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カエルの楽園


40も半ばになって、いまだに理想主義な部分をひきずっている私。そんな私が、SEALD’sや反安倍首相の運動を繰り広げる左派の人々に共感できない理由。それは現実からあまりに遊離した彼らの主張にある。それは、私が大人になり、社会にもまれる中で理想はただ掲げていても何の効力も発揮しないことを知ったからだろう。現実を懸命に生きようと努力している時、見えてくるのは理想の脆さ、そして現実の強靭な強さだ。現実を前にすると、人とは理想だけで動かないことをいやが応にも思い知る。契約をきちんと締結しておかないと、商売相手に裏切られ、損を見てしまう現実。

そもそも、人が生きていくには人間に備わっている欲望を認め、それを清濁併せのむように受け入れる必要がある。私はそうした現実の手強さをこれまでの40数年の人生で思い知らされてきた。

人は思いのほか弱い。一度、自分の思想を宣言してしまうとその過ちを認めづらくなる。右派も左派もそれはおなじ。だから、論壇で非難の応酬がされているのを見るにつけ、どっちもどっちだと思う。

そんな論壇で生き残るには、論者自身がキャラを確立させなければならない。そして自らが確立したキャラに自らが縛られる。そのことに無自覚な人もいれば、あえて自らが確立したキャラに引きずられることも厭わず自覚する人もいる。後者の方の場合、自らのキャラクターの属性として、主張を愚直に繰り返す。

私にとって右だ左だと極論を主張している論者からはそんな感じを受ける。だから私は引いてしまう。そして、簡単に引いてしまうので論壇で生き残れないだろう。柔軟すぎるのは論壇において弱点なのだと思う。そんなシビアな論壇で生き残るには、硬直したキャラ設定のもとで愚直に振舞うか、右や左にとらわれない高い視野から全てを望み、それでいてミクロのレベルでも知識を備える知性が必要だ。私は、右派と左派の喧々諤々とした論争には、いつまでたっても終わりがこないだろう、と半ばあきらめていた。

ところが、本書が登場した。本書はひょっとすると右だ左だの論争に対する一つの答えとなるかもしれない。いや、左派の人々は、本書をそもそも読まないから、本書に込められた痛烈な皮肉を目にすることはないだろう。何しろ著者は右派の論客として名をあげている。そんな本を読むことはないのかもしれない。

私は著者の本を何度か当ブログでも取り上げた。著者の本を読む度に思うことがある。それは、著者はマスコミで発言するほどには、イデオロギーの色が濃くないのではないか、ということだ。少なくとも著作の上では。国粋思想に凝り固まった右向け右の書籍や、革命やブルジョアジーや反乱分子といった古臭い言葉が乱発される左巻き書籍と比べると、著者の作品は一線を画している。それは著者が放送作家として公共の電波に乗る番組を作ってきたことで培われた作家のスキルなのだろう。要するに読みやすい。右だ左だといったイデオロギーの色が薄いのだ。

本書の価値は、著者が作家としてのスキルを発揮し、童話の形でイデオロギーを書いたことにある。いわば、現代版の『動物農場』と言ったところか。本書に登場する個々のカエルや出来事のモデルとなった対象を見つけるのは簡単だ。本書のあちこちにヒントは提示されている。対象とは日本であり、中国であり、北朝鮮であり、韓国だ。在日朝鮮人もいれば、アメリカもいる。著者自身も登場するし、左翼文化人も登場する。自衛隊も出てくるし、尖閣や竹島と思われる場所も登場する。非核三原則や朝日新聞、日本国憲法九条すら本書には登場する。

カエルの暮らしをモデルとし、それを現実の国際政治を思わせるように仕立てる。それだけで著者は日本の置かれた状況や、日本の中で現実を見ずに理想を追い、自滅へ向かう人々を痛烈に皮肉ることに成功している。物事を単純化し、寓話として描くこと。それによって物事の本質をより一層クリアに、そして鮮明に浮かび上がらせる。著者の狙いは寓話化することによって、左派の人々の主張がどのように現実から離れ、それがなぜ危険なのかを雄弁に語っている。

これは、まさにユニークな書である。収拾のつきそうにない右と左の論争に対する、右からの効果的な一撃だ。戦後の日本を束縛してきた平和主義。戦争放棄を日本国憲法がうたったことにより、成し遂げられた平和。だが、それが通用したのは僅かな期間にすぎない。第二次大戦で戦場となり疲弊した中華人民共和国と韓国と北朝鮮。ところが高度経済成長を謳歌した日本のバブルがはじけ、長期間の不況に沈んでいる間に状況は変わった。

中国は社会主義の建前の裏で経済成長を果たした。そしていまや領土拡張の野心を隠そうともしない。韓国と北朝鮮も半島の統一の意志を捨てず、過去の戦争犯罪を持ち出しては日本を踏み台にしようともくろんでいる。世界の警察であり続けることに疲れたアメリカは、少しずつ、かつてのモンロー主義のような内向きの外交策にこもろうと機会をうかがっている。つまり、どう考えても今の国際関係は70年前のそれとは変わっている。

それを著者はアマガエルのソクラテスとロベルトの視点から見たカエルの国として描く。敵のカエルに襲われる日々から脱出するため、長い旅に出たカエルたち。ナパージュに着いた時、たくさんのカエルは、ソクラテスとロベルトの二匹だけになっていた。ナパージュはツチガエルたちの国。そして高い崖の上にあり、外敵がいない。だからツチガエルたちは外敵に襲われることなど絶対にないと信じている。なぜ信じているのか。それは発言者であるデイブレイクが集会でツチガエルたちにくどいほど説いているからだ。さらにデイブレイクは、三戒を説く。三戒があるからこそ私たちツチガエルは平和に暮らせているのだと。三戒がなければツチガエルたちは昔犯した過ちを繰り返してしまうだろうと。ツチガエルは本来は悪の存在であって、三戒があるから平和でいられるのだ。と。

カエルを信じろ
カエルと争うな
争うための力を持つな

三戒が繰り返し唱えられる。それを冷ややかに見る嫌われ者のハンドレッド。そしてかつて三戒を作り、ツチガエルたちに教えたという巨大なワシのスチームボート。ツチガエルによく似た姿かたちだが、ヌマガエルという別の種族のピエール。デイブレイクからは忌み嫌われているが、実は実力者のハンニバルとその弟ワグルラとゴヤスレイ。ナパージュを統治する元老院には三戒に縛られる議員もいれば、プロメテウスのように改革を叫ぶ議員もいる。一方で、子育てのような苦しいことがいやで楽しくいきたいと願うローラのようなメスガエルも。

そんなツチガエルの国ナパージュを、南の沼からウシガエルが伺う。ウシガエルの集団が少しずつナパージュの領土を侵そうとする。元老院は紛糾する。デイブレイクはウシガエルに侵略の意図はなく、反撃してはならないと叫ぶ。あげくにはウシガエルを撃退したワグルラを処刑し、ハンニバルたち兄弟を無力化する。スチームボートはいずこへか去ってしまい、ウシガエルたちに対抗する力はナパージュにはない。ウシガエルたちが侵略の範囲を広げつつある中、議論に明け暮れる元老院。全ツチガエルの投票を行い、投票で決をとるツチガエルたち。ナパージュはどうなってしまうのか。

上に書いた粗筋の中で誰が何を表わしているかおわかりだろうか。この名前の由来がどこから来ているのかにも興味が尽きない。ハンドレッド、などは明らかに著者を指していてわかりやすい。デイブレイクが朝日というのも一目瞭然だ。スチームボートはアメリカ文化の象徴、ミッキーマウスからきているのだろう。だが、ハンニバルとワグルラとゴヤスレイが自衛隊の何を表わしてそのような名前にしたのかがわからなかった。ほかにも私が分からなかった名前がいくつか。

そうしたわかりやすい比喩は、本書の寓話を損なわない。そして、本書の結末はここには書かない。ナパージュがどうなったのか。著者は本書で何を訴えようとしているのか。

私の中の理想主義が訴える。相手を信じなくては何も始まらないと。私の中の現実主義が危ぶむ。備えは必要だと。そして現実では、日韓の関係が壊れかけている。まだまだ東アジアには風雲が起こるだろう。理想主義者ははたして、どういう寓話で本書に応えるのか。

‘2018/08/21-2018/08/21


オールド・テロリスト


著者は近年、近未来の日本を描くことで現代に警鐘を鳴らそうとしている。『希望の国のエクゾダス』は、中学生たちが日本に半独立国を作り上げる物語だった。本書はそのシリーズに連なっている。本書の主人公は当時、中学生を取材したジャーナリスト、セキグチ。彼がルポルタージュの執筆依頼を受けた時から本書は始まる。セキグチにルポを依頼した人物は、自らを満州国の人間と名乗り、セキグチをNHKに招く。

その指示に従ってNHKを訪れたセキグチは、若者による自爆テロに遭遇する。九死に一生を得たセキグチは、ルポをウェブマガジンに発表して世間の反応を見る。そこにさらにニュースが飛び込む。自爆犯の仲間達の自殺死体とその傍に置かれていた犯行声明が見つかったのだ。その声明は隷書体で書かれており、セキグチの捜索の糸は、駒込の書道教室へと伸びる。そこには謎めいた女性カツラギと、老人たちのコミュニティが築かれていた。そこでセキグチに託されたのは次なるテロ現場への手がかり。池上の柳橋商店街。そこでセキグチは、植栽を整えるための苅払機の刃が通行人の首を切り裂く瞬間に遭遇する。

セキグチは何かが起ころうとしている事を理解する。老人たちのコミュニティが何か大それたことを計画しているに違いない。希望を持てなくなった若者をそそのかし、自爆テロに向かわせるコミュニティー。その正体は曖昧であり、謎に包まれている。目的を完遂するため、相互の関係がわかりにくい組織を構築した。ちょうどアルカイダのような。

カツラギと親しくなったセキグチは、そのつてで精神科を営むアキヅキの知己を得る。そして老獪なアキヅキとの会話から、オールド・テロリストたちの目指す大義の一端をうかがい知る。

心療医ならではのソフトな口調を操るアキヅキ。彼が発する膨大なセリフの中に本書の肝は含まれている。その中の二つを抜粋してみたい。

「・・・・前略・・・・

老人に関して言うと、弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

・・・・後略・・・・」(124P)

「・・・・前略・・・・

 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなどできるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。

・・・・後略・・・・」(132~133P)

このセリフなど、今の日本の抱える二分化の状況を端的にあらわしている。今の若者に何が起こっているのか。私も含めた若者たちはどういう試練を課せられてきたのか。実に考えさせられる。また、最初のセリフからは、老いているから弱いという思い込みをはねつける強靭なメッセージが伝わってくる。老いるということはそれだけ長く試練に耐えてきた証拠なのだ。今の私たちが生きていること自体が、先祖たちが生き抜いてきた証であるのと同じように。

アキヅキは日本を焼け野原にするという。そして日本の原発の脆弱さを不気味に語る。さらに、謎かけのように歌舞伎町の映画館について言及する。予感を感じたセキグチは、新宿のミラノ座で「AMAOU」なるAKBやSKEの亜流グループが出る映画を見に行く。そして、そこでテロに巻き込まれる。高温で焼き尽くされた劇場からは数百人から千人に迫る規模の死者がでた。イペリットを使ったテロ。セキグチとカツラギ、そしてセキグチが出版社で机を並べていた同僚のマツノはそのテロで危うく死にかける。

そのテロこそ、コミュニティが真に牙を剥いた瞬間。そして遥かな満州国の頃から日本の奥底でうごめく策動が本格的に始動した証だった。そのコミュニティを作り上げ、満州国の生き証人である老人。明日にでも死んでしまいそうなほど衰えたその老人とセキグチは面会を果たす。そして老人から、コミュニティの中で先鋭的な手段に訴えるグループがあること、映画館のテロはそのグループが独断で行ったこと。グループの過激な行動は老人の意図を超えており、そのたくらみを止めて欲しいと頼まれる。老人から託された運動資金は十億。十億など老人にとっては単なる数字。金の流れを把握しきった老人による金の本質を突くセリフも興味深い。

セキグチとカツラギとマツノは、豊富な資金を元手にグループの計画に迫る。565ページある本書はここから、さらに紆余曲折がある。そしてその折々に重要なメッセージが読者に突き付けられる。例えば、

「わたしはあの人に興味がないし、あの人も、もちろんわたしに興味がない。ただし、だからあの人はわたしを信用しているの」

「・・・・前略・・・・

そういう人って、興味を持つ対象がいた場合、まず思うのは、とにかくこいつを殺したいってことです。

・・・・中略・・・・

彼は、どういうわけか、わたしには興味がなかったんですね。わたしのことを、殺したいやつだと思わなかったんです。だから信用されたんだと思う」(289P)

このセリフも、信用や人の関係の本質をナイフのようにえぐっている。

また、こういったセリフも登場する。

「テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は社会にあふれかえっているので、探し出して、洗脳というか、誘導するのは、そうむずかしいことではないでしょう。

・・・・中略・・・・

特攻隊がなぜ美しいか、わかるか。彼らは、二十歳そこそこの若さで、国や、故郷、そして愛する人々を守るために、喜んで犠牲となった、彼らは、七十年後の今でも、尊敬され、英雄として崇められている、崇高で、偉大なものの犠牲になる、それがいかに美しく、素晴らしいかわかるか。

 そういう洗脳をされるのは、気持ちがいいものです。ある種の人たちにとっては、信じられないくらい圧倒的に気持ちがいい。自分で考える必要もないし、自分をコントロールできないと苦しんだり不安になったりする必要もない。

・・・・中略・・・・

その種の洗脳は、甘えることを当然と考える人間が多い社会において、宗教的で、恐ろしい効果を生むんです」(334-335P)

この言葉も読者にはささるはず。

著者の作品を読むといつも思わされるのは危機感の欠如だ。現実の営みがどれだけ緩やかな流れに乗っているか。仕事や家庭で忙しない国民たち。今の我が国にはある程度のセーフティネットが用意されている。それは世のぬるい流れに乗って生きることの快適さを保証してくれている。その流れに乗っていれば楽だ。楽だが、生の証を刻みつけるには、はなはだ心もとない。そもそもその様な生きざまでは、いざ有事が発生した際、まっさきに淘汰される。

むろん、老人たちにしてみても、若い頃は軍国の流れに乗らざるを得なかった。望まぬまま有事に巻き込まれ、その記憶に引きずられている。だが老人たちは今、意図して有事を作り出そうとする。ぬるま湯の日本に刺激を与えるために。

本書はこのあと結末に向かって進んでいく。その結末は書かない。本書の筋書きよりも、あちこちにちりばめられた警句めいた言葉から何かをつかみ取ることが重要だ。本書は著者からの危機感を持つように、というメッセージなのだから。

‘2018/07/07-2018/07/08


日本辺境論


日本を論じるのがもっとも好きな民族は日本人。良く聞くフレーズだ。本書にも似た文が引用されている。

はじめに、で著者は潔く宣言する。本書もまた、巷にあふれる日本論の一つに過ぎないことを。そして、本書の論考の多くは梅棹忠雄氏や養老孟司氏ら先人の成果に負っていることを。著者の姿勢は率直だ。本書を先賢によって書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなもの、とすらいうのだから。(P23)

だからといって、本書を先人たちの成果の絞りかすと軽んじるのは愚かなこと。絞りかすどころか、含蓄に富んでいる。もし本書が絞りかすだとすれば、誰が本書を出版するものか。著者一流の謙遜だと思う。その証拠に著者は先ほどの宣言に続けてこう書いている。本書の「唯一の創見は、それら先人の貴重な知見をアーカイブに保管し、繰り返し言及し、確認するという努力を私たち日本人が集団的に怠ってきているという事実に注目している点です」と(P23)。

著者の謙遜にもかかわらず、本書の内容は新鮮だ。確かに結論こそ先賢の業績に沿ったものかもしれない。しかし、著者が論拠とするエピソードは現代の風俗を含んでいる。つまり本書は、現代の視点で見直した日本論なのだ。もっとも今風とはいえ、著者が本書で展開する論考にはインターネットからの視点が抜けているのは事実だ。しかし、本書での著者の結論から逆をたどれば、ネット社会が盛んな今もなお辺境にある日本という見方もできるのだ。

日本のどこが辺境なのか。「I 日本人は辺境人である」で著者は検証を試みる。日本の辺境性を明らかにするため、著者が取り上げた例は多岐に渡る。余りにも範囲が広すぎるため、ここで一々挙げることすらためらわせるくらいに。ほんの一例を紹介してみる。オバマ大統領の就任演説。太平洋戦争における海軍将校や大臣達の言葉。ヒトラーの戦争観。中華思想と小野妹子の親書。征韓論と日清日露戦争時の日本外交。

そこから導き出す著者の論点を要約すると、日本人のメンタリティは、他国との比較によって築き上げられてきたとの結論に落ち着く。「はじめに」で著者が告白したとおり、他国との比較という先人が出した日本への論考は枚挙に暇がない。丸山眞男、川島武宜、梅棹忠雄といった碩学諸氏。これら諸氏が主張したことは、今まで日本人が世界の主人公として主体的に振る舞ってきたことは一度もないということ。日本が主体となるのではなく、他国との比較において日本の在り方を突き詰めたところに、日本人の心性や文化はあるということ。それは良いことでも悪いことでもない。それが日本なのだ、という現状認識がある。それが著者の出した結論であり、よって立つ視座である。以下に本書の中でそのことが端的に述べられている箇所を抜き出してみる。

私たちの国は理念に基づいて作られたものではない。(P32)

私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語る(P34)。

國體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している(54P)。

特に最後の引用が含まれる52ページから56ページの部分は、太平洋戦争の総括がなぜ今も出来ないか、との問いへの回答になっている。東京裁判において、戦争の共同謀義の罪状にあたる証拠が見つけられず、その罪状で求刑出来なかったことはよく知られている。そこから、昭和初期の日本が國體や戦争の行く末を考えずに戦争に突き進んでいった理由について、本書の論考はヒントになるだろう。

最近はとくに、日本と他国を比べ優劣を語る議論がまた勢力を盛り返している。ネット論壇ではとくに。しかし、そのような比較論は、すでに先人達が散々論じ尽くしている。もはやそれを超える画期的な視点の日本論は出てきそうにない。著者もそれは先刻承知しているのだろう。だからこそ本書は先賢らが提示した論をなぞるだけ、と「はじめに」で述べているのだ。その前提として著者が「I 日本人は辺境人である」で主張するのは、こうなったらとことん「辺境」を極めようではないか、ということである。ここまで「辺境」を保ちつつ国を続かせてきた国は他にない。我が国が普通の国でないのなら、その立場を貫こうではないか、というわけだ。それが本書の、そして著者のスタンスである。

続く「II 辺境人の「学び」は効率がいい」で著者は辺境人として生きる利点を語る。そもそも日本には起源から今にいたる自国の思想の経歴が語れない、という特徴がある。自らの思想の成り立ちが語れないということは、論考に幅や余裕がなくなること。それは、自説について断定的な姿勢をとることであり、譲るゆとりを忘れることでもある。そういった病理を炙り出すため、本書で著者が取り上げたのは国歌国旗にまつわるナショナリズムだ。戦後の日本を縛り付けてきた左右両翼の争い。その論争の行く末は、いまだに見えない。それもここで挙げた論理を当てはめることで理由がつきそうだ。左右の思想ともに自らの思想が経てきた歴史や深みを語れない。それは借り物の思想だから、というのが著者の意見だ。

ここで私が思ったのは、左右の論争に決着がつけられないのは、自らの経緯が語れないということよりも、絶対的な宗教、決定的な思想が日本にないことが理由では、と思った。それは、目新しい考えでもなんでもない。ごく自然に出てきた私の疑問だ。

著者は、左右の思想になぜ論争の終わりが来ないのかについての理由を解き明かしにかかる。それは私の思ったことにも関係する。師弟という関係の本質。日本では芸事を極めることを「道」に例える。武道、茶道、書道など。道とは続くもので、終わりのないものの象徴だ。

著者はここで師弟関係の意味を極言する。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であったとする。でもその人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する(149P)。と。

著者がここで落語のこんにゃく問答を例に出すのは秀逸だと思う。しかし、著者がいうのは曖昧で形のない形而上の対象ではないだろうか。それらについては当てはまるかもしれないが、具体的な対象については「道」や「師弟関係」とは少し違うのではないか。目の前に見える近視眼的な対象に対する日本人の集中力は秀でている。それに異論のある方は少ないはずだ。著者にいわせれば、目の前に見えている対象は、学びの対象になりえないのだろうか。ここが少し疑問として残った。

そういった私の疑問に対し、著者は続く「III 「機」の思想」で”機”の概念を持ち出す。”機”とはなにか。それを説明するために著者は親鸞を担ぎ出す。親鸞もまた、道の終着点を見出すことの無意味さを知り、道という概念とは求め続けることに意味あり、ということを知る人ではなかったか。親鸞の有名な”悪人正機説”。この中には”機”の字が含まれている。

著者は親鸞を辺境固有の仮説を検証しようとした宗教家ととらえているようだ。「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」(166P)、という文にもそれが見られる。

修行の目的地という概念を否定した親鸞。それは、辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない(169P)、と著者は受け取る。

著者はここで”機”を説明するため、柳生宗矩を評するため沢庵和尚が使った「石火之機」という言葉を持ち込む。意思に基づいた動作ではなく、瞬間の動作。主体の意思さえない、本能の動作。反応以前の反応。それが「石火之機」だ。主体なく生きることは、すなわち辺境に生きることに等しい。そう著者は言いたいのだろう。ところがここまで書いておきながら、「悪人正機」の中の”機”について著者は特に触れないのだ。ここまで論を進めたのだから、あとは分かるでしょ?ということなのだろうか。であれば、あとはこちらで結論を導くしかない。それはつまり、存在論的に悪人であらねばならない我々が正しい”機”に導かれるには主体を捨てねばならない。”機”とはそういう”機”ではないか。

左右両翼の論争がなぜいつまでも終わらないのか、との著者の意見を噛み砕いているとここまで来てしまった。ここで改めて著者の言いたいことを私なりに解釈してみたいと思う。

主体がなく反応以前に反応する”機”。それは外来の事物について反応する前に有用性を見極め受け入れることである。日本人が辺境人としてあり続けたのは、”機”に導かれ道をしるため、主体を捨てて無私の境地で無条件に外来からの理論を信じてきたから。無条件に無私の境地の中で、その思想の由来や経緯を意識することなく外来思想を取り入れ続けてきたから。

多分、著者の結論を正しいとすれば、日本で思想の争いに決着を求めるのは無理だ。そして日本の思想に論理的整合性を求めるのは無駄なことだ。そこには私が考えたような絶対的思想の不在だけでない、別の理由がある。だが、それを承知で、著者は辺境人として生きてみようと呼びかけるのだ。その曖昧さをも受け入れた上で。

「IV 辺境人は日本語と共に」で著者は日本語を爼上にあげる。日本語は、表意文字と表音文字が混在しているのが特徴だ。そこには、仮名に対する真名という対比の関係がある。話し言葉を仮の名と呼び、外来の文字を真の名と呼ぶ。この心性がすでに辺境的なのだと著者はいう。外来の言葉を真の名と尊び、土着の言葉を借りの名という。つまり外来を重んじ、土着を軽んじる。この着眼点は凄いと思った。そしてそのことが日本を発展に導き、我々の文化に世界史上でも有数の重みを与えた。我々はそのことを素直に受け入れ、喜んでもいいのではないか。

年明け早々にヒントに富んだ書を読め、満足だ。

‘2015/01/15-2015/01/19


悪名の棺―笹川良一伝


パラ駅伝というイベントがある。健常者と障害者が八人で一チームを組み、義足や車椅子で駒沢オリンピック公園を八周する内容だ。

私が家族と見に行った11/29は、パラ駅伝 in TOKYO 2015という名称だった。桝添都知事やSMAP、宝塚歌劇団星組トップ北翔さんと妃海さん始め、多くの来賓も来ていた。その日は陸上競技場のスタンドで開会式から閉会式まで通しで見させていただいた。障害者スポーツについて、とても貴重な知見が得られたと思っている。しかし、残念なことが一つあった。それは、開会式と閉会式にたくさんの来賓から挨拶があったにも関わらず、マイクの調子のせいかほとんど私の耳に聞こえて来なかったことだ。だが、その中で一人だけ私の耳によく届いた声があった。その朗々たる声の持ち主こそ、日本財団の理事長笹川陽平氏であった。

笹川陽平氏のブログはたまに読ませてもらっている。もちろん、笹川陽平氏が日本財団に理事長である事を知った上で。そして陽平氏の父が笹川良一氏であり、日本財団とは、笹川良一氏が創設した日本船舶振興会の後継組織であることを知った上で。笹川良一氏といえば、今40歳以上の方にとってはおなじみの方ではないだろうか。私が子供の頃、日本船舶振興会のテレビCMが頻繁に流れていた。その中で一日一善や火の用心と叫んでいた人こそが、笹川良一氏であった。いまなお、ブラウン管の中の笹川良一氏の姿を思い浮かべることができるほど印象に残っている。幼い私にとっての笹川良一氏とは、ブラウン管の向こう側で一日一善や火の用心といったスローガンを叫び、壇上で賞状を授与されている何やら陽気で意味不明なお爺ちゃんであった。

昭和史に興味を持つようになってからは、笹川良一氏が単なる一日一善のお爺ちゃんではなく、昭和史に暗躍し後ろ暗い噂のつきまとう人物であることを知った。

では、笹川良一氏とは一体何者であったのか。そう自問すると、笹川良一氏のことを何も知らないことに気づく。週刊誌によるバッシング記事やWikipediaの記事を鵜呑みにするべきか。いや、そうではないはず。今回、笹川陽平氏の朗々と響く声をきっかけに笹川良一氏を一度知ってみようと思った。それが本書を手に取ったきっかけである。なお、本稿では笹川良一氏の事を以下良一氏と呼ぶことにする。

著者はノンフィクション作家である。そして著者もまた、私と同じように良一氏の実像に疑問を抱いたらしい。世間に流布している良一氏にまつわる話は、どこまでが伝説でどこまでが事実なのか。そんな疑問を解消するため、精力的に関係者へのインタビューを行った成果が本書である。著者の良一氏へのまなざしはさほど厳しくはない。礼賛とまではいかないにしろ、批判的要素はかなり薄いといってよい。著者は、取材対象である笹川陽平氏を初めとした縁故者への遠慮から批判的な論調を控えたのだろうか。それとも良一氏の真実の姿は本書に書かれたような無私の姿勢に彩られているのだろうか。ちまたでいわれるような政界の黒幕や右翼のフィクサーとのレッテルは、良一氏の表面しか見ていないのか。著者の人物探訪の旅は進む。

本書を読んだは良いが、私にはいまだに良一氏の全貌が把握できていない。むしろ、本書を読み終えた事で一層分からなくなったとさえ言える。分からなくなったのは、良一氏が黒幕か否かという表面的な部分ではない。私に分かったのは、良一氏はそんな表面的な毀誉褒貶を超えたところを生きた人物という事だ。おそらくは著者が本書で取材した内容は正しいのだろう。そしてそれは良一氏の一面でしかないはずだ。本書の及ばぬところ、例えば料亭の一室では良一氏は別の顔を演じていたに違いない。そこで話された内容の中には良一氏が黙したまま墓まで携えて行ったものもあるのだろう。大きく広い器の中に色々な世俗の清濁をあわせ呑んだまま、良一氏は96年の人生を生きぬいたのではないか。

本書を読む限りでは、良一氏の財力は本人の金儲けの才覚によるところが大きいという。だがそれは、裸一貫から築き上げた財力ではない。22歳にして父から莫大な遺産を受け継いで備わったものだ。著者は父からの相続額を今の金額にして1億2500万から3億の間ではないかと算出する。その遺産を元手に二度にわたって米相場で大儲けしたのが良一氏の冨の源泉だという。

このあたりの経歴については、本書にも確とした根拠が書かれているわけではない。全ては伝説の領域に属する話である。全ての冨が合法の下に蓄えられたかどうか、もはや誰にも分からない。しかし、一つだけ言えることがある。それは、当時いた多くの国士やフィクサー達と違い、良一氏が当初から金銭に困らぬ生まれ育ちだったということだ。その事実は、良一氏の生涯を理解する上で外せないポイントだ。

また、良一氏は、幼き頃川端康成氏と同じ郷里で育ったという。歳も近く、よく連れ立って遊んでいたのだとか。その事は本書で始めて知った事だ。川端康成氏の生家には20年ほど前に訪れたことがある。生家には川端という表札が掲げられ、今なお親族の方が住まわれている事が察せられた。偉大な作家の生家としては、生活感にあふれるたたずまいが記憶に残っている。本書によると良一氏の生家もその近くだとか。そして良一氏は、自らの生家に強い愛着を持ち、晩年になるまで妹さんの住む家を足しげく訪れていたという。私が川端氏の生家を訪れた頃は、まだ良一氏もご存命だった。あるいは出会えていたのかも知れない。

良一氏の人生に転機が訪れたのは1929年末。世界大恐慌である。その時期、良一氏は国粋大衆党を結党する。世界大恐慌はソビエトの共産主義革命により起こされた、そこから国を守るには右翼の力を強めねばならないという理屈だ。その解釈には疑問符が付くが、世界大恐慌でも破産しなかった良一氏は、資産家の右翼党首という珍しい立ち位置を手にする事になる。

良一氏は飛行機にも関心を持つ。自らも飛行機を操縦していたというから、本格的な関心だったのだろう。良一氏は東大阪あたりに広大な飛行場をつくる。そしてその飛行場を惜しげもなく軍に寄付する。このような行いこそが良一氏が誤解される一因なのだろう。実際、飛行場寄贈が後年、収賄の容疑をかけられる原因になり拘置までされたそうだ。だが飛行機好きの右翼党首という立場は、時代を下って山本五十六海軍元帥との交流につながる。

その交流は、海軍の飛行使節という形で良一氏を大戦前のイタリアへ赴かせる。そこで良一氏はムッソリーニとの会談を実現することになる。これもまた良一氏が生涯誤解され続けた原因の一つだろう。

開戦前から敗戦まで良一氏が過ごした日々の様子は、本書では簡潔に書かれている。山本元帥との交流は、良一氏に日独伊三国同盟や対英米戦にも反対の立場をとらせる。また良一氏は開戦後に行われた翼賛選挙に非推薦で出馬し、当選する。当選後は東條首相にも議会質問を行ったようだ。その質問内容も本書には紹介されている。それによると、東條内閣に恭順の意を示さなかったことで非推薦の扱いを受けたこと、非推薦候補であるがために受けた妨害の事実を糾弾した風にとれる。また、戦後社会党の党首となる西尾氏とは議員活動を通じて親しい交流も重ねたことも紹介されている。これらの戦前の活動からは良一氏の右翼や左翼といった型にはまらぬスケールのでかさがうかがえる。国粋大衆党の党首だから右翼の黒幕と決めつけることが、かえってつけた側の器の小ささを際立たせるような。もし著者が本書を良一氏の汚名を雪ぐ意図があって書いたのだとすれば、この辺りの事情についてもう少し紙数を割いてもよかったのではないか。

そのかわりに著者は、GHQによるA級戦犯調査の過程をつぶさに書いている。そこでもGHQが良一氏の扱いに困った様子が読み取れる。戦前の良一氏の活動は、右翼の黒幕として戦犯容疑の範囲に括れないスケールだったのだろう。著者が良一氏の替わりに批判の俎上に載せるのは児玉與志雄氏である。後年ロッキード事件で逮捕されたことでも知られる政界のフィクサーだ。著者は児玉氏こそが良一氏の悪評をばらまいた張本人である事を指摘する。戦前の良一氏の行いのあれやこれやが児玉氏によって非難され、罪とされたことが本書には記されている。良一氏は児玉氏による流言を知った上で素知らぬ風を装って遇していたらしい。その経緯が本当であれば、良一氏の器の広さはただ事ではない。

ではなぜ良一氏は進んで戦犯の汚名を被ったのか。それは、良一氏が戦犯として巣鴨プリズンに自ら望んで入獄したかったからだと著者は記す。自分自身が飛行場の収賄容疑で拘置された経験。この経験を元に他の入獄者の獄中生活の助けになりたかったのだという。にわかには信じられない話だ。それが本当なら、良一氏とは凄まじいまでの胆力の持ち主ではないか。

巣鴨での一挿話として東條元首相との関わりが紹介されている。東條元首相がGHQによる逮捕直前に自殺を図り、すんでの所で命を永らえたのは有名な話だ。その東條氏は東京裁判が始まるや態度を一転させ、昭和天皇に罪が及ばぬよう罪を自ら引き受ける堂々とした陳述を行なった事もよく知られている。本書では、東條元首相の態度が一変した裏に良一氏の貢献があったとしている。東條氏を諭したのが良一氏であったことは本書を読むまですっかり失念していた。

東京裁判の結果、七人のA級戦犯が刑場で処刑された。無罪として釈放された良一氏は、篤志匿名で遺族への援助に奔走する。幼い私の記憶に刻まれた日本船舶振興会だが、年度あたりの売り上げが兆を超していたという。そしてその売上の多くはABC級戦犯の遺族へ援助金として供出されたのだとか。ここまで来ると良一氏のスケールのあまりの巨大さに眉に唾つけて読みたくもなる。いったい、良一氏とはどのような人物なのか、本書を読むほどにその実像は遠ざかっていくようだ。

その一方で本書は良一氏の私的な部分にも踏み込む。公的な活動スケールの大きさは十分すぎるほどわかった。では良一氏の人間的な部分はどうなのか。これがまた規格外なのだ。聖人君子どころか英雄色を好むとの言葉そのものなのが良一氏の私生活のようだ。女性遍歴の豊かさについて本書は十分に書いている。浜松を境にして、東に行くと東京の愛妾を愛し、西に戻れば大阪の本妻に愛を注ぐ。それ以外にも陽平氏と兄二人の母がいて、さらに京都山科にも愛する女性がいて、隠れ家として使う。公的な伝説については虚実が曖昧だ。どこまでが本当なのか、それを知る本人はすでに泉下の人となっている。だが良一氏の私生活については深く関わった人々が存命だ。良一氏がパンツにうんこを付けて泰然としていたことや、性的な逸話など豊富に登場するのが本書だ。著者が陽平氏を初め、お手伝いさんや良一氏の愛妾など広く深く話を聞いた成果だと思われる。私的なエピソードからは良一氏の器のでかさよりは、幼いというか奔放な氏の性格が伺える。

著者は笹川陽平氏にも様々な私生活の良一氏を聞いたことだろう。本書における私的なエピソードの数々に登場するのは、息子からみた良一氏の素の姿。けちで有名だった良一氏からの極端でかつ筋の通った躾の数々。陽平氏と母は、東京大空襲の最中を九死に一生を得て生き延びたが、良一氏は当然そこにはいない。それでいて同居していなくても息子へのしつけは欠かさない。かなり規格外れの父親像ではないか。

しかし、陽平氏を初めとする三兄弟は、企業家として、議員として、日本財団の理事長として良一氏の残した物を守り継いでいる。その教育の証こそが、私が聞いた陽平氏の臍下丹田に力の入った声ではないだろうか。

結果として良一氏の破天荒な父親振りが良い父親だったとすれば、同じ父親として、私のあり方を省みて自信をなくすほかない。

そして、この期に及んでなお私は、幼き日に刷り込まれた良一氏による一日一善の言葉の底が、全く見えないことを知るのである。本書を読んで余計に良一氏が分からなくなったと書いたのは、そういうことである。

‘2015/12/04-2015/12/08