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伊能忠敬―日本をはじめて測った愚直の人


ここにきて、また伊能忠敬が脚光を浴びている。中高年の希望の星として。

伊能忠敬といえば、日本ではじめて全国地図を作った人物だ。全国を測量して歩き、実際の日本の地形と遜色ない日本地図を作った業績は不朽だ。井上ひさし氏による『四千万歩の男』で取り上げられたこともしられている。

なぜ中高年の希望の星なのか。それは、伊能忠敬が地図作成の世界に入ったのが50歳の年だからだ。50歳といえば、現代人の感覚でも晩年に差し掛かっている。ましてや当時の感覚では隠居して当たり前の歳だ。今の私たちが定年後にセカンドライフを志すのと同じように考えてはならない。当時の尺度では遅すぎるのだ。しかもそんな老齢から19歳年下の高橋至時に弟子入りする謙虚な心も見事だ。当時の感覚では相当な老年であるにも関わらず、当時の不便な交通事情の中、全国津々浦々を歩き回り「大日本沿海與地全図」を完成させた。私はまだ実物を見たことがないが、本書には「大日本沿海與地全図」の一部が載っている。その精緻な出来栄えにはうならされる。見事というほかはない。

本書は伊能忠敬をブックレットの形で紹介している。ブックレットといえば薄い小冊子の体裁だ。本書は88ページという少ない紙数しかない中で伊能忠敬の事績を紹介している。網羅しているとはいえないが、生い立ちと業績、そして伊能図の今に至る歩みまでをコンパクトかつ概観的に紹介している。それが、私にとってはよかった。なにせ伊能忠敬のことを本で読むのはほぼ初めてなのだから。『四千万歩の男』も読んでいないし、せいぜいが教科書で習った程度の知識しかない。要するに私は伊能忠敬のことを何も知らなかったに等しい。そんな私には88ページの本書の内容はかえってコンパクトで頭に入ってきた。ダイジェストで伊能忠敬の生涯を学べた感じがして。

たとえば隠居前の伊能忠敬がどのように家業を経営していたかについても記している。研究によると伊能家の資産は現在の貨幣価値で45億円以上だったそうだ。立派な億万長者である。しかも伊能忠敬は名主職まで勤めていたとか。それだけの実績を重ねていたのに、江戸に出て測量の弟子入りをし、一からキャリアを積み上げなおしたのだから恐れ入る。

なぜ伊能忠敬は日本を測量しようと思ったのか。それは地球の大きさや形を明らかにしたいという志をもともと名主の頃から持っていたからだという。地球の大きさや形を明らかにするには測量が必要となる。伊能忠敬が師の高橋至時に測量を願い出たところ、せめて蝦夷までの距離を求めなければ地球の大きさは測れないといわれた。それが伊能忠敬を測量に向かわせたという。

第一次から第十次まで行われた全国の測量。それらも本書は概要が紹介する。さすがに第十次の旅は体力面からか弟子たちに任せたようだ。だが、それ以外の旅は全て伊能忠敬本人が足を運んだというからすごい。あと、あらためて理解したことがある。それは伊能図が沿岸の地図を詳しく記したとはいえ、内陸をくまなく測量した訳ではないことだ。 いくつかの内陸部の土地は回っているようだが、あくまでも沿岸のみを網羅したのが伊能図と考えてよさそうだ。よく考えてみれば、ありとあらゆる場所を訪れていたら、20年弱で徒歩で全国を回れるはずがない。つまり沿岸部に特化し、その精度を高めたことが伊能図をこれだけの完成度にしたということだ。このことを本書は教えてくれた。それだけでも読んだ甲斐がある。

本書には伊能図以前に記された日本地図の歴史と、「大日本沿海與地全図」のその後の運命にも紙数を割いている。明治に入ってすぐ、皇居で起こった火事によって 「大日本沿海與地全図」 の正版は失われてしまったという。しかも伊能家に保管されていた副本の控図までもが関東大震災で焼失してしまったとか。しかし模写された図の数々は、今も世に伝えられている。50才から志した日本地図への取り組みは200年以上たった今も世に伝えられているのだ。

なによりも本書が重んじているのは、伊能忠敬の実像を正しく紹介することだ。本書によると伊能忠敬は厳格かつ堅実な人物だったという。そこには後世、皇国史観によって左右され、作り上げられた伊能忠敬像なく、実際の本人を紹介したいという著者の想いがある。著者は国土地理院のご出身のようだ。その立場からも、伊能忠敬の成した歴史的な意義は強調してし足りないのだろう。だから例えば、伊能忠敬が幕府と反目し合いながら全国を測量して回ったという伝説も否定する。幕府や諸藩の妨害を乗り越えて地図を作り上げた伊能忠敬という英雄像は私たちも修正したほうがよさそうだ。そして実直な伊能忠敬像を紹介した著者は、これからの時代を生き抜くのに、伊能忠敬の粘り強く堅実に進む生き方を勧めている。

人類の何年にもわたる努力が、人工知能によって一瞬に達成されようとする今、伊能忠敬の生き方は何を教えるのだろう。私は、もはや成果物の量や精度では人工知能に太刀打ちできなくなるだろうと思っている。だが、それは成果物だけで成果を評価する限りの話だ。人口知能が人の人生を左右しようとする今、個人の自我が蓄える経験の重み。それこそがより大切にされる気がする。経験と自制の大切さを200年前のわが国で体現したのが伊能忠敬。冒頭に書いた通り、50才から実績を作り上げたということばかりが取り上げられているが、そればかりが伊能忠敬の偉大さではあるまい。見逃してはならないのが、商売に精を出している間も伊能忠敬は各種の勉強に励んでいたことだ。名主の頃から勉学に打ち込んでいたことが本書でも紹介されている。50才で一念発起するまでの年月も土台があってのこと。実直にこつこつと。それこそがもっとも肝に銘じるべきことだと思った。

‘2017/12/22-2017/12/27


天地明察


先日記したマルドゥック・スクランブルでも統計や情報についての著者の博識ぶりに触れたのだが、本書を読んでさらに著者が科学に対して底知れぬ興味と喜びを抱いていることが感じられた。

渋川春海という江戸時代に改暦を成し遂げた人物に焦点を当てた本書は、歴史小説・時代小説という範疇に分けることが無意味に思えるほど、汎時代的・汎人間的な小説であり、人が生きていく意味について深い共感と自信が湧いてくる一作である。

伝記小説は往々にして時代や社会環境に制限され、その中で苦悩する人間の生活が描かれるが、本書では時代や社会環境を超越した信念や思想、つまり科学の真理探究に一生を賭ける人間が書かれていることで、現代に生きる我々にも深い感動と理解を与えるのである。

星の運行を始めとした天文の奥義に対し、主人公の家業でもある囲碁の世界が採り上げられ、幕府の中で御城碁に甘んじなければならない囲碁の升目の世界と星々の宏大な宇宙をあえて対比させているのも非常に分かり易い。関孝和を始めとした脇役の配置も絶妙であり、人の偉業は独りだけではなく周りの助けを得てという、単純なヒーローものに堕していないのもよい。

ウィキペディアにはない著者の演出と作為が随所にみられるが、それがまた小説の醍醐味でもあり、本書の主題である人生のついての賛歌に繋がっている思う。

’12/03/24-12/03/25