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日本語のコツ―ことばのセンスをみがく


ここ数年、文章を書くことの面白さと難しさを感じている。書く場所や時間で文章の紡ぎかたは変わり、読み手の気分や体調によって文章の受け止められ方も変わる。読み手と書き手、それぞれの立場に応じて、文章は自在にその色合いを変化させる。

デジタルの世にあって、アナログな作業が年々減っていくことに寂しさを感じる昨今。文章を綴る作業に、アナログの充実感を求めるのは私だけではないはず。デジタルやアナログという括りがわるければ、定型にはまった作業と、自由に任せた心の表現とでも言おうか。

そんな意見を持つようになった今の私。とはいえ、社会人に成り立ての頃は文章に興味はなかった。文章よりも物語の筋書き、登場人物の思考の流れ、に興味を持っていたように思う。文章なんてものは後回しで、ただ疎かにしていた。その頃の、二十代、三十代の私は、仕事や家庭を確立することに夢中で、文章を味わう境地から遠ざかっていたといえる。本はたくさん読んでいたが、読みっぱなしで反芻することもせず、筋書きや著者の主張を吸収することに汲々とした反省がある。振り替えれば勿体無いことをしていたものだ。

そのままだと本は乱読する対象、ただひたすらに消費する対象に過ぎなかったかもしれない。しかし、IT技術の進化はSNSという自己表現の手段をもたらした。mixiやFacebook、OpenPNEベースのSNS、Twitterなど。これらのSNSを利用し楽しむためには読むだけの参加もありだが、自ら文章を書いて発信することでより楽しくなる。私も日記書きにはまり、以来、舞台を変えながらも日に一度の日記は欠かさない。

SNSと並行して、読んだ本のレビューを書き始めたのが数年前。それは三十代も終わりを迎えようとした頃のこと。また、時期を同じくして参画したプロジェクトで、毎週開かれる大きな会議の議事録執筆を担当し今に至っている。

文章をインプットするのは楽である。読むだけなので。しかし文章をアウトプットする作業は、個人的な楽しみであっても苦しい。書く道は遠い。そもそも文章に正解はない。簡潔に誤解を招かぬ文章。これは簡単なようで難しい。ビジネスメールも日記も読書観劇レビューも、エッセイからブログ上のオピニオン、百四十字のツイートに至るまで、文章には書き手の癖が現れる。その癖は、文章に独自の味をつけもすれば、型にはまった無味乾燥な文脈をまとわせもする。実に厄介な相手というしかない。私がSNS上で日記を公開する目的の一つに文章研鑽がある。その一環としてわざと使い慣れぬ言葉を使うよう心がけ、語彙や表現の幅を広げる努力を重ねてきた。そうしないと文章の癖が固定化し、表現がワンパターン化してしまう。この癖を自在に操り、千変万化の文章表現を繰り出すからこそ、作家は作家たり得る。しかし、私のような市井の素人物書きは、その癖に陥らぬようにするのが精いっぱい。せめてもの努力としては、癖を自覚しつつ沢山の文章を書くことだろうか。あるいは、文章読本や日本語ノウハウ本を読むことも無駄ではないだろう。とはいえ、私が読書レビューや議事録、日記を書くようになってからのここ数年、この手の本は余り読まなかったように思う。本書は久々に読んだ日本語ノウハウ本の一冊である。

ただし、本書はノウハウ本とはいえ、表面をなぞっただけの軽い内容ではない。その考察は広く深い。著者は国立国語研究所室長や大学教授を歴任してきたにも関わらず、取っつきやすい語り口ですいすい読み進められる。私もこれまでに数冊著作を読ませていただいているが、日本語表現を永年追究してきた著者の筆致は、ユーモアを頻繁にさりげなく混ぜつつ、表現の勘所を抑え、非常に分かりやすいといえる。本書の題名を日本語のコツと銘打つだけはある。

本書は8章からなる。
Ⅰ 意味の世界
Ⅱ 語感のひろがり
Ⅲ あいまいさの発生源
Ⅳ 誤解のメカニズム
Ⅴ 行動としての敬語
Ⅵ 手紙のセンス
Ⅶ 日本語の四季
Ⅷ 日本語の芸術

前半は、日本語の文法的なアプローチが多い。いわば理論面にあたる。後半に控える手紙や俳句や芸術などの実践面を紹介する章に比べると、身構えてしまうかもしれない。しかし、理論とはいえ、分かりやすく記されているため避けることはない。特に出だしのⅠ章は本書の性格を知る上で必読である。類義語、多義語、同音語などについての説明が主な内容だが、例示される言葉が的確に選ばれており、頭に入りやすい。本章では川端康成の伊豆の踊り子の一節が採り上げられている。その一節は日本語学習者にとって日本語のあいまいさを象徴する箇所として有名らしいが、私はそのことを知らなかった。著者はその一節に丁寧な解説を加え、作家が文章に凝らす工夫の巧みさと、日本語の表現の可能性を鮮やかに見せつける。

Ⅱ章は、語の持つ語感の広がりの豊かさ。Ⅲ章は同音語や「てにをは」の助詞のかかり方に修飾語の効果の範囲が散ってあいまいさが広がることについて考察を深める。自分で書いた文章、他人による文章を問わず、今まであいまいな文章に行き当たったことがあるのは私だけではあるまい。人の振り見て我が振り直せではないが、今後、文章を綴る上で気を付けたいと思う。

Ⅳ章は、誤解のメカニズムと題している。Ⅰ~Ⅲ章までのまとめに加え、主語の省略による誤解の発生についての考察だ。この章は私自身、議事録を書いていてよくやるミスである。主語を抜かしてしまうことで、何に対しての議事が話されているか曖昧になるのは思い当たる節が多数ある。ネット上でのメールのやりとりで失敗する向きは、本章の内容が参考になるかもしれない。本書は2002年刊行であり、ネット上のやり取りについてはあまり触れられていない。しかし、今の我々にとってネットでの文章表現を行う上で本章並びに本書は充分通用する。

Ⅴ章からは、実践面に入る。まずは敬語。私も含め、今の四十代以下の日本人で敬語を完璧に使いこなせる人はどれだけいるだろう。ほとんどいないのではないか。敬語の区分けとしてよく言われるのは、「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」といわれる。本章ではそれに「美化語」「丁重語」を加える。前者はものの頭に「お」を付ける用法。後者は「拙宅」「愚息」などのように手前側を貶めて相手を持ち上げる謙譲語に似た用法。敬語の奥深さは底知れない。

Ⅵ章の手紙のセンスは、含蓄に満ちた章である。この章では電子メールという言葉が出てくる。そして電子メールすら古い感じになってきたと書かれている。さしずめ今の世に本書が掛かれていたら、ツイートについても一章割かれるのではないか。著者は電報についてのエピソードを述べつつ、相手の都合を斟酌できない電話の功罪を内田百間の随筆に例をとってユーモラスに紹介する。手紙に関する色々なお作法に触れたあと、有名作家のプライベートな手紙を登場させる。著者は電子メールすら古い感じになってきたとITコミュニケーション全盛の世を察知し、古き良き手紙の文化への回帰を試みる。それは、以下に示す本章に書かれた一文からも読み取れる。

「発信機ではなく、手紙を書いている生の人間が今ここにいる、という感じが、受信機ではなく、それを読むもうひとりの生の人間に届くだろう。そんな生きている人のけはいが、相手の心をなごませる。」

Ⅶ章は、日本語の四季として、俳句の名句を多数用いて、豊かな日本語の時候や風流の語彙の数々を味わう。この章を読み、俳句の表現に興味を持った私は、年末にかけて数冊の俳句の関連本を読むこととなる。それらの本についてのレビューはまた改めてご紹介したい。

Ⅷ章は日本語の芸術と題している。前章が俳句なら、本章では短歌や詩の世界に遊ぶ。さらには小説という豊穣な宇宙へと論考は進む。本章で紹介される名文の多彩なことといったら。

本章で名文・名作の数々に触れるうちに、小説の筋書きを追うだけでなく、文章自体を味わおうと云う気になる。そして、もう一度本書を読み直す気になるかもしれない。そんな方がⅠ章に戻ると川端康成の名文が登場する。本書はご丁寧に輪廻する構造をもっている。繰り返し幾度も本書を読み返すことで、名文をものすることが出来るかもしれない。私自身、本書は折に触れ断片的にでも読み返そうと思っている。

‘2014/10/10-2014/10/21