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「ご当地もの」と日本人


本書を読んでいる最中、商談の後に神奈川県立歴史博物館を訪れた。
「井伊直弼と横浜」という特別展示をじっくり楽しんだ。

すると、神奈川県立歴史博物館のゆるキャラこと「パンチの守」が現れた。私は館内を鷹揚に巡回する「パンチの守」を追った。「パンチの守」が博物館の表玄関に出て迎えたのは彦根市が誇るゆるキャラこと「ひこにゃん」だ。
全くの偶然で二体のゆるキャラの出会いを見届けられたのは望外の喜びだった。
しかもそのタイミングが本書を読んでいる最中だった。それは何かの暗合ではないかと思う。

私はゆるキャラが好きだ。地方のイベントでも会うたびに写真を撮る。

私が好きなのはゆるキャラだけではない。

私は旅が大好きだ。月に一度は旅に出ないと心身に不調が生じる。
ではなぜ、旅に出るのか。それは日常にない新奇なものが好きだからだ。

日常にない新奇なものとは、私が普段生活する場所では見られないものだ。その地方を訪れなければ見られないし、食べられないもの。それが見たいがために、私はいそいそと旅をする。

例えば寺社仏閣。博物館や城郭。山や海、滝、川、池。美味しい名物や酒、湯。珍しい標識や建物。それらは全てご当地でしか見られないものだ。
もちろん、食べ物や酒はアンテナショップに行けば都内でも味わえる。郷土料理のお店に行けば現地で食べるのと遜色のない料理が味わえる。
でも違う。これは私の思い込みであることを承知でいうが、地方の産物はやはり地方で味わってこそ。

他にもご当地ソングやご当地アイドルがある。地方に行かなければ存在にも気づかない。でも、現地に行けばポスターやラジオで見聞きできる。

私などは、ご当地ものが好きなあまり、地方にしかない地場のスーパーや農協にも行く。必ず観光案内所にも足を運ぶ。もちろん駅にも。

そうした私の性向は、ただ単に旅が好きだから、日常にないものが好きだから。そう思っていた。

だが、著者は本書でより深い分析を披露してみせる。
著者によると、ご当地意識の発生については、律令国家の成立の頃、つまり奈良時代にまで遡れるという。
当時、大和朝廷には各地から納められた物品が届いていた。いわゆる納税だ。租庸調として知られるそれらの納税形態のうち、調は各地の名産を納めることが定められていた。
地方からの納税の形で、大和には各地の風物の彩りに満ちた産物が集まっていた。

大和が地方を統べるためには、役人も派遣する。国司として赴任する役人も、地方と大和の赴任を繰り返していた。地方ではその地の新鮮な産物を楽しんでいたはずだ。例えば魚は、大和では干物でしか手に入らないが、現地では生魚として刺し身で味わえたことだろう。干物とは違う新鮮な風味に満足しながら。

各地の名産を納めさせるためには、その地の状況を把握しなければならない。だから、各地の風土記が編まれた。著者はそう推測する。

大和朝廷と地方を行き来する役人の制度は、江戸時代になり参勤交代が制度に定められたことで強固なものとなった。それが260年近い年月も続けられたことにより、日本人の中にご当地意識として根付いたのだと著者は説く。

実際、他の国々では日本ほどご当地にこだわらないのだという。その理由を著者は、日本の国土が東西南北に広く、海と山の多様な起伏に恵まれているため、土地によって多様な産物があるためだと考えている。

江戸時代から各地の産物の番付表があったこと。春夏の甲子園が地方の代表としての誇りを胸に戦うこと。県民性の存在が科学的に実証されていること。地域性を実証する団体として、県人会の集まりが盛んであること。

そう考えると、私も東京に住んで二十年近くになるが、いまだに故郷への愛着は深い。マクドナルドはマクド。野球は阪神タイガース。そのあたりは譲れない。

私は、クラウドを使ったシステム構築を専業にしている。だから、合理的な考え方を尊んでいるつもりだ。だが、故郷への愛着はそうした合理性の対象外だ。そもそも比べること自体がナンセンスで、価値の範疇が違っている。
それは当然、私だけでなく日本の多くの人に共通した考えだと思っている。

東京は私のように各地から集った人の持ち寄る文化や価値の違いが渦を巻いている。顔には出さずとも、それぞれが違う県民性を抱く人の集まり。だからこそ、各人が鎧をまとって生きている。皆が仮面をかぶって生活をしているから、こんなに冷たい街になったのだ、という論はよく聞く。

著者は本書でさまざまなご当地ものの実情を挙げていく。その中で、ご当地ものにも光と影があることを示す。
ゆるキャラの成功が経済効果をもたらした自治体もあれば、いつのまにかひっそりと姿を消し、お蔵入りを余儀なくされたゆるキャラもいる。

また、商品に産地を名付けることの規制が整っていないこと。それが傍若無尽な産地を騙った手法の蔓延につながっていることにも警鐘を鳴らす。
著者が例として示すように、縁日の屋台に描かれた富士宮焼きそばや中津から揚げの文字は本当に産地の製法を使っているのかという疑問はもっともだと思う。さらにいうと、製法はその土地の手法をまねていても、果たして素材はその土地のものなのか。つまり地産地消でなくても良いのか、という疑問まで生じる。

また、ゆるキャラの著作権の問題も見過ごされがちだ。本書ではひこにゃんの著作権訴訟も取り上げている。著作権について述べられている章は、私が神奈川県立歴史博物館でひこにゃんを見てすぐに読んだため、印象に残る。

今、戦後の経済発展が、似たような街をあちこちに作ってしまった反動がご当地キャラに現れているとの分析はその通りだと思う。各地が画一的だからこそ、無理やり地域に結びつけた名物を創造し、違いを打ち出す必要に駆られている。それが今のゆるキャラの過当競争になっている事実など。

著者はそうした負の面をきちんと指摘しつつ、地域の多彩な名物が日本の魅力の一つとして、諸外国にアピールできる可能性も指摘する。
オリンピックを控えた今、日本には有名観光地だけでない魅力的な場所を擁していることも。

地方の活性化をなんとかしてはかりたい、東京一局集中の弊害を思う私には、本書は参考となった。

‘2020/02/21-2020/02/26


マンホール:意匠があらわす日本の文化と歴史


マンホールの写真を撮りためている。地方を旅したり出張することの多い私。訪問先で地面にファインダーを向け、その地域ならではのマンホールを撮っている。

とはいえ、まだ軽い趣味なのでマンホールのために旅行するまでには至っていない。けれども、旅先で見慣れぬ意匠のマンホールを見かけるとテンションも上がるし、それがレアなカラーマンホールならその後の旅路も足取りが軽くなる。

私がマンホールに興味を持ったきっかけは覚えている。寒川神社から茅ヶ崎まで自転車で走った時だ。寒川神社の駐車場に車を停め、そこから茅ヶ崎のいつもお世話になるジーンズショップに注文していたジーンズを取りに行った。相模線に沿って自転車を漕ぎながら、ふと、足元にあるマンホールに目をやった。すると普段、見慣れた町田市や東京都、相模原市のような丸をベースとしたデザインではなく、一つの絵画のようなデザインのマンホールが敷かれていた。それは茅ヶ崎市のマンホールだった。よく見ると数種類あり、それぞれに雨水汚水の表示もある。用途によってデザインも変わっているようだ。そこに興味を惹かれ、写真を撮ったのが始まりだった。

車で行動するとマンホールの魅力に気付きにくい。また、仕事や日常の暮らしの中では、同じ場所の往復に終始しがち。なので、地域色が豊かなマンホールの特色にはますます気づきにくい。私のきっかけも、いつもと違う場所を自転車で走ったことだった。著者も各地のマンホールを撮りためる際、自転車で各地を走っているそうだ。

ウェブを巡ってみると、マンホール愛好家は結構多いらしい。著者はその界隈では有名な方のようだ。有名というだけのことはあり、本書には全国のかなりの地域のマンホールが載っている。

本書はマンホールの意匠ごとにテーマで分けている。テーマごとに各地のマンホールを写真付きで紹介することで、マンホールの魅力を紹介するのが本書の構成だ。ただ漫然とマンホールを紹介するのではなく、意匠に沿ったテーマでマンホールを語っている事が重要だ。

本書は以下の章に分けられている。
1 県庁所在地を訪ねて
2 富士山と山々
3 富岡製糸場と歴史的建造物
4 いつでも見られる日本の祭りや郷土芸能
5 各地の伝統工芸・地場産業
6 地方ならではの特産物
7 地元のスポーツ自慢
8 楽しいのはデザインマンホールだけじゃない

このように、テーマごとに分けることで、読者は各地のバラエティに富んだマンホールの魅力を手軽に鑑賞できる。

私がマンホールに惹かれるのは、意匠がその土地の意外な名物を教えてくれるからだ。普通、土地の名物とは山、川、神社仏閣、スポーツや食べ物などのことを指す。そうした名物は形があり、通年で見ることができる。だからマンホールでアピールするまでもない。だが、無形の祭りや郷土芸能は、特定の時期、場所でしか体験できない。その土地を訪れるだけでは、無形の名物には気づかないものだ。伝統工芸や地場産業もそう。

私は旅先では駅や観光案内所には必ず訪れる。だが、それでもその地に伝わる有形無形のシンボルに気づかないことが往々にしてある。マンホールは、そうした存在を教えてくれるのだ。しかも、それを街中のいたるところで、至近距離で教えてくれる。間近に、頻繁に目に触れられるもの。考えてみるとマンホールの他にそういうものはあまりない。マンホールをデザイン化し、地域ごとに特色を打ち出そうとした発案者の着眼点はすごいと言える。本書には合間にコラムも挟まれているが、その中の一つが「デザインマンホールの仕掛人」として、昭和60年代の建設省公共下水道課建設専門官が提唱したことが始まりと記されている。

その他のコラムは
「マンホールの蓋はなぜ丸い?」
「蓋の模様はなんのため?」
「最古のマンホールの蓋は?」
となっている。どれも基本であるが押さえておくべき知識だ。また、本書の第8章は、蓋に刻まれた市章や町章についての紹介だ。デザインマンホールではなくとも、たいていのマンホールには市章、町章が刻まれている。そこに着目し、デザインの面白さをたのしむのもいい。

著者は東京都下水道局に37年間、定年まで奉職し、主に下水道の水質検査や開発に携わってきたそうだ。著者紹介によると、今までに撮ったマンホールの写真は4000枚にもなるのだとか。はじめにでは、マンホールに惹かれたきっかけが伊勢市のマンホールをみた時であり、定年退職後に各地を折りたたみ自転車で巡ってマンホールの写真を撮っていることなどが書かれていた。

わたしも撮りためたマンホールは多分数百枚、新旧市町村単位で150くらいにはなったと思う。私はまだ現役で仕事をしているので、著書ほどの域に達することはできない。だが、私なりのペースで各地のマンホールを巡ってみようと思う。

なお、本書に載っていないネタとして、各地のマンホールを一堂に見られる場所を知っている。それは、河口湖畔だ。道の駅かつやまの周辺の道には、全国各地のマンホールが敷かれている。どういう理由でなのかは分からない。マンホール趣味の興を削ぐとして、顔をしかめる愛好者もいることだろう。私もそうだった。あと、千代田区麹町のセブンアンドアイホールディングスの本社ビルのそばに、なぜか行田市のマンホールが敷かれている。こういうあってはならない場所に敷かれているマンホールを探すと面白いかもしれない。

あとは、本書では触れられていないが、下水道広報プラットフォームがここ数年で出し始めたマンホールカードは外せないだろう。私も今までに八枚ほど集めた。これもマンホールの魅力を知らしめる意味でも面白い試みだと思う。

デザインマンホールのような試みはもっと広がるべきだ。私が他に思いつけるのは、信号のたもとにある制御盤ぐらいだろうか。制御盤にローカル色溢れる意匠が施されると面白いと思う。もっとも、そうなると私の人生はますます時間が足りなくなるのだが。

‘2018/07/08-2018/07/08