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虚ろな十字架


大切な人が殺される。その時、私はどういう気持ちになるのだろう。想像もつかない。取り乱すのか、それとも冷静に受け止めるのか。もしくは冷静を装いつつ、脳内を真っ白にして固まるのか。自分がどうなるのか分からない。何しろ私にはまだ大切な人が殺された経験がなく、想像するしかないから。

その時、大切な人を殺した犯人にどういう感情を抱くのか。激高して殺したいと思うのか。犯人もまた不幸な生い立ちの被害者と憎しみを理性で抑え込むのか。それとも即刻の死刑を望むのか、刑務所で贖罪の余生を送ってほしいと願うのか。自分がどう思うのか分からない。まだ犯人を目の前にした経験がないから。

でも、現実に殺人犯によって悲嘆の底に落とされた遺族はいる。私も分からないなどと言っている場合ではない。私だって遺族になる可能性はあるのだから。いざ、その立場に立たされてからでは遅い。本来ならば、自分がその立場に立つ前に考えておくべきなのだろう。死刑に賛成するかしないかの判断を。

だが、そうはいっても遺族の気持ちになり切るのはなかなかハードルの高い課題だ。当事者でもないのに、遺族に感情移入する事はそうそうできない。そんな時、本書は少しは考えをまとめる助けとなるかもしれない。

本書の主人公中原道正は、二度も大切な人を殺された設定となっている。最初は愛娘が殺されてしまう。その事で妻との間柄が気まずくなり、離婚。すると娘が殺されて11年後に離婚した元妻までも殺されてしまう。離婚した妻とは疎遠だったので知らなかったが、殺された妻は娘が殺された後もずっと死刑に関する意見を発信し続けていたことを知る。自分はすでにその活動から身を引いたというのに。

それがきっかけで道正はもう一度遺族の立場で死刑に向き合おうとする。一度逃げた活動から。なぜ逃げたのかといえば、死刑判決が遺族の心を決して癒やしてくれないことを知ってしまったからだ。犯人が逮捕され、死刑判決はくだった。でも、娘は帰ってこない。死刑判決は単なる通過点(137ページ)に過ぎないのだから。死刑は無力(145ぺージ)なのだから。犯人に判決が下ろうと死刑が行われようと、現実は常に現実のまま、残酷に冷静に過ぎて行く。道正はその事実に打ちのめされ、妻と離婚した後はその問題から目を背けていた。でも、妻の残した文章を読むにつけ、これでは娘の死も妻の死も無駄になることに気づく。

道正は、元妻の母と連絡を取り、殺人犯たちの背後を調べ直そうとする。特に元妻を殺した犯人は、遺族からも丁重な詫び状が届いたという。彼らが殺人に手を染めたのは何が原因か。身の上を知ったところで、娘や妻を殺した犯人を赦すことはできるのか。道正の葛藤とともに、物語は進んで行く。

犯罪に至る過程を追う事は、過去にさかのぼる事。過去に原因を求めずして、どんな犯罪が防げるというのか。本書で著者が言いたいのはそういう事だと思う。みずみずしい今は次の瞬間、取り返せない過去になる。今を大切に生きない者は、その行いが将来、取り返せない過去となって苦しめられるのだ。

本書は過去を美化する意図もなければ、過去にしがみつくことを勧めてもいない。むしろ、今の大切さを強く勧める。過去は殺された娘と同じく戻ってこないのだから。一瞬の判断に引きずられたことで人生が台無しにならないように。でも、そんな底の浅い教訓だけで済むはずがない。では、本書で著者は何を言おうとしているのか。

本書で著者がしたかったのは、読者への問題提起だと思う。死刑についてどう考えますか、という。そして著者は306-307ページで一つの答えを出している。「人を殺した者は、どう償うべきか。この問いに、たぶん模範解答はないと思います」と道正に語らせる事で。また、最終の326ページで、「人間なんぞに完璧な審判は不可能」と刑事に語らせることで。

著者の問いかけに答えないわけにもいくまい。死刑について私が考えた結論を述べてみたい。

死刑とは過去の清算、そして未来の抹殺だ。でも、それは殺人犯にとっての話でしかない。遺族にとっては、大切な人が殺された時点ですでに未来は抹殺されてしまっているのだ。もちろん殺された当人の未来も。未来が一人一人の主観の中にしかありえず、他人が共有できないのなら、そもそも死刑はなんの解決にもならないのだ。殺人犯の未来はしょせん殺人犯の未来にすぎない。死刑とは、遺族のためというよりも、これ以上、同じ境遇に悲しむ遺族を作らないための犯罪者の抑止策でしかないと思う。ただ、抑止策として死刑が有効である限りは、そして、凶行に及ぼうとする殺人者予備軍が思いとどまるのなら、死刑制度もありだと思う。

‘2016/12/13-2016/12/14


天使の耳


著者の凄味とは、案外こういった短編集にあるのかもしれない。そう思わされた一冊である。

本作には全部で6編の短編が収められている。いずれも交通事故や車社会に題材を採ったものである。車を日常的に運転している人にはわかるが、免許を取ってからの期間が長ければ長いほど、つい惰性に陥ってしまいがちである。体に沁みこんだ運転技術で、直線やカーブもやすやすと通り抜け、信号や渋滞もなんなくやり過ごす。免許取りたての頃の初心は忘れ去り、全ての集中力を運転につぎ込むまでもなく、到着地まで円滑に走り抜ける。それが大抵のドライバーではないだろうか。しかし、免許更新時の教習ビデオを思い返せば分かるとおり、少しのハンドルの誤りが通行人の、そして自分の人生を狂わせる。理性では分かっていても、惰性に流されてしまう怖さ。交通事故の結果がもたらす破滅への想像力すら衰えてしまうほどの惰性に。

本書の6編に収められている出来事は、車社会で日々起きていてもおかしくないと思える出来事である。車。それ自身が凶器でもあり、そこから投げられるものが凶器にもなり、道端に停めているだけでも凶器たりえる。教習ビデオで観させられる映像では、事故を起こし、悔恨に苛まれる主人公が登場する。そのありきたりな教習ビデオの世界が、作家の手に掛かると見事な短編に生まれ変わる。日常をほんの少しそれた狭間に潜む闇。その闇を著者は短編として浮かび上がらせる。小説で描かれる日常が小説家の描く日常ではなく、読者の周りを普通に取り巻く日常であれば、その小説はリアリティを持って読者の感情に迫る。著者が本作で描く日常のリアルさと闇。その鮮やかな対比には唸るばかりである。

そんなことがもし可能であればだが、悪質ドライバーや惰性で運転する悪質ドライバー予備軍には講習時に本書を読ませ、感想文を書かせても良いかもしれない。そんなことまで思わされるのが本作である。少なくとも私にとって、本書は教習ビデオよりも考えさせられるところがあった。

’14/06/20-‘14/06/21