Articles tagged with: 信心

心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


人はなぜ宗教を必要とするのか


特定の組織に属することを好まぬ私。そんな私にとって、宗教団体への入信は、今のところ人生の選択肢には入っていない。

とはいえ、私は神社仏閣に詣でることはむしろ好きな方である。各地の名刹古刹や神社には旅行の際によく訪れている。そのくせ、結婚式はキリスト教会で挙げている(しかも日本とハワイの二か所で)。私の宗教に対する無節操さは、日本人の典型ともいえる無宗教者そのものの在り方に違いない。

本書は、私のような迷える無宗教者に対して宗教の意味を説く。宗教は決して避けるべきものではなく、付き合い方によって人生を豊かにすることを紹介するのが本書の主旨といえる。

ここでわたしにとっての宗教の意味を再度確認してみる。私にとって宗教とは、現世をいかに生きるかの道標の一つ。これに尽きる。宗教に来世の救いも期待しないし、現世の利益も望まない。その替わり、現世を生きるための深い知恵と思索の蓄積を求める。なぜ生かされているのか、何故人は罪深いのか。人として正しい生き方は果たしてあり得るのか。利己と利他の境目とは何か。所詮は人も生物の一つ、社会に流され、本能の赴くままに生きるしかないのか。

なかでも、物心ついてから持ち続けている疑問については、是非とも知りたい。それは、自分が死ねば世界は続いてゆくのか、というものだ。

全ての人間に自我や意志が備わっている。それは頭では分かっているつもりだ。しかし、頭では分かっていても、他人の思考を読み取ることはできない。そして、自我という縛りは頑なで、自我の外に出ることは不可能である。そのような事実を前にすると、他の人と共通の認識に基づいているはずの現実は、私が死ねば誰が認識するのかという疑問に通じる。私の思念が他の生物、例えばおけらやもぐらやアメンボに転生したあと、引き続き現実を認識させてもらえるのかも分からない。それとも、自我が消えれば未来永劫の無があるだけなのか。その恐れは止むことがない。

この疑問は私が小学校低学年の頃から抱きはじめたのだが、おそらく解決できぬまま死ぬまで持ち続けるに違いない。社会人、つまり大人が世に出てから仕事や子育てに奔走させられる仕組みとは、この疑問を抱かせぬための、人類が築き上げた知恵ではないか、とまで思う。

物心ついてからのこの疑問について、私が今まで読んだ中で一番解答に迫ろうとする意思を感じたのが、哲学者の永井均氏の著作「〈子ども〉のための哲学」である。永井氏も私と同様の疑問を抱き、その命題に沿って思索を重ねられている。それにも関わらず、かなりの精緻な思索の結果を読んでも尚、私の根本的な疑問は解消されないままだった。

永井氏の著書を例にあげたが、自我の問題は宗教よりもむしろ哲学でよく取り上げられている。つまり、私の求める、生きることへの根本的な設問は、宗教よりも哲学の範疇らしい。つまり、私が宗教に求めるものがあるとすれば、その答えは哲学の思索の中に潜んでいるのかもしれない。こう考えると、私が宗教への入信に興味が持てないのも理解できる。

絶対的な帰依や奇跡に対する盲目的な確信といった信心では、私の求める人生への答えが得られない。宗教よりも哲学へ。20歳前半で人生の壁にぶつかり、哲学書を読み始めた私が得た当座の答えは、宗教から我が身を遠ざけることだった。ましてや宗教団体という組織に身を置くことは論外。今から考えると、私がそう考えた理由が、宗教団体という特定の組織の傘下に入ることで自分流の生活が脅かされることを恐れたことにあったことも理解できる。所詮は利己的な動機でしかなかった。

前置きが長くなったが、私は自分を「なんとなくの無信心者」から一線を画して位置づけている。それは上記のような葛藤を経た後の自覚だ。それなりの宗教的な意識を抱きながらも、あえて無信心者としての人生を歩んでいるのが自分であると規定している。なぜこのようなことを書くかというと、本書が想定する読者は、「なんとなくの無信心者」を対象としていないと思うからである。そうでなはなく、理由あっての無信心者を対象としているように思える。つまり、私のような理屈っぽい無信心者にとってこそ、本書の内容は活かされる。そう思い、真摯に読ませて頂いた。

本書は以下の章立てで構成されている。
はじめに
第1章 死ねば「無」になる
第2章 「無宗教」を支える心
第3章 「無宗教」者の宗教批判
第4章 宗教への踏切板
第5章 「凡夫」という人間観
第6章 兼好法師からのメッセージ
おわりに

はじめに、で著者は宗教を大まかに創唱宗教と自然宗教にわける。創唱宗教は教祖がいて、その教えを示す聖典の類があり、その教えを信じる信者団体が存在する宗教。自然宗教は「自然発生的」な宗教と定義する。その上で我が国の場合、無宗教とは創唱宗教に対して距離を置くことではないか、と指摘する。日本人の多くが墓地に対する宗派は問わない、という文句に惹かれることから、日本人の宗教心は創唱宗教にはなくても自然宗教に対しては今なお生き続けているのではないかと著者はいう。

私自身は、八百万の神、または、森羅万象全てに神が宿ると考えている。それが私の宗教に対する折り合いの付け方である。今の人類の叡知では及びもつかない無限から微小までのあらゆる仕組み。これらをグランドデザインした知性がいたとすれば、それは神だろうし、いなかったとしてもこれほどの仕組みがただ存在すること自体が神の御業といえる。私に信心があるとすれば、それは仕組みについての畏敬である。これらは30歳前後の頃に私の中で自然発生的に芽生えた考えであり、すなわち自然宗教だと思っている。

科学万能の世になりつつある今、自然宗教が衰退するのも必然なのかもしれない。宗教などに頼らなくても、心を満たしてくれるアイテムはそこらに溢れている。それは仕事だったりスマホだったりゲームだったりSNSだったり飲む打つ買うだったりする。先祖の概念ももはや不要だ。墓はどんどんコンパクトになり、様々な年中行事も形骸化している。あえて宗教に頼らずとも、人生の不安や虚しさを埋める事物に事欠かないのが現代社会であり、人の心の拠り所も宗教から離れる一方といえる。

衰えた自然宗教の代替として、著者はいくつかの道を挙げる。
① 創唱宗教への入信
② 自覚的な無神論者になる
③ 創唱宗教には関心を持ちつつ教団から距離を置く
④ 俳句短歌茶道華道といった道を究める
著者が挙げた道以外には、先に挙げた仕事~飲む打つ買うの類いもあるだろう。

「はじめに」で取り上げられた内容は、著者の前書「日本人はなぜ無宗教なのか」で追求した内容を追っている内容だそうだ。私も2009年の5月に読んでいる本である。当時は本を読んでも読みっ放しであり、本ブログのようにあとから自分なりにレビューという形で振り返っていなかった。なので、内容も忘れてしまっている。改めて読んでみようと思う。

第1章は、北杜夫の死生観や夏目漱石の臨死体験を例に挙げる。死ねば無となる、その「無」の根拠が否定や肯定に基づくものであれ、科学的に証明できないことを述べる。科学的な常識とやらに毒された現代の認識に対して一石を投じる内容となっている。まずは科学万能の頭を論破しておかねば、宗教心の生じる余地がないのはもちろんだ。

第2章では、前章で素材に上げられた「無」について詳しく分け入って行く。「無」とは、人間のはかなさであり、無常の感覚。時間的な永遠の尺度でも、宇宙の宏大な中でも、一人一人の人間の小ささについて、考えればはかないとの結論に行きつくのは分かる。著者は、このはかなさを単に人生を乗りきるための方便でなく、もう一段階上に展開することで救済に至れるのではないかと説く。そして、志賀直哉の暗夜行路の主人公、時任謙作の経験を引用する。また、夏目漱石の大病経験も引用する。謙作も漱石も、自己と自然との一体感によって救われたことが文章に残っている。本章は、それらの記述を引用し、論拠としている。また、佐藤春夫の風流論からは、自然に対抗する努力を放棄するという文章を引用し、自然の流れに委ねることが、日本人の宗教的営みであることを述べる。そして短歌や俳句も含めたそれらの営みが、日本人の無宗教の源流であると指摘する。

第3章では、第2章の結果を受けて、なぜ日本人が創唱宗教に否定的かという設問について筆を進める。著者はその問いに二つの理由を提示する。一に非科学的で時代遅れであること。二に人生の問題は人間の智恵によって解決できること。その二つが正しいと思い込まれているため、日本人は創唱宗教に否定的だと著者は主張する。

さらなる理由として、既存宗教への信頼が喪われたことは忘れずに指摘しなければならない。私腹を肥やし、俗に堕ちた聖職者たちの例。彼らが創唱宗教への信頼に傷をつけたことは否めない。識見を蓄え、苦行を乗り越えた存在、つまりは凡人とは及びもつかぬ霊力の持ち主。このような聖職者に出会うことが稀になったことを著者は大いに批判する。中江兆民の病床に押しかけ、帰依を迫ったという雲照律師のエピソードを紹介し、葬式仏教と堕した既存仏教への失望感をあげる。

本書は題名からすると宗教への入信を進める類の本と思われがちだが、実は違う。本書は、既存の宗教への思い切った糾弾と問題提起が含まれている、本章ではその点が顕著に出ている。その筆先は古くからの4大宗教だけでなく、この100年ほどで発生した新興宗教にも及んでいる。本章ではインチキ宗教かどうかを見分ける方法として一つの手立てが紹介されている。「その宗教に近づいてみて精神が明るくなれば真正の宗教であり、逆に精神が暗くなれば、それはまちがいなく「インチキ」宗教だ」と84頁で言い切っている。さらに呪術と宗教の違いも漏れなく指摘している。それによると呪術の因果は人を説得しきれないのだという。それは逆にいうと、人を惑わすのではなく説得できるだけの強さを持った宗教こそが、人の宗教心を受け止められることを意味している。ここで俎上に上げられるのは、法然や親鸞が基礎を作った浄土真宗だ。聖職者が全て清廉たるべきという法然の教えを例に挙げながらも、俗な考え方を抱いた仏教、中でも現代の浄土真宗の在り方には憤りを覚えるとまで著者は云う。そこには説得できるだけの強さもない、と著者は云いたいのであろう。

第4章はそれでもなお、宗教に救いを求める人のこころについて考察を深め、入信に対して踏み出すための切っ掛けをつくる章になっている。ここで著者は井上靖著「化石」を例に挙げる。経済の世界で成功を収めてきた主人公が、がんに犯された自分の死期を前に、本当の生き方を模索する話だ。また、この章では作家の丹羽文雄の生き方を例に挙げ、さらに葉っぱのフレディまでも俎上に上げ、命の消えゆく自覚を前にして、本当の生き方を見つけ出そうとする人々や自然の営みが紹介されている。ただし、本章では本当の生き方を見つける努力が直ちに宗教への道に通じている訳ではないことに言及している。そのことには注意が必要だ。124頁から125頁にかけて、詳しく説明されている。例えば「我が死を一つの現象、変化として客観視する態度からは、宗教への道はひらかれない」や「長年、死や人生の問題を突き詰めて考えることもなく人生を過ごしてきた人が、ついに自己の死に直面せざるをえなくなったからといって、その人が突如宗教的人間になるということは、むつかしいことなのです。自己の有限性に苦しみ、悲しむ心が堆積していてはじめて、目前に迫る氏が宗教への踏切板になるのです」という文は、常日頃の心の置き方を考える上で肝に銘じておかねばならないと思う。

第5章は凡夫についての考察に視点を移す。浄土真宗の法然や親鸞が突き詰めて考えた結果が、ただひたすらに念仏を唱えることで成仏できるという他力本願の考えであることはよく知られている。つまりは修行によって、悟りを啓き、仏になるとの考えとは真反対の立場であり、もともと努力したところで人は凡夫にすぎないという考え方を推し進めたのが浄土真宗の凄味と解釈している。本章でもその解釈に依って、個人を個人主義の枠の中に押し込めるのではなく、集団や社会の業縁に縛られた存在として見直し、その社会倫理の中でとらえ直すことを提唱している。それは冒頭に私が書いた宗教団体といった組織へ入ることにつながるはずであるが、本章ではそこには触れていない。しかし私を含めた宗教から距離を置く人々の多くが、宗教組織への参加忌避であることを考えるとすると、この点は宗教への道を考える上で避けられない問題と著者は考えたのではないだろうか。ただ、私は著者の提唱にも関わらず、なおも個人で個人の内面の宗教的意思を純化できないものだろうかと考えるのだが。

また、法然や親鸞の考えを現代に薦めるには、第3章で糾弾された浄土真宗の宗教としての強さが問われることはいうまでもない。個人の努力ではなく社会倫理に身を委ねることを推し進めるのであれば、社会倫理の規範の在り方が問われるのは当然である。浄土真宗がそのような強さを取り戻し得るのか否か。あえてその点は本章では触れられていない。が、著者の厳しい視線が注がれていることは、浄土真宗や日本の仏教界の方々は忘れてはならないだろう。今のままでは著者の求める宗教への道の受け皿として、日本の仏教、特に浄土真宗は取り除かれてしまうからだ。

第六章は、兼好法師からのメッセージということで、徒然草の中にある法然仏教への共感を紹介する。上にも書いたが、著者は創唱時の浄土真宗の考え方に強く共感し、そこに宗教的な道を拓くことが出来ないか、ということを考えている。189頁にはそれを論ずるための二つの文章がある。二つの文章を一言で云うと「信心が神仏の存在を決定する」または「宗教は主観的事実だ」に集約されている。全ては読者の心次第だ、というわけである。結論としては読者の信心に委ねたわけである。本書が入信を薦めることを主題としていない以上、このような結論を肩透かしと批判することは相応しくない。

本書を通じ、私自身の宗教心の由来や求めるところが少しは整理できたように思う。そして本書を読んで、私の中で法然や親鸞の教えについての関心が高まったのも収穫といえる。この後、親鸞に挑戦してみるのだが、それはまた後日のレビューにて紹介したいと思う。

‘2014/12/12-2014/12/19