問は私がまだ学生の頃だった。あれから二十三年がたち、それなりに社会経験を積んだ私。だが、リバティおおさかとその近辺の風景から受けたこの度の印象は当分消えないだろう。

今回、リバティおおさかを訪れる前に南海汐見橋線の沿線を歩いた。汐見橋駅、芦原橋駅、木津川駅。これらの駅にはだいぶ以前にも訪れたことがある。その時はただひなびた田舎駅、という印象しか受けなかった。だが、久々に訪れた私の目に映ったのはまったく違うイメージだ。特に木津川駅から発せられていた荒廃のメッセージは非日常の極み。その強烈さは私に大いなる印象を刻みこんだ。

今の私は東京で暮らしている。都心も頻繁に訪れる。世界一ともいえる乗降客数を誇る新宿駅を筆頭に活気に満ちた駅の数々。それらの駅は頻繁に改築され、ゴールがないかのように洗練され続けている。私はまた、駅鉄と称して各地の駅をめぐっている。各地の駅を見て来て思うのは、過疎に悩む駅もそれなりの素朴さを身にまとっていることだ。寂れていてもそれが周囲の自然と調和していれば好感はもてる。私にとって駅とはその地の玄関口であり、その地の雰囲気を体現する存在なのだから。

だが、不遜と言ってよいほど見捨てられた木津川駅の風景。それは私の眼には異形の存在と映った。駅前には浮浪者がねぐらを確保しており、がれきが駅の出入り口のすぐ前に積まれている。寂れた工場があたりを覆い、疎外されたような粗末な民家が並ぶ。金網で意味ありげに囲われたスペースが駅前にあり、その空間が無言の圧迫感を与えてくる。乗降客はおらず、駅前には商店が皆無。住民すら通りがからぬ凍った街並み。

その衝撃も覚めやらぬまま、続いて訪れたのが近くの浪速神社。境内に何人もの浮浪者がねぐらを確保していた。ここは果たして神域なのだろうか、という疑問が私の心を通り過ぎる。あるいは神社とは歴史的にそうしたねぐらがない方へ場所を供する役割を果たしていたのかもしれない。私はたかだか四十五年の年齢しか刻んでいないので、神社の歴史には明るくない。だが、一つだけ言えるのは、私は他の神社で同じような光景を目にしたことがないことだ。かつての日本各地のドヤ街が、昨今は訪日外国人の宿として活気を帯びているという。その風潮からも取り残され、その活気から完全に見放されているようにみえる神社。私は続けざまの衝撃から立ち直れないまま、リバティおおさかを訪れた。

リバティおおさかは、二十三年前とは展示を一新していた。もちろん、前もって訪問者がアップしたブログでその事は知っていた。橋下元大阪市長が展示内容の見直しを指示したことも。事前に得た知識のまま、入ってすぐの「いのちを大切に」というメッセージに満ちた展示を見る。その内容が賛否両論の的になるのもわかる気がする。おそらくリバティおおさかの担当者も迷ったことだろう。差別を語るにはまず人は平等という思想を示す意図は分かる。だが、なぜ入ってすぐにあるのかが理解できない。

だが、奥に進むと被差別部落の歴史が豊富な資料やパネルで展示されている。その内容は人権博物館の名に恥じない。事前の情報から懸念していたような、あからさまな反日の精神を感じる事もない。在日朝鮮人や沖縄の人々が受けた差別。ハンセン病患者やいじめの被害者が被った不条理な扱い。館内にあるのは、差別に苦しめられた人々の苦しみの歴史だ。そうした人々は、統治のために設けられた階級という制度の犠牲者でもある。権力の都合によって社会の闇を押しつけられた煩悶の歴史。そこには、人間の闇の側面が反論を許さぬほど立ちこめている。

リバティおおさかの展示には、差別の問題について考えさせられる切実な何かがあると思う。確かに同和利権や逆差別、結果の平等を求めるあまり、行き過ぎてしまった運動はある。それらの団体が声高に訴える主張をうのみにしてはならない。だが、これからの未来に、同じような不幸な歴史を繰り返してはならないこともまた事実。私たちが次代の若者に伝えるべき知識は、リバティおおさかの中に蓄えられている。

知識を身につけるには、膨大なパネルの展示だけでは理解しきれない。さらなる勉強が必要だ。私はそう思い、ミュージアムショップに多数並べられている本を吟味した。そして本書を選んだ。ミュージアムショップにはもっとコアでディープな本も並んでいた。だが、旅行中の身としては、軽めなガイド本の体裁の本書が精いっぱい。

なお、「エレクトラ」のレビューにも書いた通り、私は被差別部落の現状には関心がある。だが、人と部落の関連には興味がない。言い換えれば、個人の出自が被差別部落にあるかどうかは全く興味がない。多分、実力が全てのビジネスの世界に長くいるからだろう。ビジネスの現場に相手の出自など関係ないのだから。

さて、本書は大阪のあちこちをエリア編とトピックス編に分けて取り上げる。エリア編では、大阪のあちこちを地区別に取り上げる。「道頓堀」「千日前」「日本橋筋」「釜ヶ崎」「新世界・飛田」「百済・平野」「北浜・太融寺」「天神橋筋」「舟場・北野」「中津」「京橋・大阪城公園」だ。そしてそれらの地に埋もれつつあるかつての部落の痕跡を紹介するのが本書の主旨だ。

私の大学の卒論は大阪の交通の変遷だった。なので、大阪の歴史には親しんできたつもり。だが、正直に言って本書に挙げられた各地域のうち、被差別部落との連想で覚えていたのは「釜ヶ崎」「新世界・飛田」ぐらいしかない。本書に挙げられた他の場所は私にとってはまったく思いもよらなかった。

だが、よく考えると芸能・興行系のそもそもの起源は河原者が関わっていたという。そう考えれば、道頓堀と千日前といった現代でも芸能・興行のメッカは、部落の痕跡が残されていてもおかしくない。また、千日前といえば私が大学生の頃によく呑み、よく歩き回った地だ。国内でも最悪の犠牲者数を出した千日デパート火災でも知られている。法善寺横丁も近隣の名所としてよく知られているが、そもそも千日前とは法善寺と今はない竹林寺がともに千日回向を行っていたことから名づけられたという。回向が行われたということは、死をつかさどる人々が生活していたことを示している。

あと、本書を読んで最も驚いたこと。それは日本橋筋がかつては大阪随一のスラム街だったことだ。電器店やサブカルショップが立ち並ぶ今の日本橋からはとても想像がつかない。私は日本橋にも大学時代に何度も訪れている。だからこそ、余計に自分の無知を思い知らされた。だが、考えてみるとこのあたりの雑然とした感じは、まさにその名残と言えないだろうか。南海本線と日本橋筋の間には、妙に道幅の広い道路があるが、そこもスラム街の名残なのかもしれない。

それと百済・平野も本書では取り上げている。私はこのあたりについての土地勘は薄い。だが、百済という地名には渡来人の影響がうかがえる。つまり、その後裔となる方々に何らかの関連があるのかもしれない。本書によれば平野川沿いに被差別民が住まわされていたとのことだ。私も車でなんどか通ったことがあるが、歩いたことはまだない。今はずいぶん街並みが観光客を呼んでいるそうだし、一度訪れてみたいと思う。

本書で取り上げられた地の中で、日本橋筋についで意外に思ったのが北浜・太融寺だ。この界隈は船場や大阪城のおひざ元のはず。ところがここにも被差別の傷跡は残っていたのだ。本書によればその遺跡とは、被差別民の住居ではなく、解放運動の本拠がこのあたりに置かれていたということだ。太融寺や愛珠幼稚園なども、解放運動の中で重要な位置を占めているらしい。こういった意外な関連が見つかるのが本書のよいところだ。

天神橋筋が取り上げられているのもまた思いのほかだった。ところが、本書によると被差別部落とは都市の外縁に生まれるもの。南の外縁が釜ヶ崎や西浜部落だとすれば、北の縁が天神橋筋の北端であり、舟場・北野であり中津なのだという。このあたりには霊園や監獄跡、福祉施設などが点在しているのだという。私は本書を読むまでそうしたことをまったく知らなかった。特に、天六といえばわが母校、関西大学の天六校舎があった場所。私もなんどか訪れている。天六といえば日本で一番長い商店街で知られる。華やかな繁華街にも違う側面があったこと。それを本書は教えてくれる。

また、中津が取り上げられているが、あのあたりを歩くと少し場末な雰囲気が街を覆っているのも事実。そういえば本書を読むきっかけとなったリバティおおさかを訪れた翌々日、三宮で飲んだ。その酒の席で、現在の中津がシャッター通りになっていると聞いた。かつての場所の痕跡が払拭しきれていないのだろうか。なお、本書で取り上げられているからといって、今その地で住んでいる方が被差別の民の後裔でないことはもちろんだ。念のため。

京橋・大阪城公園が挙がっているのも想定の外だった。戦中は造兵工廠があった場であり、そもそも大坂の中心であり、部落とはつながりにくい。ところが、本書にも紹介されていたアパッチ族が戦後に暗躍したのはこのあたりのはず。だが、鶴橋や桃谷のいわゆるコリアンタウンが本書に取り上げられず、京橋や大阪城公園が取り上げられたのは意外に感じた。鶴橋や桃谷はいわゆる部落としての性格をもっていないのだろうか。これは少し興味がある。

さて、エリア編で各地の痕跡を取り上げた後、本書はトピックス編にうつる。エリア編にはリバティおおさかがあり、私がうらぶれた様子に衝撃を受けた旧渡辺村、つまり西浜部落は登場しない。だが、トピックス編で取り上げられる5つのトピックスのどれもが西浜部落を舞台としている。5つのトピックスとは「食肉文化と屠場」「有隣小学校と徳風小学校」「四カ所と七墓」「皮革業と銀行」「なにわの塔物語」だ。

食肉文化が部落のなりわいに関連していることはさまざまなルポで知っていた。リバティおおさかのミュージアムショップにも興味深い写真集が売られていた。私も屠場は一度は見ておかなければ、と思っている。生から死の切り替わりが生々しく営まれる場所。普段、肉食を嗜む身としては直面しなければならない現実。私たちは屠場で生から強制的な死を余儀なくされた生き物の肉を美味そうに食う。かつて、木津川や今宮に屠場があったらしい。だが、今はそうした施設は郊外に移ってしまっているらしい。著者は屠場の収入の実態を研究している。屠場の収入は市の財政にも好影響を与えたそうだ。著者の研究は徹底している。その視点で、BSEや食中毒などの食肉をめぐる問題が発生する度、屠場に責任の一端がかぶせられる状況にも苦言を呈する。

「有隣小学校と徳風小学校」では、学校に行けない児童を助けるための福祉施設の歴史が取り上げられている。本書にも何カ所かコラムが載せられている。そのコラムの主旨はかつて大阪で活動した篤志家を顕彰することにある。そうした篤志家の方々の努力が少しずつ大阪を良くしてきたのだ。この項で取り上げられている二つの小学校も彼らの努力の一つ。「四カ所と七墓」のように、大阪市の発展の歴史の中で開発されて消えてゆく存在もある。大阪がよい方向に発展してほしいと思うばかりだ。

「皮革業と銀行」は、かつての大阪が今とは違う発展を遂げていたことを取り上げており、興味深い。かつて西浜地区では皮革業が盛んに営まれていた。そして、その繁栄は、JR芦原橋駅周辺にはかなりの銀行の支店を集めるまでになっていたという。現在のみずほ銀行やりそな銀行の前身の銀行の支店もあったとか。本書には七店舗ほどが紹介されている。ところが、今の芦原橋駅周辺にはゆうちょ銀行が一つある程度で、ほとんどの銀行は撤退してしまったという。その理由は本書には書かれていなかった。だが、なぜいなくなったのかは、今後の大阪の都市計画を考える上で重要な切り口ではないだろうか。

「なにわの塔物語」もそうだ。かつて大阪にはナンバを中心にさまざまな塔が高さを競っていた。通天閣が当時の威容を今に伝え、気を吐いている。被差別の地であったからこそ、思い切った開発もできた。最先端の技術をしがらみなく試すには格好の場所だったのだろう。

だからこそ、冒頭に書いたような木津川駅周辺の状況はなんとかならないものか、と思うのだ。その意味で今後の大阪の都市計画を占う上で重要な「なにわ筋線構想」が南海汐見橋線から新大阪駅に伸びるのではなく、南海の難波駅から伸びる方針に変わってしまったことは痛い。もし汐見橋線が再開発されれば、この辺りの痛々しい風景は一新されるはずなのに。

私は大阪にはあらゆる意味で元気になって欲しいと願っている。だからこそ、このあたりの風景は一新して欲しい。もちろん、過去の歴史をなかったものにすることはできない。過去の悲しい歴史は語り継がなければなるまい。そのためにもリバティおおさかのような施設はある。でも、歴史を語り継ぐのと、今の寂れた状況を放置するのは同じではないはず。今回のリバティおおさかとその周辺の訪問とそこで購入した本書は、私に大阪の都市開発についてのあるべき姿を教えてくれた気がする。

著者は本書の続編も出しているようだ。そこでは本書のトピックス編の続きとしてさまざまな施設への考察を行っているらしい。今度、機会を見つけて読んでみようと思っている。

‘2018/07/09-2018/07/09


鹿男あをによし


デビュー二作目にして、この世界観の飛躍もさることながら、この筆力の充実ぶりといったら。

発想も大枠自体はそれほど突飛でもないのだけれど、細かい部分での描写や動きが自由な発想で楽しめる。それは終盤で明かされるとあるアイテムの正体や、それぞれの登場人物の役割などに代表される発想の飛躍に代表される。拡げた大風呂敷の空間を精いっぱい使い切っているだけに、設定に無理があると思わせないところがすばらしい。

そして著者が、設定のユニークさだけの作家でないことを見せてくれたのが、本書の剣道のシーン。胸が熱くなる。ここまで臨場感あふれる剣道の試合風景を描いた小説はまだ読んだことがない。飛び散る汗や竹刀の音、刻々と押し寄せる疲労の波。それらを操ってここまで熱く読ませるシーンが描けるからこそ、壮大な世界観と細かなディテールが相乗効果を生み、流れるように奔放に、破綻を全く感じさせることなく作品世界を完結させられるのだということを、思い知らされた。

それにしても鴨川ホルモーといい、本書といい、プリンセス・トヨトミといい、私の読んだ三冊は、どれも地理的な感覚が豊かな人にしか書けない設定になっている。おそらく著者は地図を眺めるのが好きな方ではないかと思う。 

’12/1/26-’12/1/26