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限界集落株式会社


とてもわかりやすいタイトルだと思う。カバー絵も農池の周りに立って談笑する人たちのイラストだ。一目で話の内容と展開がわかるような構成になっている。

実際、本書の内容もその通りの話なのだ。だが、とても筆運びが滑らかで引き込まれる。なにせ、冒頭の一文からすでに、
「マクドもない、スタバもない、セブン-イレブンさえない。」
なのだから。関西人の私は”マクド”のキーワードに即座に心をつかまれた。そして、あっという間に読み終えた。とはいっても、本書は単純に読んで楽しんで終わりの本ではない。それではもったいない。本書には地方創生の課題とそれを解決するヒントがあちこちに埋めこまれているのだから。ニートやサブカルチャー、少子化や就農支援など、枚挙にいとまがないほどだ。

題名からもわかる通り、本書は消滅寸前の過疎地域、いわゆる限界集落の再生がテーマだ。東京でバリバリの銀行マンだった主人公多岐川優が、充電のため父祖の地を訪れるところから本書は始まる。田舎道に似合わないBMWを駆って来た彼は、田舎者の人懐っこさと、分けへだてなく触れ合ってくる環境に溶け込んで行く。そして土地の人々の無垢なこころに何かを感じ、過疎の村を再び蘇らせようと決心する。対立する勢力の懐疑の眼に戦いつつ奮闘する。本書はこれらの流れがとても滑らかに書かれており、無理なく物語に引き込まれてゆく。

著者の作品は初めて読んだが、相当慣れた書き手だと思った。小説のコツを会得しているといえばよいか。農業組合法人の設立や農法、銀行の審査シミュレーションなどの描写も、専門的な枝葉を描いてしまうことなく、人々の語らいや筋の進め方といった読者の読み心地を優先して筆を選んでいる。それらの会話の端々で、限界集落の置かれた状況、課題、諦めとそれに立ち向かう思い、などが周到に描かれる。

本書で描かれた内容は千葉の某所がモデルとなっているらしい。巻末の謝辞にも千葉の農事組合法人「和郷園」の木内氏へ取材協力への御礼が載っているくらいだ。そして本書には舞台となる地が都心部から中央高速で2時間と記述がある。ということは、山梨と長野と群馬の境目あたりか、房総半島の内陸部が舞台ではないだろうか。何となくの予想だけど。

本書が導く過疎化対策の要諦とは、大消費地である首都圏との結びつきに活路を見いだすものだ。おそらくそれが現実に即した現実解なのだろう。本書にも朝に採れた野菜を早朝の首都圏に向けて配送するシーンが出てくる。となると、大消費地が近くにない過疎地はどうなるのか、という疑問が湧く。今、過疎化に悩む地方とは、本書に登場するような場所ではなく、首都圏に遠い、朝一配送などとても不可能な場所のことではないか。

ベジタ坊というキャラクターをブランド野菜に貼り付け、「やさいのくず」と命名してアウトレット野菜を売る。それらのアイデアやブランディングについてはとても面白い。やりようによっては働き甲斐のある仕事だと思う。

だが、本書で提示される過疎化対策が、現実的であればあるだけ、過疎化対策のあるべき姿が見えなくなってくる。そんな気がした。もちろん、本書にその責を担わせるのはお門違い。本書はあくまでも面白く読ませる小説であり、読者は本書から過疎化対策の一端を感じればよいのだ。

本書の内容に関わらず、現実は厳しい。地方の過疎化がとどまる見込みはない。東京にはますます資源も人も金も集中している。田舎暮らしを指向する若者は地方に居場所を求めるが、本書に登場する彼らのような成功をおさめられるのはほんの一部だ。私自身、都会の暮らしに魅力を感じず、暇ができれば地方に目を向けてしまう。だが、それでいながら生活の場を東京に置かねばやっていけないというのも事実だ。地方で何不自由なく暮らそうと思えば、ネットからの収入手段を得なければ厳しい。例えばアフィリエイトのような。

地方では住人も働き手もいない。それなのに都会には生活に張り合いを感じられず、働き口さえ見つからずにあえぐ若者がいる。その不均衡はどう考えても現実の歪みそのものだ。それを是正するためには、本書に登場する多岐川のような一人の人間の能力に頼るしかないのだろうか。どこかに妙手が埋もれているような気がしてならないのだ。

私の知る人にも里山再生をしている方がいる。セカンドライフを農業にまい進する人もいる。田舎の閉鎖性と都会の閉塞性をつなぐだけの人材。そこをつなぐための仕事に長けた人はたくさんいるはずなのだ。

何か、私にできることはないだろうか。東京への依存度は異常だし、地震に対するリスクがあるというのに。本書の内容が読みやすければ読みやすいだけ、本書を容易に読んではならない、もっと深読みせねば、という焦りが生じる。引き続き、私自身も上に書いたようなつなぎ役として役立てることがないかを模索し続けたいと思う。

‘2017/06/18-2017/06/18


村上朝日堂の逆襲


エッセイを読むのも好きです。

特に村上春樹さんのエッセイはあまり気負った題材でもなく、何かを批判したりすることもあまりなく、他人を罵倒することもなく、人間なんて所詮は、といういい意味での諦めが漂っています。かといって毒にも薬にもならないエッセイかというと、そんなことはなく、油断していると蜂の一刺しにやられてしまうような、適度な緊張感を孕んでいるところもまたよいです。

本書は再読だったか初読だったかは忘れましたが、先日、実家から持ち帰ってきた数冊の蔵書のうちの一冊です。手に取ったのも、なんとなくという感じです。読む10日ほど前にお亡くなりになった、本書の共著者である安西水丸さんのことが直接の影響だったわけではありません。少しは影響があったのだろうけど。

村上春樹さんは、私の同郷の人です。なので、氏が書いた阪神間についてのエッセイを読む度に郷愁が掻き立てられます。そういえば本書を読む1か月前にも明石や三宮を訪れたのでした。そうでした。それで本書を手に取ったのだろうな。うむ。

本書でも、「関西弁について」「阪神間キッズ」「夏の終わり」の3編が私の郷愁を満たしてくれました。東京に住むものが、かつて住んでいた関西を眺めて、という構図も私の心境と同じ。

他にも「「うゆりずく」号の悲劇」でなんていう一篇も。船やトラックの側面に書かれている、あのなぞの言葉についての考察です。なんとなく気になっていたけれど、よくよく考えれば妙なことについて考えを致せるそのアンテナ感度には尊敬をおぼえます。

本書は、1985年から1986年にかけて連載されたもののようですが、当時の東京の状況を描いたエッセイもよいです。「政治の季節」「バビロン再訪」とか、当時も今も、東京って変わったようでいて、何も変わっていないのだな、と思ったりして。

でも本書に収められたエッセイで一番よかったのは「オーディオ・スパゲティー」かな。オーディオに凝ると配線や設備を揃えるのが大変、という要約すれば他愛もない内容なのだけれども、その背後の分析が鋭い。「少なくともテクノロジーに関してはデモクラシーというものは完全に終結してしまっているように僕には思える」なんて、今のITやSNS全盛の時代の状況を見通したセリフが1985年に書けるところに、村上春樹さんの凄味があると思いました。

’14/03/29-’14/04/01