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父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。


本書は、経済関係の本を読む中で手に取った一冊だ。新刊本で購入した。

タイトルの通り、本書は父から娘に向けて経済を解説すると体裁で記されている。確かに語り口こそ、父から娘へ説いて教えるようになっているが、内容はかなり充実している。まさに深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい。

実は私も、娘に向けてこの本を購入した。私の長女は、イラストレーターの個人事業主として中学生の頃から活動している。
私も経営者とはいえ、経済的にはまだゆとりはない。有能な経営者とは言えないだろう。だが、少なくとも四人の家族を養うだけの金銭はこれまでに稼いできた。
だが、娘はまだこれからだ。個人事業主とはそれほど簡単に稼げるものではない。実際、どこかに常駐しておらず、家で仕事している娘はまだ稼ぎが少ない。
だからこそ、本書のように経済の本を読んで勉強しておいた方が良い。私はそう思った。
今まで経済をろくすっぽ学ばずにやってきた私が、さんざん苦労してきたからだ。

本書の第一章では、なぜ格差が生じるのかについて説明する。
南北問題と言う言葉がある。同じ地球の北半球と南半球で富に格差が発生している現実だ。裕福な北米やヨーロッパ、中国と、貧しい南半球の国々。
なぜ違うのか。それは『銃・病原菌・鉄』でも示されていたが、地理的な問題だ。南北に長いアフリカは、緯度によって季節や気候ががらりと違ってしまう。そのため、作物も簡単に伝播させることが難しい。ところが、東西に伸びたユーラシア大陸では気候の違いがあまり発生しなかった。そのため、一つの文明・文化が勃興すると、さしたる障害もなしに東西に素早く広がった。北アメリカも同じように。
そして、オーストラリアなど、自然が豊かな国では人々はただ自然から食物をいただくだけで生きていけた。身の危険もないため、人々は植物を貯めておく必要も、余剰を意識する必要もなかった。

第二章は市場をテーマにしている。経験価値と交換価値。その二つの価値は長らく経済の両輪だった。
個人の体験は交換が利かない。だから自らの経験や知識を人のために役立てた。個人の経験それ自体に価値があり、対価が支払われる。経験価値だ。
ところが徐々に貨幣経済が発展するとともに、市場で貨幣と商品を交換する商慣習が成り立ってゆく。市場において貨幣を介してモノを交換する。交換価値だ。
何かを生産し、それを流通させるまでには資産が欠かせない。自然の原材料や加工道具、それに生産手段だ。さらにそうした資産を置く場所と空間。さらに、かつては奴隷として抱える労働力も資産に含まれた。そうした資産や不動産や労働力は、交換できる価値として取り扱うことができた。
過去のある時期を境に、人類の経済活動において交換価値は経験価値を凌駕した。

第三章では、交換価値で成り立っていた経済が次の段階に進む様子を取り上げている。利益や借金が経済活動の副産物ではなく、企業にとって目的や手段となる過程。それが次の段階だ。

賃金も地代も原料や道具の値段も、生産をはじめる前からわかっている。将来の収入をそれらにどう配分するかは、あらかじめ決まっているわけだ。事前にわからないのは、起業家自身の取り分だけだ。ここで、分配が生産に先立つようになった。(78ページ)

既存の封建社会のルールに乗らなくてもよい起業家は、借金をして資産を増やし、それをもとに競争するようになった。

第四章では、借金が新たな役割を身につけた理由を説明する。
借金とは、現在の価値と未来に利子がついている価値との交換だ。貸主は貸した金銭が、将来にわたって利子付きで戻ってくること期待する。つまり、将来の価値と今の価値の交換だ。その差額である利子が貸主の利益となる。

今、周りにある企業や国、銀行と取引するのではない。将来の企業、国、銀行と交換する。それが借金のカラクリだ。今、存在する価値の総量以上は借りられない。だが、将来の利子を加えると、今の価値の総量よりも高い金額が借りられる。これが金融の原点であり、ありもしない富がなぜ次々と生まれてくるカラクリだ。
貨幣をさして兌換貨幣と呼ぶ。かつては金を保有している国が、いつでも保有する金と貨幣を交換してもらえる約束と信頼の上で貨幣を発行していた。いわゆる金本位制だ。
その考えを推し進めると、将来も今の経済体制が維持される前提のもと、未来の利子がついた価値と今の価値を交換する金融の仕組みが成り立つ。

第五章では、労働と賃金関係について説明される。今までの説明で、経済の成り立ちが描かれてきた。だが、今やロボットや人工知能が人類の労働力にとって替わろうとしている。それらとどう共存するか。
本書はこの後第六章、第七章、第八章と人類が今直面している問題に経済の観点から切り込んでいく。仮想通貨や環境問題、人類の未来といった問題に。
実は本書は、この後半からがさらに面白い。

今の市場経済に未来はあるのか。経済活動に携わる人の誰もが考えたことがあるのではないだろうか。
一見すると、社会を回すためには今の方法しかないように思える。需要と供給。給与と消費。資本と市場。人の欲求と向上心をかなえ、勝者と敗者を生産しつつ、今の資本主義の世の中は動いている。

だが、その概念に揺らぎが生じたからこそ、SDG’sの概念が提唱されている。持続可能な開発目標。つまり今のやり方のままでは持続が不可能であることを、国連をはじめ誰もが感じている。
その中にうたわれている十七の目標は一見すると真理だ。資源は限られているとの前提のもと、化石燃料を燃やしてあらゆる社会活動が回っている。金融システムもコンピューターが幅を利かせるようになった以上、電力とは切っても切れない。今の経済活動は有限の資源を消費することを前提に動いている。その前提を変えなければ、経済活動や地球に未来はないと。それが著者の懸念だ。
交換価値とは、自然を破壊しても生じる価値であり、人の欲望には限度がない。著者はおそらく、SDG’sが唱える十七の項目ですら生ぬるいと感じているに違いない。

将来に対する信頼が今の金融システムを支えている。その将来が危うくなっている。
利子が戻ってくるはず将来が危ういとなると、借金がリスクとなる。つまり信頼が崩れてしまう。金融システムの前提である錬金術は、将来への信頼が全てだ。

将来の価値と今の価値を交換する。つまり将来を食いつぶしているのが今の経済の本質だ。果たして将来を食いつぶしてよいのだろうか。食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
人間が今まで動かしてきた制度や社会を変えるのはすぐには難しい。だが、この社会を維持していかなければならない。今のままのやり方ではどこかで限界が来る。

そのために著者は本書を用いて、さまざまな提言を行っている。

交換価値のかわりに経験価値が重んじられる社会に。
機械が幅をきかせる未来に、そもそも交換価値は存在しないこと。
機械が生み出した利益をベーシックインカムとして還元すること。
権力は全てを商品化しようとするが、地球を救うには全ての民主化しかないこと。

とても素晴らしい一冊だったと思う。

‘2020/04/01-2020/04/08


戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(https://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21