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祈りの幕が下りる時


著者の、いや、日本の推理小説史上で私が一番好きな探偵役は?と問われれば、私は加賀恭一郎を推す。

怜俐な頭脳、端正なマスク、器の広さ。理由はいくつか思い付く。私がもっとも惹かれるのは彼の情を弁えたところだろうか。人間という存在の営み全てに対し、広く受け入れる器の広さと言い換えてもよい。

私の中で著者はシリーズキャラに頼らない作家として認識していた。最近でこそシリーズものが目立つ著者だが、本シリーズで創造された加賀恭一郎は、著者の中でも創造に成功したキャラといえるだろう。

本書は加賀恭一郎シリーズのなかで日本橋編ともいえる三部作の締めとなる一作だ。日本橋編はトラベルミステリーはかくあるべき、の見本のよう。日本橋の中でも特に江戸風情を今に伝える人形町の街並。それが日本橋編では魅力的に紹介される。人形町の街並みからは江戸人情が今も受け継がれている印象を受ける。

加賀恭一郎の魅力の一つとして、捜査のテンポがある。読者を韜晦しつつ煙に巻いて謎を解くのでもなく、読者を引きずりまわすのでもない。文章からは伺える彼の捜査には焦りや苛立ちをほぼ見えない。休日の散策のような何気ない振りをしながら解決に持っていく。その独自のテンポがいいのだ。日本橋編の三作を通し、加賀恭一郎は事件解決のために人形町を歩き回る。だが、彼の捜査は奔走というよりは散策のようだ。彼の捜査スタイルは、人形町に漂う江戸情緒の時間の流れに馴染んでいる。

「新参者」のレビューでも書いたが人形町や日本橋で5年近く仕事をしたことのある私は、あの界隈が好きだ。特に人形町には1年半通っていただけに愛着もある。「新参者」(レビュー)では人形町の町並み、とくに甘酒横丁周辺が活写されていた。「麒麟の翼」(レビュー)では、日本橋の欄干から始まった話が、人形町周辺に点在する日本橋七福神と水天宮の紹介に至る。本書で登場するのは明治座と橋だ。橋といっても日本橋のことではない。日本橋各所に縦横に架けられている橋だ。日本橋を界隈狭しと歩き回ると、なにげに橋の存在に気付く。その多くの頭上には無粋にも首都高が通っており、橋は単なる通り路に堕してしまっている。だが、水路を巡る観光船はまだ健在だ。加賀恭一郎は本書で水路巡りの船に乗る。

なぜ加賀刑事は日本橋署勤務を希望したか。なぜ加賀刑事は前作「麒麟の翼」で父の臨終にあえて立ち会おうとせず、部屋の外で迎えることにこだわったのか。なぜ加賀刑事はここまで日本橋の町並みに馴染もうとするのか。「新参者」「麒麟の翼」の二作で敷かれた伏線の全ては本作で読者の前にさらされる。

道から見る姿とは違った水路からの日本橋界隈の表情が、加賀恭一郎に新たな着眼点を与えてくれたように、読者にも水路から見る日本橋界隈の表情が新たな魅力を気づかせてくれるはずだ。私は日本橋に長らく通っていたのに、まだ水路巡りクルーズ船に乗った事がない。いつか乗ってみたいものだ。

‘2016/03/28-2016/03/29


新参者


私が人形町界隈に通勤していたのは今から数年前、1年半ほどの期間であった。縁があって人形町を本拠とした会社設立に参画することになったのだが、その会社と縁が切れた今に到っても、設立に立ち会ったことは、私の仕事スタイルにとって重要な影響を与え続けている。

そしてその期間、勤め人としての立場で関わった人形町も、私の中で非常に良い印象を、今に到るまで残し続けている。昼飯を求めて路地から路地をうろつき、仕事の休憩時間にベランダから見降ろした、活気ある街の風景など、人形町の魅力を堪能した1年半だった。

なので、本書には実際に街で過ごした者として、単なる読書体験以上の共感を覚えるとともに、新参者としてここまで人形町の市井を作る人々と関係を作り上げた、著者と主人公である加賀刑事に羨望と嫉妬すら覚える。

人形町を知る者には心当たりのある街並みと店舗。実名こそださないものの見当がつけられる店の店員や主人たちが、加賀刑事の丹念な聞き込みによって、それぞれの抱える人情の温かみと機微に気づかされていく。

加賀刑事といえば、すぐれた洞察力と冷静な論理の裏側に隠れた人情の篤さによって魅力的な人物造形がされているが、本書では人形町に住む人々の人情と、加賀刑事自身の人情が言葉のやりとりから深みをましながら交わされる。「新参者」とは排他的のようでいて、実はそうではない反語的な題名の付け方と感心した。

旅情ミステリとは一線を画す、深い街への造詣と、磨きあげられた人物観察が成し遂げた、秀逸な小説として、本書は外せないし、人形町を紹介するにあたり、本書を候補を挙げることに、何らためらいはない。

私が都心で開業するとしたら、人形町は第一候補地であり、開業なったら、本書を片手に街の散歩をしてみたいと願うばかりである。

’12/04/16-12/04/17