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人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?


本書は新刊で購入した。タイトルに惹かれたためだ。

人工知能が人類にどのような影響を及ぼし、人類をどのように変えていくのか。それは私が興味を持つ数多くのテーマの一つだ。

1997年に当時のチェス世界チャンピオンをIBMのディープ・ブルーが破った快挙は、人工知能の歴史に新たな扉を開いた。もう一つ、人工知能の歴史における偉業として挙げられるのは、2011年にアメリカの有名なクイズ番組「ジェパディ!」でこれもIBMが作ったワトソンが人間のクイズ王を破ったことだ。

これらの出来事は人類の優位を揺るがした。それでもなお、チェスよりもはるかに複雑で指し手の可能性が膨大にある囲碁や将棋において、人間が人工知能に後れをとることは当分こないとの予想が大勢を占めていた。それは、ゲーム中に現れる局面の指し手の数を比較すれば分かる。チェスが10の120乗だとすれば、将棋は10の226乗。囲碁は10の360乗にもなるからだ。
だが、2015年にGoogleのAlphaGoが世界のトップ棋士を破ったことは人間の鼻をへし折った。2017年には棋界においても人工知能「ponanza」が、人類のトップクラスの棋士を一敗地に塗れさせた。

本書は人工知能「ponanza」の開発者が、その開発手法や機械学習について語った本だ。

そもそも、人工知能はどのように将棋の指し手を覚えるのだろう。そして開発者はどのように将棋を人工知能に教え込むのだろう。
本書は、私が人工知能や機械学習に対して持っていたいくつかの誤解を正してくれた。それと同時にAlphaGoと「ponanza」の手法の違いにも気づきを与えてくれる。

本書の第1章「将棋の機械学習━プログラマからの卒業」では、まずコンピューターの歴史や、機械学習についての試行錯誤が語られる。ここで重要なのは、人工知能が人間の思考を模倣することを諦めたということだ。人間の思考を諦めたとは、どういうことだろう。
人間の思考とは、自分の脳内の動きを思い返すに、何かを判断する際にそれを過去の事例と照らし合わせ、ふさわしいと判断された結果だ。
だが、その評価基準や過去の事例の探索は、プログラムで模倣することが難しい。私も、自分自身の心の動きをトレースするとそう思う。

まず、プログラムによる判断からの卒業。それが将棋の人工知能の発展におけるブレイクスルーとなった。これは他の機械学習の考えにも通ずるところだ。むしろ本質ともいえる。

「ponanza」のプログラムには過去の棋譜や局面の情報は一切含めておらず、将棋のルールや探索の方法だけが書かれているという。局面ごとの評価そのものについては全て「ponanza」に任せているそうだ。
この構成は機械学習に通じている方にとっては当たり前のことだろう。だが、プログラムで一切の評価を行わない原則は誤解しやすい部分なので、特に踏まえておかねばならない。

局面ごとにそれぞれの指し手について、勝率が高い方を内部で評価する。その判断基準となるデータは内部で膨大に学習し蓄積されている。
人間の判断でも同じことを行っているはずだが、数値に変換して高い方を採用することまでは行っていない。
つまり統計と確率だ。その手法を採用したことに対する感情や情緒は「ponanza」は考えない。あくまでも数値を重んじる。

ところが「ponanza」は当初、機械学習を使っていなかったという。代わりにロジスティック回帰の手法を採用していたようだ。
つまり統計から確率を演算して予想する手法だ。「ponanza」が機械学習を採用したのは、まさに本書の執筆中だったと言う。

第2章「黒魔術とディープラーニング━科学からの卒業」では、機械学習について書かれる。
機械学習にもいくつかの問題があるという。例えば、単純な丸暗記ではうまく知能が広がらず、判断も間違うのだとか。そこで、わざといくつかの探索を強制的にやめさせるという。このドロップアウトと呼ばれる手法によって人工知能に負荷を与えたことによって、かえって人工知能の学習は進んだという。
重要なのはこの時、なぜそのような効果が生まれるのか科学者でも把握できていないことだ。他にも、技術者がなぜそうなるのか分かっていない事象があるという。たとえば、機械学習において複数の層を学習させると、なぜそれがうまく学習されるのか。また、ある問題を解くにあたって、複数のCPUで計算させる場合でも闇雲にCPUを増やすだけでは正解率は上がらない理由も分かっていないそうだ。むしろ、一つの課題を複数のCPUで同時に解くように指示した方が早く正確な解を導き出せるそうだ。だが、その理由についてもまだ解明できていないと言う。
著者はそれを黒魔術と言う言葉で表している。

細部の構造を理解すればそれが全体においても理解できる。つまり科学の還元主義だ。機械学習の個別の動きについては科学者でも理解できている。だが、全体ではなぜそのような結果が導かれるのかが理解できない。つまり、すでに人工知能は還元主義を超越してしまっている。

なぜ人工知能がシンギュラリティーに達すると、人の理解が及ばない知能を獲得してしまうのか。生みの親であるはずの技術者がなぜ人工知能を制御できないのか。黒魔術の例えは、誰もが抱くはずの根本の疑問を私たちにわかりやすく教えてくれる。
人工知能の脅威論も、技術者が理解できない技術が横行していることへの危機感から生まれているに違いない。

第3章「囲碁と強化学習━天才からの卒業」では、人類によって磨き上げられた知能が人工知能によってさらに強くなる正のフィードバックが紹介される。
囲碁の人工知能であるAlphaGoが驚異的な能力を獲得した裏には、画像のパターン認識があった。囲碁の局面ごとの画像を膨大に学習し、それぞれごとに勝率の良い方を判断する術。
画像認識の際に有用だったのがモンテカルロ法だ。これは、統計学の書物を読むとしばしばお目にかかる概念だ。たとえば円の面積を求めたい場合、いわゆる円周率πを使うのではなく、ランダムに打ち込んだ点が円の外にあるものと内にあるものを数える。するとその割合の数が増えれば、πに限りなく近くなる。

座標の位置によってその統計と確率を判断する。
それは囲碁のように白と黒の碁石が盤面で生き物のように変化するゲームを把握するときに有用だ。それぞれの点を座標として記憶し、その勝率を都度計算する。
AlphaGoはモンテカルロ法による勝率予想と機械学習の併用で作られている。画像処理の処理はまさに人工知能の得意分野だ。それによってAlphaGoの性能は飛躍的に上がった。

10の360乗と言う膨大な局面の最善手を人工知能が判断するのは困難とされていた。だが、AlphaGoはそれを成し遂げてしまった。
人間の知能を超越し、神として見なされるふさわしい圧倒的な知能。それは信仰の対象にすらなった。すでに人間の天才を超えてしまったのだ。

第4章「倫理観と人工知能━人間からの卒業」では、知能と知性について深い考察が繰り広げられる。

著者は、人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティは起こると考えている。シンギュラリティを語る際によく言われる懸念がある。それは、人工知能が人類によって制御が不能になった際、人工知能の内部の論理が人間に理解できないことだ。人間は人工知能の判断の根拠を理解できないまま、支配され、絶滅させられるのではないかという恐れ。

著者は、その懸念について楽観的に考えている。
その根拠は、人類が教え込み、人類の知恵をもとに学習した人工知能である以上、人類の良い面を引き継いでくれるはずという希望に基づいている。
つまり人間が良い種族であり、良い人であり続ければ、人工知能が私たちに危害を加えない保証になるのではないかということだ。人が親、人工知能が子供だとすれば、尊敬と愛情を感じる親に対して、子は敬意を持って処遇してくれるはず。その希望を著者は語っている。

巻末ではAlphaGoの偉業について語る著者と加藤氏、さらに囲碁棋士の大橋氏との3者対談が収められている。

対談の中では、AlphaGoと対戦したイ・セドル氏との対戦の棋譜が載せられている。複雑な局面の中でなぜAlphaGoがその手を選んだのか。その手は勝敗にどのような影響を与えたのか。
それが解説されている。

早い時では第七手でAlphaGoが打った一手が、ずいぶん後の局面に決定的な影響を与える。まさに人工知能の脅威と、人類が想像もつかない境地に達したことの表れでもある。
私はあまり囲碁が得意ではない。だが、人間が狭い視野で見られていない部分を人工知能がカバーするこの事象は、人工知能が私たちに与える影響を考える上で重要だと思った。
おそらく今後と、人工知能がなぜそのようなことをするのか私たちには理解できない事例が増えているはずだ。

面白いことに、著者は対談の中でこのように語っている。
「コンピューターは、論理的に動くけれど、本当の意味での論理力は足りていないんです」(263ページ)。
つまり、人工知能とはあくまでも過去の確率から判断しているだけであって、もし人間が既存の棋譜や学習内容に含まれていない手を打ってきた時、人工知能はそれを論理的に捉えられず混乱するのだ。

もう一つ本書を読んで気づくのは、人類自身が囲碁や将棋の奥深さを人工知能に教えられることだ。人類が思いも寄らない可能性を人工知能によって教えられる。
それは、これからの人工知能と人間の共存にとって希望だと思う。人工知能から人間も学び、新たなヒントを得ていく。

これは著者のシンギュラリティへの態度と並んで楽観的な意見だと指摘されるはずだ。
だが、今さら人工知能をなかったことにはできない。私たちは何があろうとも人工知能と共存していかなければならないのだ。
本書は人工知能の本質を理解する上でとても優れた本だと思う。

‘2020/08/18-2020/08/18


やし酒飲み


本書はアフリカ文学の最高峰としての評価を得ているようだ。
私も本書の独特の世界に惹かれた。

アフリカと聞くと、私たちは子供の頃に刷り込まれたイメージに縛られてしまう。
未開の地。広大なサハラ砂漠を擁する北部。またはサバンナのそこら中に野生動物が闊歩している大陸。
旱魃や腹を肥大させた子供の写真が脳裏に刻まれている。ルワンダのフツ族とツチ族の凄惨な内戦がニュースを彩った日からさほどたっていない。
民族同士で無益な抗争に明け暮れる一方で、極度の飢えに苦しんでいる。そんな印象が強い。

いわゆる発展途上国だらけの大陸。
そんな印象が今や一新されていることは、ネットで少し検索してみればすぐ分かる。
大都会には高いビルも並んでいる。インフラが整う前に世界の情報技術の恩恵を受けたため、モバイルを使ったマイクロ・エコノミーが他国より発達している。
むしろ、文明に疲れ始めた西洋文明の諸国よりもアフリカにこそ今後の発展が約束されている。そんな話もよく耳にする。

とはいえ、アフリカは遠い。私たちにとってネットで知る実情のアフリカは、幼い頃に聞いたターザンがジャングルで動物と語らうアフリカに及んでいない。それが正直な印象だ。

その印象に縛られた視点から見た時、本書が描くアフリカは私たちの幼い頃の印象を上書きしてくれる。
呪術が有効で、不可思議な出来事が頻繁に起こる地。

主人公はやし酒造りの名人を求め、あちこちを旅して回る。
この構成は、私たちがよく知る日本神話の世界に近い。
日本神話の中では、イザナギが黄泉の国に行った妻を追い、山彦は兄たちに言いつけられて旅をする。そしてスサノオは、さまざまな地をさまよう。

旅は神話にとって、欠かせない要素だ。ギルガメシュも旅をしていたし、モーゼと彼に従う人々もエジプトから約束の地を目指した。

本書は、まさに神話の世界を現代の物語として著している。
もっとも、アフリカにも人々が語り継いできた物語があるはずだ。著者がそれらを思い起こしながら本書を著したことは間違いない。
しかも本書で主人公たちはJUJUというものに願いをかけ、その力で困難を乗り越えていく。

JUJUとは、依り代のようなものに違いない。それは私たちも神話の世界でお馴染みのものだ。
例えばスサノオは八岐大蛇を退治する前、生贄にされそうになっていたクシナダヒメを櫛に変えて八岐大蛇と対決する。
そもそも、国産み神話からして、イザナギとイザナミがかき混ぜた矛から滴り落ちた雫から国が産まれる。スサノオもイザナギの鼻から産まれたとされている。(左の眼から天照大神、右の眼から月読命)。神自体をものから産まれたものとみなすのが日本神話だ。
今でも山そのものを御神体とみなして祈る風習は私たちの中に普通に息づいている。他にも呪いの藁人形の習俗もある。

本書で主人公がJUJUに願いをかけ、願いを託す行動は、実は日本人にとっては特に珍しくないことが分かる。
また、本書に登場する出来事は乱雑で雑多に思えるかもしれない。だが、それらは日本であってもお馴染みの概念だ。

例えば王様やそこで働く人々の間にある労働のあり方。さらには、生産と消費のつながり。また感情と制度の反目も描かれている。芸術と仕事の対立も。
もちろん本書が最も念入りに描いているのは生と死の表裏一体の関係だ。結局、先に挙げた概念も生と死を取り巻く出来事に過ぎない。
私たちは何のために生き、死ねばどうなるのか。それは日本だろうがアフリカだろうが全く関係なく、どこでも共通の関心事である。

本書をそのように読めば、この混沌とした物語の筋が通り始めてくる。

本書はやし酒をモチーフにしている。物心がついた後、飲むことしか能のない主人公がやし酒造りの名人を求めてさまよう話だ。だが、単なる酔っ払いの話ではない。
もちろん、人は酔うとあれこれおかしな妄想を頭に湧かせる。
一方で、普段の生活ではそのような妄想は理性の名の下に押さえ込み、人前ではおくびにも出さない。
その裏側では押さえ込まれた想像力がスキを見つけて表に出ようとたくらんでいる。
酒を飲めば理性のブロックが外れ、あらゆるものが混じり合った想像力の出番だ。人の内面には得体のしれない想像力が渦巻いている。

だからこそさまざまなものが入り混じった、本書のような取り留めもない神話の世界は私たちをどこか懐かしい思いにさせる。
理性にブロックされた整然とした世界でなく、ありったけの想像力を駆使した奇想天外な世界。
本書は、そのような多彩な物語を展開するからこそ、西洋文明の人々に支持されたのだろう。

本書の巻末で訳者の土屋哲氏が、実は本書はアフリカでは評判が高くなく、西洋諸国でとても高評価を得ていると紹介している。

それは西洋が理性の名のもとに押さえつけた、整然としない内面を本書が存分に開放しているからだろう。

冒頭に記した通り、幼い頃に植え付けられたアフリカに対するイメージはぬぐいがたい。だが、そのイメージのまま、豊かな想像力を押さえ込むのが正しいと思い込まされていないだろうか。むしろそのような原始的な力こそが、人間を人間として強くするように思う。
これから情報技術はより進化し、私たち人間の外で圧倒的な力を発揮していくに違いない。その時、私たちはもう一度自らの人間的な能力に目を向けるはずだ。この豊潤の想像力をどのように操るか。本書はそれをまさに体現した一冊だと思う。

‘2020/05/26-2020/05/29


タイタンの妖女


著者の名前は前から知っていた。だが、きちんと読んだのはひょっとすると本書が初めてかもしれない。

本書のタイトルにもある”タイタン”は、爆笑問題の太田さんが所属する事務所は本書のタイトルが由来だそうだ。著者のファンである太田さんに多大な影響を与えていることがわかる。

正直に書くと、本書はとても読みにくい。
訳者は、SF小説のさまざまな名作を訳した浅倉久志氏である。だから訳文が読みにくいことが意外だった。氏が訳した他の作品では、訳文が読みにくい印象を受けた覚えがない。それだけに意外だった。本書はまだ浅倉氏が駆け出しの頃に手がけた訳文なのかもしれない。

本書は直訳調に感じる文体が読むスピードを遅らせた。
でも、作品の終盤に至って、ようやく著者の描こうとする世界の全体が理解できた。そして読むスピードも早まった。

著者が描きたいこと。それは、人類の種としての存在意義とは何かという問いだ。その問いに沿ってテーマが貫かれている。
人は何のために生き、どこに向かっているのか。私たちは何のために発展し、どこに向かって努力し続けるのか。
その中で個人の意識はどうあるべきなのか。
そのテーマは、SFにとどまらない。純文学の世界でも昔からあらゆる作品で取り上げられている。

今、科学の力がますます人類を助けている。それと同時に、人類を無言の圧力で締めあげようともしている。
科学の力は必要。そうである以上、SFはそのテーマを探求するための最も適したジャンルであるはずだ。
本書は、そのテーマを取り上げたSFの古典的な名作として君臨し続けるだろう。

本書は人が人であり続けるための過去の記憶。その重要性を描く。過去と現在の自我は、記憶によってつながっている。
記憶が失われてしまうと、過去の自分と今の自分の連続性が損なわれる。そして人格に深刻な支障が出る。
火星人の軍隊として使役されるだけの兵隊の姿。それは、記憶をしなった人格がどれほど悲惨なものかを私たちに示してくれる。
マラカイ・コンスタントは、彼の生涯を通してさまざまな境遇に翻弄される。記憶を失った人格が翻弄される様子は、ただただ痛ましい。

一方、神の如き全能者であるウィンストン・N・ラムファード。彼は本書において、人の目指す目標を描くための格好の存在として登場する。現在と過去、そして未来の出来事。それらをあまねく把握し、自在に創造も干渉もできる存在として。
そのような神の如き存在は、私たちにとっては理想でもある。人類とは、これまでその理想を目指して努力してきたのかもしれない。
だからそのあり方の秘密が明かされるとき、私たち人類は何のために誕生し、そして進化したかについて深刻な疑問を抱くに違いない。

マラカイ・コンスタントの大富豪としての存在は、ツキだけで成功を収めてきた人生の虚しさを突きつける。経済とは、富とは、生きがいとは何か。そのような深刻な疑問は読者にとっても人類にとっても永遠のテーマだ。それを著者は読者に突きつける。

そうした疑問に答えられる存在。それは普通、神と呼ばれる。
だが、本書においてはそれは神ではない。
むしろ神よりももっと厄介で認めたくない存在かもしれない。
私たち人類を、創造し、遠隔で操ってきた存在。より高次の生命体、つまり異星人である。

異星人の不在は今の科学では証明できない。そうである以上、人類がそうした生命体によって操られていないとだれが断言できようか。
そうしたテーマこそ他ジャンルで取り上げるのは難しいSFの独擅場でもある。

自由な意思を奪われ、地球、火星、水星、土星の衛星タイタンと運命を操られるままにさすらうコンスタント。
ツキだけに恵まれ、好き勝手に豪遊する本書の冒頭に登場するコンスタントには好感が持てない。
ところが記憶を奪われ、善良にさすらうコンスタント、あらためアンクの姿からは、人の悪しき点が排除されている。だから好感が持ちやすい。
そうした描写を通して著者が書こうとするのは立身出世のあり方への強烈なメッセージだ。
私たちが社会の中で成功しようとしてあがき、他人を陥れ、成り上がろうとするあらゆる努力を本書は軽々と否定する。

種としての生き方の中で個人の意思はどこまで許されるのか。そしてどこまでが虚しい営みなのか。
宗教とは何で、進化とは何か。科学の行く先とは何か。芸術とはどういう概念で、機械と生物の境目はどこにあるのか。
本書はそうした問いに対して答えようとしている。その中で著者のメッセージはエッセンスとしてふんだんに詰め込まれている。

本書は新しく訳し直していただければ、とても読みやすい名作となり得るのではないだろうか。

一つだけ本書で印象に残った箇所を引用しておきたい。
本書の筋書きにはあまり関係がないと思われる。だが、今の私や技術者がお世話になっているクラウドについてのアイデアは、ひょっとしたら本書から得られたのではないか。
「一種の大学だ――ただし、だれもそこへは通わない。だいいち、建物もないし、教授団もいない。だれもがそこにはいっており、まただれもそこにはいっていない。それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。スキップ、もしきみにわたしの話していることがわからないなら、説明してみてもむだなんだよ。ただ、いえるのは、どんな会議も開かれなかったということだ」(286ページ)

不気味なほどに、インターネットの仕組みを表していないだろうか。

‘2020/05/12-2020/05/19


父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。


本書は、経済関係の本を読む中で手に取った一冊だ。新刊本で購入した。

タイトルの通り、本書は父から娘に向けて経済を解説すると体裁で記されている。確かに語り口こそ、父から娘へ説いて教えるようになっているが、内容はかなり充実している。まさに深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい。

実は私も、娘に向けてこの本を購入した。私の長女は、イラストレーターの個人事業主として中学生の頃から活動している。
私も経営者とはいえ、経済的にはまだゆとりはない。有能な経営者とは言えないだろう。だが、少なくとも四人の家族を養うだけの金銭はこれまでに稼いできた。
だが、娘はまだこれからだ。個人事業主とはそれほど簡単に稼げるものではない。実際、どこかに常駐しておらず、家で仕事している娘はまだ稼ぎが少ない。
だからこそ、本書のように経済の本を読んで勉強しておいた方が良い。私はそう思った。
今まで経済をろくすっぽ学ばずにやってきた私が、さんざん苦労してきたからだ。

本書の第一章では、なぜ格差が生じるのかについて説明する。
南北問題と言う言葉がある。同じ地球の北半球と南半球で富に格差が発生している現実だ。裕福な北米やヨーロッパ、中国と、貧しい南半球の国々。
なぜ違うのか。それは『銃・病原菌・鉄』でも示されていたが、地理的な問題だ。南北に長いアフリカは、緯度によって季節や気候ががらりと違ってしまう。そのため、作物も簡単に伝播させることが難しい。ところが、東西に伸びたユーラシア大陸では気候の違いがあまり発生しなかった。そのため、一つの文明・文化が勃興すると、さしたる障害もなしに東西に素早く広がった。北アメリカも同じように。
そして、オーストラリアなど、自然が豊かな国では人々はただ自然から食物をいただくだけで生きていけた。身の危険もないため、人々は植物を貯めておく必要も、余剰を意識する必要もなかった。

第二章は市場をテーマにしている。経験価値と交換価値。その二つの価値は長らく経済の両輪だった。
個人の体験は交換が利かない。だから自らの経験や知識を人のために役立てた。個人の経験それ自体に価値があり、対価が支払われる。経験価値だ。
ところが徐々に貨幣経済が発展するとともに、市場で貨幣と商品を交換する商慣習が成り立ってゆく。市場において貨幣を介してモノを交換する。交換価値だ。
何かを生産し、それを流通させるまでには資産が欠かせない。自然の原材料や加工道具、それに生産手段だ。さらにそうした資産を置く場所と空間。さらに、かつては奴隷として抱える労働力も資産に含まれた。そうした資産や不動産や労働力は、交換できる価値として取り扱うことができた。
過去のある時期を境に、人類の経済活動において交換価値は経験価値を凌駕した。

第三章では、交換価値で成り立っていた経済が次の段階に進む様子を取り上げている。利益や借金が経済活動の副産物ではなく、企業にとって目的や手段となる過程。それが次の段階だ。

賃金も地代も原料や道具の値段も、生産をはじめる前からわかっている。将来の収入をそれらにどう配分するかは、あらかじめ決まっているわけだ。事前にわからないのは、起業家自身の取り分だけだ。ここで、分配が生産に先立つようになった。(78ページ)

既存の封建社会のルールに乗らなくてもよい起業家は、借金をして資産を増やし、それをもとに競争するようになった。

第四章では、借金が新たな役割を身につけた理由を説明する。
借金とは、現在の価値と未来に利子がついている価値との交換だ。貸主は貸した金銭が、将来にわたって利子付きで戻ってくること期待する。つまり、将来の価値と今の価値の交換だ。その差額である利子が貸主の利益となる。

今、周りにある企業や国、銀行と取引するのではない。将来の企業、国、銀行と交換する。それが借金のカラクリだ。今、存在する価値の総量以上は借りられない。だが、将来の利子を加えると、今の価値の総量よりも高い金額が借りられる。これが金融の原点であり、ありもしない富がなぜ次々と生まれてくるカラクリだ。
貨幣をさして兌換貨幣と呼ぶ。かつては金を保有している国が、いつでも保有する金と貨幣を交換してもらえる約束と信頼の上で貨幣を発行していた。いわゆる金本位制だ。
その考えを推し進めると、将来も今の経済体制が維持される前提のもと、未来の利子がついた価値と今の価値を交換する金融の仕組みが成り立つ。

第五章では、労働と賃金関係について説明される。今までの説明で、経済の成り立ちが描かれてきた。だが、今やロボットや人工知能が人類の労働力にとって替わろうとしている。それらとどう共存するか。
本書はこの後第六章、第七章、第八章と人類が今直面している問題に経済の観点から切り込んでいく。仮想通貨や環境問題、人類の未来といった問題に。
実は本書は、この後半からがさらに面白い。

今の市場経済に未来はあるのか。経済活動に携わる人の誰もが考えたことがあるのではないだろうか。
一見すると、社会を回すためには今の方法しかないように思える。需要と供給。給与と消費。資本と市場。人の欲求と向上心をかなえ、勝者と敗者を生産しつつ、今の資本主義の世の中は動いている。

だが、その概念に揺らぎが生じたからこそ、SDG’sの概念が提唱されている。持続可能な開発目標。つまり今のやり方のままでは持続が不可能であることを、国連をはじめ誰もが感じている。
その中にうたわれている十七の目標は一見すると真理だ。資源は限られているとの前提のもと、化石燃料を燃やしてあらゆる社会活動が回っている。金融システムもコンピューターが幅を利かせるようになった以上、電力とは切っても切れない。今の経済活動は有限の資源を消費することを前提に動いている。その前提を変えなければ、経済活動や地球に未来はないと。それが著者の懸念だ。
交換価値とは、自然を破壊しても生じる価値であり、人の欲望には限度がない。著者はおそらく、SDG’sが唱える十七の項目ですら生ぬるいと感じているに違いない。

将来に対する信頼が今の金融システムを支えている。その将来が危うくなっている。
利子が戻ってくるはず将来が危ういとなると、借金がリスクとなる。つまり信頼が崩れてしまう。金融システムの前提である錬金術は、将来への信頼が全てだ。

将来の価値と今の価値を交換する。つまり将来を食いつぶしているのが今の経済の本質だ。果たして将来を食いつぶしてよいのだろうか。食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
人間が今まで動かしてきた制度や社会を変えるのはすぐには難しい。だが、この社会を維持していかなければならない。今のままのやり方ではどこかで限界が来る。

そのために著者は本書を用いて、さまざまな提言を行っている。

交換価値のかわりに経験価値が重んじられる社会に。
機械が幅をきかせる未来に、そもそも交換価値は存在しないこと。
機械が生み出した利益をベーシックインカムとして還元すること。
権力は全てを商品化しようとするが、地球を救うには全ての民主化しかないこと。

とても素晴らしい一冊だったと思う。

‘2020/04/01-2020/04/08


ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


人工知能-人類最悪にして最後の発明


今や人工知能の話題は、社会全体で取り上げられるべき問題となりつつある。ひと昔前まで、人工知能のニュースは情報技術のカテゴリーで小さく配信されていたはずなのに。それがいつの間にか、人類が共有すべきニュースになっている。

人工知能の話題が取り上げられる際、かつては明るい論調が幅を利かせていた。だが、今やそうではない。むしろ、人工知能が人類にとっての脅威である、という論調が主流になっている。脅威であるばかりか、人類を絶やす元凶。いつの間にかそう思われる存在となったのが昨今の人工知能だ。本書もその論調に追い打ちをかけるかのように、悲観的なトーンで人工知能を語る。まさにタイトルの通りに。

人工知能については、スティーブン・ホーキング博士やビル・ゲイツ、イーロン・マスクといった人々が否定的なコメントを発表している。先日、亡くなられたホーキング博士は車椅子の生活を余儀なくされながら、宇宙論の第一人者としてあまりにも著名。さらに注目すべきは後者の二人だ。片やマイクロソフト創業者にして長者番付の常連。片や、最近でこそテスラで苦しんでいるとはいえ、ハイパーループや宇宙旅行など実行力に抜きん出た起業家だ。情報社会の寵児ともいえるこれらの方々が、人工知能の暴走について深刻な危機感を抱いている。それは今の人工知能の行く末の危うさを象徴しているかのようだ。

一体、いつからそのような論調が幅を効かせるようになったのか。それはチェスの世界王者カスパロフ氏をIBMのスーパーコンピューターDEEP BLUEが破った時からではないか。報道された際はエポックなニュースとしてまだ記憶に新しい。そのニュースはPONANZAが将棋の佐藤名人を、そしてALPHA GOが囲碁のランキング世界一位の柯潔氏を破るにつれ、いよいよ顕著になってきた。しょせんは人間の使いこなすための道具でしかない、とたかをくくっていた人工知能が、いつしか人間を凌駕ししていることに、不気味さを感じるように。

さすがにネットには、本書ほど徹底的にネガティブな論調だけではなく、ポジティブな意見も散見される。だが、無邪気に人工知能を称賛するだけの記事が減ってきたのも事実。

ところが、世間の反応はまだまだ鈍い。かくいう私もそう。技術者の端くれでもあるので、人工知能については世間の人よりも多少はアンテナを張っているつもりだ。実際に人工知能についてのセミナーも聞いたことがある。それでも私の認識はまだ人工知能を甘くみていたらしい。今まで私が持っていた人工知能の定義とは、膨大なデータをコンピューターにひたすら読み込ませ、あらゆる物事に対する人間の認識や判断を記憶させる作業、つまり機械学習をベースとしたものだ。その過程では人間によってデータを読み込ませる作業が欠かせない。さらには、人工知能に対して何らかの指示を与えねばならない。人間がスイッチを入れ、コマンドを与えてはじめて人工知能は動作する。つまり、人間が操作しない限り、人工知能による自律的な意思も生まれようがない。そして人工知能が自律的な意思をもつまでには、さらなる研究と長い年月が必要だと。

ところが著者の考えは相当に悲観的だ。著者の目に人工知能と人類が幸せに共存できる未来は映っていない。人工知能は自己に課せられた目的を達成するために、あらゆる手段を尽くす。人間の何億倍もの知能を駆使して。目的を達成するためには手段は問わない。そもそも人工知能は人間に敵対しない。人工知能はただ、人類が自らの目的を達成するのに障害となるか否かを判断する。人間が目的のために邪魔と判断すればただ排除するのみ。また、人工知能に共感はない。共感するとすれば初期の段階で技術者が人間にフレンドリーな判断を行う機構を組み込み、そのプログラムがバグなく動いた場合に限られる。人工知能の目的達成と人間の利益のどちらを優先させるかも、プレインストールされたプログラムの判断に委ねられる。

いったい、人類にとって最大の幸福を人工知能に常に配慮させることは本当に可能なのか。絶対にバグは起きないのか。何重もの制御機能を重ねても、入念にテストを重ねてもバグは起きる。それは、技術者である私がよく分かっている。

一、ロボットは人間に危害を加えてはならないし、人間が危害を受けるのを何もせずに許してもならない。
ニ、ロボット は人間からのいかなる命令にも従わなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合は除く。
三、ロボットは、第一原則および第二原則に反しない限り、自身の存在を守らなければならない。

これは有名なアイザック・アシモフによるロボット三原則だ。人工知能が現実のものになりつつある昨今、再びこの原則に脚光が当たった。だが、著者はロボット三原則は今や効果がないと切り捨てる。そして著者は人工知能へフレンドリー機構が組み込めるかどうかについてかなりページを割いている。そしてその有効性にも懐疑の目を向ける。

なぜか。一つは人工知能の開発をめざすプレイヤーが多すぎることだ。プレイヤーの中には人工知能を軍事目的に活用せんとする軍産複合体もいる。つまり、複数の人工知能がお互いを出し抜こうとするのだ。当然、出し抜くためには、お互部に組み込まれているフレンドリー機構をかいくぐる抜け道が研究される。組み込まれた回避機能が不具合を起こせば、人間が組み込んだフレンドリー機構は無効になる。もう一つは、人工知能自身の知能が人間をはるかに凌駕した時、人間が埋め込んだプロテクトが人工知能に対して有効であると誰が保証できるのか。技術者の知能を何億倍も上回る人工知能を前にして、人間が張り巡らせた防御機構は無力だ。そうなれば後は人工知能の下す判断に人類の未来を託すしかない。人工知能が「人間よ爆ぜろ」と、命じた瞬間、人類にとって最後の発明が人類を滅ぼす。

人工知能を開発しようとするプレイヤーが多すぎるため、人工知能の開発を統制する者がいない。その論点は本書の核となる前提の一つだ。いつどこで誰が人工知能のブレイクスルーを果たすのか。それは人類にとってパンドラの箱になるのか、それとも福音になるのか。その時、人間にフレンドリーな要素がきちんと実装されているのか。それは最初に人工知能の次の扉を開いた者に委ねられる。

もう一つの著者の主要な論点。それは、汎用知能AGI(artificial general intelligence)が人工超知能ASI(artificial super intelligence)になったと判断する基準だ。AGIとは人間と同じだけの知能をもつが、まだ自立能力は持たない。そして、Alpha Goはあくまでも囲碁を打つ機能に特化した人工知能でしかない。これがASIになると、人間に依存せず、己で判断を行える。そうなると人間には制御できない可能性が高い。そのとき、人工知能がAGIからASIにステージが上がった事をどうやって人間は判断するのか。そもそも、AGIが判断するロジックすら人類が検証することは不可能。人間の囲碁チャンピオンを破ったAlpha Goの判定ロジックも、すでに人間では追えないという。つまりAGIへのステップアップも、ましてやASIに上がったタイミングも把握することなど人間にはできないのだ。

そして、一度意思を手に入れたASIは、電気やハードウエアなど、自らにとって必要と見なした資源は優先的に確保しにくる。それが人類の生存に必要か否かは気にしない。自分自身を駆動させるためにのみ、ガス・水道・電気を利用するし、農作物すら発電用の資源として独占しかねない。その時、人間にできるのはネットワークを遮断するか、電源の供給を止めるしかない。だがもし、人工知能がAGIからASIになった瞬間を補足できなければ、人工知能は野に解き放たれる。そして人類がASIの制御を行うチャンスは失われる。

では、今の既存のソフトウエアの技術は人工知能に意思を持たせられる段階に来ているのか。まずそれを考えねばならない。私が本書を読むまで甘く考えていたのもこの点だ。人工知能の開発手法が、機械学習をベースとしている限り、知識とその判断結果によって築きあげる限り、自立しようがないのでは?つまり、技術者がコマンドを発行せねば人工知能はただの箱に過ぎず、パソコンやスマホと変わらないのでは?大抵の人はそうたかを括っているはずだ。私もそうだった。

だが、人工知能をAGIへ、さらにその先のASIに進める研究は世界のどこかで何者かによって着実に行われている。しかも研究の進捗は秘密のベールに覆われている。

人間に使われるだけの存在が、いつ自我を身につけるのか。そして自我を己の生存のためだけに向けるのか。そこに感情や意思と呼べるものはあるのか。全く予想が付かない。著者はASIには感情も意思もないと見ている。あるのはただロジックだけ。そして、そのロジックは人類に補足できない。人工知能が自我に目覚める瞬間に気づく可能性は低いし、人工知能のロジックを人類が使いこなせる可能性はさらに低い。それが著者の悲観論の要点だ。

本書の中で著者は、何人もの人工知能研究の碩学や泰斗に話を聞いている。その中にはシンギュラリティを世に広めた事で有名なレイ・カーツワイル氏もいる。カーツワイル氏の唱える楽観論と著者の主張は平行線をたどっているように読める。それも無理はない。どちらも仮説を元に議論しているだけなのだから。私もまだ著者が焚きつける危機感を完全に腹に落とし込めているわけではない。でも、著者にとってみればこれこそが最も危険な点なのだろう。

著者に言わせると、ASIを利用すれば地球温暖化や人口爆発は解決できるとのことだ。ただ、それらの問題はASIによる人類絶滅の危険に比べれば大したことではないともいう。それどころか、人工知能が地球温暖化の処方箋に人類絶滅を選べば元も子もない。

私たちは人工知能の危機をどう捉えなければならないのか。軽く受け流すか、それとも重く受け止めるか。2000年問題やインターネットを巡る悲観論が杞憂に終わったように、人工知能も同じ道をたどるのか。

どちらにせよ、私たちの思惑に関係なく、人工知能の開発は進められて行く。それがGoogleやAmazon、Facebook、AppleといったいわゆるGAFAの手によるのか。ほかの情報業界のスタートアップ企業なのか。それとも、国の支援を受けた研究機関なのか。または、軍の統帥部の奥深くかどこかの大学の研究室か。もし、ASIの自我が目覚めれば、その瞬間、人類の未来は定まる。

私は本書を読んでからというもの、人工知能の危機を軽く考える事だけはやめようと思った。そして、情報技術に携わる者ものとして、少し生き方も含めて考え直さねば、と思うようになった。

’2017/10/17-2017/10/24


塩の街


著者のデビュー作ともいえる本書をようやく読む。「海の底」「空の中」と本書を合わせて自衛隊三部作というらしい。

「海の底」「空の中」と同じく、本書も災厄に遭う人間を描いている。本書で人類を襲う災厄とは、流星群から落下した塩の結晶。巨大な塩の結晶は、人間を塩に変えてしまう。それは、旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの逸話を思い出させる。神によって滅ぼされたソドムとゴモラから逃げるロトの妻は、振り返ってはいけないという教えをやぶって振り返ったために塩の柱とされてしまう。本書134ページで入江が語るのもこのエピソードだ。つまり、著者は明らかに旧約聖書のエピソードを意識して本書を書いたことが分かる。だが、たとえ旧約聖書からの閃きがあったにせよ、滅びのイメージと塩を結びつけたのは著者の慧眼だと思う。

本書は、無人の街を一人行く遼一の姿で始まる。塩に侵され廃虚と化した街並み。徐々に遼一の前に広がる景色の異様さが描かれてゆく。ところどころに屹立する白い結晶。塩の柱。白く染まった町並みに人はほとんどいない。

著者は災厄が世界を襲った半年後からを書く。人が塩と化し、混乱と破壊が街を襲った瞬間を直接書くことはしない。なぜなら本書はパニック小説ではないからだ。普通、パニック小説は人間の弱さに焦点が当てられる。天災や外敵の猛威の中、なすすべもない人間の弱さ。そこに文明に驕る人類の弱さを教訓と当てはめる演出がパニックものによくある。だが、著者はパニックの瞬間を書かない。パニックのさ中の破壊や崩壊による轟音は書かず、壊れるべきものが壊れた後の静寂を書く。パニックが一息ついた後、人の言動に表れるのは弱さよりも脆さ。著者が本書で書こうとしているのはその弱さだ。そしてその脆さとは、塩の結晶の脆さに結びついている。そこに本書の注目すべき点がある。

人類と人類の作り上げた文明の脆さ。インフラが断絶し、あらゆる社会機能が崩壊した社会に林立する塩の柱。脆さを塩のイメージに置き換える想像力こそ本書の肝だと思う。

そして塩にはもう一つの意味がある。それは浄化だ。保存食に塩を揉み込み、盛り塩をして邪気を祓う。古き時代より受け継がれてきた知恵は、塩を浄化の象徴に祭り上げた。

普通、有機物である人体が死ねば即、腐敗が始まる。細菌や虫、野生動物などあらゆる生物が人体を分解しにかかる。腐敗と崩壊が穢れた色で彩られてゆく。その様子は決して気持ちのよいものではない。だが、塩の結晶と化した人間はそのような醜さからは無縁の存在としてあり続ける。遼一が海に帰そうと群馬から持って来た海月の首もそう。それはもはや美にも等しい白く清浄な塩の像だ。醜さとは対極の姿のまま、母なる海へ同化して返ってゆく。そんな遼一と海月の挿話で始まる本書はとても美しい。そんな遼一を世話し、望みをかなえてやろうとする真奈と秋庭の二人の心のあり方もまた美しい。

著者は本書で人間を醜さよりも脆さで扱おうとする。その象徴がScene 2に登場するトモヤだ。塩害に罹って自暴自棄になった彼は、登場するなり本書のヒロインである真奈を犯そうとする。だが、自らの醜さを貫けぬまま秋庭にひねり上げられてしまう。トモヤは自分の人生を悔やみ、許しを請いながら白い結晶と化す。醜さが醜さのまま保ち得ず、脆さに入れ替わってしまうのだ。

そんな本書の世界観は、Scene 3の後に訪れるインターミッションを境に変化する。秋庭と真奈の元に訪れてきた入江。彼の精緻な頭脳とそこから生まれる冷酷な論理。入江の思惑に巻き込まれる秋庭と、真奈の秋庭への愛。二人の男女に訪れる相克が本書の後半を占めるテーマだ。そこにはScene 1と2に見られた人類の脆さはない。むしろ入江に象徴される強さこそが正義。そんな新たな価値観が持ち込まれたようにも受け取れる。醜さすら見え隠れする入江の傲岸さと、真奈のいちずな思い。どちらが最後に勝つのか。著者はぐいぐいと本書を結末へと導いてゆく。

そして本書の色合いが変わったタイミングで、航空自衛隊のエースパイロットとしての秋庭の素性がさらけ出され、一気に本書の筋は剣呑な方向に突き進む。前半とは打って変わったこの展開は、筋書きを優先したものだ。読者によってはその変化に戸惑う方もいることだろう。前半は白や塩のイメージが本書の背後にとても深い懐を感じさせていた。それなのに、後半ではその深みが消え去ってしまうからだ。確かに真奈の秋庭を思う真情は気高く純粋だ。だが、世界なんかどうなってもいい。あの人が無事だったらほかには何も要らない。そんな真奈の思いは独善に通じる。そこから人間の醜さへはあと一歩だ。そして秋庭の活躍で文明はかろうじて滅びをまぬがれ、再建への一歩を記す。つまり物語の先に慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会を予感させるのだ。

結局のところ、脆さと醜さの間を行き来しながら存在し続けるのが人類。それが著者の結論なのだろうか。さまざまに余韻を残す結末だ。

本書はいったん幕を閉じる。本書の残りは、秋庭と真奈をめぐる周囲の人物の挿話が収められている。ルポライターを志望するノブオは、秋庭と真奈の旅にしばらく同行する。そして二人の関係や災厄に襲われた世界のあり方を見聞きする。当初は浅い功名心でこの事実を報道するつもりが、心でこの災厄を受け止めてゆく。そんな少年の成長が描かれる話だ。また、続いての挿話は自衛官の由美と正の夫妻が書かれる。この夫妻は本編でも重要人物として登場する。塩の災厄を通じて恋人から夫婦へと絆を固める二人。二人のあり方からは夫婦のあり方の微妙なバランスと、なぜ恋人ではなく夫婦なのかを考えさせられる。男女の心の通い方を描かせれば著者の筆は勢いを帯びる。続いて登場する一編は、入江が塩の災厄で独断で行った処置についての手痛いしっぺ返しだ。入江はその独特なキャラで本書に重要な役割を果たす。が、本編では彼の心の奥底がさらされる。ここで書かれるのは個人の内面だ。あとがきでも著者は一番入江を書くのが難しかったと書いていた。最後の一編では家族のあり方が書かれる。長年確執のあった秋庭と父。その和解が語られ、そして真奈の中には秋庭の子が宿る。胎児は慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会とは対極にある存在だ。脆くて清浄な塩のような存在。その存在が真奈の中に宿ったことも著者のメッセージの一つだろう。

最後の四編は言ってみれば本書の筋を囲む周りの話でしかない。本書に登場する人物達をよく知る上では確かに必要だが、あまり本編とは関わりはない。だが、著者のその後の著作を読むと、最後の四編の中に著者のテーマの多くが現れていることに気づく。四編はあとから書き足された話とはいえ著者はデビュー時点でそれらのテーマを扱うことに決めていたのだろうか。私にはわからない。だが、デビューとそれに続く作品に著者のテーマが登場しているのは、著者の作品を読むうえでヒントになる。

‘2017/04/01-2017/04/02


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


人類5万年 文明の興亡 上


本書は日本語版と原書英語版でタイトルが違っている。

日本語版は以下の通り。
『人類5万年 文明の興亡』
原書ではこうなっている。
『 Why The West Rules ― For Now』

それぞれにはサブタイトルがつけられている。
日本語版は『なぜ西洋が世界を支配しているのか』
原書では『The Patterns of History, and What They Reveal About the Future』

つまり、日本語版と原書ではタイトルとサブタイトルが逆になっているのだ。なぜそのようなことになったのか。私の推測だが日本語版のタイトルをつけたのは筑摩書房の編集者だと思う。訳者の北川知子氏ではないはず。なぜなら、本書下巻に付されている北川知子氏によるあとがきにはそのあたりの意図についてを触れていないからだ。だが、北川氏は同じあとがきのなかで、原書タイトルの直訳を記している。『なぜ西洋は支配しているのか・・・・・・今のところは―歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』。私にはこっちのほうが本書のタイトルとしてしっくり来る。

なぜそう思ったかというと、本書は大きな問いによって支えられているからだ。『なぜ西洋は支配しているのか』という問いに。

ここ数世紀、世界は西洋が支配している。それに異を唱えるものは誰もいないはず。これを書いている現在では、参加資格停止中のロシアを含めたG8参加国の中で非西洋の国は日本だけ。もちろん、ここにきて中国の経済成長は目覚しい。一路一帯というスローガンを掲げ、中国主導の意思をあまねく世界に示したことは記憶に新しい。だが中国はまだG8の一員として迎えられていない。G8だけではない。西洋が世界を席巻している証拠はITにも表れている。これからの世界を支えるのがITであることは言うまでもない。そしてITの世界では英語がデファクトスタンダードとなっている。つまり、西洋の主導で動いているのだ。これらの実情からも、西洋が世界を支配している現状は否定できない。

そんな現状に背を向け、著者は西洋の優位が長くないことを予言する。そのための論拠として世界の通史を長々と述べるのが本書だ。通史から、過去からの西洋と東洋の重心の揺れ動きを丹念に分析し、将来は西洋と東洋のどちらが主導権を握るか指し示す。それが本書のねらいだ。つまり、本書は大きな『なぜ西洋が支配しているのか ・・・・・・今のところは 』という問いに対し『歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』という論拠を示す大いなる試みなのだ。私が原書のタイトルのほうが良いと思った理由はそこにある。

「はじめに」で、著者は歴史に仮定を持ち込む。その仮定の歴史では、英国はアヘン戦争で中国に敗れる。ロンドンに中国からの使者を迎え、恭順の意を示して頭を垂れるヴィクトリア女王。著者はそんな仮定の情景を以下の通りに描く。

清国の道光帝は、宗主国に対して敬意を表したいという英国女王の願いを認める。女王は朝貢と納税を請い、道光帝に最大限服従するとともにその支配を求める。道光帝は女王の国を属国として扱い、イギリス人が中国人の流儀に従うことを許す。(8P)

本書はそんな衝撃的な仮定で始まる。西洋ではなく東洋が優位になっていた歴史の可能性。その可能性を示すため、英国人の著者はあえてショッキングな描写で読者の目を惹こうとする。

著者がこのような挑戦的な仮定を持ち出したことには訳がある。というのも歴史の綾によってはこのような仮定の歴史が現実になる可能性もゼロではなかったのだ。このエピソードは本書の全編を通して折に触れ取り上げられる。読者は本書を読むにあたり、東洋と西洋が逆転する世界が到来していた可能性を念頭に置くことを求められる。

通史を描くにあたり、著者は今までの歴史観を取り上げて批評する。それら歴史観は、なぜ西洋が支配しているのかについてある定説を導いている。一つは長期固定理論。一つは短期偶発理論。前者は太古の昔に生じた何らかの要因が東洋と西洋を分かち、それが発展に差をつけたとする考えだ。著者も批判的に言及しているが、これはある種のレイシズムにも通じかねない危うい理論だ。というのも太古の昔に生じた何らかの要因とは、人種的な差であることを意味するから。つまり人種差別。この論を信ずるならば、東洋は今後いかなる奇跡が起ころうとも西洋の後塵を拝し続けなくてはならない。では、後者の短期偶発理論はどうかというと、東洋と西洋には最近まで差がなかったという考えだ。偶然によって西洋はアメリカ大陸を「発見」し、産業革命を成し遂げたことで両者の間に差が生じたとする考えだ。ただ、この偶発が生じた要因は論者によって千差万別。つまり、理論として成り立たたないと著者は指摘する。

そもそも著者によれば長期固定理論も短期偶発理論も共通の過ちがあるという。その過ちとは、両理論ともに人類史のうち、ほんの一部の期間しか考察に使っていないこと。著者はそう主張する。時間の幅をもっとひろげ、人類史の全体を考察しなければ西洋と東洋の発展に差が生じた理由は解明できないというのだ。「過去をより遠くまで振り返れば振り返るほど、未来も遠くまで見渡せるだろう」(18P)とチャーチルの言葉を引用して。

著者はまた、特定の学問成果に拠ってこの問題を考えるべきではないとする。つまり、考古学、歴史学、文献学だけでなく、生物学、経済学、人類学、化学、哲学、植物学、動物学、物理学といったあらゆる学問を学際的に取り扱ったうえで判断せねばならないという。それら学問を各時代に当てはめ、社会発展の尺度を図る。著者が考案したその尺度は、社会発展指数という。その算出方法は下巻の末尾を25ページ割いて「捕遺 社会発展指数について」と詳細な説明が載せられている。また、著者のウェブサイトにも載っている。著者自身による社会発展指数の解説は、同時に社会発展指数への批判に対する反論にもなっている。

われわれのような素人の歴史愛好家はとにかく誤解しやすい。東洋と西洋の差が生じたのは人種的な差によるとの考えに。それは無意識な誤解かもしれないが、著者が説く長期固定理論への批判は把握しておいたほうがよい。人種の優劣が東洋と西洋の発展を分けたのではない。この事実は東洋人である私の心をくすぐる。ナショナリズムを持ち出すまでもなく。そして人種差別の無意味な差について理解するためにも。

そのため、著者が西洋と東洋の歴史を語り始めるにあたり、猿人の歴史から取り掛かっても驚いてはならない。現代、世界にはびこっている西洋の文明をもととして起源へとさかのぼっていく手法。それははじまりから探求に偏向が掛かってしまう。なぜ西洋と東洋がわかれ、差が付いてしまったのか。西洋をベースとせず、まっさらな起源から語り始めなければ東洋と西洋の差が生じた原因は解明できない。そう主張する著者の手法は真っ当なものだし信頼も置ける。

われわれのような素人はともすれば誤解する。猿人からホモ・ハビリスへ。さらにホモ・エレクトスへ。原人からネアンデルタール人へ。その発展過程で現代の東洋人と西洋人の先祖がわかれ、その人種的差異が発展の差異を生んだのではないか、と。しかし著者は明確にこれを否定する。それはホモ・サピエンスの登場だ。著者は、生物学、遺伝学、あらゆる情報を詰め込みながら、猿人からの発展過程を書き進める。そして、
「過去六万年のアフリカからの拡散は、その前の五〇万年間に生じていたあらゆる遺伝的相違を白紙に戻した。」(87P)
と。つまり、それまでの進化や差異は、ホモ・サピエンスによって全て上書きされたのだ。それは人種間の優劣が今の東洋と西洋の差異になんら影響を与えていないことでもある。

では何が東洋と西洋の差を生じさせたのか。それは地球の気候の変化だ。気候の変化は氷河期に終止符を打ち、地球は温暖化されていった。それに従いもっとも恩恵を受けたのは「河沿いの丘陵地帯」だ。ティグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川のブーメラン状に区分けされる地域。昔、私が授業で習った言葉でいえば「肥沃な三角地帯」ともいう。この地域が緯度の関係でもっとも温暖化の恩恵を受けた。そして人々は集まり文明を発展させていったのだ。

ここで著者は、本書を通じて何度も繰り返される一つの概念を提示する。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」というパラドックスだ。一つの地域が発展すればするほど、富者と貧者が、勝者と敗者が、男女の間が、年寄と若者の関係が変わる。発展すれば人々は群れ、利害は衝突する。そのため統治の必要が生じる。管理されるべき関係は複雑化し、その地域の人々自身に脅威として降りかかる。218Pで説明されるこの概念を著者はこのあと何度も持ち出す。今まで発展した地域では例外なくこのパラドックスが起きてきた。エジプト、ギリシア、ローマ、開封。今の社会でいえば、文明の過度な発展が環境問題や人口増加、温暖化などの弊害を生み出していると言えるのだろう。

「河沿いの丘陵地帯」。つまりこの当時の西洋の中心が享受していた文明の発展は、著者の社会発展指数の計算式によると東洋と比べて一万三千年分に相当する優位をもたらしていた。しかし、あまりにも繁栄したため「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは、「河沿いの丘陵地帯」の社会に混乱を巻き起こす。そしてその混乱は一万三千年の優位を帳消しにしてしまう。シュメール、バビロニア、エジプト、ヒッタイト、アッシリアといった強国間の争いは社会発展と同時にそれを妨げる力を生んでしまったのだ。

この危機を乗り切るため、文明はローエンド国家からハイエンド国家への移行を図る。つまり中央集権化である。これによって西洋はイスラエルやアッシリアから古代ギリシャへ。また、遅れて同様の課題に直面した東洋では商から周へと国家が移りゆく。その発展への努力は、東洋に次なる社会の動きを呼び覚ます。すなわち春秋戦国時代をへての秦と漢による統一だ。そして西洋では、全ての道はローマへとつながる大帝国として結実する。

停滞もしながら、東西両方の社会発展指数はじわじわと上昇し続ける。わずかに西洋が東洋を上回る状態が続くが、発展の軌跡は東西ともに同じだ。著者は東西両方の通史をとても丹念にたどり続ける。そして、ローマ帝国の版図拡大と漢のそれは、気候温暖化の恩恵を確かに受けていたことを証明する。

そしてついに洋の東西が接触することになる。その接触は気候の寒冷化が引き金となったのかもしれない。そして東西の接触は病原菌の接触でもある。免疫を持たない病原菌の接触。それはすなわち、疫病の流行となって社会に打撃を与える。暗黒時代の到来である。

東洋では漢が滅び、三国志の時代をへて魏晋南北朝、そして五胡十六国の分裂へ。西洋ではローマ帝国が異民族侵入や内患で東西に分裂する。

その分裂は人々に混乱をもたらす。混乱に見舞われた時、人は何をよすがに生きるのか。多くの人々は人智を超えた存在に救いを求めるのではないか。すなわち宗教。人々は混迷する世から逃れようと宗教に救いを求めた。キリスト教や仏教の教えがこの時期に広まったのは寒冷化が大きく影響を与えていたのだ。寒冷化が安定した文化を解体にかかる。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスとは別に社会の変化を促す要因であることがわかる。

本書の主眼は、通史の流れから東洋と西洋の発展差の原因を追うことにある。また、社会の変化が何から生まれるのか、を知ることでもある。上巻で書かれるのは古代がようやく終わったところまで。だが、人類が誕生してから古代までの歴史を追うだけでも、歴史のうねりが生じる原因を十分に知ることができる。本書は歴史書としてとても勉強になる一冊だ。

‘2016/10/15-2016/10/20


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


ジェノサイド


冒険小説の黄金作再び!本作の登場を歓迎する!

80~90年代、我が国の冒険小説は実に豊潤であった。私も船戸与一氏や、逢坂剛氏、谷甲州氏、北方謙三氏、志水辰夫氏、佐々木譲氏などの作品群を良く読んだものである。

以来四半世紀が過ぎ、その時々で秀作に巡り会えてはいたものの、冒険小説界隈ではあの頃のような豊作に巡り会えない日々が続いた。

これは私感だが、ITや科学技術の急速な発展が、冒険小説の世界を縮小させてしまったのかもしれない。特にモバイル技術の普及は、冒険小説の前提を制限し、スリルを大きく殺いだに違いない。

しかし、待ち望んだ甲斐あって、本作はその黄金期を彷彿とさせる作品である。科学やITの発達も作品に盛り込んだ上、アフリカを舞台の中心に据えることで、野性味までをも充たしている。

本書の新味は冒険小説の骨格はそのままに、科学技術の発達をふんだんに盛り込んだことにあるとも言える。むしろ発達こそが本書を貫くキーワードといってもよい。

一言で発達と書いたが、それは子供から大人へ成長する発達を云うのではない。ここで云う発達とは、種としての発達である。

我々ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と生息圏を争い、ついには絶滅へと追いやった。同じように、我々ホモ・サピエンスの能力を遥かに凌駕する新種の人類によって追いやられることがないと誰が断言できようか。地球上で我が物顔にのさばり、増長する我々人類など、ネアンデルタール人と同様の運命を辿ることも考えられるのではないか。

本書は、今の人類の傲慢さ、そして残忍さをこれでもかと描き出す。スーパーパワーを自負し、国際関係を牛耳る米国の増長。アフリカでは部族間のいさかいが止まるところを知らぬ殺戮にエスカレートし、野蛮な本能に抑えが効かない。身内の不幸には関心を示すが、遠くの虐殺には無関心な上辺の同情が先進国を覆う。隣国同士がいがみ合い、過去の歴史をいつまでも引きずり、批難し合う。

醜い人間の本能がさらけ出される前半部。愚かな旧人類は、地球の片隅に生誕した新人類(ヌ-ス)により、圧倒的な能力差を見せ付けられる。ホモ・サピエンスとしての矜持を失わない一握りの旧人類により庇護されるヌースと、支配者としての既得権益の喪失を恐れ、ヌース抹殺を図る米国の陰謀との闘いが後半部を占める。

本書の構想とスケールの大きさ、着想は見事の一言に尽きる。今の人類の抱える諸問題を、新人類の存在一つで矮小なものとしようとする力業。

残念ながら、力が余って、人物描写とその背景に深みを与えようとする意図が作品世界に違和感を漂わせることとなった。違和感の正体とは、日本を客観的に書かず、自虐的に書いてしまったことである。日本を客観的に書く時、とくに本書のような人類の愚かさを書く場合は、日本を美化することで、作品全体が嘘っぽく白けてしまう。その恐れは分かるし、著者もそれを避けたのではないか。本書では随所にアジアにおける日本についての自虐的な描写が目立つ。だが、私は本書の自虐的にも見える日本についての書き振りが、日本を貶めようとするためではないと信じたい。日本人科学者を助ける有能な韓国人という話の構成は悪くない。本来は日韓が歴史認識でいがみ合うのではなく、助け合うべきというのが著者の主張したかったことではないかと思う。

本書に登場する新人類は、ガンダムシリーズにおけるニュータイプよりも一層、そのかけ離れた能力故に絵空事に近い。とはいえ、今、この瞬間にも新しい人類は誕生しており、我が世の春を謳歌する我々に鉄槌を下すべく成長を始めている可能性も皆無ではない。人類が民族や宗教、文化の隔たりを越えて団結できるのは、人類の枠を超えた強大な敵が現れた時でしかないという寂しい予想もある。人類とは自らの内から変革できるだけの器ではなく、外からの攻撃によってしか変革できない種なのかもしれない。

反日や自虐。著者がそのような括りで批難されることを想定しなかったとは思えない。むしろそういわれることを覚悟しつつ、孤高の視点から人類という種を書きたいというのが著者の真意ではないか。本書の優れた冒険小説としての完成度が、そんなありきたりのアンチワードで壊されるのは耐え難い。そう思いたくなるほど、本書の描写には力がある。

‘2014/9/5-2014/9/6