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冷血(下)


上巻の終わりで犯人は逮捕され、物件証拠も状況証拠もともに揃いつつある。ほとんどの推理小説は犯人逮捕で終わるか、もしくは法廷劇へと場面を移す。しかし、現実の警察の仕事は犯人逮捕で終わる訳ではない。警察の仕事は続くのである。また、法廷は検事が起訴して始まるのではない。警察の証拠固めがあってこそ法廷は成り立つのである。刑事事件を起こした被疑者は、裁判所で被告として立たされる。しかしその前に被告になるには、検察庁による公訴が必要となる。

公訴を行うには、被疑者の動機、犯行当時の詳細な行動などが詳細に明かされていなければならない。そうしないと裁判で無罪または刑の軽減が行われてしまうからである。本書上巻で執拗に書かれていた二人の犯罪者の奇妙奇天烈な行動の数々。彼らは果たして罪を問われるのか。そもそも彼らの支離滅裂な行動の中に心神耗弱や精神病といった精神面の問題はないのか。精神面の問題があれば、責任能力無しとして起訴が出来なくなる。そのようなことはないか。彼らの行動の中の躁鬱や統合失調症といった精神面の問題。下巻で著者が追求するのはこの点に尽きる。しかし、彼らに責任能力なしと認定されてしまえば、誰が四人の被害者を死に至らしめたのか。誰が仏前の彼らに報告するのか。二人の男が精神病院行きとなれば本書はまた別の物語になってしまう。つまり警察や検察は、二人の犯罪者の責任能力を証明した上で、なおかつ彼らの行動を丹念に辿り、犯行の動機や行動の詳細を追っていかなくてはならない。

下巻では、まさにその攻防が書かれていく。攻防と云っても犯罪者二人がとぼけたり、責任転嫁する訳ではない。それでいて、犯罪者は自分の行動に理由を示すことができないのである。行き当たりばったりで、殺意の自覚すら怪しい者に、自分の行動を説明させる徒労。脳内のパチスロ音や根深い歯痛も、彼らにとっては理由ですらない。その骨折りを承知で、検察も合田係長も捜査を続けて行かねばならない。

やがて裁判は始まる。法廷の被告席でも支離滅裂な態度を取る井上。一方の戸田は虫歯が致命的に悪化し、もはや半死半生で入院する事態となる。合田係長は、捜査陣というよりも個人的な興味をもって、二人の犯罪者に面会や文通でのつながりを持とうとする。

犯行から3年のちの死刑執行までを描く本書では、論告文もきちんと全て書き込まれる。また、被害者の親族や友人たちの言動を丁寧に描くことで、三年の間に枯れてしまった感情の移ろいやすさなどを描き、硬質なルポルタージュのようにして本書は幕を閉じる。加害者という生者、被害者という死者の対比が炙り出されるのが下巻だ。

何故二人は犯罪を犯したのか。何が二人を駆りたてたのか。というテーマが繰り返し繰り返し、下巻では追及される。実際のところ、下巻は合田刑事が二人の犯罪者の心中へ分け入ろうとする苦闘の物語である。云うまでもなくその苦闘は著者によるなぜ人は罪を犯すのかという人間存在の探求へと繋がる。よくも下巻を全て書き尽くしたと思う。心理学、中でも犯罪心理学や行動心理学などについてよほど深い識見を持っていないと本書は書けない。そう思う。そこには、著者が持つ人間存在への興味と敬意あったに違いない。

本書で究められた犯罪心理への追及は、読んでいる読者自身にも関わってくる。それを忘れてはならない。読者という安全圏、つまり高みの見物を決め込んでいる読者の中の誰が、自分が犯罪者になり得る可能性を真摯に考えているのか、ということだ。人の心の動きの微妙さは、ほんの一瞬のすきをねらって、善良な読者を犯罪者に変えようとする。成育環境や歯痛といった要因以外にも、何が起こるかわからないのが人の生なのだから。

私自身、犯罪者について心中ではどうあれ、表立っては非難しないようにしている。それはなぜかというと、自分もまた犯罪者予備軍の一人であることを理解しているからだ。つまり、私にはその人を断罪し、裁く権利はないということだ。裁くに値するだけの堅牢な精神の持ち主ではないということだ。もちろん私も自分の家族が被害に遇ったら犯人を憎む。復讐も企てるかもしれない。でもそれはもはや裁くという行為とは違う。自分がいつ裁かれる側に回るのか、その可能性に思いを致せないものは、容易に犯罪者を断罪できないはずだ。仮に復讐に走ったとして、自分に返ってくるのは復讐という行為の結果が犯罪であるという事実。だが、警察はそれでも人を裁く場に犯罪者を送り込まねばならない。その矛盾に気づきながらもなお、人を裁くための証拠固めをしなければならないのが警察であり合田係長だ。

著者の考えは、おそらくその矛盾の解決の先を行っていることだろう。その表れが本書の末尾に出ている。彼らの末路は断頭台でも電気椅子でも薬剤注射でもない。彼らの手紙の絶叫から読み取れるのは、人間というものの滑稽さに他ならない。断罪も理解もなく、裁く裁かれるもなく、人間はただ一人一人が人間であるということ。そこに著者の物語はたどり着く。

‘2015/8/16-2015/8/25