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労働基準法と就業規則


平成三十一年を迎えた新年、令和の時代を間近に控え、私は自分の経営する会社に社員を雇う事を真剣に検討していた。

人を雇うといっても簡単なことではない。ましてや、十数年の間を一人でやっていく事に慣れてしまった私にとって、雇用にまつわる諸々の責任を引き受ける決断を下す事は、とても大きなハードルとなっていた。

ただ単に人に仕事を教え、ともに案件をこなしていく。それだけなら話は簡単だ。
だがそうはいかない。
人を雇う事によってさまざまに組織としての縛りが発生する。給与の定期的な支払いも欠かせない。だから営業上の努力も一層必要となる。そして会社として法律を全体で守っていかねばならない。そのために社員を統括し、不正が起きないよう管理する責任もある。
そうした会社として活動の基準として、就業規則の策定が求められる。

雇用とそれにまつわる諸作業の準備が必要なことは分かっていた。
そのため、前年の秋ごろから税理士の先生や社労士の先生に相談し、少しずつ雇用に向けた準備を始めていた。

本書は、その作業の一環として書店で購入した。

先に十数年にわたって一人での作業に慣れていた、と書いた。
一人で作業するのは楽だ。
何しろ、就業ルールについては自分が守っていればいいのだから。だから長きにわたって一人の楽な作業から抜け出す決断もくださずにいた。

もちろん、就業ルールは自分の勝手なルールで良いはずがない。
私の場合、常駐の現場で働く期間が比較的長かった。そのため、参画した現場に応じたルールは守るようにしていた。
例えば、労働時間は定められていた。遅刻や早退があっても、そこには契約上の勤務時間が定められていた。休日や休暇についても同じ。

ところが、私は二年半まえに常駐先から独立した。
完全に自由な立場になってからは、労働時間や休日ルールからは完全に自由な身となった。好きなときに働き、好きなときに休む。
その自由はもちろん心地よく、その自由を求めて独立したような私にとっては願ったものだった。それ以来、私はその特権を大いに享受している。

ところが人を雇用する立場になると、完全に自由と言うわけにはいかない。私がようやく手に入れた働き方の自由を再び手放さなければならないのだ。
なぜなら、仕事を確実にこなすためには完全な放任はあり得ないからだ。
私は自分自身が統制や管理を好まないため、人に働いてもらうにあたっても自由にやってもらいたいと思っている。もちろんリモートワークで。

業務を回すため、かなりの管理を省けるはずだ。だが、たとえわずかでも統制や管理は発生する。
だが、それだけではない。
就業規則の策定は企業として必要になってくる。
もし弊社が自由な働き方を標榜する場合も、その旨を就業規則に明記しなければならない。
リモートワークやフレックスタイムを採用するのなら、その枠組みを設けている事を就業規則として宣言しなければならない。

たとえ私と雇用した従業員の間に完璧な信頼関係が成り立っていたとしても。紳士協定に甘えた暗黙の雇用関係は許されない。ましてや自由な放任主義などは。

仮に社員の数が少ない間、すべての社員を管理できていたとする。でも、将来はそんなわけにはいかなくなるはずだ。もし人を雇用し、会社を成長させていくのであれば、一人で全ての社員の勤務を管理することなど不可能になってくるに違いない。
将来、弊社が多くの社員を雇用できたとする。その時、私がすべての社員の勤務状況を把握できているだろうか。多分無理だろう。
つまり、いつかは人に管理を任せなければならない。その時、私の考えを口頭だけでその管理者に伝えられると考えるのは論外だと思う。
だからこそ、管理者の人がきちんと部下を統括できるよう、就業規則は必要となるのだ。

だからこそ、本書に書かれた内容は把握しておかねば。多様な労働と、それを支える法律をきちんと押さえた本は。それは経営者としての務めだ。

本書は8つの章からなっている。

第1章 労働基準法の基礎知識
第2章 雇用のルール
第3章 賃金のルール
第4章 労働時間のルール
第5章 休日・休暇のルール
第6章 安全衛生と災害補償のルール
第7章 解雇・退職のルール
第8章 就業規則の作成

本書がありがたいのは、CD-ROMもついており、書類のテンプレートも豊富に使えることだ。

もう一つ、本書を読んでいくと感じるのは、労働者の権利擁護がなされている事だ。
労働者の権利とは、会社という形態が生まれた17世紀から、長い時間をかけて整備されてきた
年端もいかない子供を遅くまで劣悪な環境で働かせていた産業革命の勃興期。
だが、劣悪な状況は17世紀に限った話ではない。つい最近の日本でもまかり通っていた。

私自身、若い頃にブラック企業で過酷な状況に置かれていた。

働く現場は、労働者側が声を上げないかぎり、働かせる側にとってはしたいようにできる空間だ。
容易に上下関係は成立し、ノルマや規則という名の統制も、経営側の意志一つで労働者側は奴隷状態におかれてしまう。

私はそういう目にあってきたからこそ、雇う人にはきちんとした待遇を与えたいと思っている。
だからこそ、今のような脆弱な財務状況は早く脱しないと。

結局、弊社が人を雇う話は一年以上たった今もまとまっていない。業務委託や外注先を使い、これからもやっていく選択肢もあるだろう。だが、雇用することで一つ大きな成長が見込めることも確かだ。そのことは忘れないでおきたい。

本書を読んだことが無駄にならぬよう、引き続きご縁を求めたいと思う。

‘2019/01/13-2019/01/17


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?


会社立ち上げに向け、理想は高く持ちたかった。業績よりも理念が前のめりになっていることは自覚した上で。なにしろまだ法人化して最初の決算も経ていないのだから。しかし、理想なき法人化はしたくないと思っていた。

理想は色々抱いている。そのうちの一つは社風の構築である。社風といっても漠然としている。が、あえてここに書くとすれば、従業員を大切にすること。そういった社風は是非とも浸透させたいと思っている。IT業界では、請負作業にあたって、労働力を人月幾らと換算することが商慣習となっている。業界歴が長いと、そのような商慣習に染まってしまう。人月幾ら=一山幾ら、という果物屋の店先のみかんのような扱い。労働者を一山幾らとみなす算出方法には、とても違和感を持っていた。私が目指す企業の理想は、労働者を使い捨てにせず、わが社を離れた後でもその人が人生を全うできるよう、わが社での経験が活かせるような社でありたい、ということ。そのためにも社風の構築は欠かせない。

そういった社風を目指したいと思った理由はもちろんある。それは私が、かつて名の知れたブラック企業にいた経験から来ている。また、IT業界に長くいるとプロジェクト完遂、納品最優先の圧力にさらされることになる。もちろん、契約がある以上、プロジェクトを納期通りに収めるのは当然のことだ。しかし、納期を優先するあまり、納品優先を錦の御旗とし、技術者の体調を顧みないことが美徳とされ、帰宅できないことが美談として語られる状況がまかり通っている。納期を守るには、当初の作業量をきちんと見積もれるだけの実力を付けるしかない。見積りが甘いから、あとから人を足さねばやり切れなくなる。

恐らく私は、ブラック耐性の高い部類に入るだろうと自負している。だからといってブラック職場万歳ではない。若い時分にはそういう現場に身を置くことも必要と思う。しかし、それが一生続くとなると話は別だ。私にとって、ブラックな環境そのものが嫌というよりは、一生ブラック環境に身を置くことで人生の他の可能性が犠牲になることが耐え難い。私の興味範囲は広く、そして時間は有限だ。ブラック環境で人生の可能性を犠牲にする訳にはいかない。一度しかない人生の時間の使い方として一生を滅私奉公で終始することは果たして正しいのか。私の迷いは尽きなかった。そして、私の人生訓の一つとして挙げられるのが、「自分がして欲しくない事は他人にもしない」ことだ。私がブラック環境で使われるのが嫌であれば、私の下で働く従業員にもブラック環境を強いない。至極当たり前のことである。

本書は、今の労働者諸君の働き方に疑問を呈し、新しい働き方を提示せんと試みている。そもそもどうやって労働者の給与は定められているか。そのことについて本書は丁寧に説き明かす。そのベースはカール・マルクスの著した資本論。言わずと知れた、世界の歴史にも影響を与えた名著だ。

人間の持つ物欲ばかりか、向上欲までも平等の名の下に抑圧する共産主義は、歴史的にすでに経済制度として適さないとの審判が下された。少なくとも私はそう思っている。だが、マルクスによる資本論の前提となった徹底的な資本主義の分析に対し、今の資本主義は有効な回答を返し得たか? 実はまだ見いだし得ていないと思う。そして、それが今の経済システムの限界だとも思っている。今の資本主義は、その矛盾を孕んだまま、労働者から最大限労働力を搾り取る解決策がまだ大手を振って通用している。それが批判されると、解決策としてはA.Iやドローン、自動運転などの情報技術によって労働力を補い、矛盾の解決を図ろうとしているかに見える。だが、それで果たして労働者は幸せになりうるか。私は甚だ疑問に思う。

マルクスは、資本論の結論として共産主義を提唱するにあたり、資本主義を徹底的に分析した。その分析は現代の労働者の働き方を考える上で有効である。そのように著者は説く。そしてその考えに基づき、本書は論じられる。

私自身、労働者として働くことの矛盾から逃れるため、個人事業主の道を選んだ。だが法人化にあたっては、人を雇うことも考えねばならない。独立によって経済システムの矛盾を避けたはずが、経営者として改めて資本主義の矛盾に直面する必要に迫られている。

そのためにも、本書の解説は参考になった。まず、記述が平易なのがいい。易しく説いてくれているため、理解も進む。私は実は資本論は概説でしか知らず、原典にきちんと向き合ったことはない。しかし、本書はポイントを絞って解説してくれる。使用価値と価値の違い。商品の値段は価値を基準に決まり、そこには価値を作り上げるための労力の総量があること。労働力は、労働者が提供できる商品であること。そして労働力には、労働力を提供するための価値(スキル、経験、家庭での安らぎ、エトセトラ)の総量が含まれること。そのため、スキルが高い労働者の価値は高く、家族を養うための経費すらも労働力の価値の源泉と見なされること。企業が労働者に支払う給料は、企業の業績にとって有益な労働力を継続的に維持するための代価であること。娯楽までもが、労働力=価値のための源泉とみなされていること。労働者にとっては、余暇すらも労働力を維持するための費用として見なされていること。従って、年齢とともに給与が上がるのは、仕事をするための価値の総量が増えるから。

これらの原則に対し、心情から抵抗を感じる方もいるだろう。私もそうだった。私の余暇は自分のためであり、会社の為ではない、と。

だが、本書はいう。年収一千万になったところで生活に余裕がでないのは、今の給与体系が労働力の価値を再充填するための余暇や、労働力を提供できなくなった後の生活費まで考慮されていないため、と。

本書はそこから逃れるための処方箋が載っている。

その前に本書は利益のからくりにページを割く。つまり、企業は原材料に労働者によって産み出された価値を載せる。その価値は、原材料が増えれば同じく増える。しかし、原材料が増えても労働者が自分の労働価値を産み出すために必要な給料はそれほど変わらない。従ってその差額が企業にとっての利益となる。

労働者が自らの労働力の源泉を稼ぐための時間を必要労働時間といい、企業の利益を出すための時間を剰余労働時間という。この辺りの定義は私も資本論の解説書で学んだ記憶がある。しかし、私は詳細を忘れており、おさらいにはちょうどよい。また、技術革新により日用品が安くなり、その分、必要労働時間がへった差分を相対的剰余価値といい、企業自身の経営努力よって原材料から製品への加工費を安くあげた場合の差額を絶対的剰余価値と呼ぶ。これらも私自身が本書を読んで思い出した概念だ。

労働者が頑張って技術は向上する。しかし賃金は常に世の中一般の生活費に合わせられるため、努力してもどんぐりの背比べ。結局賃金は平衡する。これも分かる。

努力しても全体の利益だけでなく自分の利益も失われる囚人のジレンマ。つまりは本書の帯にあるようなラットレース。そこから脱け出すために何をすべきか。本書ではロバート・キヨサキ著「金持ち父さん貧乏父さん」が何度か取り上げられる。「金持ち父さん貧乏父さん」の結論は、不労所得を得ること。不労所得によってラットレースから逃れましょうと推奨されている。しかし不労所得を得るには、すでに先駆者達によってかなりの旨みが吸い上げられ、後発の参入者には高い壁が築かれてしまった。なので、それが一般の労働者には難易度の高い方法であることを承知の上で、著者は「労力をかけずに、高い給料をもらう」ことを薦める。

つまり、労働力という商品を、どうすれば高く買ってもらえるのか?

著者は、「労働力の使用価値」より「労働力の価値」を先に高めることに答えを見いだす。労働力の価値とは、積み上げによってのみ上がるもの。例え残業や瞬間最大風速的な努力をしたところで、それは労働を提供するための使用価値として賃金に吸収されてしまう、と著者はいう。

式に直すと、
年収・昇進から得られる満足感-必要経費(肉体的・時間的労力や精神的苦痛)=自己内利益、となる。

この自己内利益には損益分岐点がある。損益分岐点とは幸福感と不幸感の境目とでも言おうか。いくら収入を増やしたところで、労働で疲れ果てていれば幸福とは言えまい。また、時間をたっぷり持っていたところで財布の中身が軽ければ、幸福とは言えまい。そのように、幸せを自覚する損益分岐点は変動すると著者はいう。これはダニエル・カーネマン教授の研究成果として良く知られている。こちらの記事には本書の著者もコメンテイターとして登場している。おそらくは本書のこの下りは、カーネマン教授の研究成果も下敷きにしているのだろう。

結論として著者はいう。自己内利益をあげるためには、収入を増やすか支出を減らすしかない。支出を減らすには、労働力の源泉となる経費を下げること。経費を掛けないためには、仕事によって失うエネルギーを減らせばよい。中でも精神的苦痛を減らせれば、失うエネルギーも減らせるので、必要経費も減らせるはず、という理屈だ。そのために著者は世間相場よりストレスを感じない仕事を推奨する。それは、得意な仕事でも、好きな仕事でもない。なによりもストレスを感じない仕事。ストレスを感じなければ回復のための必要経費も減らせるということだ。

もう一つ、収入を増やすためには、積み上げによるスキルアップが有効と説く。しかし、普通に仕事をしていたのでは、積み上げは容易ではない。著者は、労働力を「消費」するのではなく「投資」することが大事とする。これは平たくいえば、普段の仕事に目的意識をもち、自分の積み上げの材料とする、ということだろう。また、長期的な資産を作る仕事に目を向けるべき、ともいう。言い換えれば、漫然と目の前の仕事をこなすのではなく、その仕事をこなすことで自分自身のレベルアップを図るということだろう。

ヨーロッパの人々にとって、仕事の反対は遊びだという。仕事の反対は休みではない。それだと、休日に労働力を取り戻すために寝て過ごすしかなくなる。日本人は総じて余暇の過ごし方が下手と言われる。休みの日にはのんべんだらりと休み、遊ぶことをしなかったのが今までの日本人であった。しかし自分の労働価値を上げるためには、休む替わりに自分を成長させることのできる遊びによって、積み上げを行うことが必要と著者は説く。自分の時間を休みという消費ではなく遊びという投資に使うことができれば、労働価値も上がり、収入の積み上げも実現できるはず、というのが著者の主張だ。

休日に休むくらいなら観光や旅行、読書、映画、博物館に行くというライフスタイル。それは私が社会人になってからずっと無意識にしてきたこと。なので、著者の主張はよく分かる。むしろ、本書によって私がしてきたことの意味を裏付けられたほどだ。それまでの私は、単に休日に休んで過ごすのはもったいないという意識だけで動いていた。しかし本書を読むことで、その行為は実は自分への投資となっていたことが自覚できた。

そんな訳で、実をいうと本書の結論に対し私は拍子抜けした。驚きもなく、感動もなかった。本書から目から鱗とは言わなくても、所得倍増または遊びの時間確保のための参考になる案を得られると期待していたから。しかし、冷静に考えてみるとそんな名案はおいそれと出てくるわけがない。そして、前向きに受け取ると、本書によって私の生活スタイルのお墨付きを得られたともいえる。昔から帰宅してもテレビには見向きしない生活だった。一時はまりかけたが、今はスマホゲームも遠ざけた。替わりに、昔から時間があれば読書をすることが多かった。本書から得られたのはそういったライフスタイルへのお墨付きである。

ここに至り、私が社風として育てねばならぬことも見えてきた。それは遊びの風潮である、実際にIT企業でも一流になればなるほど仕事に遊びを取り入れる例は良く耳にする。Googleなどはその良い例だ。今まで私は、それは社員が仕事のひらめきに必要な想像力の源泉を豊かにするため、と考えていた。しかしそれだけではないのだ。社員をラットレースに巻き込み、仕事仕事と追い込んだところで、出てくる利潤は、所詮は切り詰めた絞りかすのようなものでしかない。社員のレベルアップは望めず、業績の向上にも繋がらないだろう。それでわが社だけが仮に儲かったとしても、私自身はそれで幸せになれない。青いと云われようが、理想論と罵られようが、社員とわが社が幸福な繋がりで仕事をすることこそが、私が会社を作った意義だと思える。本書で得た知見は、是非社員にも伝え、今後そういった社風の構築に活かしていきたいと思った。

‘2015/4/8-2015/4/10