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煙草おもしろ意外史


なぜ本書を読もうと思ったのか。正直あまり覚えていない。
ふと積ん読の山の中からタイトルに目を留めたのだろう。普段から私がタバコを含む嗜好品の歴史について関心を持ち続けていたからかもしれない。

本書はタイトルだけで判断すると、お気軽に読めるタバコの紹介本に思える。だが、それは間違いだ。
本書が取り上げているのはタバコの歴史だけはない。もちろん、タバコの世界的な伝播や、流行の様子には触れている。だが、本書はその様子から人や社会を描く。さらに本書の追究は、嗜好品とは何かという範囲にまで及んでいる。人が生まれてから成長し、社会に受け入れられる中で嗜好品が果たす役割など、民俗学、社会学の観点からも本書は読み応えがある。
正直、本書はタイトルの付け方がよくない。そのために多くの読者を逃している気がする。それほど本書の内容は充実している。

今、日常生活でタバコに触れる機会はめっきり減ってしまった。
公共の場は禁煙。それが当たり前になり、歩きタバコなどはめったに見かけない。肩身が狭そうに街の喫煙所に集まる喫煙者たち。副流煙がモクモクとあたりを煙らせる中、喫煙所のそばを足早に通り過ぎる非喫煙者たち。その中に私もいる。

私はタバコを吸わない。ただし18歳の頃、早速吸い始めた高校時代の同級生に吸わされそうになったことがある。その時、反発してキレそうになり、それ以来、紙巻きタバコは一度も吸ったことがない。
ただ、水タバコと葉巻はそれぞれ一回ずつ吸ったことがある。30代から40代にかけてのことだ。美味しかったことを覚えている。

なぜ私がタバコに手を出さなかったか。それは、喫煙者が迫害、もしくは隔離される未来が目に見えていたからだ。
当時から束縛されるのが嫌いだった私は、タバコを吸うと行動範囲が制限されると感じ、決して吸うまいと決めた。

だが、上で水タバコや葉巻を試したことがあると書いた通り、私は嗜好品としてのタバコにそれほど嫌悪感を持っていない。もちろん街を歩いていて煙が流れてくると避けるし、喫煙部屋に誘われると苦痛でしかない。
他の三つの嗜好品と違い、タバコだけは副流煙が周りの非喫煙者に不快な思いを与える。だから、専用の場所で吸えば良いのだ。酒も同じ嗜好品だが、酔っ払って暴れない限りは他の人に迷惑をかけない。せいぜい酒臭いと思われる程度だ。
だから、喫煙が可能なバーはもっと増えるべきだし、喫煙者が集える場所がもっと増えても良いと思っている。その中で好きなだけ吸えば済む話だと思う。要するに公共の場で吸わなければいいのだ。

私は酒やコーヒー、お茶をよく飲む。これらは嗜好品だ。タバコを加えて四大嗜好品というらしい。嗜好品が好きな立場から物申すと、タバコだけが迫害される現状は少々喫煙者に気の毒とさえ思っている。
タバコだけを迫害する前に、他に手を入れるべき悪癖は世の中に多いと思っている。
タバコ文化がどんどん迫害され、衰退している。
それは私にとって決して歓迎すべき事態ではない。タバコを吸わないからと悠長に構えていると、他の趣味嗜好にまで迫害の手が及ぶかもしれない。
だからこそ私は、本書を手に取ろうと思ったのかもしれない。

シャーマンが呪術で使う聖なる草。薬にもなるし、心を不思議な作用に誘う。トランス状態に人をいざなうためにタバコは用いられ、病んだ精神を癒やす効果もあるという。
アンデス高地が原産のタバコが、アステカ・インカ帝国を征服したスペイン人によってヨーロッパにもたらされ、それが瞬く間に世界で広まっていった。

イギリスの国王や、日本の徳川秀忠のようにタバコを嫌い、迫害した君主もいる。だが、人々がタバコの魅力を忘れなかった。
嗅ぎタバコや葉巻、パイプ、噛みタバコ。さまざまな派生商品とともにマナーやエチケットが生まれ、世界を席巻した。

産業革命によって大きく産業構造を変えた世界。その中で人々は都会に集い、ひしめきあって暮らした。技術を使いこなすことを求められ、最新の情報を覚え、合理的な動きを強いられる。情緒面よりも理性面が重視される毎日。
そのような脳が重んじられる時代にあって、脳を癒やすための手段として、嗜好品、つまり酒や茶やコーヒーやタバコはうってつけだった。

私が開発現場にいた頃、タバコ休憩と称して頻繁に席をはずす人をよく見かけた。
私はタバコを吸わない。だが、よく散歩と称して歩き回り、それによってプログラミングの行き詰まりを打破するアイデアを得ていた。
同じように、タバコ休憩も安易に無駄な時間と糾弾するのではなく、そうした間を取ることによって新たなアイデアを得ることだってある。タバコを吸うことで脳が活性化されるのであれば、それこそまさにタバコの効能だろう。

だが、近代になりタバコが若年層にも行き渡るようになり、健康と喫煙の問題が取り沙汰されるようになった。

ここからが本書の核となる部分だ。
ここで断っておくと、本書の著者は日本嗜好品アカデミー編となっている。その立場は、嗜好品をよしとし、大人のたしなみを重んじて活動する団体のようだ。
つまり、タバコに対して好意的に捉えている。むしろ、タバコを排除する動きには反対していることが本書から読み取れる。
例えば、健康の基準が時代とともに変化していることを指摘し、その基準を社会が一律に決めることに反対している。
また、物質が幅を聞かせる世の中にあって、人々の心が空洞化していることを取り上げ、タバコを悪と糾弾することが社会の正義にかなっているという風潮に反対する。乗っかりやすいキャッチフレーズが空洞化した心に受け入れられたのが、タバコへの迫害ではないかと喝破する。

そもそも昔はタバコも大人への通過儀礼として認められていた。それが、大人と子供の境目が曖昧になってしまった。それがタバコから文化的な意味を奪い、単なる健康に悪い嗜好品と認識されていまった現状も指摘している。
この部分では、河合隼雄氏、小此木啓吾氏、岸田秀氏といったわが国の著名な精神分析家の分析が頻繁に引用される。民俗学、社会学、精神分析理論、心理学、民法などを援用し、現代の文明社会の歪みと、その中で生きていかねばならない人の困難を提起する。
本来なら、生きる困難を和らげるのがタバコの役割だった。ところが、和らげる手段すら排除されようとしている。
人は死ぬ。生まれた瞬間に死ぬ運命が決まっている。その恐れは人類の誰もが持っている。それを和らげる存在が必要だからこそ、人は嗜好品に手を出す。それは責められる類のものではないだろう。人が進化し、自我を持つようになってしまった以上は。

「本能の壊れた」人間は、自然に即して生きることが出来なくなったため、さまざまな装置や仕組みを考案し、それらを使って生きる道を確実なものにしようと努力するようになった。(190ページ)

つまり、古来シャーマンがタバコを用いて人に癒やしを与えていた機能。それを今、文明社会から奪ってしまってよいのだろうか。編者はそう訴えたいのだろう。

本書でも述べられているが、嗜好品を闇雲に排除するのではなく、節度を持った喫し方を啓蒙すれば良いはず。喫煙者が節度を持って決まった場所で吸い、それが守られていればタバコが絶滅させられるいわれはないはずだ。
それこそ、私が前々から考えていたことだ。

ただし、本書を読んだ後に世界はコロナウィルスによって蹂躙された。コロナウィルスは肺を攻撃する。もし、喫煙によって肺が弱っていれば、肺炎になって致死率は上がる。これは、タバコにとっては致命的なことだ。
タバコが生き残るとすれば、まず禁断症状を薄めつつ、精神を安定させるように改良する必要がある。さらに、肺への影響も最小限にしなければ。そうした改良がないと、タバコはますます絶滅へと追いやられていく。
むやみやたらにタバコを排除すればそれで済むはずはない。もし今のように能率ばかりを求めるのであれば、その代替となる嗜好品には気を配る必要がないだろうか。そうでなければストレスが増すばかりの世に暮らす人々の精神的な健康が損なわれる気がする。
ストレスフルな世の中にあって、タバコなどの嗜好品が絶滅した世の中に魅力的な人間はいるのだろうか。いない気がする。

かつて、作家の筒井康隆氏が短編『最後の喫煙者』を世に問うた。そこで書かれたような世の中にはなってほしくない。

本書は隠れた名書だと思う。

‘2020/04/12-2020/04/18


アマゾン入門


本書はAmazon.comについての本ではない。本書のテーマはアマゾン川とその流域の暮らしについて。世界最大の流域面積を持ち、流域には広大な熱帯樹林を擁し、肥沃で広大な場所の代名詞でもあるアマゾン。そこに移民として住み着き、苦労しながらも成果をあげ続けている日本人がテーマだ。

周知の通り、Amazon.comのサービス名の由来の一つにアマゾンがある。アマゾン流域の抱える膨大な広さと豊かな資源。それにあやかったのがAmazon.comだという。今のネット社会に生きる私たちはAmazon.comやAmazon.co.jpにはいろいろとお世話になっている。なっておきながら、その名の由来の一つであるアマゾン川やその流域のことをあまりにも知らない。せいぜいテレビのドキュメンタリー番組でアマゾンを覗き見るぐらい。

著者はそんなアマゾンに魅せられ、長年のあいだに何度も訪れているという。いわば日本のアマゾン第一人者だ。著者の名はジャーナリストとして、ノンフィクション作家としてある程度知られている。だが、そのイメージはアマゾンと対極にある。なぜなら著者が精力的に追っているのは技術だからだ。日本の技術の発展を追った連載や書籍によってその名を高めてきた。だから本書のタイトルからはどうしてもAmazon.comを連想してしまう。

しかし本書はAmazon.comとは無縁だ。それどころかあらゆる技術の類いにも縁がない。インターネットどころか、パソコンすらない時代と場所。なにしろ本書に描かれているエピソードには村にカラーテレビが入ったと喜ぶ人々の姿が登場するぐらいだから。本書が取材されたのは1979年。1979年といえば、日本では一般社会にもカラーテレビが当たり前になりつつある頃。ところが当時のアマゾンではそれすら物珍しいものだった。だから、本書にはAmazon.comどころか、それと対極のエピソードで占められている。

本書は著者にとって二度目のアマゾンの旅の様子を中心に描かれている。1979年の当時は、世界が情報技術に覆われる前の時代だ。世界がまだ広く遠かった頃。アマゾン流域ではさらにそこから何十年も遅れており、アマゾンは無限の広さを謳歌していた。日本人にとって規格外の広さを誇るアマゾン。本書でもそのことは随所で紹介される。例えば河口にある中洲とされるマラジョ島だけで九州やスイスの大きさに匹敵するという。河口だけで三百キロの幅があり、アマゾン流域には日本が16個ほどすっぽりはいること。何千キロも河口から遡っても水深がなお何十メートルもあること。大西洋の沖合160キロまでアマゾンから流れた水のおかげで淡水になっていること。本書の冒頭には、アマゾンの大きさを表す豆知識があれこれ披露される。そのどれもが地球の裏側の島国に住む私たちにとってリアルに感じられない。

アマゾンといえばピラニアが有名。だが、本書では人間を丸呑みする大ナマズが登場する。そのようなエピソードを語るのは本書にたくさん登場する日本人だ。ブラジルをはじめ、南米の各地には日本人の移民が大勢根を下ろしている。厳しい環境の中、成功を収めた日本人も数知れずいる。ジャポネス・ガランチードとは本書のまえがきに登場する言葉。その意味は「保証付きの日本人」だ。日本人の勤勉さと想像を絶する苦労の果てに授かった称号だろう。

厳しい環境に耐え抜きアマゾンに土着した日本人はたくましい。そこには言葉にできないほどの苦労があった。著者はそれらの苦労を紹介しつつ、アマゾンの現状とこれからを描いていく。その描写は収支から経済活動、日々の暮らしにまで及ぶ。彼らの暮らしが本当に地についている事を感じるのはこんなセリフにぶつかったときだ。「アマゾンは広い広いというけれど、日本より狭い」(105P)という言葉。とにかくまっ平なアマゾンに過ごしていると、その広さは全く実感として感じられないのだろう。日本にいる私が各種データやGoogle Earthでみるアマゾンはディスプレイに収まってしまうサイズだ。だが、それこそまさに机上の空論。現地で住まう人々の感覚の方が実感として正しいに決まっている。現地の人々が感じる狭さこそ、人間の五感で得られた実感であり、ディスプレイで知った狭さなどまやかしでしかない。

そんな入植者の勤勉さがアマゾンにはよく合ったのだろう。もちろん勤勉でない日本人もいたはずだが、そうした方は早々にアマゾンから淘汰される。残った勤勉な日本人が現地で成功を収める。なぜなら現地の人々より勤勉だったから。ゴム栽培、ジュート収穫の苦労。トランスアマゾニアンハイウェイの開発秘話。マラリアに悩まされ、原住民に襲われる日々。日本では味わえない苦労の数々。そうした人々の苦労話は、想像すらできない。だが、彼らが乗り越えて来たことだけはわかる。

著者もマナウスから百数十キロ離れた場所で野営をする。アマゾンを知るには最低限一晩の野営はしなければ、といわれ。一晩を静かな原始林で過ごした著者は重要な示唆を得る。
「原始林は、なんともの静かなことか。それに比べて文明地の苛立つ雑踏と、騒がしさ。原始林の”清潔”に対し、文明には”不潔”という言葉しか与えられない。」(197P)

全てが生と死に直結するアマゾン。一方でシステム制御され、効率化を追求したAmazon.com。その二つが同じ名前でつながっている事をAmazon.comの創業者ジェフ・ベゾスの発想だけで片付けてはならない。そこには大いなる啓示を読みとるべきではないか。

本書が描き出すアマゾンは、人間の力の卑小さを思わせる。自然を制御するには思い上がりもいいところと。確かに人間の経済活動は地球の環境を変えつつある。それは人間の制御の及ばぬ領域において。そして本書が取材され出版された当時に比べ、今の私たちの周りには自然よりもさらに統制の難しい存在が姿を現しつつある。人工知能だ。人工知能を推し進める旗頭の一つこそAmazon.comであるのは言うまでもない。そして、人工知能がシンギュラリティを実現したとき、人間はただ取り残される。その時人間は悟るだろう。結局、人間が主体となって神となって地球を操ることなどできはしないことに。かつては自然が、これからは人工知能が。

人間が生体の人間である限り、人間はいつまでも人間だ。そして、その営みこそは、人間が古来から未来まで変えようにも変えられない部分だと思う。本書に書かれているしんずいこそ、その営みに他ならない。本書に描かれた苦労する日本人。わずかながらでもアマゾンに足掛かりをつかみ、成功しつつある人々。彼らの努力こそは美徳であり、人工知能に対する人間の価値の勝利であるはずだ。

もし人間が人工知能の支配する世界で存在感を見いだすとすれば、本書に描かれた人々の姿は参考になるはず。よしんば人工知能が自立する未来が来なかったとしても、文明に飼いならされた人間がどこかで退化して行くことは避けられない。仮に日本人の美徳を勤勉さに求めるとすれば、仮に日本人の勤勉さが世界から称賛されるとすれば、本書に描かれた日本人とは、これからの人間のあり方を示唆しているような気がする。

「アマゾンは、将来世界の中心になるんじゃあるまいか。電力は水力発電で無尽蔵だし、世界の食糧庫になるかもしれませんよ」(96P)とのセリフが本文に登場する。私が想像するあり方とは違うが、アマゾンが地球と人間の今後の指標となることに違いはない。

果たして、自然を味方に付けたアマゾンの価値観が未来を制するのか。人工知能を走らせ統制に終始するAmazon.comの価値観が未来を席巻するのか。二つの相反する価値観がともにアマゾンを名乗っていること。そこに大いなる暗示を感じる。著者は40年も前に今の技術社会の限界とその突破口をアマゾンに嗅ぎとったのだろうか。だとすれば恐るべきはジャーナリストの本能だ。

本書はタイトルや内容に込められた意図を超えて、今の世にこそ読まれるべき一冊だと思う。

‘2017/08/16-2017/08/17


孤児


本書にはヒトの営みが描かれている。「ヒト」と書いたのは、もちろん動物としてのヒトのこと。

原初の人類を色濃く残す16世紀の南米インディオたち。南米全域がポルトガルとスペインによって征服され、キリスト教による「教化」が及ぶ前の頃。本書はその頃を舞台としている。

孤児として生まれた主人公は、燃える希望を胸に船乗りとなる。そして新大陸インドへと向かう船団の一員となる。船団長は寡黙な人物で、何を考えているのかわからない。何日も何週間も空と太陽のみの景色が続いた後、船団はどこかの陸地に着く。

そこで船団長は感に耐えない様子で、「大地とはこの・・・」と言葉を漏らした直後、矢を射られて絶命する。現地のインディオたちに襲われ、殺される上陸部隊。主人公だけはなぜか殺されない。そして生け捕りにされインディオの集落に連れて行かれる。「デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!」と謎の言葉でインディオたちに呼び掛けられながら。

はインディオの集落に連れて行かれ、インディオたちの大騒ぎを見聞きする。それはいわば祭りの根源にも似た場 。殺した船乗りたちを解体し、うまそうに食べる。そして興奮のまま老若男女を問わず乱交する。自分たちで醸した酒を飲み、ベロベロになるまで酔っ払う。そこで狂乱の中、命を落とす者もいれば前後不覚になって転がる者もいる。あらゆる人間らしさは省みられず、ケモノとしての本能を解き放つ。ただ本能の赴くままに。そこにあるのは全ての文明から最もかけ離れた祭りだ。

インディオたちによる、西洋世界の道徳とはかけ離れた振る舞い。それをただ主人公は傍観している。事態を把握できぬまま、目の前で繰り広げられる狂宴を前にする。そして、記憶に刻む。主人公の観察は、料理人たちがらんちき騒ぎに一切参加せず、粛々と人体をさばき、煮込み、器に盛り、酒を注ぐ姿を見ている。西洋の価値観から対極にあり、あらゆる倫理に反し、あらゆる悪徳の限りを尽くすインディオ達。そしてその騒ぎを冷静に執り行う料理人たち。

捕まってから宴が終わるまで、主人公はずっとインディオたちの好奇心の対象となる。そしてインディオたちはなぜか主人公に声を掛け、存在を覚えてもらおうとする。デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!何の意味かわからないインディオの言葉で呼びかけながら。なぜインディオ達は主人公に向けて自分のことをアピールするのか。

しかも、宴が終わり、落ち着いたインディオたちはこれ以上なく慎みに満ちた人々に一変する。タブーな言葉やしぐさ、話題を徹底して避け、集団の倫理を重んずる人々に。そして冬が過ぎ、日が高くなる季節になるとそわそわし出し、また異国からやってきた船団を狩りに出かけるのだ。

主人公はその繰り返しを十年間見聞きする。自分が何のために囚われているのかわからぬままに。主人公が囚われの身になっている間、一人だけ囚われてきたイベリア半島の出身者がいる。彼はある日、大量の贈り物とともに船に乗せられ海へ送り出されていく。インディオたちの意図はさっぱりわからない。

そしてある日、主人公はインディオ達から解放される。十年間をインディオたちの元で過ごしたのちに。イベリア半島の出身者と同じく、贈り物のどっさり乗った船とともに送り出され、海へと川を下る。そして主人公は同胞の船に拾われ、故国へと帰還する。十年の囚われの日々は、主人公から故国の言葉を奪った。なので、言葉を忘れた生還者として人々の好奇の目にさらされる。故国では親切な神父の元で教会で長年過ごし、読み書きを習う。神父の死をきっかけに街へ出た主人公は、演劇一座に加わる。そこで主人公の経験を脚色した劇で大当たりを引く。そんな主人公は老い、今は悠々自適の身だ。本書は終始、老いた主人公が自らの生涯を振り返る体裁で書かれている。

そしてなお、主人公は自らに問うている。インディオたちの存在とは何だったのか。彼らはどういう生活律のもとで生きていたのか。彼らにとって世界とは何だったのか。西洋の文化を基準にインディオをみると、全てがあまりにもかけ離れている。

しかし、主人公は長年の思索をへて、彼らの世界観がどのような原理から成り立っているかに思い至る。その原理とは
、不確かな世界の輪郭を定めるために、全てのインディオに役割が与えられているということだ。人肉を解体し調理する料理人が終始冷静だったように。そして冷静だった彼らも、翌年は料理人の役割を免ぜられると、狂態を見せる側に回る。主人公もそう。デフ・ギーとは多様な意味を持つ言葉だが、主人公に向けられた役割とは彼らの世界の記録者ではないか。彼らの世界を外界に向けて発信する。それによってインディオ達の世界の輪郭は定まる。なぜなら世界観とは外側からの客観的な視点が必要だからだ。外界からの記憶こそが主人公に課せられた役目であり、さらには本書自体の存在意義なのだ。

インディオたちは毎年決まった周期を生きる。人肉を食べ、乱交を重ね、酒乱になり、慎み深くなる。それも全ては世界を維持するため。世界は同胞たちで成り立つ。だからこそ人肉は食わねばならない。そして性欲は共有し発散されなければならないのだ。それら営みの全ては、外部に向け、表現され発信されてはじめて意味を持つ。それが成されてはじめて、彼らの営みはヒトではなく、人、インディオとして扱われるからだ。もちろんそれは、なぜサルが社会と意識を身につけ、ヒトになれたのかという人類進化の秘密にほかならない。

訳者あとがきによれば、実際に主人公のように10年以上インディオに囚われた人物がいたらしい。だが、その題材をもとに、世界観がどうやって発生するか、というテーマにまで高めた本書は文学として完成している。見事な作品展開だと思った。

‘2017/07/19-2017/07/24