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手術がわかる本


本書は、紹介してもらわなければ一生読まずに終わったかもしれない。人体に施す代表的な73の手術をイラスト付きで紹介した本。貸してくださったのはマニュアル作りのプロフェッショナル、情報親方ことPolaris Infotech社の東野さんだ。

なぜマニュアル作りのプロがこの本を勧めてくださったのか。それはマニュアル作りの要諦が本書にこめられているからに違いない。手術とは理論と実践が高度に求められる作業だ。症例を理論と経験から判断し、患部に対して的確に術を施す。どちらかが欠ければ手術は成功しないはずだ。そして、手術が成功するためには、医療を施す側の力だけでなく、手術を受ける側の努力も求められる。患者が自らに施される手術を理解し、事前の準備に最大限の協力を行う。それが手術の効果を高めることは素人の私でもわかる。つまり、患者が手術を理解するためのマニュアルが求められているのだ。本書こそは、そのための一冊だ。

本書が想定する読者は医療に携わる人ではない。私のように医学に縁のない者でもわかるように書かれている。医療の初歩的な知識を持っていない、つまり、専門家だから知っているはず、という暗黙の了解が通用しない。また、私のような一般の読者は体の組織を知らない。名前も知らなければ、位置の関係にも無知だ。手術器具もそう。本書に載っている器具のほとんどは、名称どころか機能や形についても本書を読むまで知らなかったものばかり。各病気の症状についての知識はもちろんだ。

手術をきちんと語ろうと思えばどこまでも専門の記述を盛り込める。だが、本書は医療関係者向けではなく、一般向けに書かれた本だ。そのバランスが難しい。だからこそ、本書は手術を受ける患者にとって有益な1冊なのだ。そしてマニュアルとしても手本となる。なぜなら、マニュアルとは本来、お客様のためにあるべきだからだ。

これは、ソフトウエアのマニュアルを考えてみるとわかりやすい。システムソフトウエアを使うのは一般的にユーザー。ところがそのシステムを作るのはシステムエンジニアやプログラマーといった技術者だ。システムの使用マニュアルは普通、ユーザー向けに提供される。もちろん、技術者向けのマニュアルもある。もっとも内部向けには仕様書と呼ばれるが。家電製品も同じ。製品に同梱されるマニュアルは、それを使う購入者のためのものであり、工場の従業員や設計者が見る仕様書は別にある。

そう考えると、本書の持つ特質がよく理解できる。医師や看護師向けのマニュアルとは一線を画し、本書はこれから不安を抱え、手術を受けるための患者のためのもの、と。

だから本書にはイラストがふんだんに使われる。イラストがなければ患者には全く意味が伝わらない。そして、使われるイラストも患者がシンプルに理解できるべき。厳密さも精細さも不要。患者にとって必要なのは、自分の体のどこが切り刻まれ、どこが切り取られ、どこが貼り直され、どこが縫い合わされるかをわかりやすく教えてくれるイラスト。位置と形状と名称。これらが患者の脳にすんなりと飛び込めば、イラストとしては十分なのだ。本書にふんだんに使われているイラストがその目的に沿って描かれていることは明らかだ。体の線が単純な線で表されている。そして平面的だ。

一方で、実際に施術する側にとってみれば、本書のイラストは全く情報量が足りない。手術前に検討すべきことは複雑だ。レントゲンの画像からどこに病巣があるかを読み取らなければならない
。手術前の事前のブリーフィングではどこを切り取り、どうつなぎ合わせるかの施術内容を打ちあわせる。より詳しいCT/MRI画像を解読するスキルや、実際に切開した患部から即座に判断するスキルを磨くには、本書のイラストでは簡潔すぎることは言うまでもない。

イラストだけではない。記述もそうだ。一概に手術を語ることがどれだけ難しいかは、私のような素人でもわかる。病気と言っても人によって症状も違えば、処方される薬も違う。施術の方法も医師によって変わるだろう。

そして、本書に描かれる疾患の要素や、処置の内容、処方される薬などは、さらに詳しい経験や仕様書をもとに判断されるはず。そのような細かく専門的な記述は本書には不要なのだ。本書には代表的な処置と代表的な処方薬だけが描かれる。それで良いのだ。詳しく描くことで、患者は安心するどころか、逆に混乱し不安となるはずだから。

ただ、本書はいわゆるマニュアルではない。一般的な製品のマニュアルには製造物責任法(PL法)の対応が必要だ。裁判で不利な証拠とされないように、やりすぎとも思えるぐらいの冗長で詳細な記載が求められる。本書はあくまでも手術を解説した本なので、そうした冗長な記述はない。

あくまでも本書は患者の不安を取り除くための本であり、わかりやすく記すことに主眼が置かれている。だからこそ、マニュアルのプロがお勧めする本なのだろう。

本書を読むことで読者は代表的な73の手術を詳細に理解できる。私たちの体はどうなっていて、お互いの器官はどう機能しあっているのか。どのような疾患にはどう対処すべきなのか、体の不調はどう処置すれば適切なのか。それらは人類の叡智の結晶だ。本書はマニュアルの見本としても素晴らしいが、人体を理解するためのエッセンスとしても読める。私たちは普段、生き物であるとの忘れがちな事実。本書はそれを思い出すきっかけにもなる。

本書に載っている施術の多さは、人体がそれだ多くのリスクを負っている事の証だ。73種類の中には、副鼻腔の洗浄や抜歯、骨折や虫垂炎、出産に関する手術といったよくある手術も含まれている。かと思えば、堕胎手術や包茎手術、心臓へのペースメーカー埋め込みや四肢切断、性転換手術といったあまり出会う確率が少ないと思われるものもある。ところが、性別の差を除けばどれもが、私たちの身に起こりうる事態だ。

実際、読者のうちの誰が自分の四肢が切断されることを想定しながら生きているだろう。出産という人間にとって欠かせない営みの詳しい処置を、どれだけの男性が詳しく知っているだろう。普段、私たちが目や耳や口や鼻や皮膚を通して頼っている五感もそう。そうした感覚器官を移植したり取り換えたりする施術がどれだけ微妙でセンシティブなのか、実感している人はどれだけいるだろうか。

私たちが実に微妙な身体のバランスで出来上がっているということを、本書ほど思い知らせてくれる書物はないと思う。

人体図鑑は世にたくさんある。私の実家にも家庭の医学があった。ところが本書に載っているような手術の一連の流れを、網羅的に、かつ、簡潔にわかりやすく伝えてくれる本書はなかなかみない。実は本書は、家庭の医学のように一家に一冊、必ず備えるべき書物なのかもしれない。教えてくださった情報親方に感謝しなければ。

‘2018/08/22-2018/09/03


74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


塩の街


著者のデビュー作ともいえる本書をようやく読む。「海の底」「空の中」と本書を合わせて自衛隊三部作というらしい。

「海の底」「空の中」と同じく、本書も災厄に遭う人間を描いている。本書で人類を襲う災厄とは、流星群から落下した塩の結晶。巨大な塩の結晶は、人間を塩に変えてしまう。それは、旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの逸話を思い出させる。神によって滅ぼされたソドムとゴモラから逃げるロトの妻は、振り返ってはいけないという教えをやぶって振り返ったために塩の柱とされてしまう。本書134ページで入江が語るのもこのエピソードだ。つまり、著者は明らかに旧約聖書のエピソードを意識して本書を書いたことが分かる。だが、たとえ旧約聖書からの閃きがあったにせよ、滅びのイメージと塩を結びつけたのは著者の慧眼だと思う。

本書は、無人の街を一人行く遼一の姿で始まる。塩に侵され廃虚と化した街並み。徐々に遼一の前に広がる景色の異様さが描かれてゆく。ところどころに屹立する白い結晶。塩の柱。白く染まった町並みに人はほとんどいない。

著者は災厄が世界を襲った半年後からを書く。人が塩と化し、混乱と破壊が街を襲った瞬間を直接書くことはしない。なぜなら本書はパニック小説ではないからだ。普通、パニック小説は人間の弱さに焦点が当てられる。天災や外敵の猛威の中、なすすべもない人間の弱さ。そこに文明に驕る人類の弱さを教訓と当てはめる演出がパニックものによくある。だが、著者はパニックの瞬間を書かない。パニックのさ中の破壊や崩壊による轟音は書かず、壊れるべきものが壊れた後の静寂を書く。パニックが一息ついた後、人の言動に表れるのは弱さよりも脆さ。著者が本書で書こうとしているのはその弱さだ。そしてその脆さとは、塩の結晶の脆さに結びついている。そこに本書の注目すべき点がある。

人類と人類の作り上げた文明の脆さ。インフラが断絶し、あらゆる社会機能が崩壊した社会に林立する塩の柱。脆さを塩のイメージに置き換える想像力こそ本書の肝だと思う。

そして塩にはもう一つの意味がある。それは浄化だ。保存食に塩を揉み込み、盛り塩をして邪気を祓う。古き時代より受け継がれてきた知恵は、塩を浄化の象徴に祭り上げた。

普通、有機物である人体が死ねば即、腐敗が始まる。細菌や虫、野生動物などあらゆる生物が人体を分解しにかかる。腐敗と崩壊が穢れた色で彩られてゆく。その様子は決して気持ちのよいものではない。だが、塩の結晶と化した人間はそのような醜さからは無縁の存在としてあり続ける。遼一が海に帰そうと群馬から持って来た海月の首もそう。それはもはや美にも等しい白く清浄な塩の像だ。醜さとは対極の姿のまま、母なる海へ同化して返ってゆく。そんな遼一と海月の挿話で始まる本書はとても美しい。そんな遼一を世話し、望みをかなえてやろうとする真奈と秋庭の二人の心のあり方もまた美しい。

著者は本書で人間を醜さよりも脆さで扱おうとする。その象徴がScene 2に登場するトモヤだ。塩害に罹って自暴自棄になった彼は、登場するなり本書のヒロインである真奈を犯そうとする。だが、自らの醜さを貫けぬまま秋庭にひねり上げられてしまう。トモヤは自分の人生を悔やみ、許しを請いながら白い結晶と化す。醜さが醜さのまま保ち得ず、脆さに入れ替わってしまうのだ。

そんな本書の世界観は、Scene 3の後に訪れるインターミッションを境に変化する。秋庭と真奈の元に訪れてきた入江。彼の精緻な頭脳とそこから生まれる冷酷な論理。入江の思惑に巻き込まれる秋庭と、真奈の秋庭への愛。二人の男女に訪れる相克が本書の後半を占めるテーマだ。そこにはScene 1と2に見られた人類の脆さはない。むしろ入江に象徴される強さこそが正義。そんな新たな価値観が持ち込まれたようにも受け取れる。醜さすら見え隠れする入江の傲岸さと、真奈のいちずな思い。どちらが最後に勝つのか。著者はぐいぐいと本書を結末へと導いてゆく。

そして本書の色合いが変わったタイミングで、航空自衛隊のエースパイロットとしての秋庭の素性がさらけ出され、一気に本書の筋は剣呑な方向に突き進む。前半とは打って変わったこの展開は、筋書きを優先したものだ。読者によってはその変化に戸惑う方もいることだろう。前半は白や塩のイメージが本書の背後にとても深い懐を感じさせていた。それなのに、後半ではその深みが消え去ってしまうからだ。確かに真奈の秋庭を思う真情は気高く純粋だ。だが、世界なんかどうなってもいい。あの人が無事だったらほかには何も要らない。そんな真奈の思いは独善に通じる。そこから人間の醜さへはあと一歩だ。そして秋庭の活躍で文明はかろうじて滅びをまぬがれ、再建への一歩を記す。つまり物語の先に慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会を予感させるのだ。

結局のところ、脆さと醜さの間を行き来しながら存在し続けるのが人類。それが著者の結論なのだろうか。さまざまに余韻を残す結末だ。

本書はいったん幕を閉じる。本書の残りは、秋庭と真奈をめぐる周囲の人物の挿話が収められている。ルポライターを志望するノブオは、秋庭と真奈の旅にしばらく同行する。そして二人の関係や災厄に襲われた世界のあり方を見聞きする。当初は浅い功名心でこの事実を報道するつもりが、心でこの災厄を受け止めてゆく。そんな少年の成長が描かれる話だ。また、続いての挿話は自衛官の由美と正の夫妻が書かれる。この夫妻は本編でも重要人物として登場する。塩の災厄を通じて恋人から夫婦へと絆を固める二人。二人のあり方からは夫婦のあり方の微妙なバランスと、なぜ恋人ではなく夫婦なのかを考えさせられる。男女の心の通い方を描かせれば著者の筆は勢いを帯びる。続いて登場する一編は、入江が塩の災厄で独断で行った処置についての手痛いしっぺ返しだ。入江はその独特なキャラで本書に重要な役割を果たす。が、本編では彼の心の奥底がさらされる。ここで書かれるのは個人の内面だ。あとがきでも著者は一番入江を書くのが難しかったと書いていた。最後の一編では家族のあり方が書かれる。長年確執のあった秋庭と父。その和解が語られ、そして真奈の中には秋庭の子が宿る。胎児は慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会とは対極にある存在だ。脆くて清浄な塩のような存在。その存在が真奈の中に宿ったことも著者のメッセージの一つだろう。

最後の四編は言ってみれば本書の筋を囲む周りの話でしかない。本書に登場する人物達をよく知る上では確かに必要だが、あまり本編とは関わりはない。だが、著者のその後の著作を読むと、最後の四編の中に著者のテーマの多くが現れていることに気づく。四編はあとから書き足された話とはいえ著者はデビュー時点でそれらのテーマを扱うことに決めていたのだろうか。私にはわからない。だが、デビューとそれに続く作品に著者のテーマが登場しているのは、著者の作品を読むうえでヒントになる。

‘2017/04/01-2017/04/02


神のロジック・人間のマジック


実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。本書を読み終えてからそのことに気づいた。本書は文藝春秋の本格Mystery Mastersの中の一冊だ。本格Mystery Mastersといえば、そうそうたる作家が執筆陣にそろっている。私もシリーズに収められた作品はいくつか読んでいる。

本書を無理やりカテゴライズするとすれば孤島物になるだろうか。孤島物とは、閉ざされた空間ー人里離れた島や洋館などーで起こる事件を扱うミステリの一ジャンルだ。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」が有名だ。本作はどことも知れない広大な土地にポツンと建つ施設(ファシリティ)を舞台にしている。周りは建物どころか木や山も見えない平原。その中で集められた11、12歳前後の少年少女六人。主人公のマモルは日本の神戸出身。 それにハワード(ちゅうりつ)、ビル(けらい)、ステラ、ケイト(妃殿下)、ケネス(詩人)の五人の生徒で構成されている。ファシリティを運営するのは校長先生(プリンシパル)のシウォード博士と寮長(RA)のミスター・パーキンス。そして食事その他の日常の世話をするミズ・コットンの三名だ。

少年少女らは幾分大人びた話し方をする。彼らの日常は、授業と実習(ワークショップ)で埋められている。そして縛られてもいる。ワークショップとは二班に分かれて寮長から出される課題を解く実習だ。そのような単調な日々は、彼らの心に疑問を生む。一体何のためにこのような場所に集められたのか。その謎こそ本書の肝だ。さらに、彼らにとって気になるものはまだある。それはファシリティに潜むあるモノだ。その正体が何かについても気になる。たまに入って来る新入生は、その彼らが抱える謎をさらに深める。それだけでなく動揺すら与える。新入生の存在がファシリティに潜むあるモノを目覚めさせると悲劇がおこるというからだ。

そして本書はお約束どおりに悲劇が起こる。その辺りは推理小説の骨法にのっとっている。本書は道具立がシンプルだ。そして布石として効果的に配置されている。なので曖昧な舞台設定であっても、全てが解決した時に爽快感が感じられる。

本書は最近話題となっている「約束のネバーランド」に影響を与えているのではないか、と私には思える。本書は2003年の作品だし。「約束のネバーランド」の設定に本書のそれが感じられる。

本書の末尾には「疎外感とアメリカー西澤保彦論」という円堂都司昭氏による作家論が収められている。著者の作風を分析し本書の構造を描いた優れた書評だ。
・人物と世界の齟齬
・心理分析の多さとセクシュアリティへの関心
・ディスカッションによる推理
この三つを円堂氏は著者の作風として挙げている。さらに著者の作品には科学と宗教の相克がテーマとして取り上げられていると氏は指摘する。前者は個々を固定的に体系化する象徴、後者は認識の共有の象徴であると分析する。アメリカでは個々の体系化はアメリカン・ドリームに代表される個人主義となり、認識の共有は民主主義として現れる。そう著者は分析する。

そんなアメリカナイズされた著者の認識が、エッセンスとして作品になったのが本書だ。これについて私の意見も書きたいところだ。だがこれ以上書くと本書の核心に迫ってしまうかもしれない。それは本稿を読んでくださっている方の興覚めになりかねない。だからここらでやめておこう。

本書は著者にとっては会心作だったようだ。上に触れた円堂氏による論考の後、円堂氏が著者にインタビューしたやり取りが本書には収められている。そのやり取りの中で著者が会心作だと述べている。つまり実験精神と著者が小説で表したいアメリカ精神が表現されたのが本書なのだという。となれば他の作品も読んでみなければ、と思わされるではないか。

‘2017/03/04-2017/03/08


黄金の奴隷たるなかれ 出光佐三


『海賊と呼ばれた男』は、この国に出光佐三という快男児がいたことを高らかにうたいあげた一作だった。その中で舞台となる國岡商店は、出光商会をモデルとした百田氏の創作だ。その創業者國岡鐵造も同じく。

だが『海賊と呼ばれた男』はあくまで小説だ。作中の國岡鐵造は出光佐三をモデルにしているとはいえ、どこまで出光佐三の実像を捉えているか判断するには私の知識はいささか心もとない。そこであらためて実像の出光佐三を知りたくなった。そんなわけで二十年ぶりに出光佐三の伝記を読むことにした。

ところが本書を出光佐三の伝記として読むと少し座りの悪い気になる。本書はむしろ、出光商会の社史として読んだほうがしっくりくる。

あとがきで著者は書いている。本書は、社史を一般向けに書き直したものだ、と。本書の内容からは情念が感じられない。それは社史のように事実を丹念に追うスタイルを採っているからだ。さらに本書には、かなりの頻度で社史の記述が引用されている。

出光商会の沿革を並べることで、本書は客観的な視点を保ち続けていると言える。ただ間違えてはならないのは、客観的なのは文体であり筆致に限られていることだ。内容も客観的かと問われれば、それは違うと受け取るしかない。なぜなら社史とは往々にして手前味噌になってしまうものだから。そしてそもそも主観的なものだ。その傾向は本書からも感じられる。あちこちに引用される自画自賛とも取れる社史の記述から。

そもそも本書はタイトルからして出光佐三の伝記である。出光商会または出光興産の社史ではない。それなのに、出光佐三を語るのに出光商会の社史がふんだんに引用されるということは、それだけ出光佐三が会社経営に一生をささげた証だとも解釈できる。

ただ、誤解されがちなことがある。その誤解とは、出光佐三がビジネス一辺倒の人間味のない人物だということ。ところが私はそうではないと思っている。これはあくまでも私個人の想いだが、私が尊敬できる人物とはビジネスも遊びも一生懸命な人だ。もし出光佐三が私的な時間を顧みない仕事の鬼のような人物であれば尊敬はできない。ところが、出光佐三には、美術品収集の趣味があった。出光美術館の収蔵品が出光佐三の収集品をもとに開かれていることは有名だ。本書にもその辺りの経緯は出てくる。出光佐三にとって美術品の収集が遊びであるならば、彼は遊びにも全力を尽くした人物だったのだろう。そして、収集に情熱を捧げた出光佐三の人間味をより強く知りたいと思うのは私だけだろうか。本書に引用される出光佐三の口から出された名言は、あくまでビジネスの場での発言。彼の360度の人物像を知るには少し弱い。

もちろん、こういった編集方針は著者や編集者の意図であり、私がとやかく言うことではない。他方で『海賊と呼ばれた男』のように、国を思う熱い男として描かれた出光佐三もあるのだから。それと同じように、一人の男が成し遂げた成果として事実を羅列する本書の記述もあってよい。

ただ、出光佐三は人間を尊重する経営哲学で名高い。終戦直後、出光商会の海外事業の全てが失われた際、一人の社員も首にしなかったエピソードはよく知られている。『海賊と呼ばれた男』でもラジオ修理や海軍オイルタンク廃油くみ上げ事業が印象的に描かれていた。それに加えて本書には『海賊と呼ばれた男』で描かれなかった苦難の時期の業務が紹介される。それは例えば鳥取での農場経営や和歌山での漁業などだ。こういった事業が紹介されていることで、より出光商会が終戦後に追い込まれ、なりふり構わぬ状態だったことがわかる。それがよかった。それほどまでになりふり構わぬ状況でありながら、一人も解雇せずに乗り切ったのだから。その経営の信念の凄みが余計にわかるというものだ。

また、日田重太郎は出光商会創業資金やその後の数度にわたる出資で出光商会と佐三を助けた人物。『海賊と呼ばれた男』にも実名で登場する。彼もまた、出光商会の歴史には欠かせない。だが、本書には創業時の融資エピソードでしか登場しない。失敗したら「乞食になったらええやないか」と言い放ったエピソードも出てこない。そのかわりに、本書には銀行からの融資のエピソードが多く書かれている。二十三銀行からの融資で事業清算の瀬戸際から脱したエピソード。これは『海賊と呼ばれた男』の小説版でも少し扱われていた。そして、実際の経営の観点から見ると銀行から融資された金額こそが会社の危機を救ったのだろう。ただ、日田重太郎の挿話が劇的な分、そちらを小説や映画が重く取り上げるのもよくわかる。

日田重太郎の挿話だけではない。神出鬼没に海上給油を敢行し、出光商会を発展に導くきっかけとなった糸口も、日章丸事件の一連の経過も本書からは省かれている。ようするに本書は劇的な要素を一切取り除いているのだ。それは演出や感動など経営には必要ないと宣言するかのようだ。それによって本書は『海賊と呼ばれた男』で描かれた出光佐三の違う一面を彫りだしている。彼は海賊などでは決してなく、経営者として冷俐で優秀な人物だったのだろう。

ただ、本書には不満もある。『海賊と呼ばれた男』では徳山製油所の海上バース接続の苦労が描かれていた。本書にはそれが取り上げられていない。また、第一宗像丸の遭難事故についても本書では触れていない。社史をベースにしているとはいえ、良い面も悪い面も等しく取り上げるべきと思うのだが。それらの出来事は出光佐三の失策ではないし、彼の経歴に傷はつかない。それなのにいいことばかりを取り上げてしまうと、出光佐三を神格化することになりかねない。

さらに言うなら、出光興産では出光佐三の死の前年から不祥事がいくつか発生している。もちろんそれらも本書では触れていない。出光興産の悪口をはばかる気持ちはわかる、だが、それを書くことで、逆に出光佐三の存在がいかに出光商会にとって偉大だったかが一層際立つと思うのだが。

不世出の経営者として、近代日本に出光佐三がいたこと。それを知るためにも『海賊と呼ばれた男』と併せて本書を読むのは良いと思う。

‘2017/02/13-2017/02/14


冷血(下)


上巻の終わりで犯人は逮捕され、物件証拠も状況証拠もともに揃いつつある。ほとんどの推理小説は犯人逮捕で終わるか、もしくは法廷劇へと場面を移す。しかし、現実の警察の仕事は犯人逮捕で終わる訳ではない。警察の仕事は続くのである。また、法廷は検事が起訴して始まるのではない。警察の証拠固めがあってこそ法廷は成り立つのである。刑事事件を起こした被疑者は、裁判所で被告として立たされる。しかしその前に被告になるには、検察庁による公訴が必要となる。

公訴を行うには、被疑者の動機、犯行当時の詳細な行動などが詳細に明かされていなければならない。そうしないと裁判で無罪または刑の軽減が行われてしまうからである。本書上巻で執拗に書かれていた二人の犯罪者の奇妙奇天烈な行動の数々。彼らは果たして罪を問われるのか。そもそも彼らの支離滅裂な行動の中に心神耗弱や精神病といった精神面の問題はないのか。精神面の問題があれば、責任能力無しとして起訴が出来なくなる。そのようなことはないか。彼らの行動の中の躁鬱や統合失調症といった精神面の問題。下巻で著者が追求するのはこの点に尽きる。しかし、彼らに責任能力なしと認定されてしまえば、誰が四人の被害者を死に至らしめたのか。誰が仏前の彼らに報告するのか。二人の男が精神病院行きとなれば本書はまた別の物語になってしまう。つまり警察や検察は、二人の犯罪者の責任能力を証明した上で、なおかつ彼らの行動を丹念に辿り、犯行の動機や行動の詳細を追っていかなくてはならない。

下巻では、まさにその攻防が書かれていく。攻防と云っても犯罪者二人がとぼけたり、責任転嫁する訳ではない。それでいて、犯罪者は自分の行動に理由を示すことができないのである。行き当たりばったりで、殺意の自覚すら怪しい者に、自分の行動を説明させる徒労。脳内のパチスロ音や根深い歯痛も、彼らにとっては理由ですらない。その骨折りを承知で、検察も合田係長も捜査を続けて行かねばならない。

やがて裁判は始まる。法廷の被告席でも支離滅裂な態度を取る井上。一方の戸田は虫歯が致命的に悪化し、もはや半死半生で入院する事態となる。合田係長は、捜査陣というよりも個人的な興味をもって、二人の犯罪者に面会や文通でのつながりを持とうとする。

犯行から3年のちの死刑執行までを描く本書では、論告文もきちんと全て書き込まれる。また、被害者の親族や友人たちの言動を丁寧に描くことで、三年の間に枯れてしまった感情の移ろいやすさなどを描き、硬質なルポルタージュのようにして本書は幕を閉じる。加害者という生者、被害者という死者の対比が炙り出されるのが下巻だ。

何故二人は犯罪を犯したのか。何が二人を駆りたてたのか。というテーマが繰り返し繰り返し、下巻では追及される。実際のところ、下巻は合田刑事が二人の犯罪者の心中へ分け入ろうとする苦闘の物語である。云うまでもなくその苦闘は著者によるなぜ人は罪を犯すのかという人間存在の探求へと繋がる。よくも下巻を全て書き尽くしたと思う。心理学、中でも犯罪心理学や行動心理学などについてよほど深い識見を持っていないと本書は書けない。そう思う。そこには、著者が持つ人間存在への興味と敬意あったに違いない。

本書で究められた犯罪心理への追及は、読んでいる読者自身にも関わってくる。それを忘れてはならない。読者という安全圏、つまり高みの見物を決め込んでいる読者の中の誰が、自分が犯罪者になり得る可能性を真摯に考えているのか、ということだ。人の心の動きの微妙さは、ほんの一瞬のすきをねらって、善良な読者を犯罪者に変えようとする。成育環境や歯痛といった要因以外にも、何が起こるかわからないのが人の生なのだから。

私自身、犯罪者について心中ではどうあれ、表立っては非難しないようにしている。それはなぜかというと、自分もまた犯罪者予備軍の一人であることを理解しているからだ。つまり、私にはその人を断罪し、裁く権利はないということだ。裁くに値するだけの堅牢な精神の持ち主ではないということだ。もちろん私も自分の家族が被害に遇ったら犯人を憎む。復讐も企てるかもしれない。でもそれはもはや裁くという行為とは違う。自分がいつ裁かれる側に回るのか、その可能性に思いを致せないものは、容易に犯罪者を断罪できないはずだ。仮に復讐に走ったとして、自分に返ってくるのは復讐という行為の結果が犯罪であるという事実。だが、警察はそれでも人を裁く場に犯罪者を送り込まねばならない。その矛盾に気づきながらもなお、人を裁くための証拠固めをしなければならないのが警察であり合田係長だ。

著者の考えは、おそらくその矛盾の解決の先を行っていることだろう。その表れが本書の末尾に出ている。彼らの末路は断頭台でも電気椅子でも薬剤注射でもない。彼らの手紙の絶叫から読み取れるのは、人間というものの滑稽さに他ならない。断罪も理解もなく、裁く裁かれるもなく、人間はただ一人一人が人間であるということ。そこに著者の物語はたどり着く。

‘2015/8/16-2015/8/25


夜の国のクーパー


著者の新境地を拓くのが本書である。全くの異世界を創造し、その中で推理小説や冒険小説といった軛から逃れ、著者の軽妙な語り口すら排している。描かれるのは人と猫が会話をし、何かが何かを象徴する世界。

著者の作品のほとんどは読んでいるが、本書は著者の新たな挑戦として受け入れたい。ただ、著者の他の作品ほどには私の心には響かなかったところがある。なぜかというと初期設定が既出の有名作品によく似ているから。それは漫画の「進撃の巨人」である。外部の強大な敵から壁を作って閉じこもる人類と、それをたまに迎撃に向かう兵士たち、という設定。両者ともにほとんど同じである。それで、興を削がれてしまった。本書の刊行時と進撃の巨人の連載開始のタイミングが微妙に似通っていて、どちらが盗作といった失礼かつ無礼なことはないと思う。おそらくは偶然の一致が為したものだろう。が、その雑音が私の頭の中を乱反射し、どうにも本書に集中できなかった。

そういった雑音さえうまくシャットアウトできれば、本書は面白く読めるのではないかと思う。本書の導入部で、その独特の世界観を速やかに把握できるかどうかで本作の評価は変わるのではないか。後半になると提示されていた世界観がガラッと転換する瞬間があり、種が明かされる。こういったどんでん返しは、著者の作品ではあまり見かけなかったような気がする。そういったテクニックにもなおさら著者の挑戦を感じた。

他の作品では言葉の本質を探るパラグラフを随所に挟み、そこから人生の機微を切り取るのが得意な著者である。本書はもっと大きな単位、つまり人としての視点から人生を俯瞰し、機微を探っている。上に挙げたテクニックが開示される瞬間、本書から人は普段自分が観ている光景について、疑いを持つような仕掛けになっている。著者なりの哲学や人生観、世界観を、このような方法で提示することができるのも、小説家冥利に尽きるのかもしれない。

’14/06/08-‘14/06/13