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長崎原爆記 被爆医師の証言


夏真っ盛りの時期に戦争や昭和について書かれた本を読む。それが私の恒例行事だ。今まで、さまざまな戦争や歴史に関する本を読んできた。被爆体験も含めて。戦争の悲惨さを反省するのに、被爆体験は欠かせない。何人もの体験が編まれ、そして出版されてきた。それらには被爆のさまざまな実相が告発されている。私は、まだそのうちのほとんどを読んでいない。

被爆体験とは、その瞬間の生々しい記憶を言葉に乗せる作業だ。酸鼻をきわめる街の地獄をどうやって言葉として絞り出すか。被爆者にとってつらい作業だと思う。だが、実際の映像が残っていない以上、後世の私たちは被爆体験から悲惨さを感じ取り、肝に刻むしかない。特に、戦争とは何たるかを知らない私たち戦後の世代にとっては、被爆された方々が身を削るようにして文章で残してくださった被爆の悲惨さを真摯に受け止める必要がある。ビジュアルの資料に慣れてしまった私たちは、文章から被爆の悲惨さを読み解かなければならない。熱風や放射線が人間の尊厳をどのように奪ったか。人が一瞬で変わり果てるにはどこまでの力が必要なのか。

著者は長崎で被爆し、医師として救護活動を行った。著者と同じように長崎の原爆で被爆し、救護活動に奔走した人物としては永井隆博士が有名だ。永井隆博士は有名であり、さらにクリスチャンであるが故に、発言も一般的な被爆者の感情からは超越し、それが逆に誤解を招いているきらいがある。さらに、クリスチャンとして正しくあらねばならないとのくびきが、永井博士の言葉から生々しい人間の感情を締め出したことも考慮せねばなるまい。

それに比べ、著者は被爆者であり医師でもあるが、クリスチャンではない。仏教徒であり、殉じる使命はない。本書での著者の書きっぷりからは、人間的で生々しい思いが見え隠れする。それが本書に被爆のリアルな現場の様子が感じられる理由だろう。そもそも、人類が体験しうる経験を超越した被爆の現実を前にして、聖人であり続けられる人など、そうそういない。おおかたの人々は、著者のように人間の限界に苦しみながら対応するに違いない。不条理な運命の中、精一杯のことをし、全てが日常から外れた現実に苛立ち、悪態もつく。それが実際のところだ。

本書を読んでいると、何も情報がない中で、限られた人員と乏しい物資を総動員し、医療活動に当たった著者の苦労が読み取れる。著者は、被爆者でありながら、一瞬で筆舌に尽くしがたい苦しみに置かれた人々を救う役目を背負わされた。その苦労は並大抵ではなく、むしろ愚痴の一つも言わない方がおかしい。著者が本書の中で本音を吐露すればするほど、本書の信ぴょう性は増す。いくら救いを求める患者が列をなしていようとも、三日三晩、不眠不休で診療し続けるには無理があるのだ。

長崎に玉音放送が流れようとも、著者の浦上第一病院に患者の列は絶えない。それどころか医療の経験からも不思議な症状が著者を悩ませる。放射能が原因の原爆症だ。著者は秋月式治療法と称し、食塩ミネラルの摂取を励行する。玄米とみそ汁。これは著者の独自の考えらしく、著者はその正しさに信念を持っていたようだ。永井博士も他の博士も、他の療法を考え、広めた。だが、著者は食塩ミネラル療法を愚直に信じ、実践する。特筆すべきは、糖が大敵という考えだ。ナガサキの地獄から70数年たった今、糖質オフという言葉が脚光をあびている。その考えに立つと、著者の考えにも一理あるどころか、むしろ先進的であったのかもしれない。

また、本書にはもう一点、興味深い描写がある。それは九月二日から三日にかけての雨と、その後の枕崎台風が放射能を洗い流したという下りだ。雨上がりの翌日の気分の爽やかさを、著者は万感の思いで書いている。著者が被爆し、それ以降医療活動を続けた浦上といえば爆心地。原爆がまき散らした放射能が最も立ち込めていたことだろう。著者の筆致でも放射能にさらされる疲労が限界に来ていた、という。私たちがヒロシマ・ナガサキの歴史を学ぶとき、直後に街を襲った枕崎台風が、被爆地をさらに痛めつけたという印象を受けやすい。だが、著者はこの台風を神風、とまでいう。それもまた、惨事を体験した方だからこそ書ける事実なのかもしれない。

本書には永井博士が登場する。そこで著者は、永井博士の直弟子であったこと、永井博士とは人生観に埋められない部分があることを告白する。
「私の仏教的人生観、浄土真宗の人生観、親鸞の人生観は、どこか私を虚無的・否定的な人格に形づくっているようだった。
永井先生の外向的なカトリック的人類愛と、私の内向的な仏教的人生観は、あまり合わなかったのである。
私は、ただ結核医として、放射線医学を勉強した。むしろ、永井先生の詩情と人類愛、隣人愛を白眼視する傾向さえあった。」(185-186ページ)

ナガサキを語るとき、永井博士の存在は欠かせない。そして、ナガサキを語る時、キリスト教が深く根付いた歴史の事情も忘れてはならない。それらが永井博士に対する評価を複雑なものにしていることはたしかだ。果たして原爆はクリスチャンにとって神の試練だったのか。他の宗徒にとっては断じて否、のはず。宗教を介した考え方の違いに限らず、被爆者の間でも立場が違うと誤解や諍いが生ずる。その内幕は、被爆体験の数々や、「はだしのゲン」でも描かれてきた。本書にもそうした被害者の間に生じた軋轢が描かれている。それが、本書に被爆体験だけでない複雑なアヤを与えている。

昭和25年当時の推計でも、死者と重軽症者を合わせて15万人弱もの人が被爆したナガサキ。それだけの被爆者がいれば、体験を通して得た思いや考えも人それぞれのはず。人々の考え方や信仰の差をあげつらうより、一瞬の間にそれだけ多くの人々に対して惨劇を強いた原爆の、人道に外れた本質を問い続けなければならない。本書を読むことで、私のその思いはさらに強まった。

‘2018/08/17-2018/08/17


臨床家 河合隼雄


私が河合隼雄氏の著作をあれこれと読んでいたのは20代の前半の頃だ。どうやって生きて行くのか、どうやって身を立てるのかもわからずにいた私の迷走の時期。当時の私はそもそも自分の心さえ持て余していた。他人の心を理解する以前に、自分が何を欲しているのかもわからなかった。それでいて、安易に社会の流れに乗ることをかたくなに拒んでいた。そんな私が社会に入れるわけもない。人生の意味を掴みかねていた私は、完全に宙に浮いていた。いつになれば這い上がれるのか、どこに行けばたどり着けるのか。その答えはどこにもなく、救いのかけらも感じられない毎日。私はそれらの答えを純文学の諸作品や心理学に求めようとした。当時は河合氏の著作に限らず心理学関連の書物を手当たり次第に読んでは、自分の心の動きをつかみ、社会にうごめく人々の心のありようをつかみ、どうすれば社会に出られるのかを模索していた。

そんな手負いの私に、河合氏のスタンスは新鮮に映った。「わかりませんなあ」というセリフ。第一人者でありながら無知を恥じることなくそれを認め、己を低くする。本を何冊も著し、高名であったにもかかわらず、無知に関して潔い。河合氏のその姿勢は、当時の私にとても影響を与えた。今の私は仕事で人に教えたりすることも多い。問われることもある。でも、わからない時はわからない、というようにしている。河合氏のように。まだ「わかりませんなあ」という河合氏の口調は真似できないけれども。

悩みの多かった私は、いつしか上京し、職に就き、家族をもち、家の問題で揉まれ、成長していった。それにつれ、私が河合氏の本だけに限らず、心理学の本を読む機会は減っていった。私が河合氏の亡くなったことを知ったのは、氏が亡くなられて翌々年ぐらいのこと。河合氏の死に気づかないほど、上京して以降の私は、心理学に救いを求めることなく。生きていけるようになっていた。多分、私は誰もが青年期にぶつかるであろう危機をいつのまにか克服できていたのだろう。

今、私は年頃の娘を二人養っている。二人とも難しい時期だ。多分、若い私が感じたような世の中の矛盾や人の関係に悩み、この先も苦しんでいくことだろう。人生の意義が何なのかについての疑問にもぶち当たってゆくに違いない。そこで私がどう助言してやれるのか。そのためには再び河合氏の力が必要だ。家族だけではない。仕事で知り合った方、親交を結んだ方に何ができるのか。単なる技術の継承や、世過ぎ身過ぎのノウハウを伝えるほかに何ができるのか。

ここ一年半ほど、私が参加している地元のランチ会がある。ある時、その中で学校のいじめを語り合う機会があった。私はいじめられた経験を持っている。そして、娘たちや妻にも同様の経験がある。自分の力でその時期を耐え抜き、やり過ごした私や妻や娘たちはいい。だが、やり過ごすすべを知らずに自死を遂げる子どもや若者の存在。辛い気持ちになる。大人ですら、油断していると簡単にいじめの対象に祭り上げられる。そんな人々をどうやれば救えるのか。ランチ会でお話を伺ったカウンセラーの方の言葉はとても参考になった。そして、私に再び心理学への興味を呼び起こしてくれた。本書はそれをきっかけに、私が再び河合隼雄氏に触れようとした一冊だ。

河合隼雄という人物は巨大だ。そして「わかりませんなあ」の言葉が表しているように謙虚な巨人でもある。多分、河合氏は苦労も重ね、その過程では悪態や過ちもつくこともあっただろう。だが、それらを乗り越え河合氏は大きな人となった。「無知の知」を本心から理解し、それを正直に語る。それを実践することが大切であることは、頭では理解できる。だが、行うのは簡単ではない。そうした境地に至った河合氏とはいかなる人物なのか。その全貌に、あらためて関心を持った。

本書はさまざまな角度から見た河合隼雄氏についての本だ。臨床家。ユング派精神分析の資格者。文化庁長官。講演が上手。ゼミの教授。フルート奏者。ダジャレが好き。人間だからマイナスの感情も出すし、温和な表情の裏に冷たい視線を覗かせることもある。本書で河合隼雄氏を語るのは、ユング派の分析者であり、同じ精神医学の徒であり、分析を受ける患者であり、高名な指揮者であったり、共著を出したことのある詩人だ。そうした人々が河合氏をさまざまな視点から語り、人物を造形してゆく。それが本書だ。

私は本書を読むまで知らなかったのだが、息子の河合俊雄氏も精神医学の現場で医師として働いているそうだ。序論は河合俊雄氏が筆をとっている。息子からみた父が描き出す序論は、すでに総論として完成している。実に見事な分析だ。肉親であり、同じ分析家からみた父。だからこそここまで書けるのだろう。息子から描かれた河合隼雄氏は序論の短い中でありながら、人物像を簡潔で的確につかんでいるように見える。さすがというべきか。「個人的には、あれほど勝手に生きて、なおかつあれほど人のために生きた人もないと思っている。その矛盾がまさに両立する生き方であった。」(7P)などは、子が親に対して送りうる要約の見本ではないだろうか。また、こんな一文もある。「河合隼雄にとって死者が生きていたように、われわれにとっても河合隼雄は死者として生きているのではないだろうか。そして臨床家として、われわれに出会ってくれるのではないだろうか。」(8P)

肉親がこのように語ることで、なおさらその人物像が鮮やかに浮かび上がる。

本書の出だしは「家を背負うということー無気力の裏に潜むもの」と題し、心理療法の研修会でクライアントの夢の内容を発表した岩宮恵子氏(島根大学教育学部教授)に対する河合隼雄氏の分析が紹介されている。夢の分析は私もかつて自分の夢に対してよく行っていた。一人のクライアントが来院し、治癒していく経過。その一連の出来事が描かれたこの章はとても面白い。河合氏の解釈もユング派分析家の方法論が感じられ、とても興味深く感じた。シャドウや死、イメージの解釈など、連想とイメージの結びつけを厳密にせず、クライアントに作ってもらった箱庭の解釈も含め、人間の内面を掘り下げていく。そんな一連の手続きこそが、悩める若き私が、自分自身に対してしたかったことだ。

続いては「河合隼雄語録ー事例に寄せて」。これは解題によると、京大の研究室で河合氏が折々に語った語録を筆記しておいたた桑原知子氏が、河合氏が京大の教授職を定年で退職するにあたって編集したものだそうだ。桑原知子氏の言葉によると、本来ならば事例あってのコメントなのだが、プライバシーに配慮した結果、事例は割愛したのだとか。はしがきで河合氏自身がこの語録についてのコメントを残されていて、本書にもその全文が転載されている。それによると、当時のことゆえ、必ずしも正しくはないとか。それを裏付けるかのように、本編にはざっくばらんで肩の力の抜けた河合氏の言葉が並ぶ。まさに生の肉声だ。そして、ここからは著書や対談でみられるソフトな河合氏ではなく、内輪に見せる河合氏の様子が垣間見える。もちろん河合氏の言葉に裏表は感じられず、より専門家向けに語っているだけなのだが。

ついで本書は、さらに河合隼雄氏を掘り下げてゆく。[河合隼雄の分析]として、数人の精神分析の専門家による河合隼雄論が並ぶ。

まずは「臨床家 河合隼雄ー私の受けた分析経験から」。山中康裕氏(京都大学名誉教授)によって書かれている。私も山中氏の名前は存じ上げている。同じ分析家が分析家を分析する。その内容は高度で、そもそも山中氏の見る夢からしてとてもリアルで具体的。夢をきちんと記録した山中氏はさすが分析家だ。自分で夢を記録し、分析ができる山中氏のような方であれば、本来は夢分析を受けなくてもよいような気もする。だが、他の分析家からの視点は必要なのだろう。

続いての「分析体験での箱庭」。川戸圓氏(大阪府立大学人間社会学部教授)が河合隼雄氏に分析を受けた際の箱庭療法の経緯が、箱庭の実際の写真とともに載せられている。ここでは厳しい河合氏が登場する。指導を受ける側からすればそう感じて当たり前だ。だが、このような厳しさがあってこそ、あれだけの業績をあげ、慕う門下生も多数いるのだろう。また、クライアントの精神に引きずられないためには、自己を凛とさせておかねばならないのは素人の私でもわかる。

皆藤章(京都大学大学院教育学研究科教授)氏による「河合隼雄という臨床家」は、皆藤氏が河合氏に師事するまでの専攻分野の揺れ(もともと工学部に入学したそう)が、河合氏との出会いでこの分野に定まるまでのいきさつが書かれている。ここでは教育分析という言葉が出てくる。皆藤氏は30歳の時、最初に教育分析を受けたそうだが、河合氏から30歳という年齢は、教育分析を受けるには若いと言われたそうだ。つまり、教育分析とは、精神的な疾患を自覚していない人でも受けられるのだ。山中氏の書かれた文章もそうだが、精神分析家が、自己の心のありようをさらに深めてみつめるため、別の方から精神分析をうける、というのはありなのだろう。私はそのことに気付かされた。そういえば河合氏がアメリカやスイスで学ぶ際も、先輩の分析家から分析を受けた経験を読んだことがあるが、あらためて合点がいった。

角野善宏(京都大学大学院教育学研究科教授)氏は「スーパーヴィジョンの体験から」で、自らが分析している心理療法について、河合氏から指導を受けたときのことを著している。スーパーヴィジョンとは指導を受けることを意味する。スーパーヴァイザーと同じ語源なのだろう。その中で角野氏は、分析には時間がかかることと、本当に患者が自ら分析の必要がないと思うまで、分析家の主観で終了時期を判断する危険性を述べている。他にもこのような記述もある。

「河合先生がもっとも大切にしたことは、心理療法であった。臨床実践であったのである。これがすべてと言ってもよいほど、重要視していた。もちろん研究も大切にされていたが、研究はあくまで臨床実践があってのことで、基本的に心理療法がすべて中心となっていた。」(148p)
「本当に事例において困ったとき、進退窮まったときに、先生が言われていたことは、「もう最後の最後は、クライエントの治癒力を信じることです」であった。」」(148p)

また、角野氏の文章の中で印象に残る記述があった。それは親鸞が師の法然について語った歎異抄の抜粋だ。「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(150p)。これは角野氏が河合氏を師として信ずるに至った文脈で出てきた言葉だ。明恵を取り上げた論考やユング心理学と仏教を取り上げた論考など、河合氏の著作からは僧侶の面影を感じることが多い。角野氏の記述はまさにそれを裏付ける。

伊藤良子(京都大学名誉教授)氏による「河合隼雄の心理療法」は、河合氏の膨大な論考のうち、イニシエーションとコンステレーションについて解説している。それぞれ通過儀礼と布置という言葉が対応する。通過儀礼の重要性についてはいまさら言うまでもない。日本で行われる卒業式や成人式は、すでにセレモニーですらなくなりつつある。今の日本の若者は、壁にぶち当たる経験が与えられにくい。だから、若者が壁にぶちあたる理由も場所もまちまちになっている。私がまさしくそうであった。そのため、自らの社会的な位置も見つけにくくなっている。リアルの友人、ネットの知り合い。さまざまなチャネルで、無数の集まりで、友人や知り合いの組み合わせは無数に作れる。それだけに、世に出てゆく若者は、自らの確かな立ち位置を見いだしにくい。私は自分の経験からもそう思っている。自由があるがゆえに不自由。外に向けて放たれているがゆえに、自分の心に縛られる。若者にとっては切実な問題だと思う。伊藤氏はそこに目をつけ、河合氏の考えを紹介したのだと思う。

ついで登場するのは、心理療法を専門としていない人々からの寄稿だ。

[河合隼雄という体験]
「対談:河合さんというひと」谷川俊太郎×山田馨
河合氏と毎年遊びのイベントで一緒だったというお二人。谷川氏は高名な詩人。山田氏は岩波書店で河合氏を担当していた編集者。そんな三人の間柄は、もともとは仕事での関係から始まったという。それがある時期を境に、仕事を抜きにした関係を構築したのだとか。仕事をきっかけに始まるプライベートな付き合いは、私もいくつか持っている。それはとても大切なことだと思う。そして、そうした関係を作りあげるのが、日本人はとても苦手なことも。ましてや、そうした関係を長年維持することはさらに難しい。それを長年続けた三人に、私は心からのうらやましさを感じる。そして、私ももう少しそうした付き合いを増やしていきたいと思った。人間関係の難しさと喜びを知っている私は、三人のような関係を構築したいと思う。

ここでは山田氏による編集者としての目から見たエピソードも登場する。河合氏の原稿に話し言葉が多く含まれ、それが編集者泣かせであることも印象的だ。また、涙もろく、講演中に号泣する河合氏のことも触れられていた事も心に刻まれる。本書の何人かの執筆者も、河合氏の涙もろさについては触れられておられた。そういえば私は物語や映画には泣かされるが、人との付き合いの中で涙を見せることはそうそうない。殻をかぶっていて、身構えた部分が残っているからだろうか。

「物語を生きる人間と「生と死」」柳田邦男。
有名なノンフィクション作家の柳田氏の著作を私は多分、まとまった書籍として読んだことがない。「死を日常の中から排除してしまった現代のジレンマという問題意識」(211)ページというとおり、柳田氏は河合氏の物語を重視する姿勢を、人の生き方の問題と捉えている。科学の論理に偏りすぎ、物語を忘れてしまった現代。柳田氏は危機管理という観点から、科学の危うさに警鐘を鳴らし続けてきた作家だと思っている。私も技術者の端くれとして、あらためて柳田氏の著作を読まねばと思った。

「河合先生との対話」佐渡裕
佐渡氏は有名な指揮者だ。そしてその立場から芸術を愛する河合氏の思い出を語っている。ページは三ページに満たない。だが、佐渡氏は貴重なエピソードに筆を割いている。舞台に臨む前、河合氏と撮った写真に触れていたという佐渡氏は、きっと河合氏から安心を受け取っていたのだろう。それは間接的に河合氏の器の広大さをしめしているに違いない。そんなことが読み取れる一編だ。

「私の「河合隼雄」」を寄稿した中鉢良治氏はソニーの副会長だ。ソニーは文化支援にも力を入れている。だから、文化庁長官の河合氏とはご縁も深かったことだろう。本編はソニーの社員研修に来た河合氏の講演から中鉢氏が得た気づきを、経営者の視点から取り上げている。それはもちろん、私にとっても有意だ。河合氏といえば無為の思想の提唱者でもある。中鉢氏もそのことを河合氏から教えられたようだ。
「河合さんはリーダーの本質を「積極的無為」であり「全力を挙げて何もしないこと!と喝破されていた」(224ページ)
こうした文章を読むにつけ、私自身がダメダメな経営者である事を思い知らされる。そもそも、自分で手を動かしてコーディングに励んだり、日々、営業に出かけている事自体、無為とは程遠い。私がその境地に至れる日は、果たして訪れるのだろうか。

[インタビュー]
ユング派河合隼雄の源流を遡る J.M.シュピーゲルマン(聞き手:河合俊雄)。
シュピーゲルマン氏は、河合氏が精神分析の世界に入るにあたり、最初に分析を行った方だという。河合氏の2年年上だというから、もうかなりのお年だ。その方が河合氏との出会いを振り返っている。本編を読むと、見知らぬ世界に飛び込み、そこで鍛えられた河合氏のすごさがわかる。

本書を読んであらためて思うのが、河合氏の人間としての幅だ。人に与えられた360度の可能性を限りなく使った人、と言ってもよい。そして、幅を広げながらも、それぞれの分野の可能性を深く追求した人だったのだなあと、自らの至らなさを比べて慨嘆する思いだ。それこそが河合氏の巨人たるゆえんだ。私が河合氏の域まで達するにはあと何万年、時間が必要なのだろうか。人生の短さと、残り少ない私の余生に暗澹とする。

[資料]河合隼雄年譜が巻末に付されているが、私自身の人生と比べてみても、その質の違いは明らかだ。

‘2018/07/26-2018/07/28


日本の思想


著者の高名は以前から認識していた。いずれは著作を読まねばとも思っていた。戦後知識人の巨星として。日本思想史の泰斗として。

だが、私はここで告白しておかねばならない。戦中に活躍した知識人にたいし、どこか軽んじる気持ちをもっていた事を。なぜかというと、当時の知識人たちが軍部の専横に対して無力であったからだ。もちろん、当時の世相にあって無力であったことを非難するのは、あまりに厳しい見方だというのはわかっている。多分、私自身もあの風潮の中では何も言えなかったはずだ。当時を批判できるのは当時を生きた人々だけ。私は常々そう思っている。だからあの時代に知識人であったことは、巡り合った時代が悪かっただけなのかもしれない。ただ、それは分かっていてもなお、戦中に無力であった人々が発言する論説に対し、素直にうなづけない気分がどうしても残る。

だが、そうも言っていられない。著者をはじめとした知識人が戦後の日本をどう導こうとしたのか。そして彼らの思想が廃虚の日本をどうやって先進国へと導いたのか。そして、その繁栄からの停滞の不安が国を覆う今、わが国はどう進むべきなのか。私はそれを本書で知りたかった。もちろんその理由は国を思う気持ちだけではない。私自身のこれから、弊社自身のこれからを占う参考になればという計算もある。

だが、本書は実に難解だった。特に出だしの「Ⅰ.日本の思想」を読み通すのにとても難儀した。本書を読んだ当時、とても仕事が忙しかったこともあったが、それを考慮してもなお、本書は私を難渋させた。結果、本章を含め、本書を読破するのに三週間近くかかってしまった。そのうち「Ⅰ.日本の思想」に費やしたのは二週間。仕事に気がとられ、本書の論旨を理解するだけの集中力が取れなかったことも事実。だが、著者の筆致にも理由がある。なにしろ一文ごとが長い。そして一文の中に複数の文が句読点でつながっている。また、~的といった抽象的な表現も頻出する。そのため、文章が表す主体や論旨がつかみにくい。要するにとても読みにくいのだ。段落ごとの論旨を理解するため、かなりの集中が求められた。

もう一つ、本章は注釈も挟まっている。それがまた長く難解だ。本文よりも注釈のほうが長いのではと思える箇所も数カ所見られる。注釈によって本文の理解が途切れ、そのことも私の読解の手を焼いた。

ただ、それにもかかわらず本書は名著としての評価を不動にしているようだ。「Ⅰ.日本の思想」は難解だが、勉強になる論考は多い。

神道が絶対的な神をもうけず、八百万の神を設定したこと。それによって日本に規範となる道が示されなかったこと。その結果、諸外国から流入する思想に無防備であったこと。その視点は多少は知っていたため、目新しさは感じない。だが、本章を何度も繰り返し読む中で、理解がより深まった。完全にはらに落ちたと思えるほどに。

また、わが国の国体を巡る一連の論考が試みられているのも興味深い。そもそも国体が意識されたのは、明治政府が大日本帝国憲法の制定に当たり、国とは何かを考えはじめてからのこと。大日本帝国憲法の制定に際しては伊藤博文の尽力が大きい。伊藤博文は、大日本帝国憲法の背骨をどこに求めるかを考える前に、まずわが国の機軸がどこにあるかを考えねばならなかった。いみじくも、伊藤博文が憲法制定の根本精神について披瀝した所信が残されている。それは本書にも抜粋(33p)されている。その中で伊藤博文は、仏教も神道も我が国の機軸にするには足りないと認めた上で「我国二在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」という。ところが、そこで定まった国体は明らかに防御の体質を持っていた。国体を侵そうとする対象には滅法強い。だが、国体を積極的に定義しようと試みても、茫洋として捉えられない。本書の中でも指摘されている通り、太平洋戦争も土壇場の御前会議の場においてさえ、国体が何を指すのかについて誰一人として明確に答えを出せない。その膠着状態を打破するため、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を仰ぐくだりは誰もが知っているとおりだ。

そして、著者の究明は日本が官僚化する原因にまで及ぶ。権力の所在は極めて明確に記された大日本帝国憲法。でありながら責任の所在が甚だ曖昧だったこと。大日本帝国憲法に内在したそのような性質は、一方で日本を官僚化に進めてゆき、他方ではイエ的な土着的価値観を温存させたと著者はいう。それによって日本の近代史は二極化に向かった。著者はその二極を相克することこそが近代日本文学のテーマだった事を喝破する。著者は59pの括弧書きで森鴎外はべつにして、と書いている。著者の指摘から、森鴎外の『舞姫』が西洋の考えを取り入れた画期的な作品だったことにあらためて気づかされる。

また、著者はマルクス主義が日本の思想史に与えた影響を重く見ている。マルクス主義によって初めて日本の思想史に理論や体系が生まれたこと。ところが、一部の人がマルクス主義を浅く理解したこと。そして理論と現実を安易に調和させようとしたこと。それらが左翼運動に関する諸事件となって表れたことを著者は指摘する。

結局のところ著者が言いたいのは、まだ真の意味で日本の思想は確立していないことに尽きると思う。そして、著者は本書の第三部で日本の思想がタコつぼ型になっており、真の意味でお互いが交流し合っていない事情を憂う。雑種型の思想でありながら、相互が真に交わっていない。そんなわが国の思想はこれからどうあるべきか。著者は日本の文学者にそのかじ取りを託しているかに読み取れる。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」で著者は、日本の思想が文学に与えた影響を論じている。上にも書いたが、著者にとって森鴎外とは評価に値する文学者のようだ。「むしろ天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は「特殊」な知識人のなかでも特殊であった」(80P)。ということは、著者にとって明治から大正にかけての文壇とは、自然主義や私小説のような、政治と乖離した独自の世界の話にすぎなかったということだろうか。

著者は、マルクス主義が文壇にも嵐を巻き起こしたことも忘れずに書く。マルクス主義が日本の思想に理論と体系をもたらしたことで、文学も無縁ではいられなくなった。今までは文学と政治は別の世界の出来事として安んじていられた。ところがマルクス主義という体系が両者を包括してしまったため、文学者は意識を見直さざるをえなくなった。というのが私の解釈した著者の論だ。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」は解説によると昭和34年に発表されたらしい。つまりマルクス主義を吸収したプロレタリア文学が挫折や転向を余儀なくされ、さらに戦時体制に組み込まれる一連のいきさつを振り返るには十分な時間があった。著者はその悲劇においてプロレタリア文学が何を生み、何を目指そうとしたのかを克明に描こうと苦心する。著者はマルクス主義にはかなり同情的だ。だが、その思想をうまく御しきれなかった当時の文壇には厳しい。ただし、その中で小林秀雄氏に対してはある種畏敬の念がみられるのが面白い。

もう一つ言えば、本書はいわゆる”第三の新人”については全く触れられていない。それは気になる。昭和34年といえばまさに”第三の新人”たちが盛んに作品を発表していた時期のはず。文学に何ができるのかを読み解くのに、当時の潮流を読むのが一番ふさわしい。ところが本書には当時の文学の最新が登場しない。これは著者の関心の偏りなのか、それとも第三の新人とはいえ、しょせんは新人、深く顧みられなかったのだろうか。いま、平成から令和をまたごうとする私たちにとって、”第三の新人”の発表した作品群はすでに古典となりつつある。泉下の著者の目にその後の日本の文学はどう映っているのだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。

「Ⅲ.思想のあり方について」については、上にも軽く触れた。西洋の思想は一つの根っ子から分かれたササラ型なので、ある共通項がみられる。それに対し、日本の思想はタコつぼ型であり、相互に何の関連性もない、というのが著者の思想だ。

本章は講演を書き起こししており、前の二部に比べると格段に読みやすい。それもあってか、日本の思想には相互に共通の言語がなく、それぞれに独自の言語から獲得した思想の影響のもと、相互に閉じこもってしまっているという論旨がすんなりと理解できる。本章から学べる事は多い。例えば私にしてみれば、情報処理業界の用語を乱発してはいないか、という反省に生かせる。

業界ごとの共通言語のなさ。その罠から抜け出すのは容易ではない。私は30代になってから、寺社仏閣の中に日本を貫く共通言語を見つけ出そうとしている。が、なかなか難しい。特に情報処理の分野では、ロジックが幅を利かせる情報処理に共通言語が根付いていない。そんな貧弱な言語体系でお客様へ提案する場合、お客様のお作法に追随するしかない。ところが、その作業も往々にしてうまくいかない。このタコつぼの考え方を反面教師とし、システム導入のノウハウにいかせないものだろうか。

「Ⅳ.「である」ことと「する」こと」も講演の書き起こしだ。これは日本に見られる集団の形式の違いを論じている。「である」とはすでにその地位に安住するものだ。既得権益とでもいおうか。血脈や人種や身分に縛られた組織と本書でいっている。一方で「する」とはそういう先天的な属性よりも、人の役割に応じた組織をいう。つまり会社組織は「する」組織に近い。我が国の場合、「である」から「する」への組織が進んでいるようには見えるが、社会の考え方が「である」を引きずっているところに問題がある。それを著者は「「である」価値と「する」価値の倒錯」(198)と表現している。著者は第四部をこのような言葉で締めくくる。「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと」(198-199P)

著者はまえがきで日本には全ての分野をつないだ思想史がなく、本書がそれを担えれば、と願う。一方、あとがきでは本書の成立事情を釈明しながら、本書の視点の偏りを弁解する。私は不勉強なので、同様の書を知らない。今の日本をこうした視点で描いた本はあるのだろうか。おそらくはあるのだろう。そこから学ぶべき点は多いはずだ。そしてその元祖として本書はますます不朽の立場を保ち続けるに違いない。

‘2018/06/03-2018/06/21


信長の血脈


著者の本を読むのは初めて。だが、ふと思い立って読んでみた。これがとても面白かった。

本書はいわゆる短編集だ。大河が滔々と流れるような戦国の世。その大きなうねりの脇で小さく渦巻く人の営み。そんな戦国の激しくも荒くれる歴史のの中で忘れ去られそうなエピソードをすくい上げ、短編として仕立てている。それが本書だ。

一つ一つは歴史の大筋の中では忘れ去られそうなエピソードかもしれない。だが、戦国史に興味を持つ向きには避けては通れない挿話だ。

例えば平手政秀が織田信長をいさめるため切腹したエピソード。 これなど、織田信長が戦国の覇者へ上り詰めるまでの挿話としてよく取り上げられている。私も歴史に興味を持つ以前から豆知識として知っていた。

一編目の「平手政秀の証」は、まさにそのエピソードが描かれている。しかも新たな視点から。今までの私が知っていた解釈とは、「うつけもの」と言われた織田信長を真人間にもどすために傅役の平手政秀が切腹した、という事実。平手政秀が切腹するに至った動機は、信長が父、織田信秀の葬儀で、祭壇に向かって抹香を投げつけたことにあり、その振る舞いに信長の将来を悲観した平手政秀が織田信長の良心に訴えるために切腹に至った、という解釈だ。その前段で、己の娘濃姫との婚姻に際して織田信長に会った斎藤道三が、信長の器量を見抜いた挿話もある。そう。これらはよく知られた話だ。そして、これらのエピソードにから現れて来るのは分裂した信長像。後年、風雲児として辣腕を振るい、戦国史を信長以前と信長以後に分けるほどに存在感を発揮した信長。いったいどちらの信長像が正しいのか。分裂した信長像を整合するため、平手政秀の諌死によって信長が目を覚ました、との解釈するのが今までの定説だ。

ところが著者の手にかかると、より深いエピソードとして話が広がる。上記のようなよく知られたエピソードも登場する。だが、著者が本書で披露した解釈の方がより自然に思えるのは私だけだろうか。斎藤道三の慧眼から始まり、平手政秀の死をへて、信長の変貌とその後の戦国覇者への飛躍。それらの本編によって綺麗にまとまるのだ。これこそ歴史小説の醍醐味と言えよう。

二編目の「伊吹山薬草譚」も戦国時代のキリスト教の布教と既存宗教の軋轢を描いており、これまた興味深い。現代の伊吹山に西洋由来の薬草が自生している謎に目を付けた著者の着想も大したものだが、そこからこのような物語を練り上げた筆力もたいしたものだ。西洋で荒れ狂った魔女狩りの狂気の波とキリスト教の布教による海外渡航など、当時の西洋が直面していた歴史のうねりを日本の歴史に組み込んだ手腕と、世界のスケールを日本に持ち込んだ大胆さ。ただうならされる。

織田信長がキリシタンを庇護する一方で当時の仏教を苛烈に弾圧したことは有名だ。本編でもその一端が描かれる。伊吹山に薬草を育てる農場を作りたいと願い出たキリシタンの司教に許可を与え、もともとその地を薬草の農園として使っていた寺の領地を一方的に焼き払う許しを与える。焼き払われる寺側は黙ってはいない。さまざまな内情を探りつつ、西洋の侵略に抵抗する。それが本編のあらすじだ。国盗りや合戦が日常茶飯事のできごとであった戦国を、西洋と東洋の摩擦からとらえなおす着眼の良さ。そして植物にも熾烈な領土の取り合いがあったことを、戦国時代の出来事の比喩に仕立てる視点の転換の鮮やかさ。ともに興味深く読める。

三編目の「山三郎の死」は、豊臣秀頼の父が誰かを探る物語だ。史実では豊臣秀吉と淀殿の間の子とされている。だが、当時から秀頼の父は秀吉ではないとの風評が立っていたそうだ。そこに目を付けた著者は、歌舞伎の源流として知られる出雲お国の一座の名古屋山三郎が秀頼の父では、との仮説を立てる。私自身、豊臣秀頼にはかねがね興味を持っていた。大坂の陣で死なず、薩摩に逃れたという説の真偽も含めて。

本編で秀頼の父が山三郎であるとの流言の真偽を探るのは片桐且元。山三郎の身辺調査を片桐且元に依頼したのは、淀君の乳母である大蔵卿局。秀頼に豊臣家の将来を託すには、そのようなうわさの火元を確かめ、必要に応じてうわさの出どころを断ち切っておく。そんな動機だ。片桐且元は探索する。そして出雲お国に会う。さらには名古屋山三郎の眉目秀麗な容姿を確認する。舞台の上で演じられる流麗な踊り。本編にはかぶき踊りの源流が随所に登場する。その流麗な描写には一読の価値がある。かぶきの原点を知る上でも本編は興味深い。

淀君が秀頼を懐妊した当時、朝鮮出兵の前線基地である名護屋にいたはずの秀吉。その秀吉が果たして種を付けられたのか。本編の芯であったはずの謎に答えは示されない。読者の想像の赴くままに、というわけだ。だが、一つだけ本編によって明かされることがある。それは戦国の芸能が殺伐とした中に一瞬の光を見いだす芸能であったことだ。そのきらびやかな光は、当時の庶民の慰めにもなり、うわさの出どころにもなった。秀頼が太閤の子ではないとのウワサ。それはきらびやかな芸能と権力者の間に発生してもおかしくないもの。うわさには原因があったのだ。

四編目の「天草挽歌」は、天草の乱が舞台だ。江戸時代も少しずつ戦国のざわめきを忘れはじめた頃。戦国の世を熱く燃やしていた残り火が消えゆき、徳川体制が着々と築かれていた頃。藩主である寺沢家による苛烈な年貢取り立ては、江戸幕府による支配が生み出した歪みの一つだろう。その取り立てが天草の乱の遠因の一つであったことに疑いはない。そこにキリシタンの禁教の問題もからむので、内政も一筋縄では行かない。

本編は、三宅藤兵衛という中間管理職そのものの人物の視点で進む。三宅藤兵衛は寺沢家の禄を食む武士だ。隠れキリシタンをあぶり出すため、踏み絵を使った各藩の対策はよく知られている。それはもちろん、キリシタンの禁制を国是とした江戸幕府の方針に従うためだ。藤兵衛はキリシタンの取り締まりをつかさどる役職にあった。ところが藤兵衛自身がもとキリシタン。転んで教えを放棄した経歴の持ち主だ。その設定が絶妙だ。かつて自分が信じていたキリスト教を取り締まらねばならない。その葛藤と自己矛盾に悩む様。それは任務に精勤する武士の生きざまにさらなる陰影を与える。

寺沢家の政策の拙さが産んだ現場のきしみ。それはとうとう寺沢家の本家が乗り出し、苛烈な取り締まりをさせるまでに至る。さらに年貢の取り立ても苛烈さの度を増してゆく。そして事態はいよいよ島原の乱に突入していく。もともと、著者は本書において明智左馬助(秀満)を取り上げたかったという。そのような解説が著者自身によってなされている。それで左馬助の子と伝えられる三宅重利藤兵衛を主人公としたようだ。過酷な戦国を生き延びた血脈が、キリストを信じることをやめ、キリストを裁く。その流転こそが起伏に満ちた戦国時代を表しており、妙を得ている。

戦国の大河が滔々と流れる脇で、忘れさられようとする挿話。それらを著者はすくい上げ、光を当てる。著者がその作業の中で伝えようとした事。それは、人々にとって、自らの生きざまこそが大河であるとの事だ。歴史の主役ではないけれど、それぞれが自分の歴史の主役。そして自らの役割を悩みながら懸命に生きた事実。それは尊い。その尊さこそ、著者が本書で描きたかったことではないだろうか。

‘2017/10/25-2017/10/26


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


人類5万年 文明の興亡 上


本書は日本語版と原書英語版でタイトルが違っている。

日本語版は以下の通り。
『人類5万年 文明の興亡』
原書ではこうなっている。
『 Why The West Rules ― For Now』

それぞれにはサブタイトルがつけられている。
日本語版は『なぜ西洋が世界を支配しているのか』
原書では『The Patterns of History, and What They Reveal About the Future』

つまり、日本語版と原書ではタイトルとサブタイトルが逆になっているのだ。なぜそのようなことになったのか。私の推測だが日本語版のタイトルをつけたのは筑摩書房の編集者だと思う。訳者の北川知子氏ではないはず。なぜなら、本書下巻に付されている北川知子氏によるあとがきにはそのあたりの意図についてを触れていないからだ。だが、北川氏は同じあとがきのなかで、原書タイトルの直訳を記している。『なぜ西洋は支配しているのか・・・・・・今のところは―歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』。私にはこっちのほうが本書のタイトルとしてしっくり来る。

なぜそう思ったかというと、本書は大きな問いによって支えられているからだ。『なぜ西洋は支配しているのか』という問いに。

ここ数世紀、世界は西洋が支配している。それに異を唱えるものは誰もいないはず。これを書いている現在では、参加資格停止中のロシアを含めたG8参加国の中で非西洋の国は日本だけ。もちろん、ここにきて中国の経済成長は目覚しい。一路一帯というスローガンを掲げ、中国主導の意思をあまねく世界に示したことは記憶に新しい。だが中国はまだG8の一員として迎えられていない。G8だけではない。西洋が世界を席巻している証拠はITにも表れている。これからの世界を支えるのがITであることは言うまでもない。そしてITの世界では英語がデファクトスタンダードとなっている。つまり、西洋の主導で動いているのだ。これらの実情からも、西洋が世界を支配している現状は否定できない。

そんな現状に背を向け、著者は西洋の優位が長くないことを予言する。そのための論拠として世界の通史を長々と述べるのが本書だ。通史から、過去からの西洋と東洋の重心の揺れ動きを丹念に分析し、将来は西洋と東洋のどちらが主導権を握るか指し示す。それが本書のねらいだ。つまり、本書は大きな『なぜ西洋が支配しているのか ・・・・・・今のところは 』という問いに対し『歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』という論拠を示す大いなる試みなのだ。私が原書のタイトルのほうが良いと思った理由はそこにある。

「はじめに」で、著者は歴史に仮定を持ち込む。その仮定の歴史では、英国はアヘン戦争で中国に敗れる。ロンドンに中国からの使者を迎え、恭順の意を示して頭を垂れるヴィクトリア女王。著者はそんな仮定の情景を以下の通りに描く。

清国の道光帝は、宗主国に対して敬意を表したいという英国女王の願いを認める。女王は朝貢と納税を請い、道光帝に最大限服従するとともにその支配を求める。道光帝は女王の国を属国として扱い、イギリス人が中国人の流儀に従うことを許す。(8P)

本書はそんな衝撃的な仮定で始まる。西洋ではなく東洋が優位になっていた歴史の可能性。その可能性を示すため、英国人の著者はあえてショッキングな描写で読者の目を惹こうとする。

著者がこのような挑戦的な仮定を持ち出したことには訳がある。というのも歴史の綾によってはこのような仮定の歴史が現実になる可能性もゼロではなかったのだ。このエピソードは本書の全編を通して折に触れ取り上げられる。読者は本書を読むにあたり、東洋と西洋が逆転する世界が到来していた可能性を念頭に置くことを求められる。

通史を描くにあたり、著者は今までの歴史観を取り上げて批評する。それら歴史観は、なぜ西洋が支配しているのかについてある定説を導いている。一つは長期固定理論。一つは短期偶発理論。前者は太古の昔に生じた何らかの要因が東洋と西洋を分かち、それが発展に差をつけたとする考えだ。著者も批判的に言及しているが、これはある種のレイシズムにも通じかねない危うい理論だ。というのも太古の昔に生じた何らかの要因とは、人種的な差であることを意味するから。つまり人種差別。この論を信ずるならば、東洋は今後いかなる奇跡が起ころうとも西洋の後塵を拝し続けなくてはならない。では、後者の短期偶発理論はどうかというと、東洋と西洋には最近まで差がなかったという考えだ。偶然によって西洋はアメリカ大陸を「発見」し、産業革命を成し遂げたことで両者の間に差が生じたとする考えだ。ただ、この偶発が生じた要因は論者によって千差万別。つまり、理論として成り立たたないと著者は指摘する。

そもそも著者によれば長期固定理論も短期偶発理論も共通の過ちがあるという。その過ちとは、両理論ともに人類史のうち、ほんの一部の期間しか考察に使っていないこと。著者はそう主張する。時間の幅をもっとひろげ、人類史の全体を考察しなければ西洋と東洋の発展に差が生じた理由は解明できないというのだ。「過去をより遠くまで振り返れば振り返るほど、未来も遠くまで見渡せるだろう」(18P)とチャーチルの言葉を引用して。

著者はまた、特定の学問成果に拠ってこの問題を考えるべきではないとする。つまり、考古学、歴史学、文献学だけでなく、生物学、経済学、人類学、化学、哲学、植物学、動物学、物理学といったあらゆる学問を学際的に取り扱ったうえで判断せねばならないという。それら学問を各時代に当てはめ、社会発展の尺度を図る。著者が考案したその尺度は、社会発展指数という。その算出方法は下巻の末尾を25ページ割いて「捕遺 社会発展指数について」と詳細な説明が載せられている。また、著者のウェブサイトにも載っている。著者自身による社会発展指数の解説は、同時に社会発展指数への批判に対する反論にもなっている。

われわれのような素人の歴史愛好家はとにかく誤解しやすい。東洋と西洋の差が生じたのは人種的な差によるとの考えに。それは無意識な誤解かもしれないが、著者が説く長期固定理論への批判は把握しておいたほうがよい。人種の優劣が東洋と西洋の発展を分けたのではない。この事実は東洋人である私の心をくすぐる。ナショナリズムを持ち出すまでもなく。そして人種差別の無意味な差について理解するためにも。

そのため、著者が西洋と東洋の歴史を語り始めるにあたり、猿人の歴史から取り掛かっても驚いてはならない。現代、世界にはびこっている西洋の文明をもととして起源へとさかのぼっていく手法。それははじまりから探求に偏向が掛かってしまう。なぜ西洋と東洋がわかれ、差が付いてしまったのか。西洋をベースとせず、まっさらな起源から語り始めなければ東洋と西洋の差が生じた原因は解明できない。そう主張する著者の手法は真っ当なものだし信頼も置ける。

われわれのような素人はともすれば誤解する。猿人からホモ・ハビリスへ。さらにホモ・エレクトスへ。原人からネアンデルタール人へ。その発展過程で現代の東洋人と西洋人の先祖がわかれ、その人種的差異が発展の差異を生んだのではないか、と。しかし著者は明確にこれを否定する。それはホモ・サピエンスの登場だ。著者は、生物学、遺伝学、あらゆる情報を詰め込みながら、猿人からの発展過程を書き進める。そして、
「過去六万年のアフリカからの拡散は、その前の五〇万年間に生じていたあらゆる遺伝的相違を白紙に戻した。」(87P)
と。つまり、それまでの進化や差異は、ホモ・サピエンスによって全て上書きされたのだ。それは人種間の優劣が今の東洋と西洋の差異になんら影響を与えていないことでもある。

では何が東洋と西洋の差を生じさせたのか。それは地球の気候の変化だ。気候の変化は氷河期に終止符を打ち、地球は温暖化されていった。それに従いもっとも恩恵を受けたのは「河沿いの丘陵地帯」だ。ティグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川のブーメラン状に区分けされる地域。昔、私が授業で習った言葉でいえば「肥沃な三角地帯」ともいう。この地域が緯度の関係でもっとも温暖化の恩恵を受けた。そして人々は集まり文明を発展させていったのだ。

ここで著者は、本書を通じて何度も繰り返される一つの概念を提示する。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」というパラドックスだ。一つの地域が発展すればするほど、富者と貧者が、勝者と敗者が、男女の間が、年寄と若者の関係が変わる。発展すれば人々は群れ、利害は衝突する。そのため統治の必要が生じる。管理されるべき関係は複雑化し、その地域の人々自身に脅威として降りかかる。218Pで説明されるこの概念を著者はこのあと何度も持ち出す。今まで発展した地域では例外なくこのパラドックスが起きてきた。エジプト、ギリシア、ローマ、開封。今の社会でいえば、文明の過度な発展が環境問題や人口増加、温暖化などの弊害を生み出していると言えるのだろう。

「河沿いの丘陵地帯」。つまりこの当時の西洋の中心が享受していた文明の発展は、著者の社会発展指数の計算式によると東洋と比べて一万三千年分に相当する優位をもたらしていた。しかし、あまりにも繁栄したため「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは、「河沿いの丘陵地帯」の社会に混乱を巻き起こす。そしてその混乱は一万三千年の優位を帳消しにしてしまう。シュメール、バビロニア、エジプト、ヒッタイト、アッシリアといった強国間の争いは社会発展と同時にそれを妨げる力を生んでしまったのだ。

この危機を乗り切るため、文明はローエンド国家からハイエンド国家への移行を図る。つまり中央集権化である。これによって西洋はイスラエルやアッシリアから古代ギリシャへ。また、遅れて同様の課題に直面した東洋では商から周へと国家が移りゆく。その発展への努力は、東洋に次なる社会の動きを呼び覚ます。すなわち春秋戦国時代をへての秦と漢による統一だ。そして西洋では、全ての道はローマへとつながる大帝国として結実する。

停滞もしながら、東西両方の社会発展指数はじわじわと上昇し続ける。わずかに西洋が東洋を上回る状態が続くが、発展の軌跡は東西ともに同じだ。著者は東西両方の通史をとても丹念にたどり続ける。そして、ローマ帝国の版図拡大と漢のそれは、気候温暖化の恩恵を確かに受けていたことを証明する。

そしてついに洋の東西が接触することになる。その接触は気候の寒冷化が引き金となったのかもしれない。そして東西の接触は病原菌の接触でもある。免疫を持たない病原菌の接触。それはすなわち、疫病の流行となって社会に打撃を与える。暗黒時代の到来である。

東洋では漢が滅び、三国志の時代をへて魏晋南北朝、そして五胡十六国の分裂へ。西洋ではローマ帝国が異民族侵入や内患で東西に分裂する。

その分裂は人々に混乱をもたらす。混乱に見舞われた時、人は何をよすがに生きるのか。多くの人々は人智を超えた存在に救いを求めるのではないか。すなわち宗教。人々は混迷する世から逃れようと宗教に救いを求めた。キリスト教や仏教の教えがこの時期に広まったのは寒冷化が大きく影響を与えていたのだ。寒冷化が安定した文化を解体にかかる。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスとは別に社会の変化を促す要因であることがわかる。

本書の主眼は、通史の流れから東洋と西洋の発展差の原因を追うことにある。また、社会の変化が何から生まれるのか、を知ることでもある。上巻で書かれるのは古代がようやく終わったところまで。だが、人類が誕生してから古代までの歴史を追うだけでも、歴史のうねりが生じる原因を十分に知ることができる。本書は歴史書としてとても勉強になる一冊だ。

‘2016/10/15-2016/10/20


静思のすすめ


今から三年ほど前、妻が奈良の仏像巡りにはまっていた。私は言うまでもなくもともと寺院巡りが好きな人。そんなわけで妻とは各地の寺院によく参拝していた。

薬師寺に2年連続で訪れたのもこの頃。2014年正月に家族で薬師寺を訪れた。薬師寺といえば本尊薬師三尊像は外せない。金堂に安置されているそれらを見に訪れた時、一人の精力的なお坊さんが私たちに法話を聞かせてくださった。その方こそ、本書の著者である大谷徹奘師だった。

その明快な語り口、内容はとても魅力に満ちていた。われわれはどうしても宗教家というと、卓越した意志で世俗から超越し、人生の高みへ向け切磋琢磨する修行者の印象を抱きやすい。だが、著者は違った。法話では自分自身が欲望や欲求に負けやすいことを正直に吐露していた。その率直さには胸を打たれた。

そもそもあらゆる仏僧が超越の高みにあると誰が決めたのか。今なお九百年前に生きた親鸞が取り上げられるのも、不犯も叶えられず煩悩に苦しんだ自身を率直に語ったからではないか。もちろんテレビに出まくり、高級車を乗り回し、酒池肉林を地で行くような破戒僧を肯定するわけにはいかない。でも、自らのうちにある欲望を正面から見つめ、そこに向けて努力する姿こそが宗教家というものではないか。すでに完成された聖人はもはや人間として別次元のお方。そうではなく同じ地平に立つ弱い人間の視点で、なおかつ努力する向上心こそがわれわれ凡人の胸に響くのだと思う。

著者は明朗快活にそのような視点で生きることの要諦を法話で語ってくださった。もちろん、立て板に水というべき流暢な語りには法話に慣れた方の達者さが見え隠れしていて、われわれ一般人の視点から一段上にいる。だが、それを差し引いても著者の法話にはとても印象を受けた。薬師寺の売店で著者の著作を見てからというもの、いずれは本でもお目にかかりたいと願っていた。

本書は私にとってそんな思い出で結びついた一冊だ。内容もタイトル通り静思を勧める内容となっている。静思(じょうし)と読む。仏教用語らしいが本書で初めて知った。

正直に言うと、静思という概念には目から鱗が落ちるほど目新しさは感じられない。簡単にいうと、何か事を成すにあたっては、じっくり自問自答し、その後に行動しましょうという意味だ。そんなこと誰でもやっとるわ、と言いたいところだが、ここで静かに思い、問うてみたい。自分は全ての行動に対して、深く自問自答してから行動しているか、と。するとどうだろう。ほとんどの行動は慣れとルーチンに支配されていないだろうか。当たり前だ。こんなに忙しい昨今、いちいち行動のたびに黙考してから動いていられない。それでは世の流れに遅れるばかりだ。ところがそうやって反射的に行動することで、実は多くのことを見失ってはいないか。それが著者の言いたいことだと思う。

そんな反射的、刹那的な行動を繰り返していると、大切なものをこぼし続けたまま老境に至ってしまう。そこに静思を挟むことで、人生を丁寧に過ごしていけるのだと著者はいう。

小さなうちは時間が遅く感じるのに、長じるにつれて時間の進みが早くなる。誰もが感じることだ。なぜそうなるのか。それは多分、考えず反射で動いているからではないか。反射とは無意識の行動だ。反射を繰り返すと脳内では無意識の流れが支配的になってゆく。それが大勢を占めると、時間が意識を飛び越え、時間だけが過ぎてゆく。意識が時間を意識しなくなるといえばよいか。これが大人になれば時間が早く過ぎる理由ではないか。

静思を生活に持ち込むことで、行動の前に考える間合いが身につく。それはすなわち生活にリズムとメリハリを生み、過ぎ去る時間の速さを弱める。そして日々の生活にハリをもたらし、人生に潤いをあたえる。私が思う静思とはそんな感じだ。

ところが、それが難しい。生きる糧を稼ぐとは、限られた時間でどうやって効率的に稼ぐかだ。仕事のすべてにいちいち静思していたら、能率の悪いことこの上ない。だから人々は静思を忘れ、日々の忙しさに気を紛らわしてしまうのだ。立ち止まって考えることが大切ということは、本書のような本を読むたびに思い出すのに。

本書で静思を理解したと早合点してはならない。本書はそれ以外にも読みどころが多いのだ。著者は薬師寺の僧侶としての勤めの合間を縫い、法話を携え全国をめぐる。そしてそこでさまざまな方に出会う。著者が各地で出会った方とのエピソードが本書にはたくさん紹介されている。それは著者の静思の心を深めてゆく。

例えばとある経営者のエピソード。その方は経営者として成功を収めたが、自分のやってきたことは「信念」なのか「我」なのかを迷う。著者はそれに対してこう伝える。「後ろを振り向いたときに人がついて来てくれていたならば、それは『信念』。後ろを振り向いたときに誰もいなければ、それは『我』です」(160P)

また、今のお坊さんと普通の人がどう違うのか、という問いに対し、著者は「生きている自分だけを意識するのではなく、先祖となる自分をも意識して生きていること」という答えを導き出す。このように本書には深い話がたくさん出てくる。法句経にある静思を噛み締めるには定義だけを分かった気になるのではなく、それを実践する必要がある。それでこその静思なのだろう。

また、機会があれば薬師寺で著者の法話を聞いてみたいものだ。

‘2016/10/06-2016/10/08


教誨師


本書にはとても考えさせられた。

教誨師。私は今までの人生で教誨師を名乗る方に会ったことがない。教誨師と知り合いの人にすら会ったことがない。それもそのはず。教誨師が活躍するのは一般人にあまり縁のない場所だ。つまり刑務所や拘置所。そのような施設に収監された方々の話し相手として宗教的救いを与える。そういった職業の方を教誨師と呼んでいるようだ。と、一般的にはそういうことになっている。私も本書を読むまでそのように思っていた。

昭和史、とくに太平洋戦争に関する本を読むと、巣鴨でのA級戦犯の方々の挿話をよく目にする。その中で登場するのが花岡信勝教誨師。A級戦犯が死刑に行く際に外界へのメッセージを受け取る役としてよく登場する。私にとっての教誨師のイメージとはこの方によるものが多い。しかし、そういった巣鴨での挿話からは教誨師の実像は掴みにくい。教誨師からの目線では書かれていないからだ。本書は、囚人に影のように付き添う存在である教誨師の目線から書かれた一冊だ。教誨師についてより深く知ることができる。

本書は、教誨師として活動されていた渡邉普相氏へのインタビューを元に構成されている。本来ならば教誨師の仕事はこのような形で公開されない。権利と職掌という網の目のように張り巡らされた糸。それは、獄中で教誨師が見聞きしたエピソードを漏らすことを許さない。教誨師として知りえたことは、決してわれわれが知ることはない。教誨師の胸の中に仕舞われたまま秘密のベールに隠され、報道されることも公言されることもない。

本書の主人公である渡邉師もまた、本書は自身の死後に出版してほしいと著者に言い残し、教誨師として僧侶としての生涯を全うした。しかし渡邉師は、死ぬ前に教誨師の仕事を言い残したいと思ったのだろう。死刑囚が直面する生死のはざまとは、教誨師にしか明かされない死刑囚の想いとは。それは教誨師が伝えなくては、どこにも残らない。それを言い残さぬままでは成仏することができないと思ったのか。本書はまさに遺言である。教誨師として半世紀以上も勤めた人間による率直な反省の弁であり、そこで掴み取った人生の視線といえる書だ。

渡邉師の遺言どおり、著者は渡邉師の死後に本書を出している。教誨師と呼ばれる仕事の本質を渡邉師のインタビューを元に組み立てたのが本書だ。

本書の内容は、教誨師の仕事を知る上で興味深い。それだけではなく、教誨師の仕事の中でいや応なしに突きつけられる現実に焦点を当てている。生死とは、教育とは、矯正施設の持つ意義とは。私たちの知らない世界がそこにはある。

本書のページ数は250Pほど。さほど多くない。しかし、内容はとても充実している。本書は渡邉師の生いたちから筆を起こす。だが、単に順に生い立ちを追うわけではない。そうするには、渡邉師の生きざまはあまりにも波乱に満ちているからだ。

なので本書はなぜ渡邉師が教誨師としての道を選んだか、のいきさつから筆を起こす。篠田隆雄師から教誨師としての後継者と目されたからだ。そこに至るには、さらに渡邉師の生い立ちをさかのぼる必要がある。 渡邉師は人間が直面させられる極限な試練を受けている。広島原爆で九死に一生を得た 渡邉師 は、横にいた友人たちが一瞬で焼かれた刹那を経験している。炎と煙渦巻くキノコ雲の下、生きたいと必死に逃げた自分との直面。水を乞う人々を見捨てて生き延びた罪悪感。

二度と逃げ出すようなことはしたくない、との思い。それが渡邉師を半世紀にわたって教誨師の地位に留めたともいえる。

しかし、渡邉師は心の強靭な聖人君子ではない。教誨師も罪人と同じく弱い人間であるということ。それをきちんと描いていること。そのことが本書をたんなる伝記や宗教書と一線を画した大きな点だ。そもそも聖人君子には教誨師は勤まらない。渡邉師も著者に対して根がいい加減だから勤まったと述懐する。

本書には渡邉師が教誨師として向き合った幾多もの囚人との挿話が収められている。存命関係者に迷惑を掛けぬようその多くは仮名で登場している。仮名なのに死刑執行が昭和40年代以前の人しか語らない。

教誨師は囚人を宗教的に救う人。しかし、その作業がそんなに生易しい作業ではないことを読者は知る。沙婆と違い、刺激のない単調な獄中の日々。そんな囚人にとって、教誨師とは唯一外界の空気を持ち込む存在となる。普通に生活を営む人々が思う以上に、囚人は相対する人物の一挙手一投足に敏感だ。一瞬たりとも態度に馴れは出せない。事務的な定型の対応はもってのほか。一度そういう対応してしまうと囚人との信頼関係は壊れてしまう。教誨師の仕事とは、全てが真剣勝負。気を抜く間もない。

本書には、数多くの囚人との挿話を通じて渡邉師が得た苦しみや挫折が赤裸々に告白される。本書を読み終えると、死刑囚とはこれほどまでに孤独な存在で、教誨師とはこれほどまで過酷な仕事であることがわかる。そして、いくら死刑に価するだけの犯罪を犯したとはいえ、死刑が確定した途端に死刑囚に代表される画一の枠に収めて済ませようとするわれわれへの警句も読み取れる。

また、渡邉師は、死刑囚の多くがやむを得ず犯罪に走ったのであり、あるいは彼や彼女を親身になって支えてくれる人がいたら、こうはならなかったと残念がる。

関心や愛情を注がれれば、それを受け止めるだけの素養は人間みな持ち合わせているのに本当に惜しい、と渡邉は思った。(226p)

との記述がある。これこそまさに渡邉師が教誨師の仕事で会得した実感なのだろう。

ここで「いや、どんな境涯にあっても踏みとどまれた人だっている」とか、「同じような環境でも誘惑に屈しなかった人もいる」と思ったとすれば、渡邉師の思いを全く汲み取っていないことになる。死期を察した師がなぜ著者に対して一切を告白しようと思ったか。

渡邉師は、大勢の死刑囚との日々の中で、救いを与えるという自分の考えすら思い上がっていたのではないかと気づく。教誨師に出来ることとは、ただ聴く。囚人の発する思いを不安をただ聴く。これに尽きるのではないか。そんな境地に至る。

だが、そんな悟りくらいでは渡邉師が被った心の痛手はいやされるはずもない。 渡邉 師はアルコールが手放せなくなってしまう。そして断酒の為、入院。しかし、そのアル中の入院経験は、かえって囚人の心を開くのだから面白い。それがもとで教誨師の仕事に一つ山を相談を受けるようになる。

このくだりは印象深い。教誨師と囚人の一方的な関係では何も変わらないことを示している。結局、教誨師とは一方的に上から救いを与えるだけの存在ではないか。全国教誨師組合長を務めた渡邉師が得たこの悟りは深い。それは教誨師が善人、囚人は悪人、そんな二元論で済ませてはいないか、という反省である。親鸞は問うた。悪人とは、自らの悪を自覚した者。善人とは、自らの悪を未だ自覚していない者。

苦闘の末、アル中という聖職者にあるまじき病に身をおとし、初めて師は自らが悪人なのだ、との事に思い至る。罪を悔い改めよと説く人もまた罪人。そんな結論は、あらゆる宗教が喪ってしまった原点を思わせる。

本書は聖職者である渡邉師の悟りの軌跡を描いた書。とても考えさせられる一冊だ。

‘2016/09/28-2016/10/02


天平の甍


今になってなぜ鑑真和上について書かれた本書を手に取ったのか。特に意図はない。なんとなく目の前にあったからだ。あえていうなら、平成27年の年頭の決意で仏教関連の本を読もうと決めていた。そして意気込んで親鸞についての本(レビュー)を読んだのだが、私には歯が立たなかった。それ以来、仏教についての勉強はお留守になっていた。しかし平成27年も師走を迎え、年越しまでにもう一冊くらいは仏教関連の本を読みたいと思ったのが、本書を手に取った理由だろうか。

仏教を学問として取り扱った本よりも本書のような小説の方がリハビリにはちょうどよい。本書は、著者の作品の中でもよく知られている。そして、本書で語られる鑑真和上の事績は日本史の教科書にも取り上げられているほどだ。我が国の仏教伝来を知るための一冊として本書は相応しいといえるだろう。

そんな期待を持ちつつ本書を読み始めたのだが、本書の粗筋は私が学ぼうとした意図とは少し違った。日本への仏教伝来を知ろうにも日本が主な舞台ではない。鑑真和上が倭国に仏陀の教えを伝えんとして幾度もの挫折から失明し、それでも仏教の伝戒師がいない日本のために命を賭けて海を渡ってきた事はよく知られている。その過酷な旅については、奈良の唐招提寺に安座されている鑑真和上座禅像の閉じたまなざしが明らかに語っている。

本書は、鑑真和上来日に関する全てが著者の想像力によって描かれている。ただし、その舞台はほとんどが唐土だ。鑑真和上が奈良時代の大和朝廷に招提されてから入寂するまでの期間、伝戒師として過ごした期間についてはほとんど触れられていない。考えてみれば当たり前のことだ。鑑真和上の受難に付いて回る挿話とは、唐土と海上での出来事がほとんどだからだ。したがって、我が国への仏教伝来事情を学ぼうにも本書の視座は違っているのだ。

だが、それで私の意欲がくじかれたと考えるのは早計かもしれない。当時の我が国は大唐帝国を模範とし模倣に励んでいた。仏教だけではない。平城京の区割りや律令制度にいたるまで大唐帝国を模範した成果なのだ。遣唐使の歴史がこれだけわれわれの脳裏に刷り込まれているのも、当時の我が国にとって遣唐使がもたらす唐文化がいかに重要だったかの証といえよう。

なので、鑑真和上を日本に招提するため、日本の僧が唐土へ渡り各地を巡って仏教を学ぶ姿そのものが、我が国の仏教伝来事情と言い換えてよいのかもしれない。

本書に登場する留学僧たちの姿から感じられるのは「学ぶ」姿勢である。「学ぶ」は「真似ぶ」から来た言葉だという。「学び」はわれわれの誰もが経験する。が、そのやり方は千差万別。つまり、考えるほどに「学ぶ」ことの本質をつかみとるのは困難になる。しかし、その「学び」を古人が愚直に実践したことが、今の日本を形作っている。そういっても言いすぎではないはずだ。

本書の主人公は鑑真和上ではない。日本僧普照である。本書は、普照とともに遣唐使船に乗って唐に渡った僧たちの日々が描かれている。さらに、彼らと前後して唐に渡り、唐に暮らす日本人も登場する。

普照と共に唐に渡ったのは、栄叡、戒融、玄朗。それぞれ若く未来を嘱望された僧である。また、30年前に留学僧として唐に渡り、かの地に留まっていた景雲、業行も本書の中で重要な人物だ。この六人は、それぞれが人生を賭け、学びを唐に求めた僧たちだ。

普照は、本書では秀才として描かれる。他人にあまり関心を持たない冷悧な人間。いわば個人主義の権化が普照である。本来であれば、学びの本質とは個人的な営みである。しかし当の普照は、自らを単に机の前にいるのが長いだけの男と自嘲している。そして、普照は努力の目的を見失ってしまい個人の学びに見切りをつける。替わりに、鑑真を招く事で我が国に仏教を学ばせようとする。個人ではなく国家の視点への転換である。普照の意識が個人から国家や組織へと置き換わってゆく様は、本書の隠れたテーマといえる。普照の意識の変化は、学ぶ事についての意識の深まりである。それは、我が国が歴史の中で重んじた、中華の歴代帝国を手本とする学びにも通ずる。国家単位での学びを個人で体現したのが普照といえる。

では、そもそも普照を鑑真招提の目的へ誘った栄叡は何を学ばんとしたのか。彼は唐へ向かう船上で、すでに国家の立場で学ぶ意識を持っていた。普照が気づくより前に、個人のわずかな学びを積み重ねることが国の学びとなることを理解していたのが栄叡である。なので栄叡こそが鑑真和上の招提を思い付いた本人だ。そして栄叡は招提のために奔走し、普照の人生をも変える。しかし栄叡は二回目の渡航失敗により、病を得、志半ばで異国の土となる。しかし、その志は鑑真や普照を通じて日本仏教に影響を与えた。大義のために私をなげうつ態度は、当時の日本の志士といっても過言ではない。栄叡のような人物たちが、今の日本の形成に大きく寄与しているはずだ。

戒融の学びは、実践の学びである。「机にかじりついていることばかりが勉強と思うのか」と仲間たちに言い放ち、早くから放浪の意思を表す。そして実際に皆と袂を分かち、僧坊や経典に背を向け流浪の旅に出る。学校や教団のような組織に身を置く事をよしとしない戒融は、私自身に一番近い人物といえるかもしれない。自身の苦しみは自身で処理し、他にあまり出さない姿勢。そういう所も、ほとんど独学だけでやって来た私がシンパシーを感じる箇所だ。独りの学びもまた学びである。しかし、それは人に理解されにくい道だ。本書の戒融は、人から理解されない孤高の人物として描かれる。本書は普照の視点で書かれているため、戒融は物語半ばで姿を消す。そして物語の終わり近くになって再登場する。実在の文献によると戒融という僧がひっそりと遣唐使船で帰国した事が記されているそうだ。ただ、戒融が放浪僧だったとの史実はなく、あくまで著者の創作だろう。しかし、創作された戒融の姿からは独学の限界と寂しさがにじみ出ている。私も独学の誘惑にいまだに駆られている。が、私の能力では無理だ。共同作業によらねばならない現実を悟りつつある。何ともはかないことに、独り身の学びを全うするには人の一生はあまりにも短いのだ。それでもなお、独り学びには不老と同じく抗い難い魅力を感じる。

玄朗の学びは、同化の学びといえる。玄朗もある時点までは普照たちと同様に学問を目標としていた。しかし、玄朗は唐に向かう船上ですでに日本への里心を吐露する。そこには、同化と依存の心が見える。当初から向学心の薄かった玄朗の仏教を学ぶ意思は唐に渡って早々に薄らぎ始める。玄朗の意欲はますます減っていき、普照が鑑真和上の招提に奔走する間に唐への同化の度を強め、ついには唐で家族を持ち僧衣を脱ぐに至る。普照や鑑真が乗る日本への船に招かれながら、土壇場で心を翻して唐人として生きる道を選ぶ。玄朗の心の弱さをあげつらうのは簡単だ。だが、それはまた唐の文化に自らを馴染ませる学びの成果といえないか。玄朗は玄朗なりに自らの性格や依存心を早くから自覚し、仏門に向いていない自らの適性を学んだともいえる。それはそれで同化の学びとして何ら恥じるところはない。古来、数限りない適応や同化が繰り返され、人類は栄えてきたのだから。

景雲の学びは、諦めの学びだ。30年間唐にあって何物をも得られず、ただ無為の自分を自覚する。30年とは当時の人にとって一生に等しい時間だ。だが、私を含めた現代の人間の中に景雲を笑える人はそういないだろう。全員が景雲のような無為な人生を送る可能性もあるはずだ。だからこそ、景雲の生き方を反面教師として学ばねばならない。大人になるために学ばねばらないこと。それは自らの適性を探る行為だと思う。決して大学に行くためでも大企業にはいるためでもなく。自分が何に向いているかを試行錯誤する過程が学ぶことともいえる。義務教育とは、適性を学ぶための最低限の知識や社会適応を学ぶ場だと私は思っている。景雲にしてもあるいは他の文化、他の時代に生きていたら自らを表現できる場があったに違いない。諦めの学びは、良い意味でわれわれにとって有効な学びとなるだろう。

最後に業行。この人物の存在が本書に深い陰影を与えていることは間違いない。本書が単に鑑真の偉業をなぞるだけの本に終わっていないのも、業行の存在が大きいと思う。業行が唐に渡ったのは普照たちに遡ること30年前。その間、ひたすらに写経に打ち込んできたのが業行だ。付き合いも避け、栄位も求めず、ただ己の信ずる仕事に打ち込んできた人物。膨大な経典を写し取り、それを日本に持ち帰ることだけを生きがいとする日々。その学びは、寡黙の学びといえる。その成果は、業行と共に海の藻屑と消える。30年間の成果が自らの命と共に沈もうとするとき、業行は何を思っただろう。しかし、業行の寡黙の学びとは、何も業行だけのことではない。業行以外にも同じ志をもって命がけで唐に学んだ無名の人々の中には業行と同じ無念を味わった人もいたのではないか。無名とはすなわち寡黙。寡黙ではあるが、彼らが唐から持ち帰ってきたものが日本を作り上げていったことは間違いない。史書はともすれば饒舌に活躍した人々を取り上げる。当たり前のことだ。史書に残らない人々は、容赦なく時代の塵に埋もれてゆく。しかし寡黙な人々が着実に学びとらなければ、我が国の近代化はさらに遅れていたかもしれないのだ。寡黙な学びを実践した業行はじめ、無名の人々には感謝しなければなるまい。

後世の日本人はこういった人々の困難と徒労の積み重ねの成果を享受しているだけに過ぎないことを、われわれは知っている。本書に出てくる以外の人々によって命を懸けた学びが繰り返されてきたことだろう。それは、簡単に情報を得られ、ディスプレイ越しに旅行すらできてしまう現代人には想像すらできない速度の積み重ねだったのではないか。では、われわれは何を学べばよいのか。本書が問いかけるものとは、本書が刊行された昭和当時よりも今のIT化著しい時代に生きる者にとって重い。

‘2015/11/27-2015/12/02