Articles tagged with: 保科正之

保科正之 民を救った天下の副将軍


本書を読んだのは二泊三日で参加した福島県お試しテレワーク体験ツアーの帰り、東北新幹線の車内だ。

その際、私たちが宿泊していたのは猪苗代町。ゲストハウス道の旅籠「椿」さんで二泊お世話になった。
https://hatago-tsubaki.net

この旅については別のブログにもアップしたので、そちらを見ていただければと思う。
福島県お試しテレワーク 1日目 2020/1/16
福島県お試しテレワーク 2日目 2020/1/17
福島県お試しテレワーク 3日目 2020/1/18

この椿さんのすぐ近くにあるのが土津神社だ。

宿のすぐ近くにあるにもかかわらず、今回の旅では土津神社を訪れる時間が捻出できなかった。猪苗代城や稲川酒造、近隣の夜の街を訪れられたのだが。
ツアーである以上、団体行動は優先である。仕方のないことだ。まあ、夜に日本酒を飲みまくっていて、早朝に起きられなかった私が悪いのだが。

保科正之公は会津松平藩の藩祖として名高い。当然、墓所も会津若松城にほど近い場所、つまり会津若松市内にあるものとばかり思っていた。
ところが、今回の旅にあたって事前に調べたところ、保科正之公の墓所は土津神社にあり、御祭神でもあることがわかった。
つまり、保科正之公を語るには猪苗代町は不可欠な場所なのだ。

以前、著者が保科正之公をとり上げた本「慈悲の名君 保科正之」を読んだ。
その中には当然、土津神社のことも紹介されていたはず。だが、調べるまでそのことが記憶から抜け落ちていた。反省している。

もうひとつ、今回の旅で保科正行公について考える契機となったことがある。それは最終日にツアー参加者の皆さんと別れ、会津若松の飯盛山に登ったことだ。
飯盛山。そこは幕末の会津戦争で白虎隊の悲劇が起こった場所だ。
今まで行ったことがなかった飯盛山に今回初めて訪れてみた。

会津藩への忠義を貫いた若者たちの立派だが悲しい行動。その元をたどれば、藩祖である保科正之公が残した遺訓「会津家訓十五箇条」にある。その中では徳川家への忠誠を強く命じていた。そのため、会津藩は最後まで徳川家に殉じた。会津の街を蹂躙され、遺骸すら埋葬を許されないほどの抵抗を続けてまで、徳川家への忠誠を愚直に貫いた。
その抵抗の象徴こそ、白虎隊の悲劇といえよう。
私は飯盛山にたたずみ、白虎隊の悲劇と、封建制がもたらした哲学について考えを巡らせていた。

本書は地元の福島民友新聞の連載を書籍にまとめたものだという。だから、福島県民へのリップサービスもあっただろう。全編が保科正行公への賛辞に満ちあふれている。少し客観性が欠けているのでは、と思えるほどだ。
著者は今までに七冊の保科正之公に関連した書籍を世に問うてきたという。だから、その愛着や傾倒は半端ではないはずだ。だがらこそ、本書はもう少し客観的な筆致で書くべきではなかったか。

私は保科正之公については「慈悲の名君 保科正之」で大体のことを理解していた。その治世は見事。学ぶべきことも多い。
ただ、私は「慈悲の名君 保科正之」のレビューにも書いた通り、保科正之公の業績を評価する上で、封建時代の影響を割り引いて考えなければと思っている。
本書にも紹介されている通り、保科正之公が晩年に残した「会津家訓十五箇条」の中には、「婦人女子の言、一切聞くべからず。」という条がある。その背景には、側室から継室になったお万の方が、跡継ぎを滅ぼそうとして誤って実の娘を毒殺してしまった事件があったという。そのため、そうした条文が追加されたと著者は説く。
そうした事情を差し引いても、結果として残された条文を現代の私たちが鵜呑みにするわけにはいくまい。

だが、封建時代の限界にとらわれていたとはいえ、老人への福祉を提案するなど、江戸時代屈指/の随一の名君と手放しに称賛する著者の意見にはうなづける点も多い。
ただ、いくら保科正之公が名君であっても、ことごとく現代の政治家が保科正之公と比較され、けなされては立つ瀬がないように思う。
著者は民主党政権の政治家をけなし、低い評価を与えている。この本が上梓された当時、東日本大震災が起こった。周知のとおり、当時の与党は民主党だった。だから民主党の政治家が俎上に挙げられているのだろう。
ただ、私の意見では当時の与党が自民党でもさほど変わらなかったと思っている。あの災害は政治家のレベルでどうこうできるものではなかったと思う。事前に津波を想定した防波壁を作らなかった東京電力のミスだと思っている。

確かに今の政治家の中に保科正之公と比較できる資質の持ち主は見当たらないと断言する著者の意見は否定しない。だが、江戸時代と現代では、政治家が扱う情報量があまりにも違う。その事情は勘案してもよいのではないか。
もちろん、情報量に関係なく無私の心で政治にあたれているかどうかは別の問題である。実行力や発信力も含め、今の政治家にも反省すべき点は多いと思う。

となると、私たちは本書から保科正之公の何を学べばよいのだろうか。
それは、謙虚であること、そして孝を根本に置いたその心のありようだと思う。
もう一つは、いざという時に迅速かつ簡潔に決断をし、事態を処理することにあるのではないだろうか。

保科正之公が謙虚であったこと。それは、常に養父の保科正光公に感謝し続けたことに表れていると思う。実質、天下の副将軍の立場にあっても保科の名字を名乗り続けたことや、将軍の座を決して望まず、補佐に徹し続けたことでもその謙虚さは明らかだ。
ただ謙虚なだけでなく、明暦の大火で示した果断な決断と迅速な対応は、まさに名君と呼ぶにふさわしい。

もう一つ、徹底的に任せられる度量の深さも保科正之公の美点だと思う。
なんと二十三年の長きにわたり、一度も会津に帰らなかったという。その間、江戸で幕政に携わり、将軍を補佐し続けていたのだから。
その間、会津では名宰相である田中正玄に藩政を委ねていた。もちろん適宜報告を受け、指示は出していただろう。でもそれだけで会津藩に善政を敷き続けたのだから、リモートワークの元祖と呼べるかもしれない。
そこまでの長期間、藩政を家臣に任せ続けたことは保科正之公の器の大きさだと思う。管理に血眼になる世の管理者には見習ってほしいものだ。

本書の末尾には「特別対談」と称し、東大名誉教授の山内昌之氏と著者の対談が載っている。
内容は本書のまとめのようなものだが、江戸時代の名君として名高い上杉鷹山や徳川光圀の両者をあまり評価せず、保科正之公をやけに持ち上げていたのが印象的だった。逆効果だと思うのだが。

‘2020/01/18-2020/01/18


慈悲の名君 保科正之


上杉鷹山、細井平州、二宮尊徳、徳川光圀。

2016年の私が本を読み、レビューを書いてその事績に触れた人物だ。共通するのは皆、江戸時代に学問や藩経営で名を成した方だ。

だが、彼らよりさらにさかのぼる時代に彼らに劣らぬほどの実績をあげた人物がいる。その人物こそ保科正之だ。だが、保科正之の事績についてはあまり現代に伝わっていない。保科正之とはいったい何を成した人物なのだろうか。それを紹介するのが本書だ。本書によると、保科正之とは徳川幕府の草創期に事実上の副将軍として幕政を切り回した人物だ。そして会津藩の実質の藩祖として腕を振るった人物でもある。今の史家からは江戸初期を代表する名君としての評価が定まっている。

ではなぜ、それほどまでに優れた人物である保科正之の業績があまり知られていないのだろうか。

その原因は戊辰戦争にあると著者は説く。

2013年の大河ドラマ「八重の桜」は幕末の会津藩が舞台となった。幕末の会津藩といえば白虎隊の悲劇がよく知られている。なぜ会津藩はあれほど愚直なまでに幕府に殉じたのか。その疑問を解くには、保科正之が会津藩に遺した遺訓”会津家訓十五箇条”を理解することが欠かせない。”会津家訓十五箇条”の中で、主君に仕えた以上は決して裏切ることなかれという一文がある。その一文が幕末の会津藩の行動を縛ったといえる。以下にその一文を紹介する。
 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

明治新政府からすれば、最後まで抵抗した会津藩の背後に保科正之が遺した”会津家訓十五箇条”の影響を感じたのだろう。つまり、保科正之とは明治新政府にとって封建制の旧弊を象徴する人物なのだ。それは会津藩に煮え湯を飲まされた明治新政府の意向として定着し、新政府の顔色をうかがう御用学者によって業績が無視される原因となった。それが保科正之の業績が今に至るまで過小評価されている理由だと思われる。

2016年、本書を読む三カ月前に私は会津の近く、郡山を二度仕事で訪問した。そこで知ったのは、会津が情報技術で先駆的な研究を行っていることだ。私が知る会津藩とは、時代に逆らい忠義に殉じた藩である。そこには忠君の美学もあるが、時代の風向きを読まぬかたくなさも目につく。だが、情報産業で先端をゆく今の会津からは、むしろ時代に先んずる小気味良さすら感じる。今や会津とかたくなさを結びつける私の認識が古いのだ。

私がなぜ会津について相反するイメージを抱くのか。その理由も本書であきらかだ。会津藩の草創期を作ったのが保科正之。公の業績は、それだけにとどまらない。本書の記載によれば保科正之こそ江戸時代を戦国の武断気風から文治の時代へと導いた名君であることがわかる。つまり、保科正之とは徳川260年の世を大平に導いた人物。そして、時代の風を読むに長けた指導者としてとらえ直すべきなのだ。そんな保科正之が基礎を作った会津だからこそ、進取の風土に富む素地が培われているのだろう。

冒頭に挙げた上杉鷹山のように藩籍返上寸前の藩財政を持ち直させた実績。水戸光圀のように後の世の学問に役立つ書を編纂した業績。保科正之にはそういったわかりやすく人々の記録に刻まれる業績が乏しい。ただでさえ記憶に残りにくい保科正之は、明治政府から軽んじられたことで一層実績が見えにくくなった。そう著者は訴える。

さらに、保科正之は徳川四代将軍の補佐役として23年間江戸城に詰めきりだった。その一方で藩政にも江戸から指示を出しながら携わり続けた。幕政と藩政の両方で徳川幕府の確立に身骨を注いだ生涯。また、保科正之が将軍の補佐にあたった時期は、その前の知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の治世とその後の水戸黄門こと徳川光圀の治世に挟まれている。その間に活躍した保科正之の業績が過小評価されるのも無理もない。

それゆえに著者は保科正之の再評価が必要だと本書で訴える。そして本書で紹介される保科正之の業績を学べば学ぶほど、保科正之とは語り継がれるべき人物であったことが理解できる。冒頭に挙げた人々に負けぬほどに。

保科正之が幕政に携わったのは、島原の乱が終わってからのことだ。秀忠、家光両将軍による諸家への改易の嵐も一段落した頃だ。戦国時代の武断政治の名残を引きずっていた徳川幕府が文治政治へと方針を変える時期。改易が生んだ大量の浪人は、文治に移りゆく世の中で武士階級が不要になった象徴だ。それは武士階級の不満を集め、由井正雪による慶安事件を産み出す原因となった。そんな社会が変動する時代にあって三代家光は世を去る。そして後を継ぐ家綱はまだ十一歳。補佐役が何よりも求められていた時だ。保科正之の政策に誤りがあれば、江戸幕府は転覆の憂き目を見ていたこともありうる。

また、正之の治世下には明暦の大火が江戸を燃やし尽くした。その際にも、保科正之が示した手腕は目覚ましいものがあったようだ。特に、燃え落ちた江戸城天守閣の処遇について正之が果たした役割は大きい。なぜならば正之の意見が通り、天主はとうとう復元されなかったからだ。今も皇居に残る天守台の遺構。それは、武断政治から文治政治への切り替えを主導した正之の政策の象徴ともいえる。また、玉川上水も正之の治世中に完成している。本書を読んで2か月後、私は羽村からの20キロ弱を玉川上水に沿って歩いた。そのことで、私にとって保科正之はより近い人物となった。

では、幕政に比べて藩政はどうだろう。本書で紹介される藩政をみると、23年も江戸に詰めていたにしては善政を敷いた名君といえるのではないだろうか。高齢者への生涯年金にあたる制度など、時代に先んじた視点を備えていたことに驚く。おそらく正之が副将軍ではなく、上杉鷹山のように窮乏藩を預かっていたとしてもそれなりの名を残したに違いない。

結局、保科正之の偉大さとはなんだろうか。確かに若い将軍を助け、徳川幕府を戦国から次の時代につなげたことは評価できる事績だ。だが、それよりも偉大だったのは時代の潮目を見抜く大局的な視点で政治にあたったことではないか。

本書は、保科正之の生い立ちから書き起こすことで、その大局的な視点がいつ養われたのかについても触れている。保科正之は秀忠が大奥の側室に手をつけ産まれた。そのため秀忠の正室である於江与の方をはばかり、私的には認知、公的には非認知、という複雑な幼年期を過ごす。そして於江与の方から隠されるように武田信玄の娘見性院に養育され、一度は甲斐武田家の再興を託される立場となる。その結果、保科正之は武田家の有力家臣だった保科家を継いだ。正之に思慮深さと洞察力を与えたのも、このような複雑で幼い頃の経験があったからだろう。また、武田家が長篠の戦で新戦術である鉄砲に負け没落したこと。それも大局的な目を養うべきとの保科家の教訓として正之にこんこんと説かれたのだと思う。

それゆえに、正之にしてみれば自分の遺した”会津家訓十五箇条”が子孫から大局的な視点を奪ったことは不本意だったと思う。正之が”会津家訓十五箇条”を残した時期は、まだ戦国時代の残り香が世に漂っており、徳川体制を盤石とすることが優先された。そのため、公の残した”会津家訓十五箇条”は200年後の時代にはそぐわないはずだ。だが、それは遺訓の話。保科正之その人は時代の変化に対応できる人物だったのではないか。だから今、会津が情報化の波に乗っていることを泉下で知り、喜んでいることと願いたい。

保科正之の生涯から私たちが学べること。それは大局的な視点を持つことだ。そして彼の残した遺訓からの教訓とは、文章を残すのなら、時代をこえて普遍的な内容であらねばならないことだ。それは、私も肝に銘じなければならない。あまた書き散らす膨大なツイートやブログやウォールの文章。これらを書くにあたり、今の時代を大局的に眺める努力はしているだろうか。また、書き残した内容が先の時代でも通じるか自信を持っているか。それはとても困難なことだ。だが、保科正之の業績が優れていたのに、会津藩が幕末に苦労したこと。その矛盾は、私に努力の必要を思い知らせる。努力せねば。

‘2017/01/15-2017/01/15


あなたの知らない福島県の歴史


郡山に出張で訪れたのは、本書を読む10日前のこと。セミナー講師として呼んで頂いた。そのセミナーについてはこちらのブログブログで記している。

この出張で訪れるまで、私にとって福島はほぼ未知の地だったと言っていい。思い出せるのは東日本大震災の二年半後に、スパリゾートハワイアンズに家族と一泊したこと。さらに10年以上遡って、友人と会津若松の市街を1時間ほど歩いたこと。それぐらいだ。在住の知人もおらず、福島については何も知らないも同然だった。

何も知らない郡山だったが、訪れてみてとてもいい印象を受けた。初めて訪れたにもかかわらず、街中で私を歓待してくれていると錯覚するほどに。その時に受けた好印象はとても印象に残り、後日ブログにまとめた。

わたしは旅が好きだ。旅先では貪欲にその土地のいろいろな風物を吸収しようとする。歴史も含めて。郡山でもそれは変わらず。セミナー講師とkintone ユーザー会が主な目的だったが、郡山を知ることにも取り組んだ。合間を見て開成館にも訪れ、郡山周辺の歴史に触れることもその一つ。開成館では明治以降の郡山の発展がつぶさに述べられていて、明治政府が国を挙げて郡山を中心とした安積地域の発展に取り組んだことがわかる。郡山の歴史を知ったことと、街中で得た好印象。それがわたしに一層、福島への興味を抱かせた。そして、郡山がどんな街なのか、福島の県民性とは何か、に深く興味を持った。本書に目を留めたのもその興味のおもむくままに。福島を知るにはまずは歴史から。福島の今は、福島の歩んできた歴史の上にある。本書は福島の歩んできた歴史を概観するのによい材料となるはずだ。

東北の南の端。そして関東の北隣。その距離は大宮から東北新幹線で一時間足らず。案外に近い。しかし、その距離感は関東人からも遠く感じる。関西人のわたしにはなおさらだ。そのあたりの地理感覚がどこから来るのか。本書からは得られた成果の一つだ。

本書は大きく五章に分かれている。福島県の古代。福島県の鎌倉・室町時代。福島県の戦国時代。福島県の江戸時代。福島県の近代。それぞれがQA形式の短項目で埋められている。

たとえば、古代の福島県。白河の関、勿来の関と二つの関が設けられていたことが紹介される。関とは関門。みちのくへの関門が二つも福島に設けられていたわけだ。福島を越えると別の国。蝦夷やアイヌ民族が住む「みちのおく」の手前。それが福島であり、関西から見るとはるか遠くに思える。ただ、それ以外で古代の文書に福島が登場することはそれほどない。会津の地名の由来や、会津の郷土玩具赤べこの由来が興味を引く。だが、古代製鉄所が浜通り(海岸沿い)にあったり、日本三古泉としていわき湯本温泉があったり、古来から対蝦夷の最前線としての存在感はは福島にあったようだ。

そんな福島も、源頼朝による奥州合戦では戦場となり、南北朝の戦いでも奥州勢が鎌倉や京に攻め上る際の拠点となっている。また、戦国の東北に覇を唱える伊達氏がすでに鎌倉から伊達郡で盛んになっているなどは、福島が中央の政情に無縁でなかったことを示している。

そして戦国時代だ。福島は伊達氏、特に独眼流正宗の雄飛する地ともなる。伊達氏が奥州を席巻する過程で激突した蘆名氏との擂上原の合戦は名高い。秀吉による奥州仕置が会津若松を舞台として行われたことも見逃せない。会津に転封された蒲生氏郷や上杉景勝など、中央政府からみても会津は一つの雄藩に扱われる国力を持っていたこともわかる。また、この頃に「福島」の名が文献にあらわれるようになったとか。「福島」の名の由来についても通説が提示されている。今の福島一帯が当時は湖沼地帯で、付近の信夫山から吾妻おろしが吹き、それで吹く島と見立てたのを縁起の良い「福島」としたのだという。別の説もあるようだが・・・

そして江戸時代。多分、このあたりから今の福島の県民性が定まったのではないかと思う。たとえば寛政の改革の主役である松平定信公は幕政に参画するまでは白河藩主として君臨しており、その改革の志は白河藩で実施済みだとか。また、会津藩にも田中玄宰という名家老がいて藩政改革を主導したとか。会津藩校である日新館ができたのも、江戸時代初期に藩祖となった保科政之公の遺訓があったからだろう。また、その保科政之公は実際に家訓15カ条を残しており、それが幕末の松平容保公の京都守護職就任にも繋がっているという。朝敵の汚名を蒙ってしまった幕末の会津藩だが、そこには幕藩体制のさまざまなしがらみがあったことが本書から知れる。また、隣国米沢藩の上杉鷹山公の改革でも知られるとおり、改革がやりやすい土地柄であることも紹介されている。改革を良しとする土地柄なのに幕府への忠誠によってがんじがらめになってしまったことが、幕末の会津藩の悲劇を生んだといえるのかもしれない。

ところが、その改革の最もたるもので、私が郡山に訪れた際に開成館で学んだ安積疎水の件が、本書には出てこない。猪苗代湖から水を引き、それによって郡山や安積地域を潤したという明治政府による一大事業が本書にはまったく紹介されていないのだ。そこにいたるまでに、白虎隊や二本松少年隊の悲劇など、本書で取り上げるべきことが多すぎたからだろうか。少し腑に落ちないが、本書では近代の福島県からは幾人もの偉人が登場したことは忘れていない。野口英世、山川捨松、新島八重、山川健次郎、星一など。本書はそれを一徹な気風のゆえ、としているが、実際は改革を良しとする気風も貢献しているのではないか。円谷英二や佐藤安太といった昭和の日本を支えた人物はまさにそのような気性を受け継いだ人のような気がする。

本書はあくまで福島県の歴史を概観する書だ。なので県民性の産まれた源には踏み込んでいない。それが本書の目的ではないはずだから。本書にそこまで求めるのは酷だろう。

でも、もう少し、その辺りのことが知りたかった。改革が好きな県民性の由来はどこにあるのか。今も福島には改革の気質が濃厚なようだ。私をセミナーに招聘してくださるなど、福島ではたくさんのIT系のイベントが催されているようだ。会津大学はITの世界でも一目おかれている。

私が郡山を訪れた時、福島第一原発の事故による風評被害は郡山の皆さんの心に影を落としているように思えた。でも、ブログにも書いた通り、改革の志がある限り、郡山も福島もきっともとの姿以上になってくれると信じている。セミナーで訪れた後も再度郡山には及び頂いた。それ以来、福島には伺えていないが、また機会があれば行きたいと思う。その時はもう少し奥の本書で得た福島の知識を携えて。

‘2016/10/9-2016/10/10