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真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実


先年の大河ドラマ「真田丸」は高視聴率を維持し、大河ドラマの存在感を見せつけてくれた。大河ドラマが放映される前々年あたりから、私は「真田丸」の主役である真田信繁(幸村)に興味を抱いていた。というのも、わが家は十数年前から何度も山梨を訪れており、甲州の地で武田信玄がどれほど尊崇を受けているかも知っていたからだ。武田二十四将に名を連ねる真田信綱、昌幸兄弟のことや、昌幸が大坂の陣で活躍した真田信繁の父であることも知っていた。

ところが私が真田の里に訪れられる機会はそうそうなかった。本書を読む数カ月前、ようやく砥石城跡に登ることができた。そこから見下ろす真田の里は、戦国の風などまったく感じさせないのどかな山里の姿を私に見せてくれた。だが、私が真田の里を目にしたのはその時だけ。この時は結局、真田の里に足を踏み入れられなかった。また、大学時代には真田山や大阪城にも訪れた。ところが私はまだ、真田丸が築かれていたとされる場所には訪れていない。一方で、私が戦国時代の合戦場でもっともよく訪れたのは関ヶ原だ。ここは三回訪れ、かなりの陣地跡を巡った。だが、周知のとおり、関ヶ原の戦いに信繁は参陣していない。このように、私はなにかと信繁と縁がないまま生きてきた。

なので「真田丸」はきちんと見るつもりだった。ところが、第一次上田合戦あたりまでみたところで断念。その後は見逃してしまった。

本書は私にとって数冊目となる真田信繁関連の書だ。その中で確実な資料を典拠に書かれた学術的な書に絞れば二冊目。まだまだ私が読むべき本は多数あるだろう。だが、本書こそは現時点において真田信繁関連の書として決定版となるに違いない。著者は「真田丸」の時代考証を担当したそうだが、その肩書はダテではない。現時点で発見された古文書を渉猟し、その中で真田信繁に関係のあるものはことごとく網羅していると思われる。古文書を読み解き、その中に書かれた一つ一つの言葉から、信繁にまつわる伝承と事実、幸村として広まった伝承と脚色を慎重に見極め、その生涯から事実を選り分けている。

私はある程度、信繁の事績は知ってはいた。とはいうものの、本書で著者が披露した厳密な考証と知識には到底及ばない。本書は無知なる私に新たな信繁像を授けてくれた。例えば信繁と幸村の使い分け。幸村はもっぱら江戸時代に講談の主人公として世に広まった。では当時信繁が幸村の名を実際に名乗っていたかどうか。この課題を著者は、十数種類の信繁が発給したとされる文書を考証し、幸村の名で発給された事実がなかったことや、そもそも幸村と名乗った事実もないことを立証する。つまり、幸村とは最後まで徳川家を苦しめた信繁を賞賛することを憚った当時の講談師たちによって変えられた名前なのだ。ちょうど、大石内蔵助が忠臣蔵では大星由良之助と名を変えられたように。

あと、犬伏の別れについても著者は私の認識を覆してくれる。犬伏の別れとは、関ヶ原の合戦を前にして、真田信幸と信繁が西軍の石田三成方に、信之が東軍の徳川家康方につき、どちらが負けても真田家を残そうとした密談を指す。私は今まで、真田昌幸の決断は三人で集まったその場で行われたとばかり思っていた。だが、実際にはその数カ月前からその準備をしていた節があることが本書には紹介されている。一族の運命を定めるには、一夜だけでは発想と決断がなされるほど戦国の世は生易しくはない、ということか。私は犬伏の別れの回は「真田丸」では見ていない。その描写には、考証担当の著者の意見が生かされていたのだろうか。気になるところだ。

その直後に行われた第二次上田合戦にも著者の検証はさえ渡る。徳川秀忠が上田城で真田昌幸・信繁親子に足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原の戦場に間に合わなかった。私は今までこの戦いを単純にそうとらえて来た。ところが本書は少し違う解釈をとる。著者によると当初から秀忠軍の目標は上田城と真田信幸・信繁親子にあったという。ところが上方における西軍の攻勢が家康の予想を超えていたため、急ぎ秀忠軍に関ヶ原への参陣を命じた。ところが上田城で足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原間に合わなかった。そういう解釈だ。著者はおびただしい書簡を丹念に調べることにより、これを説得力のある説として読者に提示する。この説も「真田丸」では取り入れられていたのだろうか。気になる。

さて、関ヶ原の結果、父昌幸と九度山に蟄居を余儀なくされた信繁。大坂の陣での活躍を除けば、信繁の生涯に費やすページはなさそうだ。と思うのは間違い。ここまでで本書は140ページ弱を費やしているが、本書はここからそれ以上続く。つまり、九度山での日々と大坂の陣の描写が本書の半分以上を占めているのだ。それは後半生の劇的な活躍がどれだけ真田信繁の名を本邦の歴史に刻んだかの証でもあるし、前半生の信繁の事績が後の世に伝わっていないかを示している。

九度山の日々で気になるのは、信繁がどうやって後年の大坂の陣で活躍したような兵法を身につけたのか、ということだ。”真田日本一の兵”と敵軍から賞賛されたほどの活躍は、戦況の移り変わりが生んだまぐれなのか。いや、そんなはずはない。そもそも真田丸を普請するにあたっては、並ならぬ知識がなくては不可能だ。信繁がそれなりに覚悟と知識をわきまえて大坂に赴いたことは間違いない。では、信繁はどこで兵法を学んだのか。それについては著者もかなり疑問を抱いたようだ。しかし、九度山から信繁が発した書状にはその辺りのことは書かれていない。本書には、蟄居した父から受け継いであろうとの推測のほかは、信繁が地元の寺によく通っていたことが紹介されている。おそらくその寺でも兵法については学んだのだろうか。

あとは、兄信幸改め信之の存在も忘れてはならない。蟄居する父と弟を助けるため、かなりの頻度で援助した記録が残されている。そうした書状が確認できていることからも、信繁と昌幸が九度山で過ごした日々はかなり窮まっていたようだ。その鬱屈があったからこそ、信繁は大坂の陣であれだけの活躍を成し遂げたのだろう。

続いて本書は大坂に入って以降の信繁の行動に移る。まず真田丸。ここで著者が解明した真田丸の実像こそ、今までの先行研究に一石を投じたどころか、今までの先行する研究を総括する画期的な業績と言える。そもそも一般の歴史ファンは真田幸村を祭り上げるあまり、真田丸を全て幸村の独創であるかのように考えてしまう。だが、生前の関白秀吉も大阪城の死角がここにあることを任じていた、という逸話が伝わっている。真田丸は決して信繁の独創ではなく、大坂方は元からこの位置に出城を設ける意向があったという。もちろん、その意向を受けた信繁が細かい整備を加えた事は事実だろう。著者はさまざまの資料を駆使して、真田丸の大きさや形、そして現在のどこに位置するかについて綿密な検証を加えてゆく。三日月状の馬出の形は、父昌幸が学んだ薫陶を受けた武田信玄から伝わる甲州流に影響を受けていることも確実だろうという。

あと、真田日本一の兵と徳川軍の将から絶賛された猛攻が、どのように行われたかについても著者の分析は及んでいる。これについては、大阪に土地勘を持つ私は前々から疑問に思っていた。大坂夏の陣では真田軍は茶臼山に本陣を構え、家康本陣に総攻撃を掛けたという。そこから家康本陣があったとされる平野まではかなりの距離がある。騎馬が駆ければ遠くない距離とはいえ、茶臼山から家康本陣までの間には名だたる大名の軍が控えていたはず。果たして家康の馬印が倒され、家康が何里も逃げ惑ったほどの壊滅的な打撃を真田軍は与えられたのだろうか、と。

著者はここで、幕府方の軍勢に意思の統一が取れていなかったこと、「味方崩れ」という士気の低下による自滅で隊形が崩れたことが多々あったことを示し、一気に徳川本隊まで味方崩れが波及したのではないか、という。

本書は小説ではないので、伝説の類には口を挟まない。なので、徳川家康がここで討ち死にしたという俗説には全く触れていない。ただ、秀頼を守って信繁が薩摩に落ち延びたという伝説については、著者は一行だけ触れている。もちろん俗説として。

伝説は伝説として、真田信繁がここで家康の心胆を寒からしめた事実は著者も裏付けている。本書は豊臣方の動きも詳細に描いている。その中で、再三の信繁から秀頼の出馬要求があったことや、その要求が結局実現できなかったこと。肝心な戦局で大野治房が秀頼を呼び戻そうとして大坂城に戻ったのを退却と勘違いされ、豊臣方の陣が崩れたことなど、豊臣秀頼の動き次第では、戦局が一変した可能性を含ませている。そうした事情なども含めて、著者は大坂夏の陣の実態を古文書から読み解き、かなりの確度で再現している。

本書は真田信繁を取り上げている。だが、それ以上に大坂の陣を詳細に紹介している一冊と言えそうだ。それだけでも本書は読むに値することは間違いない。本書は真田信繁の研究と、大坂の陣を真田信繁の側から分析したことで後の世に残ると確信する。

「真田丸」は歴代の大河ドラマの中では視聴率ランキングの上位には食い込めなかったようだ。だが、一定に評価は得られたのではないだろうか。私も機会があれば見てみたいと思っている。本書という頼りになる援軍を得たことだし。

‘2018/10/05-2018/10/16


華、散りゆけど 真田幸村 連戦記


来年のNHK大河ドラマは、真田幸村公を主人公とした真田丸なのだとか。大河ドラマをほとんど見ず、そもそもテレビをはじめ、マスメディアに触れることが少ない私。それでもやはり、真田日本一の兵が大河ドラマの題材になれば気になる。そんなところに、妻がしなの鉄道の「ろくもん」乗車を申込み、家族四人で贅沢な旅を楽しむ機会を与えられれば猶更である。本書を読んだのはまさにろくもん乗車の直前であり、読後の余韻も新しい間に「ろくもん」に乗車した。そのことで、本書の読後感が一層鮮やかとなった。

外装に真田の赤備えのえんじ色をまとい、真田家の家紋である真田六文銭を随所に配した「ろくもん」の車両は真田の格調を意識させるに充分。「ろくもん」に乗って長野から軽井沢へと遊んだ旅は、否応なしに私を真田家の駆けた戦国時代へと誘い込んだ。

本書の装丁は、えんじ色に六文銭を大きくあしらった「ろくもん」と同じ意匠である。いや、画一的な臙脂色に塗られた車両に比べ、本書の装丁の方が複雑な地模様が描かれている分、趣があると言える。

趣があるのは、装丁だけではない。その中身もまた、重厚で荒々しく、真田日本一の兵と称えられた公の生きざまがよく描かれていたといえよう。

本書は、真田幸村公が父昌幸公と共に蟄居させられていた高野山を出奔してから、大阪夏の陣で自刃するまでに焦点を当てている。本書で書かれているのは、云うならば公の生涯でもっとも輝いていた時期に等しい。内容もさぞや爽快な戦国活劇ものであるかのように思われる。しかしそうとばかりは云えない。無論、本書では真田丸での謀略や敵本陣への突撃をはじめ、血が滾るような痛快な戦闘シーンが豊富に活き活きと描かれている。しかし、陽の当たるシーンのみを描くだけでは、物語に陰影はだせない。それだと単なる戦国アクション巨編と堕してしまい、却って幸村公の魅力もぼやけてしまう。

敵陣深く攻めこみ、あわや徳川三百年の歴史をIFの世界に押し込めかねないところまで追い詰めたその武勇。真田丸を築き、夏の陣で徳川方を大いに撹乱した知略。幸村公がなぜ大阪冬夏の陣で真田日本一の兵(つわもの)と呼ばれたかは、蟄居中に父の昌幸公から学んだ教えを抜きに語れない。何のために兵法を学ぶのか、という虚しさの中、折れそうになる心でひたすら昌幸公から兵法の教えを聴く日々。本書はその辺りの描写をないがしろにせず、むしろじっくりと語る。雌伏の時の描写が深ければ深いほど、大阪方の誘いに迷う幸村公の苦悩に真実味が出る。誘いを受け入れ、あばら家に埋もれ掛けていた己を奮い立たせ、戦国男児の気概を滾らせる場面は、本書のクライマックスとも言える。腐らずに切磋琢磨を怠らぬ者に、天はかならず働き場所を用意する。その様な感動が読者の胸に流れ込む名場面である。

そのような雌伏の時を描くにあたり、真田六連銭(六文銭)の由来や、武田家にあって赤備えを許された真田家の誇りもきっちりと説明される。本書の中では昌幸公から幸村公へ説明する由来は、同時に読者の心にもしっかりと届く仕掛けとなっている。

さて、高野山を出てから大阪入城を果たす一行。幸村公の視点から物語は進むため、他の浪人衆、特に大野治房公の描写に偏りを持たせている。治房公は、本書では大阪にあって優柔不断な将として書かれている。真田丸の築城を願い出る幸村公と、それを拒もうとする治房公の攻防が描かれ、ますます愚将としての治房公が印象付けられていく。一方では後藤基次、毛利勝永、明石全登、木村重成、長宗我部盛親といった武で鳴らした諸侯との心の繋がりも書かれている。

そして冬の陣勃発である。真田丸に陣取って神出鬼没な活躍で徳川方を悩ませる幸村公。父から蟄居中に教わった知略を駆使するシーンは本書でも一番の盛り上がりを見せる。実は、本書においては夏の陣で徳川方に突撃して家康公に肉薄するシーンよりも、真田丸での活躍のシーンのほうが印象に残る。来年の大河ドラマ真田丸ではどのような演出を採るのであろうか。気になるところである。

そして大阪城を攻めあぐねた家康により、大砲で天守を狙うという策が当たり、戦に恐れをなした淀殿の鶴の一声で一時休戦となる。このあたり、幸村公の独白が様々に描かれるが、己の知略を乗り越えて大砲で戦を終わらせた家康公の知略に歯噛みする様子。ここらの悔しがり方が少々淡泊に描かれているのが気になった。真田丸に手ごたえを感じていただけに、逆に幸村公の失望をよく表す演出なのかもしれない。しかも、講和条件として外堀のみの埋め立てのはずが、内堀まで一気に埋め立てられる。この謀略の主は、本多正純公。家康公の懐刀として父に続いて取り立てられたこの男は、本書内では陰険な官僚としての書かれ方をしている。そして交渉の最中に幸村公にこっぴどくやり込められる役割を演じている。実際にそのような史実があったかどうかは分からないが、その書かれ方からして、本書内の一番の悪役は、大野治房公ではなく本多正純公といえよう。しかし正純はそれにめげず、とうとう内堀埋め立てを成し遂げてしまう。これが、大坂方の致命傷となる。続く夏の陣では防戦一方となった大阪方。真田丸も講和で破却された幸村公は、乾坤一擲の策として家康公の陣へと突撃する。真田日本一の兵(つわもの)と後世に語り継がれるこの時の武勇だが、もはや本書前半に描かれた高揚感はどこへやら。滅びゆく者の最期の輝きが絶妙に描写されており、読者には哀しみしか感じさせない。

講和から夏の陣に至るまで、本書の流れは実に速い。それは、前半部の蟄居を描写するにじっくりと語っていたのとは明らかに違う流れである。明らかに戦になってからの本書は、怒涛のように筋書きにそって進み過ぎたきらいがある。せめて冬の陣から夏の陣の間、もう少し知略で活動する幸村公の姿を見たかった。しかし、それも詮方ないのかもしれない。関ヶ原の戦いと同じころ戦われた上田城の戦いでは、父昌幸公の指揮下にあるだけであり、実際の本格的な指揮初陣といえば、大坂冬の陣が初めてだったのだから。

そう読むと、一気に家康の術中に嵌った大阪の冬から夏にかけて、戦術では局所で勝利しても、戦略で負けてしまった幸村公の、十分に活躍できなかった生涯の無念が本書の構成から却ってにじみ出ているようにも思える。しかし、幸村公は夏の陣での突撃によって、真田日本一の兵(つわもの)として武名を永らく残すことができた。まさに「華、散りゆけど」である。

侘び寂びの蟄居から状態から華々しい戦場へ、最後には諦念の域に達する公の後半生を描いた著者の意図がそこにあったとしたら、まさに的を射た内容になっていると思われる。大河ドラマの開始前に一読をお勧めしたい。

2014/11/5-2014/11/7