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黄金峡


公共事業の推進。国による大規模な工事や事業。
それは、あらゆる利害関係の上に立つ国が行使できる権力だ。

国の事業によって影響を受ける人は多い。
例えば、ダムの建設に伴って立ち退きを余儀なくされる人々だとか。本書に登場する村人たちのような。
国が判断した事業がいったん動きだすと、村人たちの思いなどお構いなしだ。事業は進められ、山は切り崩され、川はせき止められる。

国の事業とはいえ、ダムによって立ち退きを強いられる村人がすぐに賛成するはずはない。
自らが生まれ育った景色、神社、山々、川、あらゆるものが水の中に沈む。それは普通の人であればたやすく受け入れられないはずだ。

一方の国は、何が何でも事業を成し遂げるために金をばらまく。ばらまく相手は立ち退きにあたって犠牲となる住民だ。
そのお金も中途半端な額ではない。村人の度肝を抜くような金額だ。それらが補償金額として支出される。
そのため、あらゆる補償対象に対して値段がつけられる。村のあらゆるものが文字と数字の柱に置き換えられる。価値は一律で換算され、その柱の中に埋没していく。個人の感傷や思い出など一切忖度されずに。

その補償は村人に巨額の利益をもたらす。潤った村を目当てに群がった人々は狂宴を繰り広げる。
本書のタイトルは、狂奔する村人の姿を黄金郷と掛け合わせて作った著者の造語である。
その峡とはモデルとなった只見地方のとある村の姿になぞらえたものだ。

その金を手にし、好機が来たと張り切る人。戸惑う人。
金が入ってくると聞きつけ、捨てたはずの故郷にわざわざ戻る人もいる。また、何があっても絶対に山から出ないと頑強に拒む人もいる。
人々は金の魔力に魅入られ、金の恐ろしさを恐れる。
事業を進める側は、あらゆる搦手を使って反対派を切り崩しにかかる。金銭感覚を狂わせ、一時の快楽に身を委ねさせ、懐柔につぐ懐柔を重ねる。

ありとあらゆる人間の醜さが、ひなびた山峡を黄金で染めていく。人々はそれぞれの思惑をいだいている。
そうした思惑を残した交渉には百戦錬磨の経験が必要だ。国が送り込んだ事業の推進者はそうした手練手管に長けている。

本書は、そうした人々の思惑を、一人一人の過去や人格まで掘り起こさない。なだらかだった日々が急に湧き上がり、そしてしぼんでいくまでを冷徹な事実として描いている。
冷静に事実を描くことによって、金に踊らされた人々の愚かさをあぶりだす。その姿こそ、人間の偽らざる姿であることを示しながら。

本書を通して、一時の欲にまみれる人の愚かさを笑うことは簡単だ。
だが、多額の金は人を簡単に狂わせる。多分、私もその誘惑には抗えないだろう。

こうした公共事業に対する反対の声は昔からある。
本書にも、都内からわざわざ反対運動のためにやってきた大学生の姿が描かれる。公権力が振りかざす強権に対し、民はあくまでも抵抗すべきと信じて。
それでも、国は下流の治水が求められているとの御旗を立て事業を推進する。

問題はその事業にあたって巨額の金が動くことだ。土木事業を請け負う業者には巨額の金が国から流れ、それが下流へと低きへと流れてゆく。
それは、流域の人々の懐をうるおす。

問題は、その流れが急であることだ。金に対して心の準備をしていなければ、価値観や生活の基盤が急流に持っていかれる。生きるために欠かせない水が時に生活の基盤を破壊し、氾濫のもととなってしまうように。
そして、金の流れが急に増えたからといってぜいたくに走ってはならない。その急流は、国が金を流したからなのだ。それを忘れた人は、金が枯れたときに途方に暮れる。
国が金を降らせるのは一度きりのこと。同じだけの金を人が自由にできやしない。一度枯れた水源は天に頼るほかないのだ。

公共事業に対する反対とは、公共事業による環境の変化よりも、金が一時に急激に動くことへの懸念であるべきだ。
その急激な金の流れに利権の腐臭を嗅ぎつけた人々は、全ての人は公平であるべきと考え、その理想に殉じて反対運動に身を投じる。
そうした若者や左派の政治家がダム反対などの公共事業に反対運動を起こす例は三里塚闘争以外にも枚挙にいとまがない。田中康夫氏が長野県知事になった際も「脱ダム」宣言をした。民主党政権時にも前原国公相が八ッ場ダムの凍結を実施した。

中流・下流への治水の必要性は分かる。だが、それを上流のダム建設で補おうとしたとき、上流の人々の既得権は侵される。その時、金ですべてを解決しようとしても何の解決もできない。
全ての人が幸せになれることは不可能。そのような諦念に立つしかないのだろうか。
結局、公共の名のもとによる補償がどこまで有効なのかについて、正しい答えは永久にできない気がする。

少なくとも本書に登場する村人たちは、二度生活を奪われた。
一度は故郷の水没として。二度目は金銭感覚のかく乱として。
本書はその事実を黄金峡という言葉を通して描いている。

私たちは、公と個を意識しながら生きるだけの見識は持っておきたい。
それが社会に生きることの意味だと思う。

‘2020/08/18-2020/08/19


動物農場


『1984』と言えば著者の代表作として知られている。その世界観と風刺の精神は、現代でも色褪せていない。むしろその名声は増すばかりだ。
権力による支配の本質を描いた内容は、人間社会の本質をえぐっており、情報社会の只中に生きる現代の私たちにとってこそ、『1984』の価値は真に実感できるのではないだろうか。
今でも読む価値がある本であることは間違いない。実際に昨今の言論界でも『1984』についてたびたび言及されているようだ。

本書も風刺の鋭さにおいては、『1984』には劣らない。むしろ、本書こそ、著者の代表作だと説く向きもある。
私は今回、本書を初めて読んだ。
本書のサブタイトルに「おとぎばなし」と付されている通り、本書はあくまでもファンタジーの世界の物語として描かれている。

ジョーンズさんの農場でこき使われている動物たちが、言葉を発し、ジョーンズさんに反乱を起こし、農場を経営する。
そう聞かされると、たわいもない話と思うかもしれない。

だが、動物たちのそれぞれのキャラクターや出来事は、現実世界を確実に模している。模しているどころか、あからさまに対象がわかるような書き方になっている。
本書が風刺する対象は、社会主義国ソビエト連邦だ。しかも、本書が書かれたのは第二次世界大戦末期だと言う。
著者はイギリス人だが、第二次世界大戦末期と言えば、ヤルタ会談、カイロ会談など、ソビエトとイギリスは連邦国の一員として戦っていた。
そのため、当時、著者が持ち込んだ原稿は、あちこちの出版社に断られたという。盟友であるはずのソビエトを風刺した本書の出版に出版社が恐れをなしたのだろう。

それを知ってもなお、著者が抱く社会主義への疑いは根強いものがあった。それが本書の執筆動機になったと思われる。
当時はまだ、共産主義の恐ろしさを人々はよくわかっていなかったはずだ。
粛清の嵐が吹き荒れたスターリン体制の内情を知る者もおらず、何よりもファシズムを打倒することが何よりも優先されていた時期なのだから。
だから今の私たちが思う以上に、本書が描かれた時代背景にもかかわらず本書が出版されたことがすごいことなのだ。

もちろん、現代の私たちから見ると、共産主義はもはや歴史に敗北した過去の遺物でしかない。
ソ連はとうに解体され、共産主義を掲げているはずの中国は、世界でも最先端の資本主義国家といってよいほど資本主義を取り入れている。
地球上を見渡しても共産主義を掲げているのは、北朝鮮のほかに数か国ぐらいではないだろうか。

そんな今の視点から見て、本書は古びた過去を風刺しているだけの書物なのだろうか。
いや、とんでもない。
古びているどころか、本書の内容は今も有効に読者に響く。なぜなら、本書が風刺する対象は組織だからだ。
そもそも共産主義とは国家が経済を計画し、万人への平等を目指した理想があった。だからこそ、組織だって狂いもなく経済を運営していかねばならない建前があった。
だからこそ、組織が陥りやすい落とし穴や、組織を運営することの困難さは共産主義国家において鮮明な矛盾として現れたのだと思う。そのことが本書では描かれている。

理想を掲げて立ち上がったはずの組織が次第に硬直し、かえって人民を苦しめるだけの存在に堕ちてゆく。
われわれはそうした例を今まで嫌というほど見てきた。上に挙げた共産主義を標榜した諸国において。
その多くは、共産主義の理想を奉じた革命者が理想を信じて立ち上げたはずだった。だが、理想の実現に燃えていたはずの革命家たちが、いざ統治する側に入った途端、自らが結成した組織に縛られていく。
それを皮肉と言わずして何と呼ぼう。

それにしても、本書に登場する動物達の愚かさよ。
アルファベットを覚えることがやっとで、指導者である豚たちが定めた政策の矛盾に全く気付かない。
何しろ少し前に出された法令の事などまるで覚えちゃいないのだから。
その無知に乗じて、統治する豚たちは次々と自らに都合の良いスローガンを発表していく。朝令暮改どころではない速さで。

柔軟といえば都合はいいが、その変わり身の早さには笑いがこみあげてくるしかない。

だが、本書を読んでいると、私たちも決して動物たちのことを笑えないはずだ。
先に本書が風刺する対象は共産主義国家だと書いた。が、実はあらゆる組織に対して本書の内容は当てはめられる。
ましてや、本書が描かれた当時とは比べ物にならないほどの情報量が飛び交っている今。

組織を担うべき人間の処理能力を上回るほどの判断が求められるため、組織の判断も無難にならざるを得ない。または、朝令暮改に近い形で混乱するしか。
私たちはその実例をコロナウィルスに席巻された世界で、飽きるほど見させられたのではないだろうか。

そして、そんな組織の構成員である私たちも、娯楽がふんだんに与えられているため、本書が描かれた当時よりも衆愚の度が増しているようにも思える。
人々に行き渡る情報量はけた違いに豊かになっているというのに。

私自身、日々の仕事に揉まれ、ろくにニュースすら読めていない。
少なくとも私は本書に出てくる動物たちを笑えない自分を自覚している。もう日々の仕事だけで精いっぱいで、政治や社会のニュースに関心を持つ暇などない状態だ。
そんな情報の弱者に成り下がった自分を自覚しているけど、走らねばこの巨大な世の中の動きに乗りおくれてしまう。私だけでなく、あらゆる人が。

本書の最後は豚と人間がまじりあい、どちらがどちらか分からなくなって終わりを迎える。
もう、そんな慄然とした未来すら来ているのかもしれない。
せめて、自分を保ち、客観的に世の中を見るすべを身に着けたいと思う。

‘2019/8/1-2019/8/6


珠玉


本書は著者にとって絶筆となった作品だ。すでに病に体を蝕まれていた著者。本書は大手術の後、病み上がりの時期に書かれたという。そして本書を脱稿してすぐ、再度の発作で亡くなったという。そんな時期に発表された本書には回想の趣が強い。著者の人生を彩った出来事や体験の数々が、エッセイにも似た不思議な文章のあちこちで顔を出す。

著者の人生をさまざまに彩った出来事や体験。私たちは著者が著した膨大なエッセイから著者の体験を想像し、追っかける。だが、私たちには、著者が経験した体験は文章を通してしか伝わらない。体験とは、本人の記憶にしか残らないからだ。私たちはただ、文章からイメージを膨らませ、著者の体験を推測することしかできない。

著者の体験で有名なものは、釣り師としての冒険だろう。また、ベトナム戦争の前線に飛び込み、死を紙一重で逃れた経験もよく知られている。壽屋の社員として酒と食への造詣を養い、それを数々のエッセイとして発表したことも著者の名を高めた。そうした著者が過ごしてきた多方面の経験が本書には断片的に挟まれる。エッセイなのか、小説なのか判然としない、著者自身が主人公と思われる本書の中で。

著者は作家として名を成した。名を成したばかりか、己の生きた証しをエッセイや小説に刻み、後世に残すことができた。

ところが、本書からはそうした積み上げた名声や実績への誇らしさは微塵もない。むしろ、諦念やむなしさを感じるのは私だけだろうか。それは著者がすでに重い病を患っていたから、という状況にもよるのかもしれない。

本書に満ちているのは、人生そのものへの巨大な悲しみだ。著者ほどの体験を成した方であっても、死を目前にすると悲しみと絶望にくれる。なぜなら未来が残されていないから。全ては過去に属する。現在、病んでいる自分の肉体でさえも。本書からは未来が感じられない。全編に過去を追憶するしかない悲しみが漂っている。

死ぬ瞬間に走馬灯が、という月並みな言葉がある。未来がわずかしか残されていない時、人の心はそうした動きを示す。実際、未来が閉ざされたことを悟ると、人は何をして過ごすのだろう。多分、未来に楽しみがない場合、過去の記憶から楽しみを見いだすのではないか。それがストレスをためないために人の心が本能的に振舞う作用のような気がする。

著者は作家としての名声を持っている。だから、過去の記憶から楽しみを拾い上げる作業が文章に著す作業として置き換えることができた。おそらくは依頼されていた執筆の責任を果たしながら。

輝いていた過去の記憶を原稿に書きつけながら、著者は何を思っていたのだろうか。それを聞き出すことはもはやかなわぬ願いだが、これから死ぬ私としては、そのことが知りたい。かつて茅ケ崎市にある開高健記念館を訪れ、著者が使っていたままの状態で残された書斎を見たことがある。そこでみた空っぽの空間と本書に漂う悲しみのトーンは似通っている。私が死んだ後、絶対的な空虚が続くのだろうか。誰も知らない死後の無に恐れを抱くしかない。

本書は三編から成っている。それらに共通するのは、宝石がモチーフとなっていることだ。言うまでもなく、宝石は未来に残り続ける。人は有限だが、宝石は永遠。著者が宝石をモチーフとしたのもわかる気がする。まさに本書のタイトル「珠玉」である。病の悲しみに沈み、過去の思い出にすがるしかないからこそ、そうした日々を思い出しながら原稿に刻んでゆく営みは著者に救いをもたらしたのではないか。著者は自らの過去の体験が何物にも代えがたい珠玉だったのだ、と深く感じたに違いない。三編に登場する宝石のように。

「掌のなかの海」は、主人公が訪れたバーで知り合った船医との交流を描いた一編だ。世界の海や港の話に花を咲かせる。そこでは著者が培った旅の知識が縦横に披露される。そこで主人公が船医から託されたのがアクアマリン。船乗りにふさわしく青く光るその貴石には”文房清玩”という一人で楽しむための対象として紹介される。息子を亡くしたという船医が感情もあらわに寂しいと泣く姿は、著者の不安の表れに思える。

「玩物喪志」は、主人公が良く訪れる渋谷の裏道にある中華料理店の店主との物語だ。世界の珍味をあれこれと肴にして、食の奥深さを語り合う二人。その店主から受け取ったのがガーネット。深い赤が長方形のシェイプに閉じ込められた貴石だ。主人公の追想は今までの人生で見つめて紅や緋色に関するイメージであふれかえる。サイゴンでみた処刑の血の色、ワインのブドウから絞られた透き通る紅、はるばる海外のまで出かけてみた川を埋めるキング・サーモンの群れの紅。

追憶に満ちたこの一編は、著者の人生のエッセンスが詰め込まれているといえよう。ここに登場する店主の友人が無類のギャンブラーであることも、著者の思想の一端の表れに違いない。

「一滴の光」は、主人公が鉱物の店で手に入れたムーンストーンの白さから始まる。本編では新聞社に勤める記者の阿佐緒とのエロティックな性愛が描かれる。温泉につかり、山々を散策し、温泉宿で抱き合う。ムーンストーンの白さとは、エロスの象徴。著者の人生を通り過ぎて行った女性がどれだけいたのかは知らない。著者は家庭的にはあまり円満でなかったという。だからこうした関係にわが身の癒やしを得ていたのかもしれない。

三編のどこにも家庭の団欒を思わせる記述はない。そんな著者だが、本編には著者が生涯でたどり着いた女性についての感想を思わせる文が記されている。
(・・・女だったのか)(192P)
(女だった・・・)(193P)

後者は本書の締めの一文でもある。この一文を書き記した時、著者の胸中にはどのような思いが沸き上がっていたのだろうか。この一文が著者の絶筆であるとするならば、なおさら気になる。

‘2018/09/20-2018/09/22


百年法 下


上巻では、百年法を成立させる過程で笹原が自死を遂げる。その志を継いだのが内務省で笹原の部下であった遊佐。

遊佐は百年法を国民にあまねく浸透させるためには民主主義では生ぬるいと考える人物だ。権限を持った施政者による強力な指導がこれからの日本共和国には必要との持論を持っている。その持論にのっとり、遊佐は首相の座に就く。そして大統領に野党党首だった牛島を擁立する。大統領といっても、現代フランスやアメリカのような任期制の大統領ではない。内政にも強大な権限を持つ終身大統領だ。遊佐は自らの信ずる政治体制を実現するため、合法的に大統領へ無限の権力を集中させる。上巻は、自らが擁立した牛島大統領により、足を掬われる遊佐の狼狽で幕を閉じる。

下巻では政治と国民の断裂は深刻になる。百年法は施行されたが、その徹底はおざなりになる。百年たったにも関わらず当局に出頭しない者は増加し、彼ら逃亡者は各地でコミュニティを作って自活の道を選ぶ。闇IDカードが横行し、政府が派遣した軍隊が逃亡者コミュニティを掃討することが頻発する。生存権の制限を徹底したい政府と生存本能に忠実な国民の間の争い。それが描かれるのが下巻だ。

下巻では、政府内部の権力闘争も執拗に描かれる。それは牛島大統領と遊佐首相による暗闘だ。著者は本書のサブテーマにマキャベリズムのあり方も取り上げる。為政者とは国民に対してどうあるべきなのか。権力を得る前と得た後で人はどう変わりうるか。人は権力を手にした時、どう振る舞うべきか。そして、権力闘争を勝ち抜くために求められる資質とは何か。

マキャベリズムとは、ルネサンス期の政治思想家マキャベリが唱えた思想のことだ。ウィキペディアの定義を引用すると、どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想だ。だが、マキャベリズムが生まれでたのは、かつてマキャベリが活躍したフィレンツェやその周辺の都市国家が群雄割拠した中世の時代背景があってこそ。いまや覇道が大義として通用した中世ではない。21世紀半ばの情報技術の豊かな日本共和国を舞台として、いかにマキャベリズムを具体化するか。著者の思考実験には、生死という人間にとっての究極の選択が欠かせなかったのだろう。

上巻のレビューで、著者は本書において主張したかったことが多数あるはずと書いた。その一つは家族のあり方だ。不老が実現した社会では、子が親を養う事が不要となる。つまり親子の縁はもはや足枷でしかなくなるということだ。

著者は本書で様々な社会実験を行う。そのうち、私が被験者に置かれたくない実験。それこそが家庭の意味が崩壊した社会に生きることだ。こと家庭に関しては私は保守的な考えを持っている。多分、不老が実現した社会では本書の予言通り家族制度は溶解することだろう。だが、仮にそうだとして、それを今の日々にどう活かすのか。家庭だけでなく、労働のあり方にも相当な変化が起きるはずだ。社会構造が変わることで、子を持つ意味も根底から覆る。本書はそういった思考訓練にも使えるかもしれない。

本書下巻には正体不明の阿那谷童仁というテロリストが暗躍する。政府にたてつく反百年法のシンボル。活動年代の長さは、HAVI処置による長命だけでなく、複数の人間が何代にもわたって阿那谷童仁を襲名しているかのようだ。その存在は、生存権を脅かされた国民による反旗のシンボルのよう。だが、阿那谷童仁の行動からはこれといった信念が感じられない。阿那谷童仁が仮に逃亡者の代弁者であったとして、逃亡者の信念の根底にあるのは国に生殺与奪権を握られていることの反抗だけなのか。それとも逃亡者とはただ本能に正直なだけの人々の集まりなのか。

その判断は読者に委ねられる。家族という価値観が崩れた後、人は何を支えに生きて行くべきなのか。それを問う事は、本書の底流を成す重要なテーマだと思う。国家による生存権の掌握や、その運営にあたる政治家の持つべき矜持も重要だ。だが、人が生きる目的を探る事は、そもそも小説という芸術の根幹にも関わることだ。本書では、種族の繁栄という大義名分が喪われた人が何を目標に生きるのか、との問いがなされる。この問いは表立って出てこないが、本書を読む上で見逃せない。

著者は、最終的には本書の筋を国家としてのあり方につないでゆく。宗教や思想、主義、哲学、生きがい、人生観、価値観。そういった精神的なものは、国民の一人一人に任せておけばよい。と著者はその是非を読者に預ける。上にも書いたような人としての生きがいは本書の重要なテーマではあるが、最終的にはそれは読者それぞれの価値観によるとでもいうかのように。

では、国政を預かる者の責務はなにか。結局は、国民の生活基盤を整える事ではないか。国民がそれぞれの生きがいを全うし、人間らしい生活を営むための基盤。それを整え、提供することが国の責務なのだろう。なぜなら、それができるのは国家だけだからだ。

国と国民とはしょせん同化できるものではない。個人と国の価値観は常に対峙しあい、依存しあい、反発しあう。立場や視点によって国の立場も国民の立場も変わる。そして、国は国民がいなければなりたたない。国は国民の生存権を左右することはできても、それでもなお、一人一人の国民がいなければ、立ちゆかないのが国なのだ。そこを見据え、さらに先の未来を描き、バランスの取れた統治に徹するのが正しいマキャベリズムの姿なのかもしれない。

本書はこのように、様々な角度から社会や国の現状認識を揺さぶる。それだけの力を持った小説だ。ぜひ味わってみて欲しいと思う。

‘2016/6/23-2016/6/25


百年法 上


国家を成り立たせるための最低要件。それは政治学の初歩の問いではないか。この場で私が思いつく限りでも、国民、国境、そして軍隊も含む外交主体などが浮かぶ。最後に挙げた主体とは、国の実態を対外折衝を行える組織に置く考えに基づいている。つまり、対外折衝を国に対して行うからには、その組織を国と見なしても良い、ということだ。

一方、国を考える上で内政とは何を指すのだろうか。国民と統治者の間にサービスを介した関係が存在すること。それは誰にも異論がないはずだ。国民は国からサービスを受けるため税金を払い、国はその見返りにサービスとしての教育や福祉、治安を提供する。これは、政府の大小や主義主張の違おうとも、一般に認められる考えではなかろうか。今、私が考える国の内政機能といえば、せいぜいこのくらいしか思いつかない。

国防の名において、国民を外敵から守るといった秩序維持も国家の機能の一つに挙げてもよさそうだ。それだけにとどまらず、外交も内政も行き着くところは国内の秩序維持に集約される、といった意見にも私は反対しない。

国家が秩序維持を御旗に掲げた場合、個人の権利は縮小される。国民福利の原則を盾に、強制代執行の行使がなされる事案はよく耳にする。国家権力の名の下に、個人の権利は制限される。今さら基地問題や市街地開発を話題に出すまでもなく、お馴染みの話だ。

ただ、権利が制限されると言っても我が国の憲法には、生存権をはじめとする権利が明記されている。それら謳われた権利の保護は、たとえ建前であったとしても尊重されているといってよいだろう。なかでも生存権については、前憲法下で蔑ろにされた反省から現憲法ではかなり気が遣われていると思う。

日本国憲法が施行されて70年がたった今、生存権について国家が制限をかけるという試みはタブーに等しい。本書は、そのタブーにあえて踏み込んだ一冊だ。

そのタブーを描き出すため、著者は近未来SFの手法を採る。それは、パラレルワールドにおける近未来として読者の前に示される。なにせ、本書の舞台は日本共和国なのだから。1945年までは同じだが、第二次世界大戦の戦後処理の過程で共和国形態を採った日本。パラレルワールドの日本には大統領がいる。実務は首相が執る。本書に描かれる日本共和国の政体は、現代フランスの政治体制に近いだろうか。

ふとした偶然で発見されたヒト不老化ウィルス、略してHAVI。このウィルスこそが本書の着想の肝だ。不死を手に入れた人類の壮大な社会実験。そして、死なないということは、際限なく人が増え続けること。つまり、国家による生存権の制限が必須となる。その制限の根拠こそ百年法だ。

本書の扉や表紙折り返しには条文が掲載されている。
【生存制限法】(通称:百年法)
不老化処置を受けた国民は
処置後百年を以て
生存権をはじめとする基本的人権は
これを全て放棄しなければならない

自然死や事故死ならともかく、国家によって強制される死。それはかつての日本にあっては、赤紙に象徴された。なぜ著者は本書のパラレルワールドとわれわれが生きる世界の分岐点を1945年に設定したか。私はその理由は二つあると思う。一つは、日本共和国成立には太平洋戦争の敗北が必要だったこと。もう一つは、百年法施行に踏み切る指導者の背景に太平洋戦争前の死生観をおく必要があったからではないか。

本作中で百年法が最初に議会に提出されるのは西暦2048年。百年法を主導するのは内務省。内務省次官の笹原は、太平洋戦争を闘った軍人あがりの人物。HAVIウィルスに感染、つまり、不老となった。

笹原は、死と生が隣り合わせになっていた時代の空気を知り、国家による生存権の制限を知っている。つまり、国家による生存権の制限に再び踏み切るには適任な人物だ。

笹原自身も、百年法が施行されれば、一年後に生存権が停止されることになる。だが、彼は、自らも自死を前提とした覚悟で国民に決断を突きつける。まさに命がけで政治を行うとはこのことだ。

本書を通して、著者が訴えたいのは死生観の多様性を描くことだけではない。国家による生存権の制限は、著者のテーマの素材を活かす舞台に過ぎないと思う。著者が訴えたいことの一つは、政治家に求められる覚悟だ。

つまり、笹原が選んだような、国の行く末のためには命すら賭す信念。為政者が身にまとうべき矜持ともいえようか。

だが、それは云うは易し、の理想論に過ぎないようにも思う。笹原のような命を賭ける政治家が不在である今の日本。これは、今の日本がまだそこまで追い詰められていない事の証だと思う。まだ、今の日本には余裕があるということでもある。少なくとも本書で日本共和国が陥った状況には、今の日本は至っていないように思う。

つまり、著者が百年法や日本共和国という舞台を創造してまで描きたかったこととは、政治家の本分ではないだろうか。

本書では多様な登場人物が死生観を披露する。百年法の適用対象となっても当局に出頭せず逃亡者となる者。HAVIをそもそも受けず、自然のままの老化を選ぶ者。未練がましく葛藤しながら自らの終末まで生きようとする者。人によって価値観は十人十色だ。そんな多種多様な死生観を持つ人々を率いるには、生半可な信念では務まらない。本書で著者が一番訴えかけたかったのは死生を統べる為政者としての覚悟だろう。

そう考えると、なぜ著者は本書の日本を共和制にしたのか、天皇制を廃したのはなぜか、という疑問にも答えがでる。たとえ象徴とはいえ、国民の死生を左右する国に天皇がある設定。その設定に著者は踏み切れなかったのではないだろうか。

ここから強いて何かを受け止めるとすれば、国と国民の間に死生観が介在すること、だろうか。戦後70年を経た今、為政者ではなく、天皇の名の下に国民に死生を強いたことの影響。その微妙な影響は今なお残り続けている事実を本書からあらためて突きつけられたと思う。死生観の強制があった事実は、今も国と国民の間に抜き難く残っている。そんな感想を抱いた。私自身は、象徴としての天皇の在り方に賛成する立場だ。だが、この先、IT技術の進歩は国と国民の関係に深く関わってゆくことだろう。

本書からは、それらのあり方も含めて考えさせられた。

2016/06/22-2016/06/23