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ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


メデューサの嵐 下


下巻では、着陸する空港を求めてあちこちを飛び回るスコットの苦闘が描かれる。
メデューサが野放しになっている事実は、アメリカ中が知ることとなった。ペンタゴンやCIAも、とんでもない兵器が空にある事態を把握する。一方で、アメリカを危機に陥れた犯罪者がすでに亡くなったロジャーズではなくヴィヴィアンによってなされたと考え、捜査するFBIも。
さまざまな思惑を持つ人々がそれぞれの立場で事態を掌握しようとするため、なかなかうまくいかない。

もっともやっかいなのは、メデューサを無傷で確保したいとの軍の一部の思惑だ。
まだどの国も開発に成功していないメデューサウェーブが今、合衆国の上空にある。それは軍にとって願ってもないチャンスだ。この兵器を可能な限り無傷で入手し、内部を解析することによって、アメリカによる世界の覇権はより一層強固なものとなる。
アメリカに無限の力がもたらされるメデューサは、軍が確保しなければならない。
そう確信した一部の軍人は、兵器を遺棄したいと願うスコットを欺き、スコットの飛行機を軍の飛行場に着陸させようと画策する。

ところがスコットのそばには、兵器の実際の開発者であるロジャーズの妻ヴィヴィアンがいる。かつてロジャーズと一緒に研究職に就いていたヴィヴィアンにとって、ロジャーズの能力はよく知っている。この兵器を完成させてもおかしくないことも。
ロジャーズがやると決めたら必ず実行する。軍がいかに知恵をめぐらそうとも、安全に解体することなど不可能。メデューサは軍が生半可に扱えるような代物ではない。そして、処置を誤ったが最後、アメリカ中の電子機器は使い物にならなくなり、アメリカは二度と立ち上がれないほどのダメージを被る。

ヴィヴィアンからそのような事を聞いたスコットは、アメリカを救わねばという使命につき動かされる。そして、策をめぐらせながら機を飛ばし続ける。スコットエアも自分自身もそしてクルーも最後まであきらめることなく、どうやればメデューサを安全に処分するかを考えながら。

そのスコットからみて、軍のおかしな動きは怪しむに十分だった。軍が自らを欺きメデューサを手中に収めようとしているのではないか、と。その疑いが確信に高まり、いったんは着陸した空港から、軍の制止を振り切って再び離陸への道を選ぶ。
物語を盛り上げるため、このような余計な画策をする役割の人物は必要だ。軍人としての動機がもっともなだけに、スコットを再び空へと送り出す展開も無理やりな感じは受けない。

軍の用意した飛行場が頼りにならないとなれば、もうスコットにとれる道はすくない。時間は少ない。そこで彼がどういう決断を下すのか。

超巨大台風とメデューサ。熱核爆弾としての側面も持つメデューサが爆発すれば、電磁波だけでなく、自身も一瞬にして塵と化す。
そのような極限状況にあって、ある人はパニックに陥り、ある人は判断力を失う。だが、ヒーローでなくとも、集中力を高められる人もいる。本書のスコットのように。
もともと航空機のパイロットは高度な知識と集中力を擁する仕事だという。
本書のような事態に巻き込まれたとしても、スコットが毅然と対処できることはある意味理にかなっている。空軍のもと戦闘機載りの経歴ならなおさら。

おそらく著者も自身や仲間のパイロットの姿をみていたはず。その素養は承知していたため、本書のような設定も著者には荒唐無稽とは考えていなかったのだろう。

飛行機とはただでさえ、一瞬の操作ミスが命の危機に直結する。
だから、もともとサスペンスの題材としては適している。
そして著者にパイロットとしての知識があったならば、飛行機を題材とした本書のようなサスペンスは面白いはずだ。

実際、本書を読む間は手に汗を握るような展開が連続する。本書のように極上の緊張感を楽しめるのは、読者としての喜びだ。

ただ、本書には物足りない点もあった。
正直にいうと、本書の登場人物にはもう少し深みがあっても良かったと思う。
たとえばスコットがなぜ一人で貨物便を扱うスコットエアを創業したのか。上巻の冒頭でそのあたりのいきさつには多少は触れられる。だが、あまりスコットが貨物会社を創業した動機には挫折があまり感じられなかった。
さらに、重要な役回りを演じるドクやジェリーの人物ももう少し深く掘り下げてもよかったのではないだろうか。

そしてリンダにも同じ物足りなさがつきまとう。なぜ南極からの観測データを焦って積み込まねばならないのか。そこに環境学者としての彼女が抱いていた地球温暖化の危機感を書き込めば、より彼女の強引な行為の理由が理解できたはず。

結局、本書で一番無茶な企てを仕掛けたロジャーズと、その企みにまんまとはめられたヴィヴィアンの元夫婦が、人物の中でもっとも深みがあったように思うのは私だけだろうか。
彼らの闇の暗さと、たくらみや巻き込まれた事件はもっとも現実に考えにくい役回りだったにもかかわらず。

だが、そうした欠点など取るに足りないと思えるぐらい、本書は航空機とそれを舞台にしたサスペンスの書き方に長けていたと思う。
あえて人物の書き方に注文を付けたのも、それだけ本書のサスペンスとしての構成がしっかりしていたからだ。

このあたりのバランスをどうすればよかったのかは、結果論に過ぎない。
一つだけいえるのは、本書が極上のサスペンスだったこと。それを読めて楽しめたことぐらいだ。

本書は余韻の描き方もとてもよかった。この終わり方によって、沸騰していた物語に締めくくりが付けられたように思える。

‘2019/6/19-2019/6/19


メデューサの嵐 上


本書は、だいぶ長い間、私の部屋で積ん読になっていた一冊だ。
ちょうど読む本が手元になくなったので手に取ってみた。

本書は、今まで積ん読にしていたのが申し訳ないほど面白かった。
何が面白かったかと言うと、飛行機の運転操縦に関する知識が深く、臨場感に満ちていたことだ。それもそのはずで、著者はもともと貨物便のパイロットをしていたそうだ。

本書の主人公であるスコットもまた零細貨物航空会社スコットエアの経営者であり、パイロットだ。そのスコットエアを運営しながら、綱渡りの経営を続け、営業で案件をとってきては収入を運営につぎ込む。その姿は、私と弊社そのもの。だから感情移入ができた。

しかも、本書の主人公の場合、実際の貨物便を所持している。
という事は、維持費がかかる事を意味する。また、それを運行するためのスタッフも雇わねばならない。
スタッフとはスコットエアの場合、副操縦士のジョン・ドク・ハザードと機関士のジェリー・クリスチャンだ。
スコットエアにはスタッフも大きな機器もある。だから、弊社のようにパソコンだけを持っていれば済むはずがない。
スコットの経営は、私よりもさらに過酷であり、綱渡りの連続であるはずだ。

さて、本書のタイトルにもなっているメデューサとは、メデューサウェーブを発する兵器の事だ。もちろん実在しない。著者の造語だ。
メデューサウェーブとは、強力な電磁波。その強力な電磁波によって、電子と磁気の情報で成り立っている情報機器を一撃で無効にできる。つまりデータを破壊できるのだ。
世界中のハードディスクに保存されているあらゆる情報や、ネットワーク上を行き来する電気信号。そうした情報は電子データであり、電子データが安全に保持されることが社会のあらゆる活動の前提となっている。
だが、メデューサウェーブによってそれらが一気に無効になるとすれば、その恐ろしさは計り知れない。実際、複数の国の兵器関係者は今も研究しているはずだ。

もしそのような恐ろしい兵器が、在野の一科学者によって作り上げられたとしたら。そして、その科学者が狂った動機をもとにその兵器を実際に稼働させようとしたら。もしその兵器がスコットの操縦する貨物機に積まれていたとしたら。
本書はそうした物語だ。全編がサスペンスに溢れている。

その科学者ロジャーズ・ヘンリーは、離婚した妻ヴィヴィアンに対して復讐しようとしていた。そして彼の復讐の刃は自分の才能を認めようとしなかった合衆国政府にも向けられていた。
そんなロジャーズの狂った執念を一石二鳥で実現したのがこのメデューサウェーブ。
ガンで自らの余命がいくばくもない事を知ったロジャーズは、ヴィヴィアンに連絡を取る。
その時、ヴィヴィアンは離婚したことによって収入のあてがたたれ、困窮状態にあった。
死の床で寝込んでいたロジャーズからの頼みを断れずに引き受けてしまったことが、本書の発端となる。

メデューサに巧妙な仕掛けを組んでいたそのロジャーズは、自ら命を断つ。
そしてヴィヴィアンは、生計がいよいよ立ち行かなくなり、ロジャーズの頼みを実行する。
ロジャーズの頼みとはヴィヴィアンも同伴したまま、貨物便にその箱に似た兵器を積み込む事。
しかし、積み込まれるべきだったメデューサは、手違いで積み込まれるべき貨物便とは違う便に積み込まれた。その飛行機こそ、スコットの操縦する飛行機だった。そしてスコットがそのまま飛行機を離陸させたことで、メデューサは空に解き放たれてしまう。
巧妙にも、ヴィヴィアンのペースメーカーと兵器を同期させるようにしていたロジャーズは、ワシントンの上空で兵器を作動させる。
兵器の電子コンソールには、ヴィヴィアンが離れると兵器をすぐに稼働させるという脅迫の文字が。

飛行機は着陸もできなければ、兵器を処分することもできない。つまり、燃料の切れるまで飛び続ける羽目に陥る。
しかも間の悪いことにアメリカに最大級の台風が襲来している。つまり、スコットは巨大な台風の中を、いつ爆発するとも知れない兵器とともに飛び続けなければならない。

貨物の積み込みや、空港での手続き。そして実際の操縦や航空機の形に関する知識。
そうした知識がないまま、本書のような物語を書くと、非現実的な設定に上滑りしてしまう。
だが、冒頭に書いた通り著者はもともと飛行機会社を経営していたという。そうしたキャリアから裏付けられた説得力が本書に読みごたえを与えている。

同時に著者は、兵器の情報がどのようにしてマスコミに漏れ、それがどのように世間を騒がせるかについてもきちんとリサーチを行っているようだ。
危険極まりない兵器が空を飛び回っていることを知った世間はパニックに陥る。
そのいきさつもきちんと手順を踏んでおり、無理やりな感じはしない。だから、本書からは説得力が保たれている。

今の社会は電子データに従って動いている。どこにでもありふれているが、ひとたび混乱すれば、世界の仕組みは破滅し、アメリカの覇権は雲散霧消する。
メデューサウェーブのような兵器の着想は、おそらく他の作家にも生まれていることだろう。だが、私にとっては本書で初めて出会った。それだけに、新鮮だった。

スコットの操縦する飛行機には、ドクとジェリー、ヴィヴィアンの他にもまだ乗客がいる。
南極での調査を終え、政府研究機関に至急渡したいからと荷物を運んでほしいと強引に乗り込んできた女性科学者のリンダ・マッコイ。
この5名の間にコミニケーションが取られながら、5人でどのようにして協力し合い、危機を脱するのか、という興味が読者をつかんで離さない。

実際のところ、本書の核心度や描き方、物事の進め方やタイミングなど、あらゆる面で第一級のサスペンスで、まさにプロの描いた小説そのものである。
才能の持ち主が知識を備えていれば、本書のような優れたサスペンスになるのだ。

いったいスコットたちはどのように危機を乗り切るのだろうか。下巻も見逃せない。

‘2019/6/14-2019/6/19


愚者の夜


本書は芥川賞を受賞している。
ところが図書館の芥川賞受賞作品コーナーで本書を見かけるまで、私は著者と本書の名前を忘れていた。
おそらく受賞作リストの中で本書や著者の名前は見かけていたはずなのに。著者には申し訳ない思いだ。

だからというわけじゃないが、本書は読んだ甲斐があった。
別に芥川賞を受賞したから優れているということはない。
だが、受賞したからには何かしら光るものはある。そして、読者にとって糧となるものがある。私はそう思っている。
私にとって本書から得たものはあった。

本書からは、旅とは何かについて考えさせられた。
旅。それは私にとって人生の目的だ。
毎日が同じ人生などまっぴらごめん。日々を新たに生きる。少しでも多く新たな地を踏む。一つでも多く見知らぬ人々と会話する。異国の文化に触れ、異国の言語に耳を傾け、地形が織りなす風光明媚な姿を愛でる。
それが私の望むあり方だ。

旅とは、私の生涯そのものだといってもよい。
確かに、日常とは心地よいし、安心できるものだろう。
だが、その日々が少しでも澱んだとたん、私の精神はすぐに変化を求めて旅立ちたくなる。
好奇心と変化と刺激を求める心。それはもはや、私が一生、付き合ってゆく性だと思っている。

本書の主人公の犀太は、まさに旅がなければ生きられない人物だ。
日本で海外雑誌の紹介で生計を立てている。
妻はオランダから来たジニー。
その日々は変化に乏しく、ジニーはそんな状況に甘んじる犀太にいらだっている。犀太もまた、不甲斐ない自分と今の八方塞がりの状況に苛立っている。

以前の自分は旅と放浪で輝いていたはずなのに、今の体たらくはどうしたことだろう。
何よりも深刻なのは、旅に行こうという気にならないことだ。
日本にしがみつこうとする心の動き。
それはほんの数年前には考えられなかったことだ。
二人が知り合ったのは犀太が海外を放浪していた間だ。
その時の犀太は溌溂としており、二人はすぐに意気投合し、パリで結婚生活を送る。

ところが、犀太はパリで新婚生活を送るにあたり、定期収入を得るための暮らしに手を染める。
人生で一度ぐらいは体験しておこうと軽い気持ちで始めた暮らし。
犀太は、定期的な収入を稼ぐ生活で調子を崩してしまう。
作家になる夢を目指すため、執筆に手をつけるが全く進まない。
ジニーをオランダに帰らせてまで、執筆に集中しようとしてもうまくいかない。
ついにはパリの生活を切り上げ、ジニーをともなって日本に戻ってしまう。

あんなに憧れていて、自由を満喫していたはずの旅。
なのに所帯をもって母国に帰ると、なぜか旅に惹かれなくなってしまう。冒険心が不全を起こしたのだ。

ジニーはパリでも奔放に生き、別の男と夜をともにし、そのことを隠し立てなく犀太に話す。
すべてに嫌気がさした犀太は、何度もジニーとの離婚をくわだてる。が、ちょっとした加減で二人の関係は元のさやに戻る。
本書は、そんな二人の生々しいやりとりに満ちている。

生活の疲れが旅の記憶にまで影響を及ぼす。そんな人生の残酷な一面。
それが本書にはよく描かれている。
あれほど憧れていた旅。日本で生まれ、一生を日本で過ごす境遇からすれば、例えば定期的に職場に通っていたとしても、フランスでの生活はそれだけで一大冒険のはず。

だが、異国であっても規則的な日常を送るようになると、途端に毎日は旅ではなくなる。パリの日々は確実に犀太から旅の意欲を削り取ってゆく。そこから次の場所に刺激を求めに行こうにも、もう力は残されていない。
そのような旅をめぐる描写は、人生の残酷な現実そのものだ。
本書はそれがとても印象的だ。

つまり旅の本質とは、母国から離れることではない。
そうではなく、決まりきった日常こそが、旅の対極なのだ。
であれば、日本にいたとしても、変化に富んだ毎日であればそれは旅とは呼べないだろうか。

本書は日常と旅をくらべることで、人生の真実を探り当てようとしている。
私にとって、人が旅をしなくなる理由。それがまさに現実の日常の日々の中に隠れている。

それゆえ、人は日常の罠にハマらぬよう、日ごろから気をつけねばならない。
日常であっても、無理やりに変化をつける。日常であっても、強引に刺激を受け入れる。そうした工夫を私は今までしてきた。
それによって、私は最近、ようやく日常の罠から逃れられるようになった。場合によっては日常に絡め取られることもあるが。

そうした意味でも本書は、人生の真実と機微を描いた作品として印象に残る。
実際、作者は犀太が目指していた作家として独立できた。
だが、世の中には作者のように大成できず、日常の中に沈んでいった人間は多いはず。
読者として、本書から受けた学びは自分自身の戒めとして大切にしたい。

私自身、三十代の頃は、日常が仕掛ける罠にほとんど、ハマりかけていた。そのことを思い起こせただけでも本書には価値があった。
本書はほぼ世の中から忘れられているが、今の若者だけでなく、四十代を迎えたかつての青年にも読まれるべき価値があると思う。

ただし、本書に登場するセリフ。これはちょっと受け入れられない。
悲鳴にしても感嘆詞にしても、本書のセリフはとてもリアルな人の発するそれには思えなかった。
これは、本書にとってもったいないと思う。今、本書が敬遠されているとすれば、これが理由のはずだ。
本書の生々しい会話と、旅をした者にしかわからない旅の魅力。その反対の日常の倦怠がよく描かれていると思うだけに残念だ。

‘2019/4/5-2019/4/8


イノック・アーデン


本書は見慣れない形式で記されている。
小説のような散文形式でもなく、詩のような断片的な断章でもない。
詩のようでありながら、物語としての展開を備えている。
つまり、物語性を備えた長編の詩。つまりは叙事詩とでも言うべきなのが本書である。

よく、詩を朗読すると言う。ここでいう詩とは、カラオケのディスプレイに流れる歌詞のことではない。
詩人が書き連ねる詩を指している。

詩人によって研ぎ澄まされ、選ばれた言葉の連なり。
その美しく、時には韻を踏む言葉をいつくしみ、声に出して朗読する。
黙読して本を読む私には、なじみのない習慣だ。

少し前に、「声に出して読みたい日本語」と言う本がベストセラーになった。声に出して読むことで、内容が頭に入る。なおかつ、日本語の語感に対する感性が養われる。
今もYouTubeには詩の朗読の様子がアップロードされている。
実は私が知らないだけで、朗読の習慣はまだ廃れていないのだろう。

実は、一昔前の人々は、朗読や朗誦の習慣を普段の暮らしで持っていたのではないか。
今や私たちが詩を朗読する機会など、学校の国語の授業ぐらいだというのに。
ところが、人々は本書のような詩を朗読することで、読解力を鍛えた節がある。俳句や短歌もその一つだろう。

本書のような形をとる文学は、まさに朗読にふさわしい。本書を実際に読んでみると、格調も高くつづられた日本語が頭にしみ込むような気がする。

もちろん、本書はもともとイギリスの詩人テニスンによって生み出された。つまり、原文は言うまでもなく英語で書かれている。

それを美しい日本語に翻訳してくれたのが、訳者の入江直祐氏だ。
入江氏の訳した文も格調が高く、もともとの作品を思い描かせてくれる。
だが、翻訳の見事さを差し置いても、本書は本来は英語で読むべきなのだろう。その方が味わいが深まる気がする。

なぜなら、本書は過去を舞台としているからだ。そして、遠い国へと向かう船乗りの物語だからだ。
日本語で読むと、どうしても読み手の心の奥底に、日本の情景が浮かんできてしまう。

昔の日本では、ここまで長期間、故郷へ帰って来られない航海はなされていなかったはずだ。遣唐使や遣隋使ならまだしも。せいぜいが近海に漁に出てそのまま流されたような中濱万次郎か大黒屋光太夫の事例がある程度。
つまり、最初から困難が予想される遠洋への航海は、日本の歴史ではあまりイメージしにくい。

だから、本書には長期にわたる航海が行われていた19世紀イギリスの感覚が深く根を下ろしており、その感覚を描写するには英語が似つかわしいと思える。

19世紀のイギリスといえば、世界の七つの海を支配すると言われた大国である。世界中に植民地を持ち、イギリス人にとっては航海がそれほど珍しい営みではなかったはずだ。

だからこそ、本書でイノック・アーデンが、妻アニイや子供を置いて、家族のために航海で一稼ぎしようとする動機は理解できる。
また、難破し、はての島で長年を過ごした事も、苦労して故国に戻ろうとした執念にも、空想やおとぎ話の世界と片付けられない現実味がある。

本書は叙事詩とはいえ、荒唐無稽ではなく現実に即した物語なのだ。
さらに、地に足がついていながら、当日の人々がかろうじて想像ができる長大な旅路が描かれており、それがある種のロマンをかき立ててくれる。

本書で描かれているのは、愛にもさまざまな種類があることだ。
本書は三人の幼なじみ、イノック・アーデンとアニイ、そしてフィリップの物語だ。

アニイは二人から思いを寄せられる。だが、ストレートに思いを打ち明けるイノック・アーデンを好ましく思っており、イノック・アーデンの思いを受け入れて二人は結婚する。
だが、生活に苦しみ、イノック・アーデンは家族を養うため、一か八かを目指して航海に出る。そして遭難し、家族のもとへ戻れなくなる。
悲しみに暮れるアニイ。
フィリップは、アニイを慰め、そして秘めていたアニイへの思いを打ち明ける。数年ののち、二人は結婚する。
ここでは、若気のストレートな愛と、じっくりと見守る愛が描かれる。ともに美しい。

一方で、遭難の凄絶な苦労によってすっかり面貌が変わってしまったイノック・アーデンは、苦労して故国へと戻ってくる。そして彼が目にしたのは、幸せに暮らすアニイとフィリップと子供たち。
彼はそれを見て、自ら名乗り出ることをやめ、孤独のうちに生涯を終える。
彼の凛とした姿勢もまた美しい。

もう一つ、本書がテーマとしているのは、人にとって普遍的な問題である、冒険か安定かの選択が描かれていることだ。
イノック・アーデンのとった行動は冒険的な生き方の典型であり、安定の幸せを求めたアニイとフィリップとの生き方が対比されている。
どちらに優劣があるというのではない。それはどちらも人生のありうる姿であり、どちらも可能性として受け入れてこそ、人生を謳歌する姿勢であると思う。
本書を浅く読み、冒険を否定してはならないし、安定の家庭を築いた2人を非難してもならない。

本書のそうしたテーマから学びとれるのは、19世紀のイギリス社会が、人間に多様な生き方を許容できるように変わりつつあったことだ。
縛られ、固定された一生ではなく、冒険もできるし、安定もえらべる。そのどちらも人としての一生であり、どちらを選択するかを個人の意思に委ねられるようになったこと。

この時代の変化をテニスンは敏感に感じ取り、本書にしたためたのに違いない。

そうした自由な生き方をえらべるようになったとはいえ、冒険の果てにはイノック・アーデンが被ったような悲劇の可能性もある。
その時、イノック・アーデンのように自らの選択にきちんとけじめをつけ、見苦しいまねはしないでいられるだろうか。
本書からはそのような覚悟のあり方が示されていると思う。

その覚悟こそは、世界に冠たる国家になるつつある、イギリスの男子のあり方なのだ、とテニスンはほのめかしているように思える。

そんなテニスンの思いが伝わったからこそ、一旗をあげようと決めた人々が自らを鼓舞し、奮い立たせるために本書を朗唱したのではないだろうか。

‘2019/01/03-2019/01/03


アラビアの夜の種族


これはすごい本だ。物語とはかくあるべき。そんな一冊になっている。冒険とロマン、謎と神秘、欲望と愛、興奮と知性が全て本書に詰まっている。

アラビアン・ナイトは、千夜一夜物語の邦題でよく知られている。だが、私はまだ読んだことがない。アラジンと魔法のランプやシンドバッドの大冒険やシェヘラザードの物語など、断片で知っている程度。だが、アラビアン・ナイトが物語の宝庫であることは私にもうかがい知ることが可能だ。

本書はアラビアの物語の伝統を著者なりに解釈し、新たな物語として紡ぎだした本だ。それだけでもすごいことなのだが、本書の中身もきらびやかで、物語のあらゆる魅力を詰め込んでいる。内容が果たしてアラビアン・ナイトに収められた物語を再構成したものかどうかは、私にはわからない。ただ、著者は一貫して本書を訳書だと言い募っている。著者のオリジナルではなく、著者が不詳のアラビアン・ナイトブリード(アラビアの夜の種族)を訳したのが著者という体だ。前書きでもあとがきでもその事が述べられている。そればかりか、ご丁寧に訳者註までもが本書内のあちこちに挿入されている。

本書が著者の創作なのか、もともとあった物語なのかをそこまで曖昧にする理由はなんだろうか。それは多分、物語の重層性を読者に意識させるためではないかと思う。通常は、作者と読者をつなぐのは一つの物語だけだ。ところが、物語の中に挿入された別の物語があると、物語は途端に深みを持ちはじめる。入れ子状に次々と層が増えていくことで、厚みが増えるように、深さがますのだ。作者と読者をつなぐ物語に何層もの物語が挟まるようになると、もはや作者を意識するゆとりは読者にはない。各物語を並列に理解しなければならず、作者の存在は読者の脳裏から消え失せる。そして本書の様に何層もの物語で囲み、ご丁寧に著者は紹介者・翻訳者として入れ子の中心に身を隠すことで、読者からの眼は届かなくなる。読者は何層にも層を成した物語の皮をめくることに夢中になり、芯に潜む著者の存在にはもはや関心を払わなくなるのだ。

それによって、著者が目指したものとは何か。著者の意図はどこにあるのか。それは当然、物語そのものに読者を引き込むことにある。アラビアン・ナイトを現代によみがえらせようとした著者の意図。それは物語の復権だろう。しかも著者が本書でよみがえらせようとした物語とは、歴史によって角を丸められた物語ではない。より生々しく、より赤裸々に。より毒を持ち、より公序良俗によくない物語。つまり、物語の原型だ。グリム童話ももともとはもっとどぎついものだったという。今の私たちが知っている童話とは、年月によって少しずつ解毒され、角がとれ、大人に都合のよい物語に変容させられていった成れの果ての。だが、本来の童話とはもっとアバンギャルドでエキセントリックなものだったはず。著者はそれを蘇らせようとしている。私のような真の物語を求める読者のために。

では、いったい何層の物語が隠れているのだろうか。本書には?

まず最初の物語は、アラビアン・ナイトブリードという著者とそれを翻訳し、紹介した著者の物語だ。それは、薄皮のように最初に読者の前に現れる。それをめくった読者が出会うのは、続いては、アラビアン・ナイトブリードの物語世界だ。その世界では今にもナポレオン軍が来襲しようとするエジプトが舞台となっている。強大なナポレオン軍を撃退するには、長年の平和に慣れすぎたエジプトはあまりにも脆い。そこで策士アイユーブは読めば堕落すると伝わる「災厄の書」を探し出し、それをナポレオンをへの贈り物にすることで、ナポレオンを自滅に追い込もうと画策する。首尾よく見つけ出した「災厄の書」は、その力があまりに強大なあまり、読むと翻訳者にも害を与えるという。だから分冊にして、ストーリーとして意味のない形にしたうえでフランス語に翻訳し、翻訳を進めながら物語を読み合わせようとしたのだ。ところがそれはアイユーブが主人であるイスマーイール・ベイをたばかるための仮のストーリー。その実は、魅力的な物語を知る語り部に物語を語らせ、それを分冊にしてフランス語に翻訳するという策だ。ここにも違う物語の層が干渉しあっているのだ。

そして次の物語の幕が上がる。直列に連なる三つの物語は、これぞ物語とでもいえそうな幻想と冒険に満ちている。その中では魔法や呪文がつかわれ、魔物がダンジョンを徘徊し、一千年間封じられた魔人が復活の時を待ち望む。裏切りと愛。愛欲と激情。妖魅と交わる英雄。剣と謀略だけが生き残る術。そんな世界。極上のファンタジーが味わえる。読むものを堕落させるとのうたい文句は伊達ではない。

一つ目は王子でありながら醜い面相を持つアーダム。彼が身を立てるために妖術師になっていく物語だ。醜い面相を持ちながら、醜い性格を隠し持つ。裏切りと謀略に満ちているが、とても面白い。

二つ目は、黒人でありながらアルビノとして生まれため、ファラーと名付けられた男。生き延びるために魔術を身に着け、世界を放浪して回る。その苦難の日々は、成長譚として楽しめる。

三つめは、盗賊でありながら、実は貴い出自を持つサフィアーン。盗賊でありながら義の心を持つ彼の、逆転につぐ逆転の物語。予想外の物語はそれだけでも楽しめること間違いない。

三つの物語はどんな結末を迎えるのか。三つの物語がアイユーブ達によって読み上げられ、一つの本に編まれた暁には何が起こるのか。それは本書を読んでもらわねばなるまい。一つ思い出せるのは「物語とは本来、永遠に続かねばならない」という故栗本薫さんの言葉だ。

もちろん本書は終わりを迎える。何層にも束ねられた物語も、本である以上、終わらねばならない。仕方のない事だ。それぞれの物語はそれぞれの流儀によって幕を閉じる。ただ、読み終えた読者は置き去りにされたと思わず、満足して本を閉じるに違いない。極上の物語を同時にいくつも読み終えられた満足とともに。

本書はとても野心に満ちている。複雑さと難解さだけに満ちた本は世の中にいくらでもある。本書はそこに桁違いのエンタメ要素を盛り込んだ。日本SF大賞と日本推理作家協会賞を同時受賞できる本はなかなかない。本書は何度でも楽しめるし、何パターンの読み方だってできる。その時、作家が誰であるかなど、どうでもよくなっているはず。それよりも読者が気をつけるべきは、本書によって堕落させられないことだけだ。

‘2017/08/27-2017/09/17


美女と竹林


滝が好きな長井氏は竹林は好きじゃない。けれども、竹林の幽玄な感じには惹かれる。竹それ自体にはそれほど惹かれないのに。でも、滝を好む長井氏は「たけ」と「たき」という一文字の違いに親近感を感じる。気がつけばいつの間にやら滝から竹の愛好家に宗旨替えし、何食わぬ顔で竹林の魅力を語り始めるかもしれない。

きっと長井氏は本書の中で登美彦氏が幾度も訪れる洛西、桂の竹林には行ったことがないはずだ。でも、嵯峨野々宮神社の竹の小径などには惹かれるらしい。同じ京都だから、野々宮神社の竹も本書に登場する鍵屋家の竹も似たようなものだろう。で、行ったら行ったでコロっとその魅力にとり付かれるのだ。そして竹林に分け入っては本書の登美彦氏や明石氏のようにあり余る余暇をのこぎりを振り回すことで費やすに違いない。なんといっても長井氏の良いところは常にアンテナ全開、他人からの感化も辞さないことにあるのだから。

長井氏はいわゆる雇われ人ではない。零細ながらも会社を持っているし、法人化する前は個人で事業を9年の長きにわたり営んでいる。仕事をよそ様から恵んでいただく立場だ。そしていったん仕事を請けるとそちらを優先するしかない。そんなところも登美彦氏のなりわいに相通ずるものがある。なので、長井氏には登美彦氏が竹に惹かれる気持ちがとてもよくわかる。そして登美彦氏が竹伐採をしたくてもできない多忙の理由も理解できるのだ。要するに長井氏は、本書に書かれた登美彦氏の竹をめぐる日々を読み、とても共感してしまったのだ。

登美彦氏は作家としての己に限界を予感し、作家も多角化経営すべし、と竹林経営に舵を切る。多角化経営。それは、若者を惑わす危険なまたたび。

登美彦氏がその誘惑にふらふらと揺られたように、長井氏も若かりしころ、その陥穽に落ちた。だが違うのは職種だ。登美彦氏は竹林経営を文章に起こせばそれが日々の糧として報われる。長井氏の場合、いくら滝で己を清冽に磨きたてようが何もない。成果をブログを書いたところで登美彦氏のように報われない。登美彦氏がモリミ・バンブー・カンパニーを立ち上げたように、竹をネタに商いを営めないのが情報屋の宿命だ。長井氏の営みの中で滝や竹のビッグデータを集めてみても、誰も見向きもしないだろう。せいぜいがオ「タク」的な感性と「タカ」望みの欲望と満たすため、指にキーボード「タコ」を作るくらいが関の山。無理やり結びつけてみても「タキ」にも「タケ」にも無縁なのがつらい。

長井氏は悟る。そしてうらやむ。登美彦氏の作家としての宇宙の広がりを。竹への探究心を竹林経営に結びつけられるだけのことはある、農学部で竹を研究したその素養を。何よりも無理やり文章を紡ぎだせる文才を。日々の営みを客観的に登美彦氏の営みとして書きかえられる視野の広さを。それらは長井氏にとってとうてい及ばぬ高みだ。

長井氏も本稿のようなレビューをあれこれ書いている。が、まだまだだ。でも長井氏は思うのだ。己が登美彦氏にたどり着けるとすれば、己の好奇心と無鉄砲さではないか。それを突破口とすれば、なんとかなるのではないか、と。竹林で薮蚊と戦い、竹をぶった切り、たけのこを掘る行いに楽しみを見いだせる心のありよう。それは長井氏だって似たり寄ったりなのでは。そんなかすかな望みを頼りに、長井氏は今日も仕事と文章を書くことに精を出す。いつの日か桂の竹林を訪れんと決意しつつ。

‘2017/04/03-2017/04/03


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


モアナと伝説の海


本作を観てから2日が経ったが、本作の映像の美しさはまだ記憶に鮮烈だ。本作で描き出された海や空。これが実写の映像を合成したのか、それとも最初からCGで作ったのか。私には判断がつけられそうにない。それほどまでに本作の空と海の描写は美しい。海の中の映像はCGの魚やサンゴが動き回り、あまり驚きはない。だが、船が大海原を進むシーンや空に雲がたなびくシーンなどは実写と区別がつかない。もしこれらの映像がCGだとすれば感嘆するほかはない。ここ数年のCG技術の進化には驚かされることしきりだが、本作の映像でそれは極まったといえる。

このような美しい映像は、自然を描いてこそ真価を発揮するはずだ。そしてポリネシアの豊かな自然の恵みは本作の中に確かに息づいている。ポリネシアの文化や伝説、神話は、自然の恵みへの感謝とともに受け継がれてきた。ポリネシア文化のあり方を描く本作が自然の美しさを忠実に再現していることは、本作が伝えたい精神を伝える上でとても大事なことだ。自然の恵みを享受するポリネシア文化が、対極となる人工物の極致であるCG技術によって再現されたことは、これからの情報技術のあり方の一つとして興味深い。

我が家の家族は私を除いて皆、フラを習った経験がある。そのため、他の家族に比べればポリネシア文化は多少は理解していると思う。本作は家族で観に行ったのだが、人よりも多く理解できたのではないか。もっとも、妻によれば本作でモアナの祖母タラが踊るフラの振り付けはあまり深い意味がないらしい。波を表しただけで。本来はフラの振りの一つ一つに意味があり、一つの踊りで物語を語るそうだ。本作はハワイを描いていないので、ハワイ生まれのフラと本作で祖母タラが舞う踊りには違うのかもしれない。だが、ポリネシア文化を描くのであれば、もう少し踊りを深掘りして意味を表現しても良かった気がする。そうすればより本作に深みが増したかもしれない。

私もハワイには二回ほど行ったことがある。二回目にハワイを訪れた際はビショップ・ミュージアムでポリネシア文化について学んだ。そこで学んだ知識によると、ハワイへ最初にやって来た人々は、はるばるタヒチやフィジーから舟で渡って来たそうだ。島で暮らす人々の中には、未知の大海原へ乗り出す船乗りの冒険心が眠っている。それは、地球上に散らばっている人類の中でも、ポリネシアの人々が最も色濃く残す気質ではないか。

本作の主人公モアナは、ポリネシアの人々の強さである冒険心に充ちている。海に選ばれた彼女は海に惹かれるあまり、珊瑚礁の外に出たくて仕方がない。そんな彼女の父トゥイは、島長の立場で島を守ることを一番に考える。そのため、モアナの冒険心を固く戒める。トゥイもまた、若いころは冒険心の旺盛な若者だった。だが、外洋への航海に乗り出そうとして友人を亡くしている。失敗が、トゥイの心を頑なに守りに入らせてしまったのだ。とはいえ守りに入った者は、守るべきものがなくなると弱い。彼らの島モトゥヌイから自然の恵みが経たれ、村は危機に陥る。にもかかわらずトゥイの考え付く策は、その場しのぎの改良でしかない。一方でモアナの冒険心は事態をより根本的に変えようとする。おそらくポリネシアの人々も、そうやって世代間で意見を戦わせながら代々島伝いに繁殖していったのだろう。モアナとトゥイの親子の相克は、ポリネシアの人々の伝統そのものを表しているように思う。

だが、航海はそんなに簡単なものではない。おそらくは島へ行き着けず遭難した人々も沢山いたことだろう。そして、運よく成功した船団は、強力なリーダーシップや神の奇跡によって、たどり着けたことに感謝したに違いない。モアナの相棒として航海を共にするマウイは、そんなリーダーシップの権化であり神と目される人。神から与えられた釣り針があれば、マウイが力を発揮する設定がまさにその象徴だ。長い航海の中、飢えに苦しむこともあっただろう、サメに襲われることもあっただろう。そのたび、釣り針をたくみに操ったリーダーが人々を飢えから救い、勇気と力でサメを撃退したリーダーは神格化されてゆく。モアナにとってのマウイがそうであったように。

本作は、溶岩で荒れ狂うテ・カァが心を取り戻して緑豊かなテ・フィティへと落ち着く。それはまさしく島誕生の神話に他ならない。テ・カァは確かに人間にとって恐ろしい存在だ。だが、火山活動で流れた溶岩は大地を作り出し、木や草の芽吹く土へと替わって行く。テ・カァとテ・フィティを表裏同じものとして描いたところが、ポリネシアの神話に即していて興味深い。

本書から示唆されるものは多い。おそらく、製作者も盛り込もうと思えば、今の人類への教訓めいたメッセージをいくらでも盛り込めたことだろう。例えば冒険心の欠如や、地球温暖化、環境汚染など。でも本作は、ポリネシアの文化と自然と神話を描くことに徹している。逆に、ニワトリのヘイヘイや、プアといった動物、ココナッツ姿の海賊カカモラや、マウイの釣り針を持っている巨大ヤシガニのタマトアは本作を子供に親しみやすくしている。中途半端な教訓よりも、まずは自然の恵みに従って過ごす態度や冒険心。それを伝えるのが本作の役割だと思う。

’2017/04/09 イオンシネマみなとみらい


グランド・ブダペスト・ホテル


前々からウェス・アンダーソン監督の作品は観たいと思っていた。本作が初めての鑑賞となる。

ブダペストと名のつくものの、存在しない東欧の小国にあるホテル。その栄枯盛衰を通して、古き良き時代への感傷を描く本作。全編を通して、美しきヨーロッパの栄光と退廃を味わえる映像美が印象的である。そのカメラワークは変幻自在の技を見せる。ある時はわざと書割調にして。ある時はわざとくすんだ風に。またある時はモノカラーで。それも、これ見よがしというのでない。CGを駆使した技術の押し売りでもない。あえて映画は作り物ですよ。と見せつけておいて、それでもなお見る者の心を懐かしき過去へと誘う。これはなかなか出来ないことかもしれない。この相反する感覚こそが、本作を印象付ける点である。

映像だけではない。本作の舞台は東欧の国と見せかけておいて、実は架空の国。微妙に史実と食い違うエピソードの数々が本編を覆う。そのずれが何とも言えないおかしみを本作に与える。描かれているストーリーや映像はかなりブラックなものも含まれる。それにも関わらず、くすりとした笑いが随所に挟まれている。登場人物に奇矯な行動を取るものはいない。真っ当な人々がそれぞれの人生の一片を披露する。それなのに登場人物たちをみているとなんとも言えない可笑しさが心に満ちてくる。

本作の構造は4重構造である。ステファン・ツヴァイクをモチーフとした作家の墓を訪れる若い女性。これが現代。続いて1985年。老いた老作家が自分の創作の秘密を語る。そのうちの一つのエピソードを披露する。それが1968年。壮年の作家はグランド・ブダペスト・ホテルで謎めいた老人と知り合い、その人生を聞く。その老人がホテルで働き始めたのが1932年。物語の殆どは1932年に語られる。なぜ4重構造という持って回った構成なのだろう。そもそもこの点からして一見真面目そうに見えて可笑しさがある。これもまた、監督の仕掛けた隠れた笑いの一つ。

この一風変わった物語を彩る俳優陣がまた凄い。いちいち名をあげないが、主役級の人々がずらり。その中には私が好きな俳優もいる。でも何といっても、主役のレイフ・ファインズの演技に、真面目な中に一匙のユーモアという本作のエッセンスが込められているといえるだろう。

是非とも他の監督作も観てみたいと思った。もっとも一緒に観た次女はそうは思わないかもしれない。これはあくまで大人の映画である。アナと雪の女王をもう一度見たいと言っていた次女には悪いことをしたかもしれない。「こわかった」と感想を漏らしていたし。

’14/6/8 イオンシネマ 多摩センター


すべての美しい馬


少年と青年を隔てるものがなにか、という主題について近代文学では、幾多の作家が採り上げてきた。

大部分の人は少年から青年への移り変わりに気付かず、青年になって初めて自分が何を失い何を背負ったかを知る。そして、社会に囲われ時代に追われる自分を突き付けられる度に、こんなはずではなかったと精進を誓い、そこから逃れるために少年期の自分が何者だったかもう一度思い返そうと文章に表したり、読み返したりすることで、失われた過去を取り戻そうとする。

私などがそのいい見本である。

本書は少年から青年への通過儀礼を描く試みに成功しているばかりか、国境越えと恋愛、そして荒野と都会との対比など、重層的なテーマを詩的な文体の中に散りばめることで、見事な文学作品として体をなしている。

広がる荒野、夜空に瞬く星々、素朴な人々、そして生命力の象徴である馬。それら描写は少年のまっさらな人生のこれからの可能性を想像させて余りある。

逆に、少年の農場が工場になる将来、粗暴な人々、新たな出会い、そして別れは青年に降りかかる試練を暗示しているように思える。

本書では重要な分岐点として、主人公の燃えるような恋と、それがもたらす新たな苦難についても残酷なまでに筆を揮っている。人生にとって恋が分岐点となる展開は、通俗的ではあるが、外せない点ではないか。

読み終えた後、読者は主人公たちが少年から青年へと成長を遂げ、これから彼らがどんな人生を歩んでいくのだろうと思わずにはいられない。子供の時にあれほど憧れていた大人の世界を、大人になった今どう思っているか、読者の想像力に委ねられる部分であり、読書の醍醐味もここにあるのではないだろうか。

大方の人がこういった分かり易い通過儀礼を経ている訳ではないけれど、自分の過ぎ去った成長の跡を思い返すきっかけには相応しい作品である。

’12/02/24-’12/02/29