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ビジネスモデルの教科書 経営戦略を見る目と考える力を養う


独立してから13年半。法人化してから五期目を迎えるというのに、私はビジネスが不得手だ。少なくとも自分ではそう思っている。

多分それは、私自身がなんでも独りで学んできたからだろう。特定の師匠や先生、メンターを持たず、本を頼りに自分の力で学んできた。言い方を変えれば、ビジネスの中で出会ってきたあらゆる人から学び、教わり、盗み取ってきた。
いくら私が大学で商学部に所属し、マーケティングや経営を学んだとはいえ、それはあくまでも机上の理屈。実学ではない。
私がそうしたビジネスの知識や仕組みを学んだのは、自ら個人の事業に乗り出していく中で試行錯誤しながらだ。
その生き方はかっこいいのかもしれないが、正統に学んだ方に比べるとかなりの遠回りをしているはずだ。
未熟であるがゆえに、今までにたくさんの失敗をしてきたし、この人には足を向けて寝られないという人も何人かいる。

そういう失敗を振りかえる時、私の中の悔いが頭をもたげる。
弟子としてきちんと学んでおきたかったと思うこともある。

それは私の中でビジネスプロセスについての知識が弱いリスクとして影を落としている。
ビジネスの中で試行錯誤しながらつかんだ知識は固いが、未経験のビジネスモデルとなるとはなはだ弱い。
今までにしでかした数多くの失敗は、私にとって糧となっているとはいえ、失敗したことでご迷惑をかけてきたこともまた事実。

一方で、今まで自分の力だけでやってきた自負もある。
失敗を反省し、ビジネスの現場で犯した失敗は、反省し、学びに変えることで私の中に活きた知識として身についているはずだ。

だがここら辺で一度ビジネスモデルについてきちんと学んでおきたい、そろそろ実学の知識を身につけておきたい。そこで本書を手に取った。

弊社の場合、情報処理業界をベースに活動している。
情報処理業界もビジネスモデルに沿って営まれている。そこに慣習もある。だが、それは他の業界では通用しない。情報処理業界に特化したビジネスモデルに過ぎないはずだ。
だから本書に挙げられているようなさまざまなビジネスモデルについて、私の知識は薄い。
そしておそらく今後も弊社がITを主戦場にしている限り、その他のビジネスモデルを自在に操ることはないはずだ。

ただ、弊社はシステム構築を武器にして、あらゆる業界の顧客に対してシステムの提案をする事がミッションだ。という事は顧客が採用するビジネスモデルについても知っておかねばならない。

そこに結論が行き着いた以上、他のビジネスモデルについて無知である事は許されない。だから、本書のような入門書は読んでおかねばなるまい。

実際、紹介されているビジネスモデルは私の知っているあらゆるビジネスモデルを網羅していると思う。

結局、経済活動とはある物品や見えないけれど人のためになるサービスを扱う商いだ。原材料から加工し、次のお客様に商品やサービスとして提供する。
原材料から次の加工へのプロセスは、携わる人が身に付けたスキルによってどうにでも変わる。
消費者側は、加工された商品や物件やサービスを評価し購入する。
それは、その主体者が個人であろうと法人であろうと変わらない。

しかもそのプロセスにおいては、生産者と加工者と消費者と言うプレイヤーの構造であることも多い。そこが定まっている限り、ビジネスモデルの種類がそうそう増えることはないはずだ。

その流通経路は、時代の移り変わりによって左右される。
かつては行商人が足を使って商品を流通させていた。それが馬車になり、帆船になり、鉄道となり、トラックになり。今やインターネットの中で商談が完結し、ドローンが発送する時代になっている。
間に商品を集積する市場があったり、中間に関与する企業があったり、そうした中間物を省こうとネットワークに頼ろうとするビジネスがあったり。

それらが網羅されているのが本書だ。以下に引用した目次の通り、あらゆるビジネスが網羅されている。
各ビジネスモデルは整理され、それぞれの特徴が簡潔にまとめられている。

第二部では、実際のセブン-イレブンやYKKといった有名企業のビジネスモデルが紹介され、とてもイメージしやすくなっている。

こうしたモデルをよく理解することで、よりビジネスが進展することだろう。私の場合はとてもよく理解ができた。末尾に目次を引用しておく。
全体的に見てもよくまとまっており、お勧めの一冊だ。

序章
ビジネスモデル概論と本書の読み方

第一部 事業レベル編
第1章 顧客セグメント・顧客関係のビジネスモデル
  地域ドミナント
  クリームスキミング
  特定市場の支配
  グローバル化
  顧客ライフサイクルマネジメント
  顧客の購買代理
  プラットフォーム

第2章 提供価値のビジネスモデル
  ソリューション
  同質化
  アンバンドリング
  デファクトスタンダード
  ブルーオーシャン

第3章 価格/収入構造のビジネスモデル
  レーザーブレード
  フリー
  敵の収益源の破壊

第4章 ビジネスシステムのビジネスモデル
  チャネル関係性の利用
  ダイレクト
  サプライチェーン種別の変更
  機能外販
  リソース先制
  マクドナルド化
  提携先のレバレッジ
  強者連合

第5章 事業レベルのビジネスモデルのまとめ

第1部 コーポレートレベル編
第6章 コーポレートレベルのビジネスモデル集

‘2018/11/29-2018/12/4


ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える


若い時には理想主義にふけっていた私。利潤の追求は間違っている、とかたくなに信じていた。人々が利潤を独占せず、広く人々に共有できれば、世の名はもっと良くなる。半ば本気でそんなことを考えていた。

経営者になった今、さすがに利潤を無視するわけにはいかない。それは利潤が利潤を呼び、いつまでも成長することが経済のあり方だから、と無邪気に信じているからではない。有限の資源しかない地球でそんなことは不可能だ。利潤を追い求める営みを認めるのは、私の中に飢えへの恐怖があるからでもない。

今、私は経営者として順調に売り上げを上げ続けている。だが、それは私が健康だからできること。何かの理由で仕事ができなくなったとたん、収入は途絶える。そうなったら飢えの恐怖が私の心身をむしばむに違いない。その恐れは常に心のどこかに居座っている。私の心身に異常が生じた時、どこからともなく助けが得られる。などと虫のいいことは考えていない。よしんば助けが得られたとしても、それは最低限の生活を送るための資金がせいぜいだろう。だから私は、利潤を追い求めるだけが人生ではない、という理想は捨てていないが、経済の論理は無視できないと思っている。

そこで、ベーシック・インカムだ。生きていくのに必要な金額が国から支給される。しかも無条件に。助成金や補助金のような複雑な申請はいらない。ただ、もらえる。魅力でしかない制度だ。

だが、経営者になった今、私はこの制度に無条件に賛成できないでいる。それは、私が経営者になった事で、勤しんだ努力だけ見返りがあるやりがいを知ってしまったからだ。勤め人だった頃のように失敗や逆境を周囲のせいにする必要はない。失敗は全て己のせい。逆に努力や頑張りが見返りとして帰ってくる。全ての因果が明確なのだ。見返りがあるということは人を前向きにする。それは人間に備わった本能からの欲求だ。楽になりたいとか、利潤が欲しいという理由ではなく、自分の生き方を自分で管理できる喜び。

だから、私はベーシック・インカムの思想にある「無条件に」という言葉には引っかかりを感じる。「無条件に」という言葉には、努力や責任が一切無視されている。もちろん、弱い立場の方に対してベーシック・インカムが適用されることは否定しない。私がもし、体を壊して仕事ができなくなった時、ベーシック・インカムから無条件に給付を受けられればどれだけ助かるか。それを考えた時、弱い方へのセーフティとしてのベーシック・インカムは必要だと思う。だが、それでは今の福祉制度と変わらなくなってしまう。

私が抱えるベーシック・インカムへの矛盾した思い。その疑問を解決するには勉強しなければ。本書はそうした動機で手に取った。

本書は全6章からなっている。ベーシック・インカムの理念や仕組みだけでなく、古くから検討されてきたベーシック・インカムの歴史が紹介されている。民主主義の勃興に時期を合わせるようにベーシック・インカムは提唱されてきた。その歴史は意外と古い。今までの人類の歴史で、幾人もの哲学者や経済学者、また、マーティン・ルーサー・キングの様な著名な運動家がベーシック・インカムの考えを提唱してきた。ベーシック・インカムはにわかに現れた概念ではないのだ。私は本書を読むまでベーシック・インカムの長い歴史を全く知らなかった。

第1章 働かざる者、食うべからずー福祉国家の理念と現実

この章ではベーシック・インカムの要諦が語られる。著者はその定義をアイルランド政府がベーシック・インカム白書の中で示した定義から引用する。
・個人に対して、どのような状況におかれているかに関わりなく無条件に給付される。
・ベーシック・インカム給付は課税されず、それ以外の所得は全て課税される。
・給付水準は、尊厳をもって生きること、生活上の真の選択を行使することを保障するものであることが望ましい。その水準は貧困線と同じかそれ以上として表すことができるかもしれないし、「適切な」生活保護基準と同等、あるいは平均賃金の何割、といった表現となるかもしれない。

より詳しい特徴として、本書はさらに同白書の内容から引用する。
(1)現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。それゆえ、いつどのように使うかに制約はない。
(2)人生のある時点で一括で給付されるのではなく、毎月ないし毎週といった定期的な支払いの形をとる。
(3)公的に管理される資源のなかから、国家または他の政治的共同体(地方自治体など)によって支払われる。
(4)世帯や世帯主にではなく、個々人に支払われる。
(5)資力調査なしに支払われる。それゆえ一連の行政管理やそれに掛かる費用、現存する労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
(6)稼働能力調査なしに支払われる。それゆえ雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。

この章では他にもベーシック・インカムのメリットが紹介される。その中で、社会保険や公的扶助の現状もおおまかに紹介される。そうした制度が対象とする貧困層に対し、国家はどう認識し、どう対処してきたのか。それは国が行うべき機能の一つと挙げられている。だが、かつて貧困層とは国から完全に見捨てられた層だった。

貧困層とは、雇用されず、生計が成り立たない人々をさす。国としてみれば完全雇用が達成されれば社会保障は不要。だが、現実にはそうはいかない。しかも日本の場合、生活保護対象世帯のうち、実際に保護を受けているのは二割程度だという。これは捕捉率というそうだが、先進国の中でも日本の捕捉率は際立って低いそうだ。

そもそも生活保護とは、貧困者を選別する制度につながる。他にも公的な社会システムはある。そのうち、生活保護制度だけが対象を選別するそうだ。選別という行為は、為政者にとって避けたい。ならば、誰に対しても等しく適用されるベーシック・インカムの制度のほうが政策にも取り入れやすい。そうした観点を著者は説く。

日本ではそのため、完全雇用に近づけるようなワーク・フェアの施策がとられていると著者は指摘する。完全雇用が達成できれば、民間に福祉を完全に委ねられる。そのような発想だろう。だが、諸外国のワーク・フェアと比べ、日本のワーク・フェアには公の補助が欠けているという。

第2章 家事労働に賃金を!ー女たちのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイタリア、イギリスで繰り広げられたここ数十年のベーシック・インカムの運動をおさらいする。女性がベーシック・インカムを主張する場合、通常の値上げ運動とは性格が異なる。というのも、通常の値上げ運動は失業時や低所得者の救済を主な目的とする。だが、そうした運動には女性の家事労働に視点が向いていない。そもそも女性が家事労働に従事する場合、それ自体に報酬が支払われることはない。一般的な家庭では、夫たる男性が外で稼ぎ、収入を持ち帰る。妻たる女性は、それを受け取り、家庭のために使う。つまり、夫から受け取る金額の中に、家事労働の報酬も暗黙のうちに含まれている。そのような解釈だ。

だが、報酬を暗黙でなく、家事労働それ自体に報酬を与えよ、というのが彼女たちの主張だ。だが、家事労働の労力など測れるはずもない。なので、女性に対するベーシック・インカムを要求するのが、本章で取り上げる運動の趣旨だ。

アメリカでの運動にはマーティン・ルーサー・キング牧師が関わっていた。そこには公民権運動の一環としての性格もあったのだろう。当時、黒人の女性は弱い立場にあった。それを救済するための手段の一つとして検討されたのがベーシック・インカムだった。イタリアではその運動がもう少し趣を変え、家事労働自体が他の賃金労働と等しく労働だ、という主張がなされた。ただ、ここで誤解してはならないのが、主婦業への賃金を求める運動ではなかったということだ。

イギリスでは要求者組合という形をとり、弱者への福祉も含めた運動に広がってゆく。その中で、受給資格をめぐる議論もより深まっていったという。例えばベーシック・インカムを受ける資格がある女性は、一人暮らしなのか、男性と同居しているか、結婚しているか、など。要は生計を男性に援助してもらっているかどうかによって、ベーシック・インカムの受給資格は変動する。

第3章 生きていることは労働だー現代思想のなかのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイギリスでは女性によるベーシック・インカムの運動が衰退したが、イタリアでは発展して長く続いた理由を考察する。そこには賃労働の拒否、そして家事労働の拒否、という二重の拒否があった。ベーシック・インカムはその主張の解決策でもあった。それは、労働の価値化をどう捉えるか、という次の考察につながってゆく。労働とは通常、何か基となるものから付加価値を生み出す営みを指す。生み出された付加価値のうち、労賃が労働者に支払われるというのが古典的な経済の考えだ。そして、今までは家事労働には付加価値が発生しないと考えられていた。発生したとしてもそれは家庭内で消費されてしまうと。もし家事労働に付加価値が発生するとすれば、それは夫である労働者が外で付加価値を生み出すための労働であり、子供という次代の労働力を社会に生み出すための労働であり、それ自体に価値を見いだす考えがなかった。

本章では、行きていること自体が労働という観念が紹介される。生きているだけで労働と認められるなら、その労働には賃金が支払わねばならない。それこそがベーシック・インカムという論法だ。その考えは斬新にも思えるし、突飛にも思える。もちろん、その考えが認められれば、ベーシック・インカムの論理はこれ以上なく確かなものだろう。なにしろ、仕事内容や性別、資産に応じた額の増減を考えずに済むからだ。

日本でも青い芝の会という障害者の権利向上を求める集まりがあるそうだ。青い芝の会では、障害者は生きている、すなわち労働だとの考えに基づいているという。著者はそれもベーシック・インカムに近いと考えているようだ。

後に触れるように原資をどうするか、という問題を脇に置くとすれば、私もこうした考えをベーシック・インカムの一つとみなすことに賛成したい。

間奏 「全ての人に本当の自由を」ー哲学者たちのベーシック・インカム

ここでは哲学者たちがベーシック・インカムをどう考えてきたかについて触れられる。ベーシック・インカムは社会主義や無政府主義に比べ、人類にとって適正な制度であるというバートランド・ラッセルの説や、真の自由を人類が得るためには、必要だとするフィリップ・ヴァン=パレイスの考えが紹介される。苦痛からの逃れる意味での自由ではなく、より真の意味での自由。ベーシック・インカムが給付された場合、生存のために働く必要はなくなる。だが、それでも働きたい人が働く自由も保証されるべき。そうした選択の幅が拡充されるのがベーシック・インカムの根本思想だという。

第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?ー歴史のなかのベーシック・インカム

ベーシック・インカムの考え方は、社会制度が封建主義から次の民主主義に移ってしばらくしてから生まれた。それは同時に経済制度が資本主義に変わったとみなしても良い。要するに近代の社会制度が生まれ、ベーシック・インカムの考え方も芽生えた。本書はそれらの紹介を順に進めてゆく。現代の資本主義国家では、土地の私有が認められている。だが、資本主義が勃興した当初、土地は共有という考えがまだ支配的だった。つまり誰にでも土地の権利があり、その土地から収入を得られる権利があったということだ。その考えを敷延すると、まさにベーシック・インカムの考え方そのものとなる。無条件で収入を得る権利というベーシック・インカムの考え方が、土地の扱いという観点で資本主義の発生時からあったことを著者は指摘する。

その考えは、経済学の中でも代々受け継がれてきたという。弱者を救済するための社会制度という性格は同じだが、保険や保護を社会が担うのではなく、無条件に給付するベーシック・インカムのほうが、制度として有効だとの考えも一定数で唱えられていたそうだ。それは、社会主義が見事に失敗した今でも変わらない。

著者はここで、経済制度の分析にまで踏み込んでいない。だが、現行の資本主義の制度の中でも、土地が共有である考えは受け継がれていて、ベーシック・インカムの根拠となる考えは有効であるとの立場のようだ。それはもちろん、人は生きているだけで労働だからベーシック・インカムの権利がある、という考えにも照応する。

第5章 人は働かなくなるか?ー経済学のなかのベーシック・インカム

ここが今の私には関心の高い点だ。

今の社会福祉は、労働を前提としている。だが、社会からは明らかに人間が必要な労働量が減ってきている。それは、技術革新の恩恵にあずかるところが大きい。つまり、労働がないのに報酬を払わねばならない未来が近づいている。もしそうなったら、労働を基に付加価値をつける営利組織はたちまち立ちいかなくなる。だからこそ国や団体による報酬の支給が必要というわけだ。こうした課題を経済学者は今までさんざん議論してきた。

本書に紹介されるのは、どちらかというとベーシック・インカムに賛成の立場の論考だ。だから反対の意見はあまり登場しない。それを差し置いても、今の社会制度で福祉を継続するためには、保険や保護に頼るのは困難になりつつある。そのような意見が優勢になりつつあると著者は指摘する。

ただ、本書の全体を通し、説得力のあるベーシック・インカムの財源が登場しない。これは考えものだ。たぶん現実問題として、財源の不足こそがベーシック・インカムが普及しない最大の理由だと思うからだ。私としては、ベーシック・インカムの普及には技術の力が欠かせないと思っている。資本からではなく、技術の力で全く違う資源からベーシック・インカムとして支給する何かを生み出す。それが実現するまで、私はベーシック・インカムの実現は難しいと思う。

もう一つ、日本においてそれほどベーシック・インカムの議論が熱中しないのは、わが国には自治体による道路、水道、ガス、電気といったインフラが整備されているからだ。現時点で民営化されているとはいえ、こうしたインフラはもともと国家による国民へのサービスだった。だから現状で十分なサービスを享受できているわが国民にさらにベーシック・インカムの恩恵を施す必要はあるのか、という疑問が生じる。

インフラも整っておらず、実際に生活を送るには収入が欠かせない国の場合、ベーシック・インカムの必要性はある。ただ、生活必需品をそれほど労せずに享受できるわが国では、ベーシック・インカムの普及についての議論が深まらない。もちろん、より多様性のあるサービスを受けられる選択の幅があっても良いと思う。だからこそサービスではなく財で等しく受給できるベーシック・インカムは、国民がサービスを自由に選ぶために必要なのかもしれない。原資の安定供給を技術の進化に頼らねばならない現状は変わらないにせよ。

今、年金制度の崩壊が叫ばれている。年金は、その支給の資金を原資をもとに投資した利子でまかない、支給額を安定確保するために努力していると聞く。つまり、既存の旧来の拡大成長を前提とした経済論理に年金制度は完全に組み込まれている。有限の地球に無限の拡大成長は考えにくいとすれば、それをベースに考えられた福祉にどれほどの期待が持てるのだろう。

もちろん、福祉サービスとベーシック・インカムは別ということは理解している。ただ、本章でも提示されているように、何らかの社会的な貢献活動の代償は制度として設けられているべきだと思う。つまり、働いてこそ代償は受け取れる、という考えだ。

第6章 〈南〉・〈緑〉・プレカリティーベーシック・インカム運動の現在

だからこそ、本章で取り上げられる現在のベーシック・インカムを分析する視野が必要だと思う。章のタイトルにある<南>とは既存の資本主義の熟練国ではなく、新興の国々を指す。要はいまだ発展途上にある国々の事だ。<緑>というのは緑の党のような、持続が可能な社会を目指す人々を言う。

ここで著者はエーリッヒ・フロムを登場させる。フロムもまたベーシック・インカムの提唱者だったそうだ。彼は著書『自由からの逃走』で著名だ。その中で彼が唱えたのは自由を持て余した人々がナチスを生んだという理論だ。だが、それとは別に、ベーシック・インカムこそが人々をより自由にするとの考えも持っていたらしい。そして、彼は財ではなく生活必需品の提供でならばベーシック・インカムが成り立つのではないか、と考えていたそうだ。上にも書いたとおり、私はすでに物資が充実している日本では、生活必需品の提供というベーシック・インカムは成り立たないと思う。著者も同じ考えをもっているようだ。

プレカリティという言葉の意味は本章には出てこない。調べたところ、不安定とか予測できないという意味のようだ。第二章で登場した各国のベーシック・インカム運動のその後が本章では紹介される。どうすれば人々がひとしく恩恵を受けられるのか。それはかつての私がまさに目指そうとした社会でもある。そのような社会の実現が経営者としての立場では難しいことも理解している。まさに今の経済制度では現実は不安定で将来は予測できない。だが、これからも理想の実現に向けた努力は注視していきたいと思っている。

本書は各章ごとにまとめが設けられたり、巻末でもあらためてベーシック・インカムのQ&Aの場が設けられたり、各章のあとにはコラムが設けられたり、なるべく読者への理解を進めるような工夫がちりばめられている。何が人類にとって最適な福祉なのか、本書は一つの参考資料となるはずだ。私も自分の理想がどこにあるのか、さらなる勉強を重ねたいと思う。

‘2018/10/17-2018/10/23


「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活


佐藤愛子さんのエッセイを読み、ふと、大正・昭和の生活の実相が知りたくなった。それで本書を手に取った。

生活の実相とは、その場その時代を過ごしてみて初めて分かるもの。他人の書いた文章から時代の空気を掴もうにも、文章が視覚と論理のツールである以上、五感で知るすべはない。たとえその文章が佐藤愛子氏や永井荷風氏のような大作家によって書かれたとしても。

当時の生活の実相を伝える手段は文書だけでない。映像がある。映像は視覚に加え、聴覚でも情報を伝えてくれる優れたツールだ。だが、映像もまた、生活感を完全に再現することは叶わない。生活感とは風景や動き、音だけで成り立っていないからだ。人々の思いが集まり、凝縮した結果が生活感を醸し出す。人々の思いとは、日々の井戸端での会話、雑踏や車内での会話、ラジオの音声、生活音、温度や風、匂いなど、あらゆる存在の集合だ。そうした森羅万象の一切をあらゆる五感を駆使して私たちは感じ取る。それを生活感として覚え、時代の感覚を共有する。つまり、時代感覚とは文章や映像だけで伝えることは難しいのだ。

とはいえ、昭和初期の世相を記録した情報は映画を除けば文章しか残されていない。だから、後の世の私たちが昭和の世をしのぼうとすれば、当時のつづられた文章を読み解くしかすべがない。結局、当時を生きた人々が付けた日記や新聞・雑誌記事を引用して当時の生活を再現するしかないのだ。本書は当時の日記・書籍・雑誌・新聞から可能な限り当時の生活該当感じ取れるような記載を網羅し、深く掘り下げる。それによって今の読者に当時の生活感を提示する試みだ。永井荷風は長年にわたって断腸亭日乗という日記を付けたことで知られている。本書にも断腸亭日乗からの情報が数多く引用されている。

本書はまず、タイトルから目を惹かれる。月給百円のサラリーマンとはどういうものか。知られているとおり、今と昔では一円の価値にかなり開きがあった。その境目は昭和二十一年に実施された新円切り替え実施だ。その前の時代、一円の持つ価値とは今よりはるかに大きかった。本書ではそれを通説から二千倍と試算する。つまり「一円を笑うものは一円に泣く」という警句は文字通りの意味だったのだ。(もともとは一銭を笑ふ者は一銭に泣くだったそうだが)。

本書は六章からなる。
第1章 お金の話ー基準は「月給百円」
第2章 戦前日本の「衣・食・住」
第3章 就職するまで
第4章 サラリーと昇進の「大格差」
第5章 ホワイトカラー以外の都市生活
終章 暗黙の戦争支持

一章では、一円が今の二千倍の価値があったことを前提に、当時の庶民の金銭事情を事細かく紹介する。

この紹介がとても細かい。なにしろ、給与事情についての紹介で一章がまるまる費やされるのだから。読み通すにも意志が必要だ。著者も編集者も、退屈へのリスクを覚悟できっちりと実情を伝えなければと考えたのだろう。当時のお金の額面価値が現在の二千分の一程度であること、世間もその額面を基準に動いていたこと。そして、当時の月給取りの平均が月百円ではなく、もっと下だった事も教えてくれる。月給百円は当時の月給取りが目指すべき水準だったという。ところが、本書で紹介されている分析によると国民の九割が年収六百五十円以下だったという。

つまり月給百円とは、今でいえば一千万円の年収にあたるだろうか。ただ、その場合は今の額面価値と当時の価値が二千万との差が生ずる。月給百円を二千倍すれば年収は二百四十万だ。ということは今の時代で二百四十万円稼げれば、当時としてはまあまあ裕福な生活が送れたのだ。ところが承知の通り、現代では年収二百四十万ではかなり苦しい。その状況がさらに本書の理解を複雑にしている。

あらゆる指標や談話、小説(細雪など)を駆使して、著者は当時の相場観を読者に理解してもらおうと骨を折る。ところが、現代の読者が当時の生活感を理解しようと思うと、脳内で二回は変換が求められるのだ。それが結構、骨だ。著者もそのあたりは考慮してくれてはいる。が、一章を読み通すために強いられる二重の変換をやり過ごせるかどうかが本書を読み通せるかの鍵となる。

本書は月給や各種手当てを例に挙げながら、収入の実情を詳しく紹介してゆく。では、その収入で生活が成り立つための支出はどうなのか。もちろん本書はそれを詳しく紹介する。

第二章では衣食住を詳しく例に挙げる。当時のさまざまなメディアの報道を丹念に拾い集め、著者は当時の生活に必要な費用を洗い出してゆく。そこから分かるのが、当時の生活費が年収二百四十万程度でも成り立っていたことだ。その中では当時の借金事情も紹介している。それもまた興味深い。

第三章で扱うのは当時の学歴事情だ。大学進学率が今とは比べものにならぬほど低かった当時。帝大出がエリートの同義だったことは本章に詳しい。高歌放吟し、天下国家を語る。そんな学生の生態も、時代が下れば徐々に変質してゆく。その結果が二十年前の私であり今の学生だ。

ただし、当時の学歴事情で今とは明らかに違う点がある。それは帝大と私大の間に横たわる厳然たる壁だ。帝大がエリートである意識を保てたのも、その後の社会で断然たる差が付けられていたから。それは初任給の差であり、昇給の差に如実にあらわれる。第四章ではそのあたりの差異を細かく例に挙げて紹介する。本書によると私大と帝大の間に格差がなくなったのは、だいぶ時代が下ってからのようだ。また、本章で得られる知識として、なぜ司法界には私大の出身者が多いのかも解き明かしてくれる。それによると、当時は給与の低い司法職が人気がなく、人材難を防ぐために私大からも分け隔てなく募集採用したからだという。

ホワイトカラーでも帝大出と私大で天地の開きがあった当時。では、ホワイトカラーとブルーカラーではもっと開きがあったのでは、という分析が挟まれるのも本章だ。職業ごとの収入や生活が描かれる。自営業、軍人、売春婦などなどの生活の実態。私としても興味津々だ。

第五章で紹介するのは自営業についてだ。自営業は当時の社会で生活を成り立たせることができたのか。それは私のような人種には興味深い。しかも当時は今のような情報技術は未発達。となると、稼ぎ方にも自ずと制限が生じるはず。当時も請負の仕事はさまざまにあったことだろう。だが、どうやっていたのか。多分、ほそぼそと生計を立てて行くしかなかったと思う。今のような通勤ラッシュとは無縁の時代であり、勤め人から自営業へと転職する動機は薄かったのではないか。

そして終章だ。実は本書は「おわりに」がとても重要だ。そして「おわりに」に読者を導く前触れとして終章が肝となる。なぜか。それはサラリーマンの割合が拡大するにつれ、国民から世情への感度が鈍ってくる実情が描かれるからだ。今の立場を守ろうとする立場が強まり、すぐ未来に迫る危機への備えが薄くなる。その果てが五・一五事件であり、国家総動員法であり、戦陣訓なのだ。国家が右傾化してゆくそれらの動きに対して、当時の国民の動きはあまりに鈍く、むしろ委縮していたといってもよいぐらい。国民の不感症が日本を未曽有の敗戦に追いやった一因であることはいうまでもない。

実は著者が本当に書きたかったのはここだと思う。月給百円の価値観。そんな慎ましやかな国民が、なぜ国力の差を押し切ってまで無謀な戦争に突入していったのか。終章で著者は当時の人々の間に渦巻いた不満をすくいとってゆく。そしてその不満がどのようにして軍部の台頭を招いたのかを書く。私は本書ほど、戦前の一般庶民の生活を分析した本を読んだことがない。そしてその分析は何のために行われるのか。その理由は全て終章に収れんする。なぜ国民は戦争に協賛したのか。我が国が戦争に突き進んだのは、軍部の責任だけではない。マスコミや国民の後押しがあったからこそ、日本は戦争に進んでいった。それを忘れてはいけないし、今後の我が国のあり方に生かさねばならない。

「おわりに」で、著者は当時の我が国の状態が今の中国の状況と似ていると指摘する。そこに共通するのは社会的矛盾だ。今の中国の方は日本に対してある疑問を抱くのだという。その疑問とは、なぜ当時の日本軍はあれほどにまで残酷に振舞えたのか、ということだ。さらに、今の日本人といったい何が違うのか、と困惑するのだという。中国の方にそのような疑問をぶつけられた時、私たちは言葉を失う。実は私たちにもなぜか分からないからだ。曽祖父母の時代の日常の感覚など分かるはずがない。だから中国の方に聞かれても答えらるはずがない。問いを投げられた私たちも、その答えがわからず、プロバガンダのせいにして逃げてしまう。これでは溝は埋まりようがない。

当時の日本にだって、幸福な日々もあっただろう。善き人もいたはず。それと同時に不満も渦巻き、悪に手を染める者もいた。その不満が日本を無謀な戦争へと向かわせ、中国大陸で羽目を外させることになった。そして日本軍が中国大陸で成したとされる悪行が事実なのか、それともプロバガンダの産物なのかがいまだに争われている。そんな状況に対して著者はこう書く。

「私に言わせれば、数十年前の祖父母の時代の生活感覚が失われていることこそが、日中双方の「歴史認識の欠如」だと思うようになった」(261P)

冒頭にも書いた通り、当時の生活感を今知ろうと思っても文章しかすべがない。一般庶民の日常から当時を描いた文章は、現代の私たちの目に触れにくい。そして、戦前の世相を現代に伝える文書を書き得た人物は、社会でそれなりの影響力を持っていた。だから、当時の世相を描くにも高い地位からの視点から描き出されていた。その文章が一般庶民の実感を反映しているかというと心もとない。生活感のない戦前のイメージが後世に伝えられているといってもよいだろう。

だからこそ、私たちは学ばねばならない。今の矛盾を早めに解消し、再び日本に不満がたまらないように。暴発しないように。

それには本書の分析がとても役に立つ。社会の設計とはどうあるべきか。国の針路はどこで道を外れるのか。そこで後戻りできるような風潮はどうやって作り上げればよいのか。

本書に学ぶところは多い。冒頭こそ読みにくい本書だが、それを乗り切った先には、本書の真価が待っている。

‘2018/03/15-2018/04/02